明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



沖縄で陶芸をやっている学校時代の同級生と連絡がとれなくなり、沖縄の陶芸家に嫁いだSさんに電話してみた。聞くと3年前に電話したとき、脳梗塞でアーとかウーとしか喋れなかったと聞いた。脳梗塞は二度目であろう。 そのMさんは私が18で、彼が26の時に同級生となった。トラックの運転手で金を貯めてきて、将来沖縄に帰って陶芸家になる、といっていた。あちらからみれば私などまるで子供だったろう。父親が酒癖が悪く、暴れだすと母親やたくさんの弟達を連れて山に逃げたといっていた。その父親が亡くなった時。バンザイして叱られたそうである。私達に気前よく奢るものだから、卒業の頃は母親にお金を借りていた。 こんな人と出会うと私など、社会に出たら生きていけないのではないか、ここで我慢を覚えよう、と卒業後製陶工場に就職したのであった。 その数年後、私がベランダに下がっている物干しを1つ140円で溶接していた時遊びに来て、中東の石油プラントの溶接工として一諸に行かないか、と誘われた。行けばサムライになれるといわれたそうである。別にサムライになりたいと思わなかったので断った。おかげで沖縄に立派な工房を建てたMさんだったが、電話は通じなくなっており、死んだのではないか、と心配していた。しかし喋れないなら電話を廃止していてもおかしくはない。よって安否は判らずじまいであった。 最後に短大出で巨乳だったSさん「石塚君も随分大人になったわねぇ。」そりゃ40年も経てば、さすがの私も多少は大人になったろう。

HP
                          

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