指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

日本も首都を攻めたことがある

2022年02月28日 | 政治

ロシアがウクライナを攻めて、明らかに国際法違反であり、侵略である。

プーチンと良好な関係を築いてきた「シンゾウ君」は、どう思っているのだろうか。

大いに責任があると私は思う、プーチン大統領を増長させたのには。

 

              

 

さて、80年前に日本は、中国で戦争を展開し、1937年12月には、中国の首都南京を占領した。

日本国内では、提灯行列、花電車で大騒ぎした。

だが、中国は首都を重慶に移して抵抗を続けた。

 

さて、この日中戦争の始まりは、北京郊外の盧溝橋事件だが、なぜ日本軍は北京にいたのだろうか。

なんと理由は、1901年の義和団事件である。 

日本以外の7カ国は、事件終了後はすぐに撤兵したが、日本はずっといたのである。

反日運動が起きるのも当然だろう、事件後30年以上もいたのだから。

この中国との戦争が、アメリカとの戦争になったことは言うまでもない。

 

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ロシア侵攻の責任は

2022年02月25日 | 政治

ロシアのウクライナへの侵攻に大きな責任があるのは、日本の安部晋三である。

西側諸国の中で、唯一ロシアに親和的だったのは、安部政権だった。

クリミア侵攻の時の経済制裁についても、制限的だったのは安倍政権だった。

彼らは「ウラジミル、シンゾウ」と呼び合っていたほどだった。

そして、プーチンを長門に呼び、会談をし、「明日にも北方領土が返ってくる」ような幻想を振りまいた。

だが、依然として北方領土は、一ミリも戻って来ていない。

ソ連・ロシアが、戦後に領土紛争で、相手に返還したのは、中国との紛争である。

 

                   

珍宝島・ダマンスキー島で、このとき友人は言った。

「チンポとマン好きとは随分エロいところだな」

なぜだか知らないが、ここは中国に返したのだ。

他に、そんな例があったら教えてほしいと思う。

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この辺が境目だったんだな 西郷輝彦、死去

2022年02月22日 | 音楽

西郷輝彦が死んだが、このところ BSで『佃次郎警部補』を見ているので、ああそうかと思う。

 

                                                       

彼は、歌手の後、役者として活躍した。

西郷と言えば、彼の他、橋幸夫、舟木一夫の御三家だが、この頃から、実はニュー・ミュ-ジックの時代になっており、吉田拓郎が、その代表だろう。また、関西フォークのフォーク・クルセイダースらもあった。

御三家は、いずれも歌手の後、特に時代劇役者としても活躍した。

だが、吉田拓郎以後のニュー・ミュ-ジックの歌手では、郷ひろみが松竹で青春映画に出たくらいで、役者として、特に時代劇はなかったと思う。

この辺が、時代の境目だったなとあらためて思う。

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浅間山荘事件50年

2022年02月21日 | 政治

1972年の連合赤軍の浅間山荘事件から、50年だそうだ。

以前、私は、次のように書いたことがある。永田洋子についてであるが、彼女たちはこの前に逮捕されていた。その原因は、臭いだった。連合赤軍の連中は、都市にいられなくなり山に逃げた。

戦前、毛沢東らが、都市から農村に逃げた長征をまねたのだ。だが、戦前の中国と1970年代の日本では大きく違うものがあった。彼らの体臭である。逃亡して、ろくに風呂にも入らなかった彼らは、異常な悪臭を放ったそうだ。それで、駅員らに見つけられたのだ。永田と森は逮捕されて、残った連中がさらに山に逃げて、浅間山荘事件が起きた。

 

               

 

