明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



木場のお露ことAちゃんは、小学生の頃からおなじみの、毎朝眠たそうに大学へ向かう彼女と同一人物とは思えないお露となった。お母さんのお米は、事前に伝えてはおいたが、せっかくメイクした眉毛を消すことになった。この程度のことで動じる人ではない。かえって面白がってくれるだろう。 いずれにしてもできたも同然。来月10日からのの深川江戸資料館の展示には間に合う。 陰影を消す撮り方は、人形を撮るからこそ、だと思っていたが、人間でも充分有効なことが判った。これで人形と人間の共演も、こちらの世界でも可能ということになった。今回の撮影の意味は大きい。私の大リーグボール3号も、いよいよ完成に近づいた、ということか。 本来、新三郎宅にカランコロンと下駄を鳴らして通う様は、背景の中で小さくシミジミ歩く予定であった。しかしお露とお米がなかなかの出来なので、表情をもっと大きく見せたくなった。 17歳のお露は新三郎に焦れ死にし、幽霊となって、それでもなお新三郎の元に通い続ける。そうとは知らず、骸骨をかき抱く新三郎。結局とり殺されてしまう。これだけのことをしでかすのだから、Aちゃんにはそれなりの表情をしてもらうことにはなる。昨日フェイスブックにテスト画像をアップしたら 怖いという方が多く、しかしただ可愛いAちゃんというわけにもいかず、今ネットで話題のお掃除オバちゃんほどでなくても、せめてこの程度の表情はしてもらいたいのである。




HP/Volumes/Transcend

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




早朝T屋へ撮影機材を持ち込む。三脚と日本髪のカツラは先週のうちに運んでおいた。お茶付けを食べ、父親にAちゃんが起きてくれることと化粧はあくまで薄めにを託して錦糸町のヨドバシへ、調子の良くないバッテリーチャージャーを念のために買う。 T屋に戻り、Aちゃんが降りてくるのを待つ。上で柔道の受け身でもしているのか、という音が聴こえる。起きてはいるようである。念のため、外出中のお米ことT屋のかみさんに、化粧は薄めに、とメールでAちゃんに伝えてもらう。素人を被写体にする面白さと危険さは充分沁みている。何が起きてもおかしくない。 12時ジャストにAちゃん登場。タクシーにてMさんのマンションへ。『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)は、海岸のシーンはこちらの駐車場で撮影した。二人の漁師が丸太に巨大魚をぶらさげ運ぶシーンも。本日もお借りした和室のゲストルームでは、座敷に巨大魚が降って来たり、人間どもが、河童に化かされ踊らされたり等々撮影した。特に着物のまま海に足下まで浸かったシーンは自分で見ても上手くできたと思うが、どうやったかは思い出せない。 到着すると、今回も着物をお借りし、着付けをお願いするMさんの奥さんが、すでに着物を並べて準備をしていただいていた。用事で一時間遅れるお米の前にお露の着付けをお願いする。問題はカツラである。なかなか上手く装着できず、なんだか不自然だが撮影を始める。演技をしてもらった河童の時と違い、今回は幽霊である、カランコロンと歩いているといっても棒立ちに近い。室内用と角度違いを2種類撮るだけである。手の位置、見つめる場所だけ伝えて繰り返し撮る。次にお母さんのお米。先に撮ったお露に寄り添う想定で。牡丹灯籠を持ってもらう。今回は4秒の露光時間である。河童で懲りた、かみさんのまばたきだが、Mさんにチェックしていてもらうことにした。おかげでほぼまばたきなし。 帰宅後別々に撮った二人を並べた。カツラの不自然さを直すのに手間がかかったが、一眠りして只今完成。後は背景を撮影し、ヒトダマを配置すれば『牡丹灯籠』は完成である。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私は東京の食べ物はジワリ々と塩分が強くなっている、と20年くらい前にすでに感じていたのだが、特に顕著なのがラーメンである。始めて入るラーメン店では、店主の隙を見てコップの水を加えることが2割ほどもある。猫舌なので平気でしてしまうわけだが、炭坑脇のラーメン店じゃあるまいし、何故あれほどしょっぱくするのか訳が判らない。もっとも、それで良いと通う客がいるのだろうから、私はただ黙って水を加えるだけである。 食べられなくて、一度だけ途中で残して帰ったことがある。それはラーメンでなくチャーハンであったが、トンでもなくしょっぱかった。いちおうレジでは伝えたが、犯人は何人かいた調理人の中の若い中国人だ、と判っていたし、何度か通って始めてのことだったので、もう二度と来るか、とはならなかった。私は腹をちょっと壊すくらいなら、たまたまだろう、とたいして気にはならない。 とここまで書いてきて、東京の食べ物がしょっぱくなったのは、東京オリンピック以降だ、といいたくなってきた。そういうと収まりがいいような気がしただけだが。私のイメージの東京は、1964年のオリンピック以前の東京であり、あまりの変わり様に不感症になってしまったのか、東京に何ができようと壊れようと、ほとんど何も感じない。よく腹を立てている人がいるが、あんたの家の庭木を折られたわけでなし。塩分ではなく甘味でいうと、チクロの味を知らない世代とは駄菓子に付いて語り合う気にはなれない。駄菓子に関しては団菊爺ならぬチクロ爺な私である。 当ブログには良くあることだが、たいしていいたいことがある訳でもないのに、だらだら書いているからこういうことになる。本日はタイトルだけ見ると内容がありそ気なのだが。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




