指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『隠し砦の三悪人』

2021年09月29日 | 映画

朝、PCで見ると上大岡で『隠し砦の三悪人』をやっているので行く。

私は、これと『酔いどれ天使』、『天国と地獄』の3本が黒澤では好きなのだ。

いずれも、東宝のスタッフ、キャストが総力を上げて作った作品であるところが素晴らしいのだ。

昔、妻と結婚したとき、ちょうど黒澤の『影武者』が公開されていて、銀座に見に行った。

黒澤映画が初めてだった妻は、「なにこれ?」だった。

その直後、新杉田にあったビデオ屋で、アメリカ版のこれを見ていると、一緒に見に来て、

「これは、すごい面白いじゃない」と言った。当時、東宝は国内盤は出していなかったので、英文字幕付きを見たのだ。

            

山名に滅ぼされた秋月の武士三船が、姫の上原美佐と薪に隠した黄金を、強欲な百姓の藤原釜足と千秋実の力を借りて、砦から運び出す。その策は、山名は、秋月と早川領の国境を警備しているので、いったん山名に入ってそこから早川領に行こうとする。

このアイディアは、1980年代末に東ドイツが、西ドイツ国境を封鎖したとき、多くの東ドイツの人々は、自由化されたハンガリーを経て、西ドイツに多数が逃亡し、東西ドイツの国境閉鎖は無意味になった。この話を聞いた時、東ドイツに、この黒澤映画を見た人がいたのかと思ったものだ。

脚本は、黒澤のほか、橋本忍、菊島隆三、小国英雄らで、次から次へと難問が起きるが、それを解決し、ついには早川領に入れる。

三船敏郎をはじめ、全員が踊る火祭りのシーンは、いつもても素晴らしい。

冒頭に出てきて殺される武者の加藤武が亡くなった現在、主要キャストでご健在なのは、俳優をやめてしまった上原美佐だけだろうと思う。上原は、この後現代劇にも出たが、台詞がすごかった。

上大岡東宝シネマズ

 

 

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小室氏問題について

2021年09月28日 | 事件

以前、小室氏問題について、以下のように書いた。批難を承知で再録する。

私が、小学校、中学校時代に一番仲の良かった男に、田辺史彦君がいた。彼は、高校時代から大森山王の民間テニス・クラブに入っているなどの、「贅沢なテニス少年」で、大学は立教の経済学部に入った。非常にかわいい顔で、さらにテニス・ボーイ、クラシック・ギターもやっていたので、モテモテで、ついに立教では、某有名人の娘をものにしてしまった。その時の彼の言葉は、「立教の下の女学院から来た子は、男をまったく知らないので、引っかけるのが一番簡単だったよ」「へえ、そうなのかね」と思った。しかし、眞子様の問題を見ると、この田辺説は、正しいと思う。眞子様は、本当に深窓のお嬢様で、下界の男をまったく知らず、いきなり小室君にお会いしてしまったようだ。私は、日本全国民が、小室君と母親に嫌悪をもっているのは不思議に思う。日本国憲法は、「結婚は両性の合意にのみ」に成立されるのだから、これに反対するのは、憲法を無視することだ。いつから日本は、大日本帝国憲法の時代に戻ったのだろうか。ちなみに、田辺君は、いろいろな女性と浮名を流した後、40代で死んでしまった。私の友人で、最初に亡くなった男である。

 

小室氏問題で、いろいろ言われているのが、母親の金銭問題である。

だが、「結婚は両性の合意のみで成立する」とすれば、どこが問題なのだろうか、私には理解できない。

 

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白鳳引退

2021年09月28日 | 相撲

白鳳が引退するそうだ。私は7年前に以下のように書いた。

さて、今場所は贔屓の琴奨菊が好成績だったので、気分が良かったが、最後の15日目に豪栄道にあっさりと負けて初優勝の期待は外れた。予想通りだが、最初琴奨菊が、立ち合いで早く突っかけて、間合いが合わず、仕切り直しとなる。「これはまずい」と思うと二度目の立合いは、気分が集中して居らず、豪栄道に受け止められて負けた。でも、豪栄道も大関になるらしいので、一応満足した。なぜなら、豪栄道も琴奨菊と同様の、「相撲取り顔」で、言ってみれば「ブス男」だからである。

