明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

深川  


私が深川に越して来て30年は経つ。以前も書いたがある晩、泉鏡花の『葛飾酢砂子』を読んでいたら、門前仲町から船が我が家に向かってくるので興奮。現在の平久橋のたもとの石碑がでてきた。「おお、気味悪い。」と舷(ふなばた)を左へ坐りかわった縞の羽織は大いに悄気(しょげ)る。「とっさん、何だろう。」「これかね、寛政子年の津浪に死骸の固っていた処だ。」』夜中に懐中電灯をたずさえ碑を見に行った。若干位置が変わったようだが、鏡花が船から見上げたことは間違いがなく、その碑には『長さ二百八十間余の所、家居(いえい)取払い空地となし置くものなり。』と刻まれていたが、現在は判読不能。津波被害にあった村が昔の碑に書いてあることを信じ、助かったという話があったが、こちらはすっかり無視され現在は人家だらけで海岸線ははるかかなたである。作中の人物は、海岸の波打ち際であったろう河本の前を通り洲崎遊郭に向かう。 最新刊『あやかしの深川』(東雅夫編 猿江商會)には三遊亭圓朝の『怪談阿三の森』が納められている。“お噺はチト当今の御時世に向の遠い怪談でございますが”で始まり、いきなりご近所の町名連発で、また現場に行ってしまいそうなので本日は読むのを我慢。

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江戸東京博の『大妖怪展』は家から歩いていけなくもないし、しかしガキどもが押し寄せ、ガキ向けの展示が多ければ行く気が起きない。今日行った知人は10人並んで入ったら空いていたという。『伊藤晴雨の幽霊画展』があるというので、その時でもよいだろう。 今の段階で、見ることができる三遊亭圓朝のポートレイトによりおおよそは掴めて来たが、もう一押し欲しいところ。何かに掲載されていてもコピーを重ねたコントラストが高い微妙な写真ばかりである。なければないで、本当になければ1カットでも構わないのだが、違うニュアンスを伝える像がどこかにあるとしたら困る。探してみると、ヤフオクのブックオフのストアに『三遊亭圓朝全集』(別巻)図録・資料集 角川書店(1976)があった。詳細は不明だが、何かありそうである。以前入手した『柳田國男写真集』と同様、著作はともかく、姿形を必要とする人は少ない。あっさりと落札 。

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今年は久しぶりに全生庵の『圓朝忌』に出かけ、圓朝が集めた幽霊画のコレクションを観てこようと思っている。一度観たことはあるが、ただ観るのと圓朝を作りながら観るのとでは当然違ってくる。眼鏡をかけてから眼鏡をかけた人物を作るようになったし、谷崎だか鏡花を作る前には、浅草まで行って着物を買ってきてしばらく家の中で着ていた。“その気”になるためには、できることはやっておきたい。 鏡花にしても圓朝にしても、夜の雰囲気での撮影が主となろう。よって必要となる照明器具は完全ではないがおおよそ揃った。『貝の穴に河童の居る事』では夜の室内シーンではそこまでできなかったが、今回背景として選んだ場所は、照明を落として暗くできる。さすがに蝋燭を使ったり、菜種油で行燈というわけにはいかないので、手持ちの、電球用に改造された行燈を持ち込むつもりである。当時のリアルな明るさにするかどうかは、撮影後に決めよう。 “人間は頭に思いついた物を作るようにできている”というようなことを某脳科学者がいっていたが、その厄介な仕組みのおかげで、日々ああだこうだ、とジタバタさせられている訳である。

