指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『青春の蹉跌』

2019年03月29日 | 映画

萩原健一が死んだそうだ、68歳。

彼が出た映画で一番なのは、神代辰巳監督の『青春の蹉跌』だろう。

冒頭の磯子プリンスホテルの屋外プールで、ローラースケートを履いて掃除をするところからアンニュイな雰囲気だった。

井上堯之の音楽もよく、傑作だったと思う。

この作品が傑作となったのは、萩原も、神代もモテモテ男だが、かなりいい加減な性格のとろこがあり、それが上手く合ったからだろうと思う。

この頃は、まだ桃井かおりは太っていて、非常にダサい感じだった。

                           

今や、磯子プリンスホテルもなく、磯子駅周辺は、新杉田駅周辺が賑っているのに対し、ひどくさびれている。

理由は、西武の堤康二郎が、磯子の東伏見宮別邸を入手したことを基に、いずれホテル等を作るつもりで、その直下に根岸線の磯子駅を無理やり作らせてしまったことにある。当時は、情報公開等もなく、政商たちは勝手なことができたのである。

磯子と言うのは、本来はもっと北のエリアで、今も磯子警察署のある浜のあたりであり、磯子駅のところは森である。

磯子駅周辺は、きわめて狭い地域で、奥行きがないので発展のしようがなく、人口も多くないので、今は衰退の状況にあるのだ。

都市の持つ本質は、そう簡単には変えられないという実例だと思う。

 

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『狂った一頁』

2019年03月22日 | 映画

昔の映画を見て、一番違和感を持つのは、精神病者と病院を描いたところだ。

それは、戦後も同じで黒澤明の『生きものの記録』の最後の三船敏郎が入院されている病院もそうだ。

と言って、私は、精神病院に行った経験はないが。

この日本映画史上で有名な作品が弁士付きで上映されるというので、日本近代文学館に行く。

駒場東大前は高校時代から何度も来たことがあるが、西口から出たのは初めてで、そこからかなり長い距離を歩いて駒場公園に付く。道の左右は豪邸ばかり、風が強くて歩くのが大変だった。

              

弁士は片岡一郎、ピアノは上屋安由美。

筋は、外国船員だった男は、家庭を顧みず、絶望した妻は自殺して狂喜に至り病院に入院したとのことだが、それは描かれず、部屋で一人踊り狂う女南栄子から始まる。

男の井上正夫は、身分を隠して病院の小使になっていて、彼の目で病院内が描かれるが、セットと撮影は非常に前衛的である。撮影は杉山公平で、助手は円谷英二。

 男の娘が結婚することになるが、相手に母親のことがばれて破談となるが、井上は言う、そんな奴とは結婚しなくてよい。

ついに男は、妻を連れて病院を逃げようとするが、妻は出ることを躊躇し出られない。だが、それは夢だった。

また、くじ引きで一等が当たり、男が箪笥を背負って家に戻るシーンもあり、これも夢かと思うがそうではない。ただ、これを見て、小津安二郎の原作で内田吐夢が監督した名作『限りなき前進』の、主人公のサラリーマンの夢は、この辺から想起されたのかと思った。

最後は、やはり昔と同じように病院で男は働き、妻は病院で入院している。

患者の一人で、高瀬実がいて、すぐに分かった。

日本近代文学館

 

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『新東宝1947-1961』 ダーティー・工藤(ワイズ出版)

2019年03月19日 | 

最近、読んだ本で一番面白かった。

                   

内容は、新東宝の監督、俳優、脚本家などへのインタビューで、『映画論叢』に掲載されたものの再録が多いが、こうして1冊になるのはうれしいことだ。

また、それ以上に素晴らしいのは、公開作品のデータである。これを見ると、結構記録映画やソ連製の作品等まで公開しているのには驚いた。この1947から1961が象徴するように、新東宝の存在は、イコール日本映画全盛時代なのである。