   
遠藤のように色男が、同時に力持ちでは、やりきれないではないか。どちらかと言えば、白鵬もいい男で、これも悔しい理由でもある。以前は、白鵬は好きな方の力士だったが、最近は少し考えを変えている。
この男は、普段は優等生のくせに、裏に廻るとワルの連中と大して変わらないことをしている学生が中学校にいたが、それに近いのではないかと。なにをしても俺に文句を言う人間は存在しないという態度が目につくのも嫌なのである。ともかく強いのだから仕方がないのだが。

ここに書いた、本当は裏で悪いことをしている優等生というのは、晩年になるほどひどくなったと思う。

まあ、誰も勝てなかったのだからすごいのだが。

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『カウラは忘れない』

2021年09月28日 | 映画

1944年8月5日、オーストラリア東部のカウラ捕虜収容所から日本人1000人が集団脱走し、234人が亡くなる事件が起きた。

ステーブ・マックイーンは生き延びるために「大脱走」したが、これは違う。

死ぬために脱走したのだから、今の我々には信じられない話だが、80年前の日本人には正当な選択だったのだ。

この一つだけをとっても、『戦陣訓』を下達した東條英機は、許しがたい。

        

それは、いかに日本が戦争に無智であったかを現わすものだ。

近代史でも、ドイツ、ポーランド、ロシア(ソ連)の国境はしばしば変わっていて、住民も移動している。

それが戦争の結果であり、国や領土よりも、住民の命が大事ということである。

日本では、国民よりも国土よりも、天皇が大事だったのだから仕方ないのだが。

90歳を越えた生き残りの人たちも、この話をするようになったのは、つい最近のことだ。

捕虜で、生き残りだなどと言うのは、都会はともかく十分に田舎では村八分だったはずだからだ。

製作は瀬戸内テレビ、途中で芝居を見せる坂手洋二も岡山の生まれのはずだ。

横浜シネマリン

 

 

 

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横浜東亜劇場について

2021年09月27日 | 横浜

横浜オデオン座については、次のように書かれている。

1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の終戦後、同年9月30日に営業を終え、同年10月2日の総司令部設置以降の時期に進駐軍に接収され、「オクタゴンシアター」として運営される。1947年(昭和22年)1月1日、六崎は「横浜オデヲン座」を曙町に新設した[5]。 

曙町

賑町の元来の「オデヲン座」が「オクタゴンシアター」として接収されたため、六崎は、1947年(昭和22年)1月1日、近隣の中区曙町1-3に新たに「横浜オデヲン座」を開設し営業した。二階建てで、定員は592席であった。ロードショー形式の興行であったが、日活が洋画興行に進出し、また横浜東宝会館横浜ピカデリー劇場が相次いで新設され競争が激化した。こちらの横浜オデヲン座は1956年(昭和31年)3月7日新東宝の封切館「横浜新東宝映画劇場」に転身した。洋画館濫立のため、六崎が経営から手を引いた結果であった。六崎の後経営を引き継いだのは新東宝を経営していた大蔵貢で、彼が経営する大蔵映画が閉館まで経営に当たった。新東宝の破綻とほぼ同時期の1961年(昭和36年)に東急文化会館が運営する東急洋画チェーンに加盟して「横浜東急」に改称。「横浜東急」の名称だが経営は引き続き大蔵映画が当たっていた。その東急文化会館が1965年(昭和40年)3月に松竹と提携して「松竹東急チェーン(STチェーン)」を形成すると東急チェーンに加盟していた大蔵系各館は離脱して、成人映画・OPチェーンを形成。当初は「横浜東急」の名称のまま成人映画を上映し、同年5月に「横浜東亜映画劇場」に改称するが、この名称が旧オデヲン座が戦時中に使用していた名称であることを大蔵側が知っていたかどうかは定かではない。結局同館は1979年(昭和54年)4月8日をもって閉鎖[1]され、現在はマンションが立地している。「ぴあ」1979年4月号に掲載された映画館案内では、当時の支配人による閉館の挨拶が掲載されている[1]