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泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』は、舞台現場に行ってみたら、あまりにそのままで驚いたが、圓朝も取材旅行にでかけたようで、若き鏑木清方はこの旅に同行するほど仲が良かった。であるから写真では伝わらない部分まで、その姿を伝えているのであろう。私としては乏しい写真情報以外に人となりをつかむには、伝記、当時の実見記の類を読むしかない。これもしつこく続けていると、だんだんイメージが蓄積されてきて、やがて“見てきたような嘘”をいえるようになる。 昼頃、窓を開けようとした時、ひょいと圓朝がこちらを見ている画が浮かんだ。眠い目をこすり、1ページ読むたび5回もコックリやっていると『ちょっと見せてやるよ』と向こうから寄ってきてくれる。この場合、もうちょっとアップでも良いんじゃないか?などと思ったとしても動かないし動かせない。ここはいつも不満なのだが、結局色々やってみても最初のイメージを超えることはないのである。 こちらを見ている圓朝の周囲にヒトダマが漂っていたのだが、これが描かれた物のように見えた。おそらく怪談映画のヒトダマを観て、明らかに固形物に火を着けているのが気に入らない、と思ったせいであろう。後から中心の固形部分を消すつもりでいたのだが、描くことも選択肢に加えることにした。手塚治虫を作った時、手塚漫画のジェット噴射はロウソクの火みたいなので、実際ロウソクでやってみたら明らかに推力不足で、後からパワーをくわえた。何事もやってみないと判らない。 

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本日も図書館。それにしても眠い。寝不足である。明け方まで作って寝るが、母のガサゴソで目が覚めてしまう。おかげで夜になり、T千穂で資料を読みながら飲んでいても寝てしまう。これで帰ってそのまま寝ればいいのだが、モニターを前にすると目が冴えてしまい、結局明け方まで。これの繰り返しである。モニターを見続けても目が疲れないのもいけない。特に昨晩は『三游亭圓朝』を作りながら『快楽亭ブラック』をユーチューブで聴いてしまうという不覚。 最近考えている一連の“和物”の撮影のため、午後、某所に撮影許可をもらいに行くが、あっさりと許可。駄目なら他を探さなければ、と思い、早めに手を打ったのだが。となると、先に個展の会場を決めておいたほうが良いかもしれない。例によって単なる背景である。後に髑髏をかき抱いたり、蛇がからまった女体が展開する可能性については一切触れず。 サンフランシスコ在住の妹から、知り合いの占い師から何時何分に生まれたか聞かれたので、知りたいとのメール。妹とは3つ違いだが、生まれた時の記憶がある。割烹着を着た隣家の小母さんに背負われ産院に行くと、入口に柳の木。廊下の右側に木の名札がかかっていた。ただ妹が新聞紙の上に転がっていた、と思い込んでいたのだが、母にいったら本当だといわれた。

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鏑木清方描く圓朝の高座は燭台があるが、当時の暗さ、向かって右側だけに置かれる意味のなさから左右に一対だと思っていたが、江戸〜明治の寄席の様子を調べるとやはり必ず一対である。本の表紙に右側に一本のイラストがあったが、清方の画を真に受けた結果であろう。 緋毛氈に湯飲みや扇子、手ぬぐいのように見える物など、他は特に変わったことはないか、と調べていたら、チョンマゲ姿の圓朝の向かって左に火鉢におそらく鉄瓶が置かれている画があった。そう思うと、昔の寄席にはそれが置かれている画がけっこうあった。火鉢といっても小型の手あぶりサイズのようにも見える。以前手あぶりを愛用し、鉄瓶で湯を湧かしていたことがあるが、手あぶりは煮炊きするには少々骨で、いつでもお茶が飲めるように置いておくには便利であった。 制作中の三遊亭園朝は、金屏風に緋毛氈、一対の燭台。もしかすると火鉢に鉄瓶。こんな感じになりそうである。おまけにヒトダマか牡丹灯籠がユラユラなど良いかもしれない。ヒトダマに関していえば映画その他のヒトダマは、固形物に火が着いている感じがまったく気に入らない。