また、その前史として、戦後に東宝は膨大な余剰職員を抱えていたことがあった。余剰職員がいたからこそ、第二会社ができたのである。

なぜだろうか。

それは、東宝が実は戦時中は「軍需企業」であり、真珠湾攻撃へのマニュアル映画等を特撮とアニメーションで作ったいたことがある。

そのスタジオは、第二撮影所で、もちろんリーダーは円谷英二だった。この上の撮影所と言われた第二撮影所が、戦後の東宝争議の後に、新東宝撮影所になるのだ。

今は、新東宝の解散後は、その大部分は日大商学部になっていて、ほんの一部が国際放映、現在の東京メディアシティの撮影所になっている。

また、大蔵貢所有の会社として富士映画があったが、これは戦前の東京発声映画で、戦前に東宝に合併されて東宝第三撮影所になった。

新東宝末期に大蔵貢個人のものににされ、ピンク映画の撮影等に使用されたが、ボーリング場にされて、現在はオークラランドになっている。

ここには傑作な話があり、富士映画で照明を担当していた小父さんは、撮影所がボーリング場になると、そこの電気係に転職していたとのこと。いろいろなスキャンダルの多い大蔵だが、意外にも人情にあつい人だったといえるだろう。

何かというと、スタッフ、キャスト、さらに新聞記者などに現金を気軽に渡したというのは、日本の中小企業の社長の典型だと言える。

 

 

 

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中学のときによく言われたことに・・・

2019年03月18日 | その他

たぶん、中学の頃だと思うが、よく同級生に言われたことに次のようなことがあった。

「昔々は、一つの家族だったので、日本人は全部天皇家と同じ家族だ」

いつも本当かなと思っていた。

    

その通りで、縄文時代でも日本全体の人口は、20万人くらいだったそうで、縄文時代は1万年も続いているのだ。

当然、天皇家と日本人全体が一家であったわけはないのだ。

 

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『浅草の夜』

2019年03月16日 | 映画

1954年の島耕二の脚本・監督作品で、もちろん大映。

浅草の劇場の踊子が京マチ子、妹で浦辺粂子のおでん屋を手伝っているのは若尾文子。これは京マチ子と鶴田浩二の共演が売りの映画で、鶴田はその劇場の新進作家で、京マチ子と愛し合っている。

                

若尾は、若い画家の根上淳と恋仲だが、やくざの高松英雄が邪魔をしている。また、京マチ子は、この若尾と根上の結婚に強く反対している。

劇場の演出家の見明凡太郎が首切られたり、鶴田と高松が決闘する筋があるが、問題は幼い時に捨てられた京と若尾の父親が誰かで、実は今は有名画家となっていて、根上の父の滝沢修であることが分かる。

つまり、若尾と根上は兄妹になり、歌舞伎で言えば畜生道なわけで、その性で京は反対していたのだ。

最後は、鶴田の手はずで、京マチ子と若尾が滝沢に会って和解し、鶴田と京マチ子は無事結ばれることが示唆されて終わり。

若尾と根上はどうなるのかは不明。

これは川口松太郎の原作だが、どこか日本画家の伊東深水のことをモデルにしているように思えた。

角川シネマ有楽町

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田中絹代の監督作品

2019年03月15日 | 映画

女優の田中絹代は、次の作品を監督している。

彼女は、日本で最初の女性の長編劇映画監督だった。戦前には、坂根田鶴子が中編『初姿』を撮っていたが、その1本だけで、その後は記録映画監督になり、戦後は溝口健二のスクリプターをやっていた。

田中絹代は、成瀬巳喜男の大映での『あにいもうと』に助監督として付き、「助監督修業」をして丹羽文雄原作の『恋文』の撮影に臨んだ。

恋文横丁は、渋谷西口にあり、今は東急109から山田デンキになっているところで、小さな店がひしめき合っていた。

1970年代にはまだあり、藤田敏八の映画『赤い鳥逃げた?』では、伊佐山ひろ子らが、赤い鳥を飛ばすシーンの背景に見ることができる。

この6本は全部見ているが、私の感想では、最後の『お吟さま』が一番面白いと思う。

作品的には、『月は上がりぬ』(「つきはのぼりぬ」で、「あがりぬ」では嫌らしい意味になるとのこと)が出来は良いが、これはセカンド助監督が小津の助監督だった斎藤武市がお目付け役でいるなど、「もう1本の小津作品」というべきもので、田中映画として評価することは難しいと思う。