連合赤軍のリーダーで死刑囚だった永田洋子が死んだそうだ。65歳。彼女には、1966年の秋に一度会っている。
横須賀に米軍の原子力潜水艦が寄港することになり、その反対運動が横須賀の臨海公園で行われていた。
集会に行くと、昔から知っていた某党派の男に会った。すると彼は、彼らの機関紙を早稲田の支部に届けてくれないかと言い、数百部の新聞を渡された。8時過ぎ頃、集会はデモ行進に移って公園から出たので、私は帰ることにした。
横須賀からか電車に乗り、その新聞をパラパラと読んでいると、隣の女性から話しかけられた。
「あなた、○○派なの」
「・・・と言うわけでもないが、知り合いがいてね」
「そう、・・・」
それから、その女性は私が川崎で乗り換えるまで、当時の学生運動のある党派の内部について、極めて詳細に教えてくれた。
「何々ちゃんは良い人だけど、何々はだめ」というような言い方をした。
「へえー、このおばさんは一体なんだ」と思った。
彼女が、永田洋子だと分かったのは、連合赤軍事件が終わり、彼女らについての本が出てからであった。
当時、彼女たちは、社学同ML派というところにいたのだが、その中の大部分が関西の連中と合併することになり、「純粋ML派」と言われ、毛沢東主義者だった彼女たちは、ML派を追い出されたのである。
ごく少数の泡沫的分派となった彼らは、その後京浜安保共闘になり、さらに皮肉にも彼らを追い出したはずの関西派の中の最過激派の赤軍派と合同して連合赤軍となる。
今考えれば、実に不思議な時代だった。
永田洋子らのやったことが、間違いだったことは言うまでもない。当時、彼女は大学を出て、東神奈川にある済生会病院で薬剤師をやっていたようだ。
思い出せば、正直に言って永田洋子は、極めて不愉快な感じのおばさんだった。

永田洋子と黒田寛一が、日本の新左翼運動を壊した人間だと思う。

どちらも、中国共産党とロシア共産党という、アジア的な後進国の共産党の運動を盲従したことが最大の間違いだったと私は思う。

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コルチナと言えば・・・

2022年02月21日 | その他

北京冬季五輪も終わり、次はミラノとコルチナ・ダンぺツォのこと。

このコルチナと言えば、猪谷千春が、スキーの回転で銀メダルを取ったところだ。

これがきっかけで、日本にもスキー・ブームが起きて、大人気となる。

                                   

松竹は、ドイツのトニー・ザイラーを招いて、映画『銀嶺の王者』を鰐淵晴子との共演で作ったくらいだ。

ザイラーは、ルックスも良かったので、映画になったのだろう。

大島渚の本によれば、彼の処女作『愛と希望の町』の試写会は、ザイラーの記者会見と同時だったので、誰も見に来なかったそうだ。

まあ、仕方ないことだが。

猪谷氏は、まだご健在だそうだ。

 

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意外性が多い五輪

2022年02月20日 | ボクシング

北京冬季五輪もいつに終わるが、ここでも意外な結果が出た。

女子のスピードスケートで、高木が金メダルを取り、小平は振るわなかった。

こうした番狂わせは、一発勝負の五輪ではよくあることだ。

1964年の東京五輪のとき、ボクシングではライト級の白鳥金丸が金メダル候補といわれていた。

当時の日本のアマチュアボクシングでは、アウトボクシングが主流だったが、白鳥はハードパンチャーで有名だった。

ところが、3回戦でメキシコの選手に負けてしまった。

その理由は、早稲田の体育の授業で、白鳥金丸先生は、次のように言っていた。

まず、選手村での外国人選手の態度の大きさ、奔放さに驚いたとのこと。

あるイタリア選手と仲良くなったが、彼が毎夜白鳥君の部屋の窓にくる。

「チラトリ、チラトリ・・・」と言い、

外に出ると、選手村の芝生の上で、女性選手といろいろとやっている。

純情だった白鳥君は、これで日々寝られなくなってしまう。

そして、ある夜に「桜井孝雄が選手村にいない」との大騒ぎが起きる。

ボクシングの主将だった白鳥君は、桜井を探しに町に出る。

なんと、桜井は、渋谷のバーで酒を飲んでいたと言うのだ。

           

そして、桜井孝雄は、バンタム級で金メダルを取る。これは、村田諒太がロンドン五輪で金メダルを取るまで、唯一の金メダルだった。

桜井は、五輪後はプロに転向し、東洋チャンピオンになるが、アウトボクシングだったので、あまり人気は出ず、比較的すぐに辞めた。

そして、高田馬場にメダリストという喫茶店をやっていた。

一方、白鳥君は、早稲田の体育学部の教員になり、私も夏休みの促成事業で彼の授業を取った。

非常に面白い授業で、五輪のフィルムなどもいろいろと見せてくれた。

 