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幼い頃から怪だ奇だ妖だとかの文字には敏感な猟奇少年であった私は、そんなTVの映画、ドラマ、番組は逃さず観ていた。たとえば私が鏡花に接した最初は『白夜の妖女』(1957日活)である。これは『高野聖』が原作で、小学生から中学生にかけて、TVで2回観た。未だに記憶に残っているが、その後鏡花本人を作ったわけで、『高野聖』は妖女さえ調達できればすぐにでも描いてみたい作品である。 小学生の頃封切られた『怪談』や『四谷怪談』は恐さゆえか成人指定で、これは観たくて観たくて誰か連れて行ってくれないかと切望したものである。怪談映画といえば、夏休みに父の田舎から親戚の子が遊びに来た。私が小学5年。Hちゃんは中学生になっていたろうか。父が近所の映画館に連れて行ってくれるというので、私が選んだのがタイトルに妖しい香りが漂う『薮の中の黒猫』(1968東宝)であった。今では考えられないが満員で立ち見。父が想定外だったろうことは、強姦シーンやラブシーンが多く、おそらくデビュー間もない太地喜和子は吹き替えだったかもしれないが全裸シーンもあった。初めて目にする巨大な裸体。 数十年後、父の葬式で農協勤めのHちゃんと再会。すでに禿げ上がった彼にビールを注ぎながら「あのとき観た映画覚えてます?」黙ってうなずくHちゃん。「忘れる訳ないよね」。

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先日ネット上で一つ見つけた牡丹灯籠は、大映映画その他で子供の頃から見ていた物に近い。しかし昔の絵双紙などに描かれている物はそれらとは違い、いずれも一見赤いキャベツにトイレットペーパーを垂れ下げたような物で、お盆提灯のイメージというより可愛らしいものである。作られなくなったのか、誰かがいつからか牡丹灯籠はこういう物だと変えたのであろう。その変えた人物にならい、そうすることに私が耐えられるはずがない。いずれキャベツにトイレットペーパーを再現することにしよう。 三遊亭圓朝について書かれた物を読んでいる。例えばこんなことが判った。すでにランプ、ガス灯の時代に、あえて燭台の蠟燭を照明として使った。身長175センチあり、体格が良い人との証言もあった。鏑木清方はいやに大柄に描いているな、と思っていた。残された写真からはまったく伝わってこない。これだから写真を真に受けてはならない。 先代の三遊亭圓楽によると圓朝は自己アピールに長けた人で『髷を大たぶさに結って、わざと身幅の狭い着物を着て緋色の襦袢ちらつかせながら、弟子の肩に手を置いて紅絹の布を口にあてて軽く咳をしながら歩いた』そうである。色っぽいといわれる“目病み女に風邪ひき男”という奴だろうか?キザもここまで来ると俄然興味がわく。圓楽は“星の王子様”で売り出したが、それは圓朝にあやかってのことだったという。

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広告写真の女優の瞳に撮影者や扇風機を持った人が写り込んでいることでメーカーが謝罪したという。別に謝罪する必要はないと思うが、そんなものは消すべきである。私も一度だけ瞳から消した。人間ではなくイシナギであるが。マンションの屋上で撮影したが、撮影する私と屋上の手すりが写り込んでいた。どう見ても屋上の手すりだし、泉鏡花作品ともなれば興ざめである。なんとなくむにゃむにゃと加工した。 イシナギを入手するにあたり、当てにしていた鮮魚店が震災によりなくなり、ネット上を探しまわり、ようやく毎日の漁獲をネットで更新している鮮魚店を見つけ、日にちを指定し届けてもらった。そしてそれこそ新鮮な、目の黒いうちに想定していたすべての場面のポーズをつけて撮影した。そこへ子供が2、3人屋上に上がって来た。面倒だなと背中で思ったが、血だらけ(食紅)の魚を吊るして撮影しているオジサンの後ろ姿にビビったか、それこそ尻尾をまいて降りて行った。それを聞いて親でも上がってきたら面倒である。とっとと済ませてT千穂に持って行き、みんなで成仏させた。