          

『お吟さま』は、千利休の娘で有馬稲子が主演し、高山右近は仲代達矢、千利休は中村鴈治郎、石田三成は南原宏治というキャストである。

撮影は、「宮島天皇」こと宮島義勇で、カメラも凄いと思うが、脚本が成沢昌成なのが作品に大変に寄与していると思う。

興味深いのは、お吟が右近と逃亡する場面で、裸馬に乗せられた女の岸恵子を目撃するシーンがあることだ。

これは、言うまでもなく溝口健二の名作『近松物語』の長谷川一夫と香川京子が裸馬で京の町を引き廻されるシーンであり、それへの尊敬である。やはり、田中絹代は、溝口健二を尊敬していたと思うのだ。

  1. 1953.12.13 恋文  新東宝
  2. 1955.01.08 月は上りぬ  日活
  3. 1955.11.23 乳房よ永遠なれ  日活
  4. 1960.01.27 流転の王妃  大映東京
  5. 1961.09.05 女ばかりの夜  東京映画
  6. 1962.06.03 お吟さま  にんじんくらぶ

 

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『流転の王妃』

2019年03月13日 | 映画

昔、テレビで見て、結構いい映画だと思っていたが、あらためて見るとただのきれいごと映画だった。

菅原家の娘京マチ子は、満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥哲・船越英二の嫁にと嘱望され、始めは満人のところにやれるかと思っていた父母や祖母も、溥哲の素直で優しい人柄に安心し結婚を認める。

関東軍の御用係の軍人が石黒達也で、非常に良い。溥儀や周囲の者は、中国人俳優のようで、満州での会話は中国語になる。

新京での生活は意外に質素なもので、それは皇帝溥儀の性格からきているようで、溥哲は派手好きとされている。

1941年に太平洋戦争が始まり、1945年夏にはソ連軍が侵攻してきて、満州国政府は新京を去る。

通化事件等の悲劇があり、石黒も死んでしまい、京マチ子は船越とも別れ、国民党軍に追われる八路軍に同行して満州奥地に行くが、1947年にやっと佐世保港に上陸し、父母の東京の家に落ち着く。

娘の英世は、女子学習院に通うが、ある日自殺してしまう。

これは天城山心中として、大事件となり、新東宝で石井輝男監督で『天国で結ぶ恋』として製作されていて、こちらの方が扇情的だったようだが、この田中絹代監督版は、非常にきれいに描いている。

最後、葬式に列席している女学生の真ん中に江波杏子がいた。

角川シネマ有楽町

 

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『おとうと』 山根成之版

2019年03月12日 | 映画

市川崑監督の1960年のではなく、1976年の松竹の山根成之監督のもの。

市川崑の作品は、池上劇場で見た。

ここは始めは、東宝と東映で、日本最初のシネスコ作品の『鳳城の花嫁』は、ここで見たが、第二東映の系列として池上東映ができたので、東宝と大映の館になったいた。もちろん、今はなくマンションになっている。

たぶん、自分から見ようと思って見た「最初の芸術的映画」で、ラストシーンの「終わり」が階段の黒のところに出たのには、「随分とシャレた映画だな」と思った。

                            

山根成之のも知っていたが、市川崑の名作に比較すればと思い見なかったが、出来は悪くない。

脚本は、同じ水木洋子なのだから、後は役者と演出の問題である。

郷ひろみと浅茅陽子の弟姉は、岸恵子、川口浩に対してそう悪くはない。また、父の木村功、母の岩崎加根子も名優で、森雅之、田中絹代と比べて劣るものではない。

ただ、木村と岩崎は、森と田中に比べて台詞が楽に発語されているのは問題だなと感じた。

市川崑版では、森雅之と田中絹代は、いやいや台詞を言っているが、山根版の木村と岩崎は、かなり流暢に台詞を言っている。

これは時代と俳優の演技術の差異に起因するものだと思う。

最後、郷ひろみの碧郎は、当時は不治の病だった結核で死んでしまう。結核菌は、若い細胞を好むのだそうで、日本の近代では石川啄木、正岡子規などの若者が結核菌の餌食となった。

