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指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『わかれ』

2020年03月31日 | 映画
1959年の松竹映画、原作は高見順、脚本池田忠雄、監督は野崎正郎である。
野崎の作品には戦時中の孤独な少年を描いた作品に『広い天』があり、この予告編のラストで、担当の篠田正浩がベートーベンの『第九交響曲』の最後の合唱を使って話題となったそうだ。



話は、箱根の仙石原で女一人で旅館をやっている山田五十鈴と娘の鰐淵晴子で、鰐淵が大人となっていくことがテーマである。
冒頭は、劇作家の笠智衆が、ゴルフを終わって旅館に戻ってきて、友人で翻訳家の菅佐原英一の部屋に行くところから始まる。
鰐淵は、田舎の箱根から都会へ出ようとしていて、密かに鰐淵を想っているのは、使用人の安井昌二で、母親と共に働いていて、「飼い殺し」だという。
旅館内の男女関係はいろいろあり、番頭の佐竹明夫は、女中と愛し合っていて、その女性は名前は違うが、松井康子である。
松井は、学習院大出で、松竹の女優になるが、以前に知り合った若松孝二との約束で、若松のピンク映画に出る、ピンク映画初期の女優の一人である。
鰐淵は、インテリの菅佐原を好きで、菅佐原も愛しているが、問題は母親で、ぐずの菅佐原は、鰐淵に手紙で断ってくる。
娘の恋を心配した山田は、鰐淵に内緒に東京に来て、母親の村瀬幸子と会う。
村瀬は、インテリ女性で、「学者の家系で、いずれ偉い学者になる息子の嫁に旅館の女は相応しくない」と断言する。
この山田と村瀬の対決は凄い。

これを見て非常に驚くのは、佐竹と松井ができて妊娠し、結婚したいと言うと、山田は二人に退職を宣告することである。
文化人類学の「通婚圏」によれば、若い男女が存在する職場は、適当な場であり、そこでできたら首というのはひどい。
ただ、当時は民間企業でも、職場結婚になったら、どちらかは辞めると言うのは不文律で、横浜市でも職場結婚の際は、どちらかは異動するものだった。そして、男女のどちらかが課長になれば、その配偶者は退職するものだったようだが、今は勿論ない。

また、やはり女中だった鳳八千代と安井は恋仲にあったが、なぜか鳳は辞めて小田原の芸者になり、最後は九州に行くと言う。
彼女と鰐淵は仲が良く、鳳は別れるときに、鰐淵に安井は、密かに鰐淵を想っていると告げる。
この時、鰐淵は15歳だったそうだが、とてもそうは見えず大人である。
この鳳の客観的な忠告にしたがい、鰐淵は、安井と一緒になり箱根の旅館にいることを決意して終わる。
鳳は、非常にクールな演技で、やはり宝塚という西欧的な演劇の場にいたからだろうか。
ここにあるのは、都会と地方の格差、対立、インテリと庶民の差で、それぞれ分相応に生きるべきだとの意識だろう。
結構面白い映画だった。
衛星劇場

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『暖流』 吉村公三郎監督版

2020年03月30日 | 映画
別に小池百合子の指示に従ったわけではないが、非常に寒いので家にいて、吉村公三郎監督版の1939年の『暖流』を見る。
1957年の増村保造のは見たことがあるが、これは初めて。
主演は佐分利信、水戸光子、そして高峰三枝子、さらに悪役は徳大寺伸で、これが非常に良い。
この中で、水戸光子は、きわめて好ましい女性に見え、戦後フィリピンの島から30年ぶりに戻った小野田寛郎さんが、好きな女性で「水戸光子」を上げていたのもよくわかる。