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昨年の6月に女将さんが熱中症で倒れ、以来休業している木場の居酒屋『河本』であるが、冷凍保存されていたわずかばかりの煮込みを解凍。超常連で消費することになった。一般客に出せるものではないが捨てられるのは惜しい。ちまたでは◯大煮込みと称されているそうだし、吉田類さんの煮込みランキングにも入っている。私にしては30年に渡りなじんだ味である。 現在『タウン誌深川』で木場の居酒屋K本として駄文を連載しており、厨房担当の女将さんの弟の“あんちゃん”に煮込みの作り方を聞いてみたことがある。「ただ味噌を入れるだけ」とそっけない返事。“親父におそわったまま”だそうである。レシピを聞いて再現できる類いのものでない。河本のホッピーや酎ハイを家で飲もうと、同じキンミヤ焼酎、ホッピーや炭酸を冷やし、同じジョッキやグラスで飲んでも何故か同じ味にはならない。私以外にも試した人は同じことをいう。店の雰囲気?と目をつぶっても無駄である。ホッピーや酎ハイでこの有様であるから煮込みに関しては言わずもがなであろう。これをもって河本の煮込みは消滅ということになった。女将さんはとっくに元気をとりもどしているが、姉弟いずれもご高齢である。一縷の望みといえば、あんちゃんの「仕入れ先に何回電話しても出ない」という言葉である。出ていれば仕入れるつもりがあったのではないか? 一年ぶりの煮込みは若干しょっぱかったが、皿の煮込みが一つ減る度これが最後か、とついシャッターを切った。

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圓朝  


絵画立体を含めて人物像を見るとき、それがその人物の生前に制作された物か死後に制作された物か、死後だとしても面識があったか、などは気になるところである。残された写真のみを参考にしたとなれば私と条件は一緒である。本人を目の前に制作した像がある。こればかりはどうにもならない。悔しいので制作中はおろか浅草寺にある九代目團十郎像は未だに見に行っていない。似ていればいいかというとそういうものでもない。当然そこに制作者の解釈が含まれるべきであろう。昔の職人が制作した活き人形は迫真の技をもって作られているが、中にはリアルな死体になってしまっている作品も散見する。いくら神は細部に宿るとしてもあれはいただけない。 三遊亭圓朝は、会ったこともないのに写真より圓朝らしいと思えるのが鏑木清方の作品である。二人は交流もあった。デフォルメ具合が素晴らしいが、猫背気味の姿を強調するためなのか、座った腰から膝までがおそらく本人より十数センチは長く描いている。 私はというと清方描く当時の寄席の様子だけを参考にさせていただこう。しかし古今亭志ん生を作っていた時は、最高位の横綱を作っている気分で、そのさらに上をいく噺家を作ることになるとは思わなかった。

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私は牡丹灯籠なる物の実物を見たことがない。たやすく入手できるだろう、とたかをくくっていたら検索しても出てこない。似たような雰囲気の物はあっても、吊り下げ用の2メートル近くの物だったりして、お露がカランコロンと下駄を鳴らして優雅に持ち歩くような物ではない。また作らなければならないのか? 『貝の穴に河童の居る事』では人間側の中心人物が持つ郷土玩具が出てくる。この笛吹の芸人は、もともとは麻布あたりの資産家であったが、地方の祭事や郷土玩具を研究しているうち、芸人になってしまった男である。河童に化かされながらもそれを持って街中を踊ってしまう。鈴をくわえた雀が弓状の物を伝って降りてくるような感じらしい。朗読ライブでも竹本越考さんの語る「チンカラカラ」に鶴澤寛也さんの三味線による擬音も効果的であったが、鏡花が書いた当時は、ポピュラーな玩具だったかもしれないが、どんな物か判らなければ頭に浮かびようがない。制作当時再現しようと作ってみたが、写真であるからにチンカラカラと動く必要はなかったが、雀らしい可愛い動きをしたときは嬉しかった。再演の機会があれば、その部分を動画にしてみるのもよいかもしれない。 探しても出てこない灯籠だが、やっと地方の製作所に、近いものを一つだけ見つけた。多少工夫すれば使えそうで安心する。やはり『貝の穴に河童の居る事』の時。巨大魚イシナギは不可欠である。もちろん巨大魚を使うわけにはいかないので手ごろなサイズを扱っている鮮魚店のHPを見つけ、安心していた。さてそろそろ撮影を、と連絡すると不通である。調べてみたら震災で跡形もなくなっていた。鮮魚店のページには魚のGIF画像が、いかにも活きが良さそうにピクピク踊り続けているのが哀しかった。