これは大正時代のことだが、見ていると、明治、大正から昭和30年代まで、日本の都市の風俗はそう変わっていないかったのだなと思えた。

その意味では、1960年という経済の高度成長時代前に作られた市川崑版は、かなり楽にできたといえるのではないかと思えた。

衛星劇場

 

 

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『一遍聖絵』

2019年03月10日 | 演劇

高校以来、多くの芝居を見てきたが、こんなに変な劇を見たことがない。

それは、劇の内容や筋のことではなく、役者の演技の仕方である。

高校の文化部演劇班に入ったとき、最初に言われたのは、無駄に動いてはならないということであり、大学の劇団でも「動くときは意味がないといけない」だった。

そうしないと、役の人物の内部がわからないし、それに感情移入できないからである。

その通り、結構入念に作られた脚本だとは思うが、まったくどこにも誰にも感動できなかった。

作・演出は、白石征で、藤沢で「遊行かぶき」をやってきて、14年ぶりに遊行かぶき公演をするというので、藤沢の湘南台文化センターに行く。

長谷川逸子設計の未来都市のような建築も、時を経て汚れて錆び、かつてのソ連邦の人工的な都市のように薄汚れて奇妙なリアリティを作り出していた。1980年代のバブルの象徴の一つというべきだろうか。

                

一遍は、前から興味を持っていて、どこだか忘れたが聖絵を見たとき、その踊り念仏絵は、明らかに狂熱であり、現在的に見れば、ロックコンサートの熱狂を感じた。

一幕目は、一遍が男女の弟子たちと共に、地方を流離い、念仏踊りをしながら、お札を配り、衆生を救済していくことで、ついには京都まで入って、民衆を狂熱に巻き込んでいく。

ただ、冒頭に書いたように、役者たちは、台詞を言うときは、必ず体を動かし、左右に場を変え、舞台上をうろうろするので、見る者の視点は定まらず、どこにも感動が得られない。

2時間が過ぎてなんとなく、会場が明るくなり、まさか終わりではないな、と思うと「休憩10分間」のアナウンスがあり、数人の客は出ていく。それは当然だと思ったが、私は最後はどうなるのかと残る。

二幕目は、一遍が妻子と別れ、また実の男子は、自分の弟としていた、若き日のことと、晩年の死への軌跡が描かれる。

随分と屈折した前半生だったのかと思うが、それもそれだけのこと。

J・A・シーザーの音楽は、和讃を基にしたもので、劇に合っていたが、歌詞は全く理解できず、「六道輪廻」のみ理解できただけ。

また、政太夫の説教節は、始めは良くなかったが、次第に調子が出て、最後は非常に良かった。

演出の白石は、寺山修司の周辺にいたらしいが、元は編集者で、劇作や演出は経験がないようで、前述のようなすごい演技になっていた。兼好法師曰く、

「何事にも先達はあらまほしきことなり」というべきか。

藤沢市湘南台文化センター

 

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『はじまりのみち』

2019年03月09日 | 映画

木下恵介が、1998年12月30日に亡くなったとき、12月31日の『NHK紅白歌合戦』の最後で、久保純子アナウンサーが、

「キノケイ監督が亡くなられた」と言った。その時、私は思った「クボジュンは、木下恵介を知らないのだな」と。以前、横浜映画祭代表の鈴村たけしさんも、「木下恵介をみんなが忘れているのはおかしい」と言っていたがその通りだと思う。

その通りで、今や世界の大名作の黒澤明の『七人の侍』だが、これが1954年に公開されたとき、『七人の侍』を抑えてキネマ旬報1位になったのは、『二四の瞳』と『女の園』の木下作品が、1、2位だった。

私は、『二十四の瞳』はともかくとして、『女の園』は本当に厳しい映画であり、この女学生同士が互いに傷つけあう物語は、大島渚の『日本の夜と霧』にも大きな影響を与えていると思う。

つまり、松竹映画の歴史を見れば、小津安二郎、木下恵介、大島渚というのがその中心的精神の歴史だと思う。

木下恵介は、1944年に『陸軍』を作るが、陸軍情報局からその作風を強く批判され、自信を失って松竹を退社し、浜松の実家に戻る。

父は、奥に疎開していて、東京での空襲のショックで脳梗塞になって歩けない母(田中裕子)をその父の疎開場所まで、リヤカーで連れてゆく木下正吉(加瀬亮)と兄を描くものである。