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もう一つの台湾坊主

2022年02月16日 | その他

1960年3月15日に、私の父は、58歳で、午後に脳梗塞で倒れ、その日の夜に亡くなってしまった。

この時、長女は結婚していて息子もいたが、次女は銀行勤め、長男は大学2年、三女は高校2年生、末っ子の絵私に至っては、小学6年生だった。

ことの突然に、母親は呆然とし、さらに夜になり、お通夜になると父の棺に向かって大声で号泣していた。

そのとき、その母を知らない叔父さんが後ろから慰めていた。それも非常になれなれしく。

だが、その人が誰だか私たちは分らなかった。

その人は、父の妹の旦那さんで、我々からは叔父さんに当たる人だったのだが、その時は誰だか、私たちは分らなかった。

だが、母から離れ、こちらを向くとすぐに分った。

「Tさんだ・・・」

私たちが、誰だか分らなかったのは、その方が、いわゆる「台湾坊主」に罹り、髪の毛がほとんど抜けて坊主姿になっていたからだった。

話では、床屋で罹ってしまったとのことだった。

 

                 

台湾ぼうずには、実はもう一つ意味があり、冬に東京等に雪を降らせる「南岸低気圧」で、昔はそう言ったのだが、今は言わない。

 

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ウクライナが舞台の劇は 『屋根の上のバイオリン弾き』『ひまわり』

2022年02月15日 | 映画

今や緊迫の状況のウクライナだが、映画、演劇にはウクライナを舞台にした作品がある。

『屋根の上のバイオリン弾き』と『ひまわり』である。

前者は、映画と言うよりは舞台、、ミュージカルで、私も森繁久弥の主演で見たことがある。

これは、ウクライナの農村に住むユダヤ人一家の話で、平和に暮らしているが、次第にポグロム、ユダヤ人迫害が迫ってきて、ついにはアメリカに移民することになる。

私が見たときの長女は、上月晃で、倍賞千恵子らも出ていたような気がする。

感想は、森繁は随分と自分勝手に演じているなあと言うものだったが、会場は大拍手だった。

 

 

                                       

 

『ひまわり』は、どこかの名画座で見たと思うが、筋はどうでも良いメロドラマだったが、まあ良くできていると思った。

それに、ソ連の女優、リュドミラ・サベリーェワが実に可愛いと思ったものだ。

 

ロシアも、アメリカも共に政権の支持率が低下しているので、戦争に持って行きそうに思えるが。

実に愚かしいことで、なんとか止めて欲しいものだと思う。

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やはり松竹的 『佃次郎・妻たちの真実』

2022年02月13日 | テレビ

原宿中央署の警部補佃次郎の事件解決もの。

           

病院の院長野村信次が死に、青酸入りのブランデーを飲んだことによる殺人であることが分る。

佃次郎の西郷輝彦が、さまざまな容疑者候補から真犯人を割り出す推理が中心。

警視庁から来る刑事課長のベンガルが、いつもあらぬ方向に持っていくが、最後は佃の推理がすべてを解決する。

原作は、夏樹靜子で、脚本は佐藤茂、監督は広瀬襄である。広瀬は、大船で結構良い映画を作っていたが、松竹の停滞で、テレビに場を移していた。

犯人は、最初は院長の弟が疑われ、実際彼は、院長の部屋にいて、夜結婚のことを兄である院長に相談しようよしていて目の前で、兄がブランデーを飲んで死んでしまったのだ。

次に、院長の美しい妻一路真輝が疑われるが、彼女は、実は商社マン永沢利矢と恋仲になっていて、彼と河口湖近くで一夜を過ごしていてアリバイが証明される。

最後は、院長の従兄弟で、河口湖で画廊と喫茶店をやっているモト冬樹が疑われるが、それも違う。

本当の犯人は、彼の妻の洞口依子だった。

その殺人の理由は、病院の経営は実は上手く行っていなくて、院長は銀行から5億円の借金をしていて、夫で従兄弟のモト冬樹が保証人になっていた。

だから、病院が倒産すれば、自分たちの店や土地も取られてしまう。それなのに、妻は恋人の浮気をしている。

「こんな重大なときになんだ、それなら院長を殺して2億円の生命保険で病院の借財を解消させよう」と思ったとのことだ。

従兄弟同士とは言え、 病院院長と画廊喫茶では、資産に大きな差があり、それが殺人の動機になる。

この辺は、監督の広瀬襄は、まさに松竹大船的だと思えた。

松竹では、金持ちは悪で、そこへの復讐は、正義と肯定されるのだ。

それは、別に監督、脚本家レベルではなく、指導者の城戸四郎自体の思想がそうだつたのである。

広瀬の作品には以下のようなのがあり、この他に、日活の藤田敏八が監督した『非行少年・陽の出の叫び』も実は彼のものなのだ。

 