話は、志摩病院の改革に乗りこんできた事務長の佐分利信と病院長の娘の高峰三枝子と小学校時代の同級生で看護婦の水戸光子との恋愛劇である。
そこに看護婦に手を出しながら、高峰と結婚しようとするキザな徳大寺の悪役ぶりが上手い。
今見て驚くのは、戦前の日本の社会の格差というか、生活様式の違いの大きさで、ご令嬢の高峰は、家に戻って靴を脱ぐのも女中にやらせている。
まるで、江戸時代のお姫様である。
兄で医者の斎藤達雄は、病院の仕事はせずにゴルフなどで遊びまわっている。
だが、病院の実情は苦しく、佐分利は冗費の削減など改革を進め、水戸は佐分利の「スパイ」を務める。
これはよく考えると、昭和初期の資本主義化の進展の中で、次第に貧困化していく小規模資本家の没落とも思える。
ここで不思議なのは、佐分利は、病院を個人経営から会社にするとのことで、戦前は今日のような医療法人制度はなかったのだろうか。
最後、看護婦を騙して捨てた徳大寺の悪事が暴かれ、佐分利は、やや唐突だが高峰に求婚するが、彼女は断り、水戸と一緒のなるように仕向ける。
この関係は、当時庶民の水戸か、お嬢様の高峰かの議論があったそうだ。
もちろん、佐分利は水戸と結ばれて、それぞれに相応しい相手を得て終わる。
これをさらに極端化したのが、小津安二郎の名作『戸田家の兄妹』でもあるのだと気づいた。
衛星劇場







 
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ペンデレツキー、死去

2020年03月30日 | 音楽
ペンデレツキーが亡くなったそうだ、86歳。


ポーランドの作曲家で、最後の現代音楽家と言われ、私もCDを持っているが、さして面白いとは思えなかった。
晩年は、元の宗教音楽家に戻ったようだ。
それは、日本の一柳慧が古典的な音楽に戻ったのと似ているように思える。
冥福を祈りたい。
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ケニー・ロジャース、死去

2020年03月29日 | 音楽
カントリー歌手のケニー・ロジャースが死んだそうだ、81歳。
驚くのは、死因で、老衰とのこと、81で老衰とは。
たしかに、やや年寄くさい男だったが。

                       

私は、1980年代、カントリーが好きで、当時六本木にあったレコード店で偶然に中村とうようさんに会い、カントリーのLPを探していると
「カントリーなんかが好きなの」とかなりバカにされた。カントリーは、レーガンやブッシュが愛好している音楽で、保守的な層のファンが多い音楽である。
ただ、アメリカのポピュラー音楽の中で、カントリーはアメリカのルーツ・ミュージックであり、後に私たちがワールド・ミュージックに行く入口だったとも思う。
日本では、戦後の1950年代にカントリー&ウエスタンは大変に流行し、それが後のロカビリーの大流行へとなった。
これは、日本に進駐した米軍兵の多くが、地方の人間が多く、カントリーを愛好していたためだそうだ。
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『バキュームカーはえらかった』 黄金機械化部隊の戦後史 村野まさよし(文芸春秋社)

2020年03月27日 | 都市
近年、昭和30年代の日本を回顧したような『Always 三丁目の夕日』のような作品を見るとき、私は非常な違和感を感じる。
当時は、高度成長以前で貧しかったが、人間的な家庭と社会があったとするものだが、みな嘘だ。
映画は、臭いが出ないから良いが、もし臭いが出たら映画の感動は、台なしになるだろうと思うからだ。
なぜなら、東京でも、水洗トイレはほとんどなく、すべて汲み取り式だったので、町中は糞尿の臭いが充満していたからだ。
昔、京浜急行日ノ出町の駅前に本屋があり、ここは古本も並べている店だったので、時々寄ったが、店に入ると凄い臭いで、
『ここのトイレはまだ汲み取り式だな」と思ったものだ。
そのくらい汲み取り便所の臭いは強烈だったのだ。
実は、私の母親は、高等小学校出の無学な女性だったが、新しもの好きで、1960年に父が死んだとき、その退職金で古い家を建て替えてトイレを水洗式にしてしまった。勿論、下水道はきていなかったので、浄化槽で汚水を浄化し、最後は普通の下水に流す仕組みだった。