来月10日からの深川江戸資料館のイベント、チラシはいつできるのか、と聞いたら昨日届いたと、送った方がいいか、というので当然でしょう、と返事。私の円朝を使っているはずである。一体目とほとんど同じポーズの円朝の身体を制作中。幕末明治の頃の噺家は現在のように身振り手振りを使わなかったという。まして円朝であるから微動だにせず。ほとんど同じ物を作るのだから、さすがに面白味はない。 サンフランシスコにいる妹からは日本の老人ホームの様々な噂話を耳にするらしく、できるだけ頻繁に母を見に行って欲しい、とメールが来た。母はどの施設にいても、病院に居てさえ楽しそうにしている。しかし一昨日見舞いに行った時、また昼間から寝ているだろう、と思ったら、無表情に空を眺めていた。それを見て私は一瞬言葉がでなかった。母はすぐ私に気付いたが、私は母のあんな表情を一度も見たことがなかった。行けば長くても20分もいれば、もういいからみんなの所へ帰りなさい、という。しかし父が亡くなって10数年、一人で働き暮らしながら、あんな表情を浮かべていたのか、と思ったらこうして書いていてもたまらなくなってくる。私は母のことなど何も解っていなかったのではないのか。 病院としてはしかたがないことなのか、コルセットで動きが制限されている。母が病院の個室に居た時、廊下の向こうまで聴こえる声で歌っていたのを、迷惑だからと止めさせた。次に入所が決まった施設で、みんなと一緒に早く思い切り歌わせてあげたい。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




子供の頃から写生の類いが大嫌いであったが、実在した人物を手がけるにあたり、写真資料を元に制作することを随分長いこと続けて来た。気持ちとしてはすでに亡くなっている人物といえど、本人に見せてウケたいと制作して来たし、ましてご遺族が健在な場合もある。失礼があってはいけない。そこへきて出合ったのが鏑木清方作の肖像画の傑作といわれる三遊亭円朝像であった。私の知る限り、写真に残された円朝と顔が違う。表情も伝えられる人となりとは違う気がする。若い頃の記憶をもとに制作した作品とされてはいるが、それにしても。そこから始まった迷いの日々は、長々当ブログで駄文をさらしてきた。結果、単純にいえば、これが清方の中の圓朝のイメージなのだ。それは残された写真を超えている。 私はまだ黒人の人形を作っていた頃、あるブルースミュージシャンの日本ツアーのポスターの仕事をした。参考用に写真、最新ライブビデオなどが渡され、それを元に制作した。(つもりでいた。)しかしそれらの資料を目にしながら作ったのにもかかわらず、自分の中にある、かつての姿になってしまった。なにしろ髪の長さ体形からして明らかに違う。しかも完成後、知人に指摘されるまでそれに気が着かない私であった。幸い来日時には短い髪で現れ、特に問題にはならなかったが。 その一件で、目で見たことより頭の中のイメージが先行してしまう自分に呆れ、客観性を持たなければならないと反省した。その時の反省点は当然であったし、その後日本人の作家を作るに当たり、良い教訓ではあった。しかしここへ来て出合ったのが清方作の円朝である。 そろそろ作りたい人物が少なくなってきたところに、立体から陰影を消す新手法を試み、おかげでこれなら可能ではないか、と気になり出す実在したか不明の寒山拾得。私はまた行き先の違う電車に乗り換えようとしているのではないか?今までの経験からいけば、なんでそうなのか判らなくても、そんな気がする時は乗ってしまえ、と決めている。幸い私には「無能の人』のように「あんたはなんでいつもそうなの」と泣き崩れる人もいない。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