監督
1966.08.13 スチャラカ社員  松竹大船  ... 助監督
1973.05.02 愛ってなんだろう  渡辺プロ
1973.09.15 恋は放課後  松竹大船
1974.04.27 ムツゴロウの結婚記  松竹大船
1975.04.26 スプーン一杯の幸せ  松竹=サンミュージック
1976.03.13 青春の構図  松竹大船
1979.08.04 港町紳士録  松竹
1985.06.29 必殺II! ブラウン館の怪物たち  松竹=朝日放送
1994.09.23 本気!2 (V)  日本映像
1995.03.03 本気!3 (V)  日本映像
1995.12.01 本気!4 抗争篇 (V)  日本映像
1996.04.14 女賭博師 花吹雪お涼  BMGビクター=テレビ東京
1996.08.23 本気!5 死闘篇 (V)  日本映像
1998.08.07 本気!9 憤怒篇 (V)  日本映像=徳間ジャパンコミュニケーション...
脚本
1967.06.05 智恵子抄  松竹大船
1968.06.30 わが闘争  松竹大船
1969.01.25 日も月も  松竹大船
1969.03.29 落葉とくちづけ  松竹大船
1970.10.03 涙の流し唄 命預けます  松竹大船
1974.04.27 ムツゴロウの結婚記  松竹大船
1976.03.13 青春の構図  松竹大船
1979.08.04 港町紳士録  松竹
1990.04.14 男樹  日本映像
1995.01.27 湘南純愛組! (V)  日本映像

BS日テレ

 

 

 

 

 

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富士山のお陰

2022年02月11日 | その他

昨日の首都圏の雪は、それほど大雪ではなくて、まあ良かったと思う。

だが、山梨県の富士吉田あたりでは大雪になった。対して、静岡側は、雪はほとんど積もらなかったようだ。

私は、30年前1月から3ヶ月間、富士の宮市、上井手の研修施設で英語の特訓を受けた。

               

この3ヶ月間、雪はほとんど降らず、降っても少しで、昼過ぎくらいにパラパラと山を越えてくるだけだった。

要は、富士山が大きな壁となって、雪は山梨側に落ちて、静岡側まで来ないのである。

このように、富士山から丹沢、さらに秩父山脈と続き、首都圏は、この壁によって防御されている。

まことに、徳川家康が、江戸・東京に城を定めたことは的確だったと思える。

 

 

 

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『ブラック・エンペラー』

2022年02月09日 | 映画

1993年4月、新宿の映画館で柳町光男監督の『愛について、東京』を見たとき、中国人らしい女性がすぐに言った。

「嘘、ばっかり」

そのとき、私もそう思った。

柳町の映画は、この最初の作品以外は見てきたが、いつも感心したことがない。

                             

このやらせドキュメンタリーも予想どおり、まったく面白くないものである。

だが、これは安田生命ホール等の自主上映で、大ヒットして東映に買い上げられ、柳町の出世作となった。

なぜ、この著しく退屈な映画が当たったのだろうか。

たぶん、撮影された連中が自分はどう映っているのか興味があって見に来たのだろうと思う。

新宿の暴走族ブラック・エンペラーの映画だが、暴走も暴行もなく、要はまったくドラマがない。

ただ、連中が喫茶店で屯して、タバコを吸って話をしているだけである。

これを見て思ったのは、いつの時代でも若者は、淋しくて自分たちで集まっているのだな、と言うことだ。

今は、若者は、どうしているのだろうか、ネットやユーチューブの世界に屯していると言うことなのだろうか。

横浜シネマリン

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『転落の詩集』

2022年02月08日 | 映画

1950年の大映映画。

こういうのを見ると、いかに日本映画界は、シャレた映画を作れないかがよく分る。ハリウッドなら、かなりましな作品になったと思う。

原作は、石川達三で、戦前のもののようだが、やたらにアプレ・ゲールなどの台詞が出てくる。

京都撮影所なので、場所はどこか不明だが、銀座のような道を三条美紀が貧相な姿で歩いて来て、ビルに入る。

 

                  