さて、江戸時代から、都市の住民が出す糞尿は「金肥」といい、農家が肥料として買っていた。
それを田んぼの近くの肥溜めに貯めてくさらせ、米麦への肥料とするきわめて循環的なリサイクル・システムだった。
だが、1945年の日本の敗戦以後、進駐してきた米占領軍は、生野菜を食べるため、汚わいを野菜に掛けるのは衛生上駄目とのことで、糞尿を肥料とすることができなくなり化学肥料が普及する。また、糞尿を樽に詰めて荷馬車等で東京から農村に運搬するのも、非常に汚いものに見えたようだ。
その証拠に、米軍人の歌と演奏で、ビクターから『ハニー・バケット・スウイング』というレコードが出されているほどである。
私は、その復刻CDを持っている。
明治以後は、大都市から出る糞尿は、自治体もしくわ民間業者が個々の家庭から、有償で引き取り、農家に融資で売るようになる。
つまり、業者は、家庭と農家と両方から金を貰うきわめて上手い汁を吸えるものでもあったようだ。
この辺の仕組みは、地域、時代によって異なるが、一部は被差別の人間によって担われていたようで、火野葦平の『糞尿譚』では、その辺が示唆されている。母の実家の横浜市鶴見区矢向には、河野さんという横浜市会議員がいたが、この人は糞尿処理業でお金持ちで「うんこやさん」と呼んでいた。

                          

そして、米占領軍は、下水道はともかく、汚わい車が都市の道路を走るのだけは見っともないと思ったのだろう、「それを運搬する車を作れ」と国に命令し、川崎市が了解して車両を作る。
これが、バキューム・カーの始まりで、その創始者は、川崎市の初代清掃課長で、後に助役となる工藤庄八氏だった。
車両から、ポンプ、ゴムホース、さらに捨て場に至るまで、工藤課長以下の担当者は、苦労してバキューム・カーを整備すると同時に、汲み取り事業を市の直営とし、家庭からは料金を徴収しないものとし、これが全国に普及してゆく。
その後の、下水道の普及で、汲み取りは減少するが、今でも各都市にバキューム・カーはあるようだ。
それは、何らかの4事情で、下水に直接つなぐことができず浄化槽を経由している施設があり、そうした場では、数年に一度は浄化槽の底にたまった汚泥を処理しなければならないからだそうだ。
文章があまり上手くなくて読みにくいが、貴重な資料だと思う。


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不要不急とは

2020年03月27日 | 事件
コロナ騒動で、小池百合子都知事が偉そうに、週末の外出自粛を言い、「不要不急」の行為を慎めと言っている。



自慢じゃないが、定年退職後の年金生活の身にとって、不要不急以外の行為などほとんどなく、すべて不要不急の事柄である。
だが、冷静に考えてほしいのは、約1万年前に人類が農耕と牧畜生活を始めて以降の発展、進歩は、今日に至るまで、それは「不要不急の行為」の拡大・発展の結果だった。文化、芸術は本来不要不急の行為である。
公共サービスの他、医療、福祉、介護など日常生活の必須の事柄以外をすべて止めたら、大げさに言えば、それは数百万年前の石器時代の生活の戻ることである。
キリスト曰く、「人はパンのみにて生きるにあらず」
簡単に不要不急の外出をやめろと言ってほしくないと思う。

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『陸軍前橋飛行場」

2020年03月25日 | 映画
前橋に陸軍の飛行場があったとは知らなかったので、見に行く。

                 

1942年のミッドウエー戦の後、飛行兵の養成のために急遽前橋に飛行場が作られることになり、土地の収用が始まる。
全体の経過は、この地におられた住谷修氏の日記の記述により、学生、囚人、さらには朝鮮人など2,000人を動員してなんとか1年後にできる。
米軍は、大型重機でサイパン島で数週間で飛行場を整備していたのと大きな差である。
アメリカでは、T型フォードとニューデールの公共事業で、ドイツでもフォルクスワーゲンとアウトバーンで自動車の時代になっていたが、日本ではまだモッコと人力だったのだ。中学生が箱を背に負って土を入れて現場に運んだというのだからすごい。万里の長城の人海戦術である。
高橋和夫先生によれば、「アメリカの南北戦争以後、人口と経済力の高い方が、戦争では勝つ」そうで、ここでもそうだった。

1944年に飛行場はできるが、赤トンボ(練習機)が墜落したり、大型輸送機が転覆した等の事故が起きる。
要は、きちんと舗装されていなかったのだろう。
その頃、サイパン島に基地ができ、B29、あるいは洋上の艦載機からのグラマン攻撃を住民は受けるようになる。
そして、1945年の前橋の爆撃、言うまでもなく群馬には中島飛行機の大工場があったためで、米軍は爆弾と焼夷弾を8対2で混ぜて爆撃する。
その戦後の前橋の焼け跡の写真をアメリカの国立公文書館で発見したと福田康夫元首相が証言される。
福田氏は、公文書管理法を作られた方なのだ。
近年の自民党の首相で一番まともだと思われたが、なぜ辞めたのだろうか、非常に不思議。
そして、8月15日の玉音放送、証言された女性もなんだか分からなかったが泣いたそうだ。