牡丹灯籠のお露、肝心なことが抜け落ちていた。武家の娘であるから、身だしなみとして、布の袋に房紐の小刀を帯にはさんでいなければならない。小刀は何かで代用するとして、『貝の穴に河童の居る事』の鎮守の杜の姫神様の帯用に入手した金糸を使った布が残っている。後はそれを縛る房の付いた紐だが、古今亭志ん生に背負わせた火焔太鼓にぶら下げた房飾りはあるが、なにしろ売れ残りのボロ太鼓という設定である。確か紅茶で煮たり散々な目に遭わせているので、とても17歳の娘が帯に、という代物ではない。幸い房飾りだけなら、即日配送というサイトを見つけ事なきを得た。私のようにすべて一人でやっていると、ロケ場所探しからなにから、インターネットがなかったら話にならない。 午後、病院から紹介された有料老人ホームへ面接にでかける。入るとピアノの伴奏で老人達が歌を歌っていた。先日、リハビリ施設から断られてしまったが、母は病院がいうほどのことはない、とそこはかとなくアピール。特に問題はなさそうである。母は、ショートステイ、デイサービス、いずれも遠足を楽しみにする子供のように心待ちにしていた。病院でも個室は退屈だ、といっていた。そんな年寄りの話はあまり聞かない。それは実に助かっている。 行きは駅からタクシーで行ったが、タクシーという距離ではないな、と出て来たが、帰りはバス亭もなく、長い日影もない長い道をひたすら歩く。突き当たりを曲がり、と聞くとそこからまた真っ直ぐな道。嫌になった。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日も撮影にそなえてT屋にて朝定食食べながら打ち合わせ。Aチャンは寝起きの悪さは小学校以来、相変わらずなのは先日の寝起きの顔を見て判ったので、くれぐれも前日早く寝てもらうよう頼んだ。『潮騒』の初江役を頼んだ長女のAチャンは時間になっても現れなかった。何が困った、といって背景と合成する被写体には、できるだけ似たような性質の、さらに同じ向きの陽を当てることが肝心である。用意した背景の房総風景はほぼ正午の光線であったので、段々傾いて来る陽に焦った。しかも到着したと思ったら、海女着の下に履くズロースを買ってくるのを忘れた、というし、ヘアスタイルは昭和二十年代の田舎の娘にあるまじき様相で唖然とさせられた。その点今回は外光を閉ざした部屋での撮影なので、光に関しては問題はないし、カツラを被るのでモヒカンで現れようが問題ない。 午後母の病院へ。元々は足の炎症、低温火傷、風邪からくる発熱によりでデイサービス施設から入院したのだが、それらはとっくに治っているが、介護経験のある担当医が様々便宜をはかってくれ実に運が良かった。入院もあとひと月を切り、先日私は次のリハビリ施設に面接にいったのだが、後に認知症により受け入れできない、と断られてしまった。たしかに都合の悪いことは忘れてしまったりはあるが、同部屋の婆さん等と違い、日常話す分にはまったく代わりは見受けられない。釈然としないでいると、担当ケアマネージャーが、立場上いえないことではあるが、母のようにかってにナースステーションへご機嫌伺いにでかけてしまうような老人は責任取りたくないので認知扱いで拘束してしまうのだ、と訊いた。そういえば、たしかに一度伝え歩きをして転んで以来、へんなコルセットをしている。母は腰のためにしている、と訊かされている。脚こそ弱ったが、3年前、いくら止めても一人で飛行機で福井にまで行ってしまった母である。こんなことを耳に入れたら大変なことになる。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




