古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

文武天皇陵は物部連麻呂の墓?

2011年04月19日 11時24分03秒 | Weblog
文武天皇陵と天智天皇陵は南北の位置にあります。
文武天皇陵と伊弉諾神宮と伊勢神宮・内宮は東西の関係にあります。
そして、この四点は直角三角形をつくります。
文武天皇陵は伊弉諾神宮-伊勢神宮・内宮のほぼ真ん中です。
〈87kmと84kmですから、伊弉諾神宮がもう少し東にあればいいのですが、残念ながらそうはなっていません。たぶん、その他の地点との兼ね合いで致し方なかったのでしょう。グーグルマップでみると伊弉諾神宮の東側約3kmの地点に伊勢神社がありました。しかし、検索してみても分かりませんでした。〉












文武天皇陵と天智天皇陵の線は、藤原京の中心を通っています。
耳成山・藤原宮跡を通ります。
(天武・持統陵をちょっとずれます。大山守命墓・平等院鳳凰堂も少しずれています。海龍王寺(不比等関連)も、そうです。ずれているといったらずれているようですし、位置の取り方によっては、通っているのではないかという微妙な位置ですけれど・。)

天智天皇陵-文武天皇陵-伊弉諾神宮
文武天皇陵→天智天皇陵
 ①359.972度  ②179.972度 ③59.64134km
 Ⅰ359°57′49.11″  Ⅱ179°57′48.26″ Ⅲ59,543.784(m)
伊弉諾神宮→天智天皇陵
 ①55.3090度  ②235.852度 ③105.6758km
 Ⅰ55°25′54.66″  Ⅱ235°58′32.08″ Ⅲ105,808.406(m)
文武天皇陵→伊弉諾神宮
 ①270.229度 ②89.6894度 ③87.48202km
 Ⅰ270°13′09.21″  Ⅱ89°40′44.22″ Ⅲ87,731.325(m)

文武天皇陵での角度
 359.972-270.229=89.743度
 359°57′49.11″-270°13′09.21″=89°44′39.90″≒89.7444度
伊弉諾神宮での角度
 89.6894-55.3090=34.3804度
 89°40′44.22″-55°25′54.66″=34°14′49.56″≒34.2471度
天智天皇陵での角度
 235.852-179.972=55.88度
 235°58′32.08″-179°57′48.26″=56°0′43.82″≒56.0122度

伊勢神宮・内宮-文武天皇陵-天智天皇陵
文武天皇陵→天智天皇陵
 ①359.972度  ②179.972度 ③59.64134km
 Ⅰ359°57′49.11″  Ⅱ179°57′48.26″ Ⅲ59,543.784(m)
文武天皇陵→伊勢神宮・内宮
 ①90.1813度  ②270.701度 ③84.178km
 Ⅰ90°10′11.08″  Ⅱ270°41′22.17″ Ⅲ84,407.993(m)
天智天皇陵→伊勢神宮・内宮
 ①125.428度  ②305.952度 ③103.3386km
 Ⅰ125°17′57.19″  Ⅱ305°49′21.90″ Ⅲ103,470.394(m)

文武天皇陵での角度
 360-359.972+90.1813=90.2093度
 360-359°57′49.11″+90°10′11.08″=90°12′21.97″≒90.2061度
天智天皇陵での角度
 179.972-125.428=54.544度
 179°57′48.26″-125°17′57.19″=54°39′51.07″≒54.6642度
伊勢神宮・内宮での角度
 305.952-270.701=35.251度
 305°49′21.90″-270°41′22.17″=35°07′59.73″≒35.1333度

辺の比が5:4:3の直角三角形に近いですが、ちょっと違っています。
36.87度、53.13度、90度の角度のときに辺の比が5:4:3になります。

文武天皇陵の位置が重要なことは確認できました。
この文武天皇陵の被葬者を物部連麻呂ではないかとするのが、今度の思い付きです。
そんなわけはない、おかしい、変だとどなたも考えるでしょう。
なぜなら、この陵の位置は王権についていたものにふさわしい位置だからです。
物部氏が王位に就いたことがあるわけはないとお思いでしょう。
しかし、記述されているのです。
『神武東征』の折、邇芸速日命(物部氏の祖先とされています)は長髄彦を殺害し、大和での王権を神武天皇に譲り、恭順したとされています。
また、邇芸速日命も何人かいる天孫の一人とされていました。
時代も話の構造も改変されて、他の時代とも混同されていますが、邇芸速日命の恭順は、この図が表わされている時代の話なのです。
平城京遷都のとき、物部連麻呂が藤原京に留守居役として残ったという話も、素直には信じないわけです。
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