この接収されたというのがくせ者だと思う。米軍に接収されたとすれば、横浜市と国は、見返りを与えたはずで、それが曙町の公有地だったのではないか。

そして、そこに六崎の後を引き継いだ大蔵貢は映画館を建て、新東宝、さらに東急系の映画館としたのではないか。私の知合いの老婆が優待券を使用したのも、東急チェーンの映画館なら理解できる。

          

さらに、今日、横浜シネマリンに行き、代表の八幡さんと話していたら、それを聞いた男の人が、「あそこのピンク映画は野毛に行ったよ」と言った。

今もある野毛の光音座のことである。

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『愛奴』の裏側は

2021年09月26日 | 映画

羽仁進は、天才的な監督だと思うが、唯一の変な映画が『愛奴』である。

 

          

以前、見たとき、次のように書いた。

なんでこんなのを作ったのか、と思う作品。元は、栗田勇原作の芝居で、ここに出た早大生金沢優子は、「女子大生が裸になった・・・」とのことで話題になり、私も週刊誌のグラビアで見た。1966年頃は、現役女子大生ヌードはまだ珍しかったのだ。後の黒木香とは時代が違う。私が早稲田の劇団演劇研究会に入った時には、金沢優子さんはすでにいなくて、一度だけどこかの喫茶店で見たことがある。思ったよりも小柄、色白で、大人しそうな女性だった。噂では、その後は編集者になったとのこと。さて、映画は羽仁進の監督で、主役は入社第一作と出た河原崎健三、彼は大学生で人形劇の一座にいるが、ある夜、不思議な女性円城寺夫人・額村喜美子と運転手・九重京司に案内されて謎の大邸宅に行く。そこには、夫人の下僕のごとき女の愛奴・末松百合がいて、彼女と河原崎は陶酔的な一夜を過ごす。当時の言葉で表現すれば、めくるめく官能と言った奴だろう。この表現が実におかしなもので、ハイキーの画面で、超クローズアップの連続なので、結局行為がよくわからない。要は、筋書き同様に変にもったいぶっているだけで、無内容そのものなのだ。「芸術エロ」としても全くダメ。公開された1967年は、まだピンク映画しかなく、ATGも『無常』などの芸術エロで大ヒットしたが、こうした作品群は、1971年からの日活ロマンポルノの出現で駄目になる。芸術エロは、当時の大島渚、吉田喜重、さらに新藤兼人にもあったもので、衰退期の松竹の興行を支えた。最後、円城寺夫人は東京大空襲で死んでいて、その亡霊がすべてを動かしていたとのばかばかしい謎解きになる。この映画には、もう一人早稲田大学の劇研関係者がいて、助監督の榛葉光紀さんだった。榛葉さんは、3年上で照明をやっていて卒業後は東映の助監督になったとのことだが、契約助監督だったんだろう、この独立プロにもついたのだ。俳優では、人形劇団のリーダーが増田貴光なのには驚いたが、声は吹替えのようだ。

      

その他、冒頭の方で慶応大学の白井健三郎先生が、最後の羽田飛行場のシーンには植草甚一が出ていた。本当に変な映画だった。

この変な映画ができた理由が分った。最初の企画は、司葉子と荒木一郎だったとのこと。それが、荒木がわいせつ罪で逮捕されて出られなくなり、新たな配役で作られたのだそうだ。

だから、実に変な作品になったのだ。

映画界というのは、実におかしなことがあるものである。

 

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「日仏」ってなんと読むの?

2021年09月26日 | 横浜

今は、どうなっているか知らないが、横浜に日仏学院というのがあり、市は補助金を出していた。

これについて、止せば良いのに、公明党の議員が特別委員会で質問した。

そのとき、彼は言った「にちぶつがくいん」と。

すると、回答する田口総務局長は、しつこく「にちふつがくいん」と何度も答えた。

私たちは思った、創価学会では、仏は「ぶつ」としか読まないのか。

        

また、高秀市長は、おフランスが大好きで、横浜フランス映画祭に多大な補助金を出させていた。

私は、見ていて呆れていたのだが。

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菅野は「江川病患者」だ!