結局、急遽作ったが、大して役には立たなかったようだが、それも戦争であり、「私たちの村も戦場だった」の副題のとおりだった。
コロナウイルス騒ぎ故か、横浜シネマリンは、ガラガラだった。
八幡さんも大変だなあと思う。




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移行職員

2020年03月24日 | 政治
先週、その手記を発表し、二年前に自殺された元近畿財務局の赤木氏は、「移行職員」だったそうだ。
移行職員とは、国鉄の分割民営化の際、国や地方公共団体、民間企業が受け入れた前国鉄職員のことである。
当時は、まだ日本全体に国鉄を辞めざるを得なくなった人たちを受け入れてあげようという心があったのだ。
小泉・竹中以後の日本社会にはなくなった「日本の心」である。

この時、私は横浜市港湾局にいたが、港営課の職員として、若い人が来てまじめにやっていた。
隣の係で、直接の関係はなかったが、非常にひたむきな性向の好青年だった。
その後、すぐに私は、横浜国際会議場会社、つまり私がネーミングを担当することになるパシフィコ横浜に異動したので、彼がどうなったかは知らないが、きちんと横浜市職員としての務めを果たしいただろうと推測する。

この時、国鉄から総務省に来て、安倍晋三君に気に入られた男に井上義行がいる。
北朝鮮問題を担当し、安倍晋三に気に入られ、無所属で小田原市等の選挙区から出る。
その後、みんなの党に移行したが、今も落選中のようだ。
人の動きは様々だが、赤木氏は、近畿財務局で「問題案件処理」を担当させられた果ての自殺らしい。
ある意味、外から来た者へのいじめのような感じもする。
実に、おぞましいというか、ひどいことだというしかない。

                       

こういうことに胸の痛まない安倍晋三や麻生太郎は、『破れ傘刀舟』の萬屋錦之助の台詞でいえば、
「てめえたちは人間じゃねえ!」となる。
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宮城まり子、死去

2020年03月23日 | 大衆芸能
女優の宮城まり子が亡くなられたそうだ、93歳。
私は、2007年9月30日に彼女が、阿佐ヶ谷ラピュタに出た時、つぎのように書いた。




『まり子自叙伝・花咲く星座』
おそらく今の50代以下の人は、女優の宮城まり子を見たことがないに違いない。だが、昭和20から30年代、彼女は、日本の映画、テレビ、舞台、歌謡曲で最も有名な女性の一人だった。レコードでは『毒消しゃいらんかねぇ』が最大のヒット曲だが、『ガード下の靴磨き』も有名である。
彼女の歌の特徴としては、音程が正確で大変パンチがありながら、一種独特の哀愁味があるところにある。その魅力、人を引き付ける力は、美空ひばりに匹敵するものがあった。ただ、ひばりと違うのは、宮城まり子にはクールな知的な味わいがあったことで、これは彼女の弟が作曲家で(映画では池部良の兄に変えられている)、音楽監督だったことによるのだろう。そして、言うまでもなく彼女の生涯の伴侶だったのは、作家吉行淳之介である。吉行は、勿論妻がありながら、宮城に会い「私の人生感のすべてが変わってしまった」と書いている。今日映画を見て、宮城が人を引き込む物凄い能力があることが分かった。

戦前、貧困の中で大阪で養女に出されたまり子は、女学校進学が叶わぬと、歌手になることを夢見る。父の坂本武は、事業に失敗するとまり子を中心に兄池部と旅回りの一座を作り、戦時下の九州を巡業する。 戸畑での公演中、一座の中心夫婦が逃げ、仕方なくまり子は、すべての演目を一人でこなし、観客の圧倒的声援を受ける。ここから、まり子の独演公演が大成功する。戦後、上京して、浅草、日劇、さらにはビクターの専属、ついには『極楽島物語』で東京宝塚劇場のミュージカルに主演する。その間に、近所の中学生久保明との淡い恋と戦後の失恋など、大分フィクションが挟まれているらしいが、宮城まり子の一代記を菊田一夫が大変ドラマチックに、そして上品にまとめている。元は菊田の作・演出でヒットした舞台劇である。 宮城まり子の芸質は、現在の女優で言えば吉田日出子に似ていると思う。本質的に一人芸であり、一種とぼけたスットンキョウなところが。現在で言えば、「天然ボケ」と言うのだろうが、本当に彼女は演技ではなく天性として嫌味なくぼけられるのである。