母は脳梗塞で動けなくなっているが、今では脳梗塞で倒れてもすぐにリハビリを始めて動かした方が早く回復するとされているが、当時は動かさない方が良いとされていたのだ。

リヤカーは2台あり、1台は木下正吉と兄が、家財道具を積んだ車は、便利屋の浜田岳が引っ張ってゆく。

                  

この男が剽軽で、無知だが利に敏くすべてに実利的な庶民で、木下映画に出てくる日本人の典型の一人だと思える。

場所がどこかよくわからないが、アニメで説明しろとは言わないが、どこかで駅の看板などで、行き先を示しておいた方が、この路程の大変さが分かったと思う。

途中の旅館でトロッコに乗り換えるまでの間、田舎の旅館に泊まることになり、列車が出ないので2拍することになる。

手持無沙汰で木下が河原に行ったとき、便利屋も来て、彼は映画『陸軍』のラストシーンには感動したという。

そして『陸軍』のラストシーンになるが、たしかにこのシークエンスは今見ても凄いと思う。

なぜ陸軍情報局が「欧米的」と批判したのかは、この場面で異常に繰り返される移動撮影で、これは欧米の車社会の優越性を見せつけるものだからろうか。

日本陸軍の歩兵は、ともかく歩くことで、『麦と兵隊』ではないが、軍隊とはともかく歩くことだった。

そして、苦労の末に木下正吉は父が疎開している村にたどり着き、家族と再会し、便利屋の言葉にも勇気づけられて映画に戻る決意をする。

戦後の作品が流されるが、『女の園』がないのは不満に思う。

衛星劇場

 

 

 

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『本日ただいま誕生』

2019年03月08日 | 映画

1979年に植木等主演で作られた、両足を失った僧侶の話。タイトルで、植木が得度式を受けている。

この映画が東映で公開されていたことは知っていたが、封切り後はどこでも上映されることがなかったので見たことがなかった。行方不明だったが、渡辺プロの倉庫で見つかり、日本映画専門チャンネルで放映されたが、ずっと見たことがなかった。

                       

そこから昭和20年の満州牡丹江の陸軍病院になり、ベッドの植木に、軍医の北村和夫が「膝から下を切らないと凍傷で死ぬよ」という。

「麻酔もなにもないがやるか」と言われ、麻酔ないしでメスと鋸で両足が切断される。

中国軍将校は言う「日本は、中国に何も持たずに来てひどいことをした。だから何も持たせずに日本に帰す」と5日分の食料を与えられて新京を経て、大連に向う。

だが、国共内戦の激化で列車は進めなくなり、途中で新京に戻る。植木は、少尉の中村敦夫、チンピラ風の川谷拓三らの担架に乗せられて満州の平原を行くが、ついに彼らは、植木を置き去りにして行ってしまう。

誰も自分のことで精一杯だったからだ。なんとか帰国し、国立病院に入院していると、母の原泉、弟の河原崎健三が見舞いに来る。

「死にたかった」という植木に、原は彼の切断された足に口付けして「生きて帰ってきて良かった」という。

母の言葉を得て、植木は生きる気になり、駒沢大学で仏教を学び直す。もともと寺の生まれだったのだが、植木等も真宗の寺の生まれである。

植木は、東京では、死んだ連隊長の家に居候になっていて、そこには娘の山口いずみと従妹の宇都宮雅代もいる。宇都宮は、空襲で家族と家を失ったので、親類のところに居候していたのだ。