「戦後派作品展」との文字があり、絵の展覧会で、「裸婦像」の前に来て、ナイフで切り裂く。

次は、警察署で、上田吉二郎に説諭されているが、三条は黙秘。

裸婦像の三条を描いたのは、小柴幹治で、三条が抱いている赤ん坊は、彼と間の子である。

そして、刑事の水島道太郎のところに行き、聞かれると三条は、少し話し出す。

ここで、全部分ってしまうが、その通りに進行する。

水島は、大学の友人の近衛敏明がやっているキャバレーを紹介し、三条はそこで働くようになる。

同僚に虐められたりなどがあるが、その度に水島は、三条を助ける。

最後、近衛の店の売上金を盗んで、姉が住み、赤ん坊を預けている富士吉田に行き、苦悶の末に湖に身を投げてしまう。

裁判になり、売上金持ち逃げを裁かれている。そこに、ようやく水島が現れて、三条が彼に送った手紙を読む。

そして、最後は、自分は警察を辞め、三条と結婚することを申し立てる。

護送車で運ばれる三条に向かって、

「いつまでも待っているぞ!」と、

水島が叫んで終わり。

「なんだあ」と思うしかない。

ただ、ここで驚いたのは、キャバレーで歌手が『ブンガワン・ソロ』を歌うこと。

「ブンガワン・ソロ」は、当時はインドネシア民謡と言われていたが、実はグサン・マルハトノサンが作った曲で、晩年には日本に来たこともある。

私は、中村とうようさんの命令で、パシフィコ横浜に会場を取った。

 

水島道太郎は、戦前から渋い二枚目で、1970年代も東映や日活のヤクザ映画に多数出ていて、良い俳優だった。

衛星劇場

 

 

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最初の国会議員は

2022年02月07日 | 政治

北京の冬季五輪が行なわれているが、この中からいずれ国会議員になる者が出るだろうと思う。

日本の国会議員で、スポーツ選手出身は意外に多いが、その最初は誰だろうか。

プロ野球の白木義一郎である。

                                     

慶応大学からセネタースに入った白木は、かなり良い投手だったそうだ。

市会事務局にいたTさんなどは、高校時代に野球をやっていたので、よく憶えていたそうだ。

確か、連続イニング無四球記録を持っていたが、後にヤクルトの安田に破られたと思う。

もちろん、公明党で、成績の振るわない選手に学会への入信をすすめたので、問題になったという話もある。

私が、横浜市会に入ったときは、小浜新治さんという議員がいたが、この人は大相撲で、幕下だったそうだ。

小柄だったが、筋肉質の体つきだったと思う。

大相撲の人で、国会議員になったのは、小浜さんだけだと思うが。

今度の夏の参議院選挙では、誰が出るのだろうか、参議院議員の被選挙権は年齢が高いので、難しいのだが。

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『香川1区』

2022年02月06日 | 映画

衆議院香川1区は、高松市と小豆島等を選挙区とする地域で、有権者約30万と結構大きな選挙区である。

                  

ここは、自民党議員で、菅義偉内閣で、初代デジタル大臣も務めた平井卓也と、大島新監督の前作『なぜ君は総理大臣になれないのか』で描かれた小川淳也の対決区で、小川は1賞5敗である。

平井は、三代目の議員であるほか、地元の四国新聞や放送局を持つ、香川の大物である。

春、まだ選挙がいつになるのか不明の5月から始まる。5月で、小川の誕生日なのだ。

そして、地元廻りでは、保守の牙城の小豆島に事務所を作る。

映画『二十四の瞳』の小豆島である。

この年は、大島新監督の父親大島渚が、松竹に入社した年であり、黒澤明の『七人の侍』が公開された年でもある。

だが、この年のキネマ旬報ベストテンでは、1位は『二十四の瞳』、2位も『女の園』と木下恵介作品が上位で、黒澤の『七人の侍』は続く3位である。

高松での運動なども描かれ、総選挙は、憲法七条の解散になり、10月に選挙戦に入る。

この時、かつて玉木純一郎の秘書だった町田順子が、国民民主党でもなく、日本維新の会から立候補する。

小川は、町田に辞退を辞退を申し入れるが、もちろん聞き入れず、それが四国新聞に大きく報道される。

この時は、東京の事務に田崎史郎も現れて、小川の軽率さを指摘するが、小川は反発する。

ここは、唯一、彼の感情の高まりが出るところで非常に興味深い。

そして、選挙戦は、以前とは比較にならないほどのボランティアによる運動で盛上がり、最後は平井に圧勝する。

ボランティアによる小川の運動に対し、平井のは背広姿の男ばかりで、動員と公明党の支持によるものであることが明白に分る。

これを見て、思い出したのは、大学時代にやっていた劇団の芝居のことである。

年に2回、7月と12月にするが、メインは12月で、ここへは8月の夏休みから始まる。

8月の中旬、甲子園大会の頃に、演出、制作、舞台監督、さらに主演をしたい連中が集まり、戯曲を持ち寄って議論する。5,6人である。

当時は、自分たちで自作品を演じるという、つかこうへい以降の自作・自演はなかったので、既成作品をするしかなかったのだ。我々では、三好十郎、宮本研、そしてアーノルド・ウエスカーくらいしかやれる戯曲はなくて苦労したものだ。