2021年09月25日 | 野球

今日の巨人・阪神戦を見ていて、巨人の菅野は、江川卓病患者であることを再確認した。

菅野は、江川のようにすごい投手だが、江川のように大したことのない打者には手を抜くクセがあり、つまり江川病患者である。

                         

今日も、最初に糸原にホームランを打たれたのがその良い例で、さらに中野に決定打を打たれたのも、

「こんな弱打者・・・」と中野を見くびっていた性である。

これで、今後菅野は、阪神戦で有効な投球ができなくなるだろうと思う。

阪神ファンとしては、非常に喜ばしいことである。

明日、山口を打ち崩せば、あとはヤクルトだけである。

 

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おかしな質問

2021年09月25日 | 横浜

本会議では普通はないが、委員会では変な質問が出ることがある。

中区の横浜シネマリンの近くにかなり大きな駐車場がある。

ここは、昔は映画館で、横浜東亜劇場という映画館で、大蔵系だった。

新東宝の横浜の封切館だったそうで、『明治天皇と日露大戦争』もここで上映されたそうだ。

             

私が、横浜に来た1970年代は洋画の二番館くらいだったが、大蔵系だったので、次第にピンク映画も上映されるようになった。

どのような経緯か知らないが、ここの建物は大蔵あたりの物だったが、底地は横浜市の普通財産だった。

そこで、あるとき、中区の公明党の議員だったと思うが、

「市の土地の上でピンク映画を上映しよいのか」の質問があった。

まじめに財政局長は答えていたと思うが、じつにどうでもよいとしか思えなかった。

私は、もちろん、市の土地の上だろうと、ピンク映画を上映するのは問題ないと思う。

第一、当時のピンク映画の露出度はきわめて低いもので、今のビーチバレーの方がよほどわいせつだろう、そう思えば。

 

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『由宇子の天秤』

2021年09月24日 | 映画

フリーの映像ディレクターの木村由宇子(瀧内公美)は、学校での「イジメで自殺した子の事件」を扱って真実に迫ろうとしている。テレビ局は、真実などどどうでも良く、型どおりの番組ができれば良いと思っているのだが。

         

彼女は、父(光石研)がやっている塾の講師もやっているが、そこは進学塾というより、落ちこぼれのための塾で、少年少女の居場所化している。

私の大学時代の後輩にKという男がいて、雑な男だったが、人は悪くない奴だった。劇団のOB会で会ったとき、地元で塾をやっていると聞き、今後少子化で大変だろうと聞くと、

「世の中、できの良い人間ばかりじゃないんです、ともかく高校だけは出てくれという親はいくらでもいるんです、我々が相手にしているのは、そういう連中です」と答えた。

脚本・監督の春本雄二郎とは、2016年に新人監督映画祭で会ったことがある。『かぞくへ』という映画で、私は良いと思った。だが、大高正大を委員長とする審査会では、

「この人は、松竹京都で長く助監督をしていて、上手いけど、新人の新しさ、斬新さはないのでは」との評価だった。

だがここでは、先日見た羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』のような、きわめて自然でリアルな演技で全編を押していて、大変に新鮮だった。

そして、ある日、一人の女のメイが倒れ、妊娠していることがわかり、さらにその相手が父だったことに愕然とする。

メイは、父親と二人で、この父親は、元は芸術家を目指していたらしいフリーターの駄目男で、駅前でテッシュ配りをしているのが笑える。メイは、塾の学費と引き換えに父親と性交したのだ。

ここにあるのは、小泉純一郎・竹中平蔵以後の格差社会の実像で、地方社会の姿である。高崎周辺という北関東というロケもリアリティがある。

最後、メイは父親のみならず他の少年とも性交して小遣いをかせぐ嘘つきであり、「イジメ事件」も真実は異なることが証される。

メイは、道をふらふらと歩いて事故に遭い、流産してしまい、駄目男の父も初めて妊娠を知る。

この作品がよいのは、結局すべてが元に戻ってしまい、最初と同じところだ。まるで成瀬巳喜男の映画のように。

由宇子の滝内公美が、少々かっこよすぎるが。

横浜シネマリン

 

 

 

 

 

 