当時は、それは普通で、私が生まれる前だが、池上の家にも、満州から引き揚げてきた父の妹一家4人がいたそうだ。

植木は、病院の一隅で貸本屋をやったりパンを売ったりするが、偶然町で川谷拓三に再会し、さらに中村敦夫にも会うことになる。

3人は、闇商売を始め、当初は朝鮮戦争の景気もあり繁盛するが、社会が平穏となるとダメになり、植木も有り金のすべてを川谷に持ち逃げされてしまう。

植木と宇都宮は、愛し合い同棲し、彼女は妊娠する。「真ん中の足」は生きていたわけだ。だが、彼女が中絶したことから二人は別れ、植木は頭を剃って托鉢僧になる。

はじめは上手くいかないが、虚無僧姿の男が尺八を吹いていると人々が進んで喜捨するのを見て、お経を唱えて歩くと人が喜捨してくれるようになる。この虚無僧は、ハナ・肇。

ここから日本の下層社会の遍歴になり、簡易宿泊所に住み、町を遍歴し歩くが、ある町で、戸浦六広をリーダーとする「乞食の集団」に遭遇する。大森義夫、大泉侃、常田富士夫、赤座美代子らで、そこは不思議なところで、好んで喜捨をし、乞食集団は楽に生きている。

だが、最後植木は、本当の僧になることを決心して終わる。

私の考えでは、最後の「乞食集団」のことを中心に描けば、小林桂樹主演、堀川弘通監督の山下清をモデルにした名作『裸の大将』のようになったと思うが、監督の降旗康男は、反俗的な視点がないので、平凡な出来になっていたと思う。

日本映画専門チャンネル

 

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近藤正臣と石橋蓮司

2019年03月04日 | 映画

NHKの『盤上のアルファ』を4回分見た。

主役は、玉木宏、上地雄輔らの若手だが、師匠の近藤、正体不明のヤクザ的な男の石橋が劇を支えていて、劇は脇役が重要ということがよくわかる。

この二人は、京都と東京と離れていても、東映の作品によく出ていた。

近藤正臣を最初に見たのは、今村昌平の日活作品『「エロ事師たち」より人類学入門』の小沢昭一の息子役だった。東映では加藤泰の『懲役18年』で、安藤昇の恋人桜町弘子の弟で、看守の若山富三郎に徹底的に虐められる青年だった。

どちらも関西での作品で、もともと近藤は地元の京都で芝居をやっていたのである。

               

一方、石橋は、児童劇団にいたこともあるようだが、劇団青年俳優座にいて、東映東京の「夜の青春シリーズ」などに出ていた。

これは、梅宮辰夫をリーダーに、石橋、谷隼人、大原麗子、城野ゆきなどのチンピラ俳優が出ていた添え物の二流作品だった。

大原麗子が亡くなったとき、「昭和の大女優」と書かれていたが、「あのチンピラ女優が」と思ったものだ。

石橋は、蜷川幸雄、蟹江敬三らと共に、現代人劇場から桜社へと移り、アンダーグランド演劇の役者として輝いていた。

第七病棟での緑魔子との芝居は、本当に良かった。阿佐ヶ谷ラピュタに前の、今はスポーツクラブになっているオデオン座での1986年の『湯気の中のナウシカ』も未だに忘れられない劇だった。

今は、どちらもテレビ、映画の重鎮として活躍されているのは誠に喜ばしいと思う。

 

 

 

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3月3日は 桜田門外の変

2019年03月03日 | 映画

今日、3月3日は、桃の節句、おひな祭りだが、同時に井伊直弼が襲われて殺された「桜田門外の変」が起きた日でもある。

ただ、旧暦なので、現在の暦に直せば3月24日と随分と後になるが、安政7年、1860年のこの日は寒く雪が降っていて、それも襲撃側が襲撃に成功した一因でもあった。

ひな祭りの日は、大名の江戸城への総登城の日だったので、「井伊直弼は必ず来る」と待ち伏せしていた水戸浪士たちなどの一味に襲われたのである。

これは、大老という、今でいえば総理と最高裁判所長官と衆参両院議長、司法、行政、立法のすべての権力を備えた大権力者が、不逞の浪人たちに襲われ殺された大事件で、これで一段と幕府の権威は大きく失墜したのである。

               

これをもとに作られた小説に郡司次郎正の『サムライ・ニッポン』があり、サイレント時代から何本も製作されている。戦後の3本を見ているが、私は岡本喜八監督の『侍』が一番良いと思っている。