雨の中ラピュタには、監督松林宗恵氏と共に宮城まり子もきていた。少し太られたようだが、その童女のような容姿と話し方は全く変わらず。
終了後のトークでは、映画は舞台の合間の夜間撮影で、完成するとすぐに次の舞台だったので、映画は一度も見たことがなく、今日初めて見た、とは驚いた。そのくらい当時の大スターは忙しかったのである。彼女が、すべての芸能活動をやめ、障害児施設「ねむの木学園」に専心するようになったのは、弟が交通事故で亡くなったことが大きな理由で、当初は「姉弟学園(きょうだい学園)」と名付けたかったのだそうだ。

戦後の芸能に多大な足跡を残された女優のご冥福をお祈りする。
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『戦艦大和』から『関東義兄弟』へ

2020年03月22日 | 映画
『戦艦大和』から『関東義兄弟』へとは、なんだろうと思うだろうが、この2本は、望月利雄というプロデューサーが共通しているのだ。
『戦艦大和』は、1953年に新東宝で作られた作品で、戦争映画としては、戦後すぐの作品であり、大ヒットした。
私の父も蒲田に見に行って、かなり感動して興奮したらしく、その夜は最初に血圧が上がる症状を起こしたらしい。
父は、戦時中は都の視学として学童疎開計画をやっていたので、徴兵されていない。もっとも、すでに40を越えていたので、徴兵年齢を越えていたのだが。中には、中野重治のように43歳で、徴兵された人もいるのだが、これは左翼としての懲罰徴兵だろう。

さて、『戦艦大和』は、吉田満の原作に忠実で、2時間の内、前半の1時間は、艦内の兵士たちの心情を描いていて、非常に淡々としている。
まだ、この時期は、「大和は片道分の石油しか積んでいなかった」など、特攻攻撃の意味が強調されている。
主人公は、船橋元で、新東宝倒産後はテレビで活躍されていたが、糖尿病で早く死んでいる。
主要な役でご健在なのは、久我美子らの女性を除けば、高島忠夫も亡くなられたので、和田孝さんだけだろうか。
最後、船橋は言う「戦争を知るものは、戦争を二度とやらないようにする」
安倍晋三や橋下徹らに聞かせたい台詞だった。

                      


『関東義兄弟』は、1970年の日活だが、これが正月映画なのだからひどかったわけだ。
昭和初期とのタイトルが冒頭に出て、ある街で祭礼が行われているが、そこの新興ヤクザ富田仲次郎の高級外車が暴走して来て、子供を撥ねるが、逆に車の傷の賠償金を要求する。
子供の姉は梶芽衣子で、貧乏長屋に住んでいる。そこが富田によってスラム・クリヤランスされようとするのは、東映と同じである。
当時、日活の伊地知啓は、「会社から東映のやくざ映画を盗め」と言われていたそうだ。
その中で、作られたのが、この外部発注作品で、ニューセンチュリー映画となっている。
製作は望月で、監督は元新東宝の内川清一郎、役者は善玉ヤクザの親分は辰巳柳太郎、流れ者で辰巳らを助けるのは村田英雄、初めは富田の組の側にいるが、梶芽衣子に惚れたために善玉になってしまうのが里見浩太郎。
この時期、日活は、新国劇と提携していたので、辰巳の他、香川桂子、石橋正次らも出ている。
村田英雄は、苦虫を噛み潰したような表情がおかしいが、結構様になっている。
村田英雄、辰巳柳太郎、北島三郎、里見浩太郎と昔の日本の俳優は、顔が大きくて、足が短いなと思う。