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地域割りか職場割か

2021年09月24日 | 政治

「地域割り」か「職場割か」と言うのは、横浜のような地域での選挙の時の方法である。

これは、一つの選挙区で同じ党から複数の候補者が出るときの話であり、、昔の中選挙区時代の衆議院選挙のことでもある。

地域割りというのは、簡単で自民党は大体これだった。

横浜で言えば、大体は連合町内会単位当たりに、A議員はA連合、B議員はB連合とするわけで、その連合の人口は確定しているので、比較的正確に区割りできる。そこに、議員ごとに関係のある医師会とか建設業者等を加えれば良い。

この地域割りができないのが社会党で、元が労組なので、地域と関係がない。

官舎や寮などがあるところでは可能だが、社会党では地域割りは難しく、ほとんどが職場割である。

官公労はA議員、民間労組はB議員という風に。

ただ、社会党でもベテラン議員になると地域との繋がりもできて、これが大きくなる。

大久保英太郎市会議長は良く言っていた、

「昭和46年の分区の時、俺は旭区に5000票置いてきたので、保土ケ谷区では大変だった」

これはもともとは、旭区になったエリアに5000票あったが、分区されたのでなくなったと言うことだ。

              

その性か、46年春の選挙の時、旭区の社会党の石崎武という議員は、旧大久保英太郎さんの票も加算されたのか、1万票を越えた得票で、市会議員の全国最高得票だったそうだ。

その性か、石崎議員はいつもえばっていて、市会では大変に評判が悪かった。

後に、市会を引退した後、私が総務局国際室にいると、昔から知っているので、月に1回くらい電話が掛かってきた。

いつも、端的に言えば老人のグチで、まことに参ったものだった。

元市会事務局長だった井上三男さんが、この石崎先生が大嫌いで、

「つまんねこと言うなって言うんだ、70を越えたんだから家で孫の世話をしていれば良いんだ・・・」

井上さんによれば、「石崎は女を作ったので、金に困っていろいろ詰まらないことを言ってくるのさ」

この井上さんは、退職後は、市関係ではなく民間企業に行ったが、比較的早くに亡くなられた。

人生いろいろである。

 

 

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『山男の歌』

2021年09月24日 | 映画

ダークダックスなどが歌った『山男の歌』がヒットしたので作られた映画。松竹にもあり、篠田正浩監督で、もう少し面白い映画だったが、これはばかばかしいでき。監督村山三男。

まず、崖地で登山の訓練が行なわれている。大学の山岳部のようで、藤巻潤や小林勝彦らが部員。

藤巻は、貧乏学生でビアホールでバイトしている。小林の家は、父の見明凡太郎は会社社長で裕福のようだ。

歌声喫茶で、歌が唄われていて、ステージにはダークダックスが歌っている。

私は、この歌声が大嫌いで、自慢じゃないが、この歌声的な運動や店にも参加したことは一切ない。

歌声運動は、戦後に民青と共産党が初めてものだとされているが、その前に、戦前、戦中の国民歌謡があったと私は思う。私は、このコーラスという皆で声を合せて歌うことが嫌いなのだ。

小学校のとき、無理矢理選抜されて、大田区合唱大会に出されて落選した性だろうか。このとき、音楽大出の若い女性の先生の選曲で、メキシコ民謡の『ラ・クカラーチャ』を歌ったのだが、予選敗退だった。このとき、先生は号泣していたが、私が最初に大人の女性が泣くところを見た場面だった。

映画では、小林と藤巻は、共に同じ大学にいる経済学部の三条江利子が好きだが、この時代の作品なので、肉体関係はおろかキスもしていない。

             

見明は、小林の誕生日のお祝いに三条を招き、その帰りについに小林は、三条に告白してしまう。

すると、三条は藤巻の方が好きだと言う。

二人は、仲良く剣岳に登山する。

山については、詳しくないので良く分らないが、ある岩場に二人は着く。

小林は先に登り、そこから「ザイルを30メートル作れ」と叫び、藤巻が新たに30メートルのザイルを結ぼうとしているとき、小林が落下してきて、ザイルを結ぶ直前だったので、そのまま落ちて死んでしまう。