脚本が去年亡くなられた橋本忍、音楽佐藤勝、主演が三船敏郎、井伊直弼に松本幸四郎、三船の同輩で、伊藤雄之助の指令で殺しあわなくてはならなくなるのが小林桂樹、その妻が八千草薫、三船の本当の母が杉村春子というベストの配役だった。

その他、新珠三千代が二役で、田村奈己が桜田門外の茶屋の娘で出ていた。

この1965年ごろは、なんども書いているように日本映画の全盛期で、新劇等も併せてつくづくいい役者がいたなと思うのだ。

岡本喜八も、東宝の時代劇まで撮るエースだったのに、この後1960年代末には、東宝は彼らのような優秀な監督を切ることになるのだから、時代の変化はまことに恐ろしい。

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植村謙二郎が出ていた 『鬼平犯科帳』

2019年03月02日 | テレビ

初代松本白鴎主演の『鬼平犯科帳』を見ていたら、盗賊団の頭目として植村謙二郎が出ていた。第62話「罪ほろぼし」(1970年) - 研源である。

飾職人が殺され、そこから大商店を狙ったいる盗賊団の姿が分かってくる。商店主は、小栗一也で後妻は馬淵晴子だが、これが盗賊団が入れた女で、若い手代とできている。そこを狙っている盗賊団の頭目で、一応刀の砥師をやっているのが植村である。

              

やはり、特異な顔つきで一度見たら忘れない顔であり、元は大映の悪役で、黒澤明の『静かなる決闘』では、梅毒患者のギャングを演じているので憶えている方も多いと思うが、晩年は日活でも悪役をやっていた。

最後、植村は小栗の店に押し入り、小栗が実は盗賊であることを暴き、殺害しようとするが、その時松本白鴎の部下の火付け盗賊改めが来る。

そして殺陣の場となって全員御用となるが、さすがに白鴎はあまり動かない。

ともかくその貫録で、池波正太郎に「一番平蔵らしい」と言わせただけのことはある。東宝の脇役の堺佐千夫が、なんにでも化けて捜査するが、まるで多羅尾坂内みたいだなと思う。

この人も好い役者だったが、だいぶ前に亡くなられた。岡本喜八映画の常連だったが。

 

 

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完全な新派劇映画 『夢の女』

2019年03月01日 | 映画

1993年に坂東玉三郎監督、吉永小百合主演で撮った作品をなぜかシネマベティで今週だけ上映すると言うので、見に行く。

以前から玉三郎は、歌舞伎ではなく新派だと思ってきたが、これは完全に新派の世界。

                     

薬問屋の男永島敏行の手で、前借を返して1本になった吉永だが、岡崎の実家に戻ると父が病気で、再び洲崎の遊郭「大八幡」で「楓」として働くことになる。

ともかく台詞も動作もスローテンポで、まるで昭和20年代の日本映画のようだ。

1950年代に市川崑が猛スピードで台詞を言わせるようになってから、日本映画のテンポは急速度になったが、それ以前はあんなものだったことを思い出す。

吉永が、急死した前の旦那との間の子を世話してくれるのが佐々木すみ江、洲崎の遊郭の遣り手婆が樹木希林と、つい最近に亡くなられた女優。

こういう映画を見るとあらためて樹木希林の演技が上手いことが分かる。

永島敏行は、吉永に入れあげて店も他人に渡り、生活も行き詰って部屋で首つり自殺してしまう。

新聞は「毒婦」と書きたて、吉永も一時は酒浸りになる。

そこに米屋の安井昌二が現れて、見受けしてくれ、小料理屋も持たせてくれる。

そして、7、8年後、二代目の楓(片岡京子)と樹木の前に吉永が来る。酔客の長門弘之らと屋形船で深川から洲崎に来たというのだ。

幸福に暮らしていることが語られて終わり、13夜の月が川辺を照らしていた。

原作の永井荷風のを新派用に久保田万太郎が脚色したもので、もっと不幸な話らしいが、これはこれで良いと思う。

ただ、洲崎の土手と遊郭は千葉の八日市場海岸で撮ったそうで、江戸湾の静かな波ではなく、太平洋の荒波だったことが大変に気になった。

木村丈夫の美術はやはりすごい。モノクロであることが映画の必然になっている。

シネマベティ

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