古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

蘇我氏について

2005年04月11日 14時20分40秒 | Weblog
 まだ考えがまとまっていないので、メモというか雑文にしかなりませんが、自分流で行きます。
蘇我という名前を、蘇る我(よみがえるわれ)と解けば卑弥呼トヨが「魏志倭人伝」に託した言葉になります。「魏志倭人伝」は卑弥呼復活の預言書だったからです。ならば、蘇我氏は天孫そのものの系列でなければおかしいのです。
(といっても、関裕二氏の「聖徳太子は蘇我入鹿である」という著作や、どなたかの「蘇我氏は天皇家である」という題名の本があるので、私も調子に乗っていうことができるのです)
また、四十数年前の中学時代から蘇我氏の三人の名前を疑問に思っていました。
蘇我馬子、蝦夷、入鹿。
馬だ、鹿だと動物にしたうえ、合わせれば‘馬鹿’になります。蝦夷は東北や北海道を野蛮・未開と蔑んだ言葉でしょう。これはなんといおうと、蔑称としか考えられません。
(馬鹿という言葉が当時あったかどうかは問題となります。鹿を指して馬だという話が、秦の始皇帝の時代にあるようです。馬鹿の意味は今とちょっと違っているようです。
あれ、馬鹿を調べながら、また突拍子もない考えが浮かびました。これは馬と鹿を一緒にした、という中国の話でした。すると、蘇我馬子と入鹿は同一人物だった、ということを示すために馬と鹿という言葉を使ったのかもしれない・・?)

中学時代でさえ、こんな名前は自分たちでつけるわけがないと考えていました。ですから、蘇我氏を憎んで、滅ぼした人たち、中大兄皇子や中臣鎌足たちが蘇我氏を更におとしめるためにつけた名前に違いないと考えていました。
 ところが、現在では、この考え方は間違っていたことに気付きました。
なぜなら、日本人は滅ぼした一族に、こんな蔑んだネーミングをするわけがなかったのです。日本人は死者に鞭打ちません。祟られるのがいやだということもありましょう。日本人ならもっといい名前をつけるはずです。
他国はともかく日本なら、他人が、はっきり言えば、時の権力者が、国史に載せるとは考えられません。陰口ですら慎んだかもしれません。
ということは、蘇我氏自らが、馬子、蝦夷、入鹿とつけたことになるしかありません。
なぜか。
やはり、万世一系にするためではないでしょうか。蘇我氏が実は天皇家と直結していたために、それを隠して前王朝と後王朝をつなげなければならないので、自らの身を捨てたのかもしれません。
(三経義疏にある話からの類推です。火の手の上がっている屋敷から外に、火事に気がついていない子どもたちを連れ出すために、いい物をあげるからという嘘をついたという話です。嘘も方便という話なのでしょうが、私には‘火’が気になります。
推測したもう一つの理由は、法隆寺玉虫厨子に描かれた捨身飼虎図の犠牲の精神です。)
イルカで気になる話が、古事記の応神天皇のところに載っています。
古事記は推古天皇で終わっていますが、「魏志倭人伝」の間違いのように、故意にそれ以後の事件も描いています。そのために『神武東征』には、時代のかけ離れた壬申の乱も描かれています。ところが大化の改新(乙巳の変)が見当たらないのです。‘壬申の乱’よりも前の‘大化の改新’の話も古事記に載っていなければおかしいのです。
そこで気になったのが、応神天皇記の入鹿魚の話です。神が入鹿魚を贈り物としてくれるという話です。
古事記は712年、日本書紀は720年の完成していることになっているのですから、古事記は当然蘇我入鹿を知っているはずです。それなのに、海のイルカの話を載せるでしょうか。
       結論は出ないでしょうが、続く。

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