これは、藤巻のミスか、小林の自殺か問題になる。

見明凡太郎の娘が近藤恵美子で、彼女の夫が、大学の山岳部の先輩の丹羽又三郎で、真実を究明するため、彼は藤巻と一緒に剣岳に登る。

そして、事故現場に来て、藤巻は先に登り、そこで崖の新しい登り先を見つける。

つまり、小林は、新しい登山口を見つけたので、そこから登ろうとして落下したことが分かり、メデタシメデタシ。

当時は、まだ登山ブームが続いていたので作られた作品で、大映には『氷壁』『妻は告白する』などの、傑作登山映画があるが、これはそこまでは行っていない。

衛星劇場

 

 

 

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灰皿事件

2021年09月23日 | 横浜

これも私が入る前に起きた事件で、1971年秋の市会でのこと。

当時は、議場にはなかったが、委員会室の席には灰皿が置いてあり、議員はタバコを吸っていた。

だから、灰皿とお茶を出すために、常任委員会では、その局の庶務の女性が来て、お茶出しと灰皿の洗浄をやっていた。

            

その議会では、金沢地先埋立事業の計画と補正予算が提案されていた。

与党の社会党、さらに自民党、公明は賛成で、反対は共産党と民社党だった。

なぜ、民社が反対だったのかは、金沢区に民社の議員がいたからだと思うが、それよりも飛鳥田市政下で、

「よそ者扱い」されていたからだろうと思う。

その常任委員会での議案の採決の歳に、灰皿が飛んだと言うのだ。

私の知る限り、横浜市の市議会でこうした直接的な反対行動が起きたのは、このときだけだったと思う。

 

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『深夜特急・アジア編』

2021年09月22日 | テレビ

澤木耕太郎の著作に最初に注目したのは、雑誌『月刊エコにミスト』に連載されていた「若き実力者たち」だった。そして、1970年代の中頃、実際に彼の姿を見た。

当時、友人の下川博と劇団をやっていて、伊藤比南子が出た。アングラ女優の常で、芝居では当然食えず、銀座のクラブにいたらしく、その客の一人として劇を見に来たのだ。たぶん、二日目だったと思うが、終わると大きなミリタリールックでサングラスの男がいて、すぐに澤木と分った。伊藤比南子と二三、会話していたようだ。

澤木は、実は私のすぐ近くで育ったようで、大森3中から都立南高校に行ったようだ。多分、日比谷高校に落ちたのだろう、当時は「学校群制度」の前だが、上位校から落ちるとどこかに行けるようになっていた。

「学校群制度で、美濃部知事は都立高校を破壊した」とよくいう石原慎太郎だが、これはまったくの嘘。学校教育は、都知事の権限ではなく、教育長なのだから。小尾虎雄教育長が行ったことで、美濃部知事は関係ないのだ。

          

澤木は、高校時代は陸上競技をやっていたそうで、実際に非常にがっちりとした体だった。

このテレビでの大沢たかおは、悪くないが、あんな優男ではなく、かなり大きな男である。

でないと香港からアジア各地を一人で旅することもできなかったと思う。

この香港、バンコク、マレーシアからシンガポールで、澤木が気に入ったのが香港等の狂騒であるのが興味深い。

彼が生まれ育ったのは、大田区中央で、ここは住宅地だが、すぐ近くには蒲田があり、ここは1960年代まで闇市的な商店街もあるところだった。

そうした記憶から香港等の喧噪に引かれるんだろうと私は思うのだ。

日本映画専門チャンネル

 

 

 

 

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O議員親子について

2021年09月21日 | 横浜

私が市会に入った時、中区の無所属でOと言う議員がいた。

大変に大柄な人で、元は社会党の有力議員で、いずれ副議長くらいになると言われていたようだ。

だが、自身が経営する保育園の会計で不正があるとのことを庁内紙に嗅ぎつけられ、大物のO氏は、

「なんだそんなこと・・・」と撥ね付けた。

ところが次第に暴露されて騒ぎになり、社会党は困って議員団から除名したので、当時は無所属になっていた。

そして引退し、息子のO氏は民社党から出て当選された。

この人は、大変にまじめで温厚な方だった。

特に、野性生物について興味があったようで、横浜にも残っているそれらの保存についてよく意見を出されていた。

当時は、そうしたことへの関心は薄く、

「また、あんなことを言っている」という反応だったが、今考えれば環境問題への先進的な関心だったと言えるだろう。

中区の定数が減り、それに伴って引退され、その後は保育園の運営に当たられているようだ。

 

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