そして、戯曲が決まると、演出が役者を口説いて、メインのキャストが決まり、9月の新学期になる。

この辺で主な役者、各スタッフのチーフが決まって劇団の総会が行なわれる。

この辺で大体20人くらいになる。

秋になると、本読み、立ち稽古になり、大道具・小道具、衣装なども作られる。

この辺で、30人くらいの増え、切符のできて、皆に売らされる。

値段は、300円で、ノルマが20枚だったので、6000円だった。

私は、もちろん、売れないので、貯金を下ろしてノルマを消化した。

この頃、いつも200枚以上売ったのがいて、一人は井上瑶こと漆川由美、もう一人は下町の女性のHさんだった。

そして、12月になると、早稲田はもちろん他大学、女子大や専門学校等からも多くの人が集まってくる。

本番の頃には、50人以上にもなり、

「あいつは、どこの誰だ・・・」と知らない人間ばかりになり、公演は盛上がって終わる。

 

この映画でも、小川事務所には、全国からボランティアが集まってくる。

静岡や京都など、まったく無関係な男女が集まっている。これがボランティアによる運動なのだ。

一方、平井陣営は、背広の叔父さんばかりで、演説は地元へトイレを作ったことなどの地域に還元したことばかり。

これだけいろんな人が来たのは、やはり小川の人柄の性だろうと思う。

最後、党の代表選に出るが、3位で、新代表は泉健太になる。

シネマジャック&ベティ

 

 

 

 

 

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『吸血髑髏船』

2022年02月04日 | 映画

1968年、この頃、日本映画界は、混迷の中にあったが、松竹もその一人で、大変に変な作品を作っていた。

この夏に、『吸血鬼ゴケミドロ』と『黒蜥蜴』を上映したら意外に当たったというので、その続編のような企画としてこれができたとのこと。

脚本は、前作の小林久三と大映系の下飯坂菊馬で、不思議な組合わせだが、前作の東映系の高久進から代わっている。

この辺は、次第に五社協定が有名無実化して、他社のスタッフを使うようになったからだろう。

                         

小林久三の『雨の動物園』を読むと、下飯坂氏との共作は順調にでき、最初の車内での準備稿の本読みのとき、

監督の松野宏軌氏は、

即座に「これは面白い!」と言ったそうだ。松野氏は、松竹京都の出で、この頃京都撮影所閉鎖で大船に移籍していた。

話は、貨物船に奴隷のように繋がれている男女がいて、それを金子信夫らが射殺してしまう。

そこには、主演の松岡きつこと西村晃がいるので、この二人が殺されて筋はどう進行するのかと思う。

3年後、湘南の海岸の教会に、松岡きっこ住んでいて、神父は岡田眞澄。

当然、この松岡は、双子の妹という設定になっている。

海岸でヨットハーバーとレストランを経営している男がいて、入川保則。二枚目だが、藤田まことによく似ているのでおかしい。

二人は愛し合っていて、モーターボートで海に行き、水に潜ると、当然松岡はビキニなる。

水中で、二人は、髑髏の群れを見る。

そのうちに、霧の海の中に不気味な貨物船が現れ、そこに松岡は乗り込んで行く。

金子は、キャバレーを経営していて、妻は谷口香、そこに飲んだくれの内田朝雄が来て、金をゆする。

彼らは、貨物船が積んでいた金3億円を強奪した仲間だったのだ。また、潜水夫の山本紀彦が死ぬが、彼も金子たちの一味だった。

貨物船から逃れてきた松岡が、教会に来ると、岡田の正体がばれる。

彼が、一味のボスだったのだ。

そして、驚くのは、金子、岡田、内田、谷口らが船に行くと、そこには西村晃がいて、鉄をも溶かす薬ができたと言う。彼は、なんと研究者だったのだ。

西村は、岡田、金子らを全部溶剤で溶かして殺してしまう。

最後、海岸の教会から、船が爆発するところを松岡は見るのだった。

かなり、筋がおかしいが、これは小林の本を読むと、貨物船を貸した会社の社長が作品を見て激怒したので、かなりの部分をカットしたからなのだそうだ。

この後、小林は松竹を辞め、松野監督は、松竹京都のテレビ映画の監督になったそうだ。

日本映画専門チャンネル

 

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