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骨格さえ決まっていない時は、とくに集中過ぎは良いことがない。タバコを吸っていた頃はその間目を離し、我にかえるのに丁度良かったのだが。ユーチューブでイチローのレーザービームを観ているうち、気が付いたら『県警対組織暴力』(東映)を最後まで観ていた。 圓朝といえば『牡丹灯籠』であろう。死んでまで新三郎の所に通う振り袖姿のお露など、なり手も居ないし振り袖の事を考えるとうんざりである。せめて牡丹灯籠くらいは漂わせたい。たったⅠカットの為にあんな物を入手しないとならない。いやせめて2カットに使おう。もっとも写真作品のための物であるから、作る必要がないことがせめてもである。楽器を作る必要がなければジャズ/ブルースシリーズも、しばらくは作っていたのかもしれない。

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6時に『山の上ホテル』呼びかけ人 高橋睦郎 細江英公 巌谷國士 四谷シモン 川本三郎 平出隆  あれは鎌倉での何回忌の時だったろうか、法要に参加せずホテルの会だけに参加しようと出かけたら係の人に「まだ間に合います」。おそらくその日、日本で最も濃い人達の注視の中最後に焼香をするという、悪夢のような経験をしたので本日は早めに。 澁澤龍彦の死。その日会ったこともないのに呆然として30分間座り込んだのを覚えている。私の人形制作と澁澤は無関係ではあったが、いずれは作品を見てもらいたいと思っていた。その後、澁澤邸で撮影する機会も訪れ、作家シリーズを早く思いついていればと悔やんだ。 カメラを持っていったが、何処向けても有名文学者や、しまいには“昇り竜のお銀”までがファインダー内を横切ってしまう。私は気付いていない人を勝手に撮ることができない性格なので、ちゃんと撮れたのは四谷シモンさんと挨拶中の麿赤児と四方田犬彦と人々の後頭部のみ。1983年に日本TVの『美の世界・アートナウ 』に出演した時、司会をされていた榎本了壱さんに、あれ以来のご挨拶。アシスタントはマリアンであった。 地元に帰りT千穂に寄ると、いつもの顔。さきほどとのギャップに疲労がどっと押し寄せる。

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色紙が出てきた。『松岡洋右』『香椎浩平』『山下泰文』『荒木貞夫』『辻政信』。歴史物を読む際、こんなものが傍らにあるとリアル感は高まる。さらに歌舞伎役者。何代目かは不明だが『尾上梅幸』『二代目市川段四郎/初代市川猿之助』『十三代目片岡仁左衛門』『初代中村吉右衛門』『七世市川八百蔵/七代市川中車』『七代目澤村宗十郎』『中村魁車』『六世中村歌右衛門』ついでに『市川右太衛門』。『島田正吾と辰巳柳太郎』。そして初代河原崎権十郎/九代目市川團十郎』。 七代目團十郎が五男の後の九代目を河原崎に養子に出したが、そのあまりに厳しい稽古に連れ戻そうとしたという。古い雑誌で幼さない九代目の稽古スケジュールを読んだが、涙を拭っている暇さえないようなものであった。書画も稽古のうち。当然達筆である。 近所の古書店で入手した『三遊亭圓朝』(永井啓夫著)を読む。演劇改良運動を後援した井上肇邸で、明治20年に天覧歌舞伎があり、それ以降歌舞伎、及び歌舞伎役者の地位が上がった。それまでの歌舞伎役者は、と十二代目がNHKで解説しているのを観たことがある。 井上肇を検索すると、九代目がかつての養家から泣きつかれて背負いこんだ、河原崎座の借財整理に協力したこともあった、とある。そして展覧歌舞伎の二年後に、西郷従道邸の演芸会で、圓朝は御前に召され、『塩原多助』を口演申し上げたということである。

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