この日活と新国劇の提携は、弱者連合で駄目になり、その後大映とも提携してダイニチ映配を作るが、これも駄目になる。
いずれにしても、企業が落ち目になるといろいろな人間がやってくるという実例だろう。
このほかにも、この時期、いろんな会社が日活に出入りしていたのは、末期の新東宝と同じである。
北島三郎も、辰巳の組の若手として出てくるが、北島には東映で『兄弟仁義』シリーズがあるので、ここではホンの少しの出演。
日本映画専門チャンネル
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『肉体の密輸』

2020年03月20日 | 映画
1956年の日活映画、監督は阿部豊で、舞台は横浜港。河野秋武は、通船を一人でやっていて、そこに北海道にいた娘の渡辺美佐子がやってくる。
つなぎのGパン姿で、カッコ良い。



そこに水島道太郎の風来坊が現れて、河野の船を手伝う。
通船は、当時はまだコンテナ化以前の沖荷役もあったので、労働者を船に運ぶ手段として必須だったが、さらに通船には、三崎千恵子の店にいる女たちを運ぶ仕事もある。
それは、通常でも売春だが、三崎はさらに女たちを外国に売ることも考えていれ、港のヤクザの二本柳寛らと組んでいる。
最後は、当然のごとく水島は、保安庁職員で、河野の家に豆腐を売りに来る柳瀬志郎らも、保安庁の職員で、二本柳らが逮捕されて終わる。
さらに、渡辺も北海道では貧困ゆえに体を売っていたことも明かされる。
戦後の阿部豊にはろくな作品がないいのだが、これはましな方だと思う。
三崎が、悪役なのは珍しいが、「水戸黄門様」の佐野浅夫も、二本柳の手下のギャング。
衛星劇場
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『歳月』

2020年03月19日 | 演劇
文学座アトリエ公演、作は文学座の創設者の一人である岸田𡈁士で、演出は西本由香。
話は、1910年春、東京の浜野家で始まる。当主の浜野桂蔵氏は、県知事である。



県知事とは、戦後の地方自治制度の選挙によるものとは異なり、天皇による「勅任官」で、大変に偉い人で、ここではそれは少し不足していた。
長男・圭一と次男・伸二が議論しているが、妹八州子が海辺で自殺未遂をはかったという。
原因は、高校生と付き合って妊娠したためだという。
この構図は、新派の名作で、映画化も3回された、室生犀星原作の『兄いもうと』と同様で、これは日本の近代化の中で、男女の関係が自由になるが、その結果として女性の悲劇が起こるものである。世界的にみれば、ロシアのトルストイの『復活』のカチューシャとネフリュードフである。
ここでは、前世代の人間で、「修養、修養」を口癖としている父親の世代と、そんなことを馬鹿にしている子供たちの世代の差が見えている。

2幕は、7年後の昭和2年、3幕は、10年後の1936年と大正から昭和に至る家庭と時代が描かれていく。
岸田が発表したのは、1943年で、これは彼が日本文学報国会の役員になっていた時期なので、非常に興味深い。
この歳月の経過の中で、父親は死に、八州子が生んだ娘のみどりは、女学生になっている。
伸二は、八州子の友人だった礼子と結婚している。
この間に、八州子の相手だった斉木は、二度浜野家にて、八州子は斉木と結婚するが、破たんして最後は離婚に至る。
かなりバカバカしいメロドラマとも思えるが、ここで岸田は、斉木を許す八州子を肯定している。
これは、人間の愚かしさを肯定し、それを描くことが文学だと言っているように思える。
戦時中の岸田が、文学報国会事務局長になったのは、もともとはフランス文学派だった彼としては、周囲から意外に思われ、今も不思議である。
戦後は、それを戦争への加担として責任を追及されたが、彼は明確には説明しないうちに、死んでしまう。
私は、彼の娘岸田今日子のニヒリズムの演技は、こうした父親とそれへの批判等から来ていると思うが、どうだろうか。
時代を描くものの一つとして、同場面で、トイレ、ご不浄、お便所の台詞が出てくるのはさすがと思われた。

もう1本の日露戦争時の悲劇を描く『動員挿話』は、実は戦後の作品であり、これは考えれば岸田の戦争協力への言い訳のようにも思える。
今回の演出の所奏は、前衛ジャズを使っているが、あまり上手くいっていないように見えた。
文学座アトリエ