一度書いたと思うが、私は小学校から中学にかけて、一連の名作をガロ誌上で読んでいる。当時兄でもいないかぎり、私の世代ではなかなかいないだろう。たまたま立ち読みしていて、白土三平のカムイ伝のくノ一が殿様をかどわかすシーンの、少年マンガとはレベルの違うエロさに買ったのだが、そのうちつげ義春、佐々木マキにはまってしまった。私はそれを小学5年の68年からだと思い込んでいたが、調べると掲載年月日がもっと旧い物まで覚えていたから、もっと前のようである。すべてが印象深いが、当時の私が最も強烈な印象を得たのは『ゲンセンカン主人』である。始めて体験した土俗的なエロテイシズムは子供の私には強烈過ぎた。そんなことばかりいっているが、少年という物はそうしたものである。 多分40年前くらいに青林堂から一冊物の全集を、当時かろうじて在庫が残っていた佐々木マキとともに取り寄せた物を未だに持っていて、たまに開いていたが、80年代の作品である「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」と続くシリーズ連作を、本日始めて読んだ。笑いどころもあり、60年代作品とは一味違い、実に面白かったのだが、私と全く無縁の世界とはいい難く、妙に身につまされたりして。私に女房がいたら、今度はよりによって寒山拾得?と嘆かれるばかりか箒で掃き出されていたのではないか?最近話題の中年俳優と違って私に女性を見る目があって幸いであった。いや密かに私のブログを読んでいる女性がいて、それはこっちのセリフだ!という怒声が聴こえてきそうなのでこの辺にしておく。

HP










コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『牡丹灯籠』背景の撮影場所のロケハン。新三郎の元に通う場面は月光降り注ぐ民家の板塀沿い。これは予定通り。この世の物でないので、月光がいくら降り注いでもお露とお米には関係なし。あの世の物にはこの世の光線で陰影はできない。室内のシーンはある和室のコーナー。お露があの世の物ともしらず待ちくたびれ寝床で寝入ってしまった新三郎の寝顔を、愛おし気に見下ろすお露というところか。お露役の女性大生Aちゃんに、「好きな男がここに寝ていて、それを愛おし気に見つめて?」と説明して仮に「ウン判った。」といわれても、小学生の時から知っているので少々ショックである。大きなケーキがここに置いてあるつもりで、とでもいっておこう。いやホントに置いておくと絶大な効果がありそうである。Aちゃんはまだまだ花より団子だと思いたい。 手前にはこのシーンとは別の存在として手燭を持ち、その灯りに不気味に照らし出される作者三遊亭円朝の顔。ここまで決まれば、問題といえば、お米役のお母さんのまばたき問題だけである。以前懲りたのでいちいち現場でチェックのこと。 もう1カット。10月予定の某オマージュ展用の1カット。和室でしかも障子が不可欠。この撮影場所も決めた。こちらのカットは人形は登場しない。今日は昼からあちこち随分歩いた。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




以前、頭の中のイメージに陰影が無い事に始めて気付いてビックリしたことを書いた。いや陰影だけではない。遠近感だって実際と違うし。ついでに時間についても同様であろう。それを私は、眉間にレンズを当てる念写が理想だといいながら、頭から取り出したイメージを、この世の常識に会わせて加工し、配置していたのではあるまいか。カメラをやり始めて早々、旧いソフトフォーカスレンズやら観たままに写らない古典レンズをh集め、写真の右も左も判らないのにオイルプリントである。私は写真を始めた当初から、頭の中のイメージを取り出す手段として写真を選んだのにもかかわらず、カメラ、レンズという道具の呪縛から逃れようと自分でも判らないままあがき続けていたのではないだろうか。ホックニーの検証した西洋の画家はレンズの力をそれを利点として利用していたが。どうやらここ数年、浮世絵や日本画ばかりが気になっていた理由がようやく判りかけて来た。

