古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

物部連麻呂はなぜ藤原京に残ったのでしょうか

2008年07月01日 15時29分48秒 | Weblog
物部について調べようとしたのですが、よくわかりませんので、空想でお茶を濁します。

崇峻5年(592)蘇我馬子にそそのかされて崇峻天皇を殺し、後に蘇我馬子に殺された東漢直駒(やまとのあやのあたひこま)は物部氏と関係があるはずだと、前々回に書きました。
また雄略13年(469)に御井隈の文石小麻呂(あやしのをまろ)を殺したのは春日小野臣大樹(かすがのをののおみおほき)という人物でした。(解説によると「他に見えず」)
履中前紀・刺領巾(さしひれ)もそそのかされて主君を殺し、後で殺されます。
邇芸速日命は那賀須泥毘古を殺します。
(そうそう、大友皇子は物部連麻呂に殺されたとは書かれていませんが、いかにも殺された風に読めます)

これらの、邇芸速日命、春日小野臣大樹、刺領巾(曾婆訶理)、東漢直駒はすべて物部氏が関連していると考えました。
基本的に、これらの人物は、藤原不比等にそそのかされて文武天皇を殺した物部連麻呂を表現していると考えました。

そう考えると、妄想と思われるでしょうが、587年用明崩御時の蘇我馬子と物部守屋の戦いも、不比等と連麻呂の事件がさかのぼらされたものではないかと、疑えるのです。

『魏志倭人伝』と同じように、そのときの現代史がもっと過去の歴史にぶち込まれてしまっている可能性があります。
時の流れは、逆になります。

大きく見てそうなるというだけでなく、モデルとなった事件から考えると、592年の崇峻殺しが先で587年の馬子と守屋の争いが後になります。
《592+114=706》が文武天皇殺害で、《587+120=707》が元明即位及び不比等、連麻呂の争いということになります。元明即位は不比等、連麻呂の争いの後かもしれません。
邇芸速日命、春日小野臣大樹は殺されているとは書かれてありませんが、刺領巾(曾婆訶理)、東漢直駒は殺されています。

確かに、物部連麻呂は殺されたとは書かれていません。
平城京に遷都の時に、連麻呂は留守役として藤原京に残ったとされています。
そして、今までは、留守役として残ったということを事実と考えてきました。
ですから、きっと不比等は連麻呂をうまいこといい含めたんだろうな、と考えました。
また元明天皇も連麻呂と新都に行くのはいやがったので、不比等は連麻呂を説得しなければならなかったのだろうと、推測していました。
また、連麻呂としても藤原京に残っている方がきっとメリットがあったに違いない、と思い込んでいました。

ですが、連麻呂は平城京遷都の前に殺されていたという場合もありえたのです。
それならば、平城京には行けなくて当然です。
第一、武力の物部といわれているのに、新都の防衛に関与しないというのはおかしいはずです。
連麻呂が旧都に残るといったとしても、あなたがいないとだめだから一緒に行こうと説得するのが普通です。
留守役も必要でしょう。しかし連麻呂の役目とするのは不自然です。そして、連麻呂が旧都の留守役という役目に納得するのも不可解です。

物部連麻呂は殺された可能性があります。
(ただし、もちろん、717年まで生きていたことになっています。たぶん、ずっと藤原京にいたことになっているのでしょう。やっぱり、変だなぁ。)
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