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『スマフォを落としただけなのに』

2020年03月18日 | 映画
ひどいだろうと思ってい見たが、その期待どおりだった。
昔、東陽一監督、田中裕子主演の映画に『ザ・レイプ』というのがあり、新宿で見ていた。
すると場内の女性客が、「なんでこの女、こんなにいい家に住んでいるの!」と言い合い、その通りと思った。
なにしろ真空管アンプのオーディオがあるのだからすごかった。
この映画でも、スマフォを落とした主人公田中圭の部屋は、豪華ではないが、オシャレでよいものが並んでいる。
相手の北川景子の部屋は、それほどでもないが結構趣味のよいものがそろっている。



話は、タクシーの中にスマフォを置き忘れた主人公が、ネットオタクの犯人によって恋人ともども、様々にネットでのいたずらに会うと言うもので、ネット犯罪防止映画の意味しかない。
最後は、母に苛められたことで心に障害を受け、狂気に至った男の犯罪である。
母による苛めは、ギリシャ時代からあり、『王女メディア』がそうであり、人間はギリシャ時代から変わっていないのだ。
この愚作の唯一のリアリティは、主人公の北川景子が、昔ルームメイトで自殺した女性の顔に整形手術して成り代わったと言うところだった。
近年の女優には整形美人が多いが、北川はその典型だと思われ、ここは作者たちの皮肉かと思った。
監督は中田秀夫だが、あまり怖くない。
日本映画専門チャンネル
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3月中旬は・・・

2020年03月18日 | その他
先週から急に寒い日が続いたが、3月中旬は寒い日があるのだが、私の父親の指田貞吉も、3月15日に亡くなった。1960年である。
カレンダーで見ると火曜日で、私は小学校6年生で、通常の授業は終わっていたが、クラスの卒業記念文集を作るため午後も残ってガリ切をしていた。
2時過ぎくらいだったと思うが、家から電話がかかっていると言うので、事務室に行くと一番下の姉からで、
「お父さんが倒れたので、すぐ帰って来て」とのことだった。
その時は、「またか・・・」としか思わなかったのは、2年前の夏にも脳梗塞で倒れたが、言語に障害は残ったが無事回復し、小学校校校長として職場に復帰していたからだ。




三女の姉と大森の日赤病院に行くと、父はベッドに高いびきで寝ていて、その夜亡くなったのだ、昭和天皇と同じ1901年生まれなので、58歳だった。
その日の天気は昼間は曇りだったが、夜は雷鳴があったそうで、低気圧が通過したのだと思う。
低気圧が通過するので、気圧が下がり、高血圧の者は、脳内の血圧が上がり、脳梗塞等になるとのことだ。
だが、父が倒れたのは、気圧ではない。
その日は、大田区入新井第二小学校では、午後にPTAの会合があり、そこに行く途中の階段の踊場で俯せで倒れたいたのだそうで、たぶん階段を昇っている最中に梗塞が起こり、踊場に倒れたのだと思う。
父は、私とは異なり、運動も上手で、その点は兄の方がよく似ている。
父のことを書くと長くなるので、それはまた書く。


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『青春の門』 1981年 東映版

2020年03月17日 | 映画
五木寛之は嫌いなので、見ていなかったが、蒲田のビデオ屋にあったので、買ってくる。
東宝の浦山桐郎監督のは見たが感心しなかった。



これは、東映京都で作られたもので、監督は蔵原惟繕と深作欣二の日大芸術学部コンビ。
アクション・シーンは深作で、他の恋愛的なところは蔵原なのだろう。
主人公の伊吹信介は、佐藤浩市だが、むしろその父の菅原文太と母タエの松坂慶子、さらに菅原の死の後、松坂と恋愛関係になる、朝鮮人工夫のリーダーの渡瀬恒彦、さらにヤクザの若山富三郎との件が中心で、ここの方が見ごたえがある。

東宝版では、タエは吉永小百合だったが、この役は松坂の方が適役である。
松坂慶子は、美人だが、どこか泥臭いので、筑豊の女にはぴったりだが、吉永小百合に下層労働者は不適だった。
佐藤の幼馴染の織江は、杉田かおるで、これは東宝の大竹しのぶの方が上。
製作事情で短期間で作られたらしいが、その割には見られる作品になっている。
コメント
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