HP


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


来月10日より10日間、深川江戸資料館での展示のことで下見をかねてでかける。高座上という設定の三遊亭円朝像に写真は何カットか。牡丹灯籠の出来次第だが牡丹灯籠含めて5カットほどだろうか。 北海道出身の横綱に関しての展示もやっていたので覗く。千代の富士、北の湖、大鵬の等身大の写真パネル。一目見て小さい。大銀杏分を身長に加えてしまったのだろう。これでいいなら舞の海は苦労しなかった。こう見ると千代の富士の大銀杏がことさら大きい。身体が小さい分すこしでも大きく見せたかったのだろう。そういえば栃錦の大銀杏はでかかった。 牡丹灯籠のお露とお米の撮影日ようやく決まる。素人のモデルは、とにかく油断は禁物である。何が起こるかわからない。お露とお米親子の時間が微妙で、二人一緒に取れる時間がどれだけあるか。最も、あの世の影のない連中ゆえ、二人重なったところの影もなくそう、と別々に撮ろうと思っていたので、多少のことはなんとかなるだろう。 当初、幽霊ゆえ、伏し目がちな二人、レンズを向けるとまばたきに問題があるお米は、下手したらつぶったままでもいい、と思っていたのだが、この世の物ではないと、全体に発光させるだけでなく、目の色も変えたくなって来た。となるとお米のまばたきには要注意である。 会期中、12日夜、浪曲による牡丹灯籠をやるらしい。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


献杯  


T千穂にクーデターによりK本を追い出された常連の落ち武者が集合し、先日84で亡くなった斉藤さんに献杯を捧げた。斉藤さんは菊作りの名人であり、近所の小学校でボランテイアで菊その他植物やウサギの面倒を何十年も観て来た。卒業生の感謝状が物凄い量溜まっていると訊いた。K本の常連も、小学校で育てたゴーヤ、ピーマンなどよくお裾分け頂いた。私は朝方まで作業していて寝入りばなにやってきて野菜をいただいたが、たまりかねてドアノブにかけてもらうことにした。頼まれて菊だらけの小学校内の特設作業場を撮影した事があるが、学校の方針でそれも撤去されてしまった。さみしそうだったが、それでも早朝の学校通いは続けていた。斉藤さんは鉄人ルーテーズにちょっと似ていたが、テーズと違って髪の毛は黒々、声は坂上二郎にそっくりであった。 以前K本に40センチはあろうか、という元大工の斉藤さん手製の男根を持って来たことがある。こんなものいつまでもウチに置いといても、ということであった。子供のいない斉藤さんが子宝祈願のために作ったものであることは察しがついた。ありがたく『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)に使わせてもらった。書籍では文章の下地で、しかも遠慮してぼかした事もあり、良く判らなかったが、昨年のスライドと義太夫のイベントでは、間違ってぼかす前のデータを使ってしまい、舞台上に3メートル程の男根を一分以上屹立させてしまった。最後に会ったのは、昨年暮れに母のために飴を持って来てくれた時であろう。その後、たまたま電話したら声に張りがなく、これから癌研に検査に行くといっていた。最初の癌を克服したが、その後胃を全摘、今回は咽頭癌で、もう手術はしないといっていたらしい。木場の鉄人もついに力尽きた。飲み会で、良い声で都々逸を聴かせてくれたことを思い出す。 ※落ち武者の皆さんは当ブログ左下の検索窓で福耳、とでも入れてもらえば、随分前の斉藤さんが出て来ます。合掌

