古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

卑弥呼・卑弥弓呼と貝蛸と蘇我氏の名前の関連

2014年08月31日 15時00分41秒 | Weblog
何日か前、都塚古墳はピラミッド型古墳だった、というニュースがありました。
(都塚古墳は蘇我稲目の墓ではないか、といわれているようです)
しかし、ピラミッド型いえば頭塔を思い起こします。
玄の墓ともいわれ古墳といえなくもないと思えますが、どうなんでしょうか。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ae8b70146a7e2cd102623b0397c9917e
頭塔(ずとう)をご存知でしょうか 2010年08月26日

頭塔を以前検討したときに、高句麗の古墳に似ていることを知りました。
また、検索してみますと、行基の造った土塔はピラミッド型でした。
これはずいぶんと洗練された形に見えます。

例によって位置関係をみましたが、とりたててどうこういえそうにありません。

で、いただいたコメントもあり、もう一度蘇我氏について考えていました。
新たに考えたことがあります。
蘇我氏は創られた氏族ですが、まったくの架空というわけでもないと考えます。
これも、やはり「魏志倭人伝」の間違いによるものです。

「魏志倭人伝」では卑弥呼と卑弥弓呼は敵同士となっています。
女王国の女王が卑弥呼であり、たいして狗奴国の男王が卑弥弓呼とされているからです。
何度もしつこく言っていますが、卑弥呼と卑弥弓呼は姉・弟のはずであり、奴国の男王が卑弥弓呼で、何かという場合は卑弥呼に助言を求める立場です。
卑弥呼は女王ではありませんでした。(と、私は考えています)
卑弥呼と卑弥弓呼は味方でありながら「魏志倭人伝」では敵対するものとされています。
この卑弥弓呼の立場、「魏志倭人伝」の間違いが蘇我氏を創りだしたものと考えているわけです。

蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿
なぜこれらがつけられたかというと、卑弥呼、卑弥弓呼の『卑』からきたものと考えています。

蘇我氏は天皇家そのものでありながら、天皇家の敵にされています。
しつこくて恐縮ですが、
初め、天武系と蘇我氏の生年・崩年は関連付けられています。
(のちに天智系との関連も付けられるようにされた)

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/910c6d4cf1f0090147ebda5bad5a9b65
蘇我入鹿=高市皇子(天皇)の場合 2010年02月22日

そこで、蘇我氏につけられた名前です。
稲目・馬子・蝦夷・入鹿などは「卑字」だと思えます。
「卑字」とはいえないという説もありますし、「イルカ」を海の象徴と考えたりもすると、「稲」も重要な陸での産業となりますし、「馬」も貴重ですし、「蝦夷」も東北を指すという風に考えると、一概に「卑字」とはいえないかもしれません。
ですが、人間ではありません。蝦夷にしたって人間であるとは思われなかったのでしょう。
なぜ、このような文字を使用したのか、が問題です。
これもやはり「魏志倭人伝」のせいでしょう。
「魏志倭人伝」が間違ったわけではありませんが(間違っているともいえますが)
卑弥呼・卑弥弓呼の「卑・ヒ」に「卑」という文字を使ったために、おそらく「ヒミコ」の「ヒ」は「日」とか「陽」の意味で、どちらかというと良い言葉のはずが、「魏志倭人伝」では「卑」という悪い意味の字を使いました。
(皮肉なことに卑弥呼の復活を「魏志倭人伝」は預言してしまったために「魏志倭人伝」の間違い通りに書かなければなりません。)
卑弥弓呼という表記のために、創られた蘇我氏の面々の名前は蔑称になった、と考える次第です。

ふと気が付きましたが、それならば卑弥呼の「卑」からすると、女性の方にも貴人で蔑称をつけられた方がいなくてはなりません。
これが今回の付けたしです。
おあつらえの人がいました。
‘菟道貝鮹皇女’(うぢのかいたこのひめみこ)です。

敏達妃の広姫の子に菟道磯津貝皇女(うぢのしつかひのひめみこ)がいますが、
やはり、額田部皇女(推古天皇、豊御食炊屋姫)の子に‘菟道貝鮹皇女’(うぢのかいたこのひめみこ)がいて、別名が菟道磯津貝皇女となっています。

磯津貝はまだしも貝鮹はひどすぎると思えましたが、どちらも貝ですからそれほど変わりはないかもしれません。
また貝鮹は美しい殻をもっていることはみています。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/576b51ee933e168b217a3d6db270abf8
「貝鮹」を知りませんでした  2006年09月25日

卑弥呼の「卑」はこの‘菟道貝鮹皇女’(うぢのかいたこのひめみこ)の「貝蛸」に表現されている可能性があります。
卑弥呼は少なくとも二人います。ですから、
菟道貝鮹皇女・菟道磯津貝皇女には卑弥呼が投影されているはずです。

敏達天皇には初めは天武天皇が投影されていると考えていましたが、もともとは高市天皇が投影されているはずです。
(天智天皇は存在せず。欽明→敏達は天智→天武ではなく、天武→高市が投影されている)

ただし、この場合の敏達天皇は天武天皇と考えます。
敏達天皇の菟道磯津貝皇女、菟道貝鮹皇女(菟道磯津貝皇女)
天武天皇は太田皇女、鸕野讃良皇女(うののさらら・持統天皇)の妃をもちますが

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/f19faafa9c43d23a5d47bbf9859ae9dd
敏達・天武天皇の妃について  2006年09月22日
敏達天皇を天武天皇のコピーと考えた場合、大田皇女は皇后になっていないのになぜ、広姫は皇后となっているのかは不思議です。
 両者は繰り返しであるはずなのに、変化しています。繰り返しでも正反対に変化している時もありますから、問題はないはずなのですが、ここは引っ掛かります。

ここは、やはり、太田皇女は皇后というべき立場であったと考えますし、大津皇子が天武の皇太子という立場であったものの高市皇子のクーデターがあったのです。
例の斎宮の大伯皇女が菟道磯津貝皇女に対応します。
すると、菟道貝鮹皇女が誰になるかというと、(草壁ではなく高市の皇后の)阿閇皇女(元明)になるか、というと一概にそうはいえません。
元明(阿閇皇女)と子の元正(氷高皇女)の境目があやふやになり、世代のズレがあり、菟道貝鮹皇女は元明(阿閇皇女)でもありますが、氷高皇女のほうが合致しそうな気もします。(若紫・紫の上は氷高でしょう) 

ということで、卑弥呼の「卑」は「貝鮹」→「氷高皇女」に表れ、またこの「氷高」の「氷」は「日」に通じているはずです。

ややこしくて、混乱していますから、これからも修正はあるでしょう。

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以前やっているところ.
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fec65c7e7ac8371b097fcbf008fc8d10
蘇我氏の名前についての思いつき・・追加 2013年10月06日

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/f76e65c66adf600a1265843742047bfc
蘇我氏について 2005年04月11日


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