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ホックニーによると、昔の巨匠達が機械を使って対象を写していたという話であったが、小学生の私が写生が嫌いだったのは、目の前の物を写すからである。当時の私は絵が上手いということは、見ないでも描けるくらい記憶しているということだと思っていた。そしてそここそが絵を描く楽しい所だと。対象が目の前にあるのなら記憶力が発揮できないし、アレンジも加えられないではないか。 そう思うと私は幼い頃から終始一貫している。私はながらく写真嫌いで、写真を始めるのが遅かった。それは写真の身も蓋もなく写ってしまうことではなかったか。昔の画家はむしろそこを利用していたことになる。しかし未熟な私の制作物を撮ることを思いついて身も蓋もないところは気にならなくなった。むしろ陰影のおかげで七難かくすことができたからである。 写生嫌いでデッサンもろくすっぽしないままここまで来てしまったが、皮肉なことに、写真のおかげで物故者を写真を参考に作ることになり、随分と勉強してしまい、情報も頭の中に入ってしまった。幼い頃から観ていたプロレス中継の記憶だけで人体を作っていたような頃にはもう戻れない。 ところでここへ来て、写真という物の身も蓋もないところに改めて不満が湧いて来て、陰影を消してみたり、さらに寒山拾得などという、おそらく架空の人物に興味がわいて来ている。そういう段階にきているのかな、と思う今日このごろである。なにしろ行き当たりバッタリである。ただ、なんだか判らないけどこうなっちゃった、ではいかにも馬鹿みたいなので、こうして後からなんでだろう、と考え、始めからそのつもりだった、予定通りである。みたいな顔をしたい訳なのである。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日訊いた陰影の話はデビッド・ホックニーの『秘密の知識』の話である。ダ・ヴィンチやカラヴァッジョをはじめ、絵画の巨匠達は鏡やカメラルシーダや、カメラオブスキュラなどのレンズの力を借りて写していた、ということを明らかにしている。それは1400年代からすでに始まっているという。たしかにその辺りから急にリアルになる。遠近法、陰影にしてもレンズの効果、という検証をおこなっている。絶版となっており、中古価格も高いし、早く読みたいは、で母の入院している病院で手続きを済ませた後、(本日もトリの唐揚げを買いにいかされる)当地では唯一所有している図書館にでかけた。ホックニーの検証は説得力があるし、興味深く読んだ。私は人形を作って撮影していて、写真という物の身も蓋もなさのせいで、不自由を感じていた訳だが、レンズを使って写していた、と思うと西洋画の尋常でないリアリズムが身も蓋もなく思えて来てしまった。西洋的なる物に対して興味を失っているせいで、またもや職員に「大丈夫ですか?」と起される。イビキをかき、脳卒中でも疑われるのであろう。結局日本画の画集を眺めることに。さすが我が国の芸術は身も蓋もあるぜ。眼福を得る。図書館の向かいにあった酒場で1杯250円の酎ハイでクールダウン。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




古代の洞窟に描かれた絵や子供の絵には陰影がない、という話を聞いた。なるほど、そういわれると陰影は分別の象徴のように思えなくもない。 私は小学校3年の時、陰影を描いて騒動になったことがある。私の描く絵は子供の絵じゃない、といわれつづけ、たとえば交通安全のコンクールにも、私の作品だけ出し忘れた、などといわれた。褒めてくれるのは同級生だけであった。3年の時、産休になった先生の変わりに担任になったT先生はようやく褒めてくれたが、隣のクラスの担任が、どうゆうわけだか盛んに子供の絵じゃない、と私の描く絵をボロクソにいうのである。確かに他の連中はマッチ棒のカカシが地面に倒れているような絵を描いているのに私は筋肉を意識していたし、太陽から在りもしない放射状の線を何故みんな描くのが理解できないでいた。 私は図工の時間は大好きであったが、苦手だったのが写生である。目の前の物や、光景を描くのがまったく面白くない。それに引替え、遠足に行った後に、そのときの光景を思い出しながら描く、なんていうのが好きだあった。記憶にサービスを加えるのが何よりも楽しい。ある時、池に浮ぶボートを描いたのだが、池には当然ボートの影がユラユラと映るだろう。なんで隣の担任がそれを授業中に観に来たのかは知らないが、なんでこんな物を描くのだ、と私は問いつめられた。この時のことは母も父兄会の時に訊いて未だに憶えている。 小学三年で陰影を描いてしまった私がここへ来てようやく陰影から開放されるに至った、ということなのだろうか? ところで私はチャイムが鳴っても図書室から出て来ないくらい本好きで、なかでも大好物だったのが人物伝の類いであったが、T先生は学校を去る時、世界偉人伝という本を内緒でくれた。そして私は相変わらす人物伝を毎日のように読み続け、人物像に私なりのサービスを加えているのであった。 

※不細工な絵だが、唯一残る小学2年生の時の絵である。これを見ると、隣の担任は私のもっと別のことを心配していたのではないか?と思われそうなので弁解しておくが、叔母が寺に嫁ぎ、遊びに行った時に描いた絵である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