明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


東京マラソンは、近所の富岡八幡が折り返し地点だと聞いたが、昔、フランク・ショーターが琵琶湖毎日マラソンで、沿道の観客の振る小旗をむしったと思ったら横道にそれ、排便を済ませ、それでも優勝したが、そんな名場面でも見られるならともかく、人ごみの中見物する気になれず家で相変わらずしていると、高校時代の友人から『球買った、回路も決まった。リバーブ作るか探すかだ』とメールが着た。昨年5月の深川江戸資料館の個展で久しぶりに会った時に、私にギター用の真空管アンプを作ってくれる、といっていたのを思い出した。彼は精神科の医師で、患者の自殺率の低さを誇っているそうだが、昔、自作のダブルネックのギターを持ってウチに来たことがある。専門工具を持っている訳でもなく、ノコギリでギコギコ、ノミで削ったそれはビザールといわれるギターが裸足で逃げ出すようなギターで、おまけに形代(カタシロ)がボデイ内に封じ込められているという。なんでそんなことを?と彼にいちいち聞かないのが昔から当たり前になっており、ただ相変わらずだな、と思うだけである。その時たまたま遊びに来ていた別の友人が「患者が作ったんじゃねえのか?」といったのを覚えている。はたしてどんなアンプが届くのか、気長に待ちたい
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とどいた『円朝』は今のところ未知の情報は特にないが、小説として書かれているので、単なる伝記より伝わる物が多い。 『牡丹灯籠』はお米役は決まったが、お米の末娘で女子大生のAちゃんは大学生活が忙しくお露役には乗り気でないそうである。これでAちゃんは母娘と空中を浮遊する機会を失ったわけである。それが残念かどうかは別であるが。 しかたがないので改めて探さないとならない。お露は確か17歳だったと思うが、そんな人材は周囲にいないので、せめてデジタル処理込みでそう見えなくもない、という人を知人の中から捜すことになる。 『円朝』によると寄席の看板に明かりが灯る、という描写がある。明治の寄席を再現するなら、これがないと様にならない。だれだったか、寄席の内部から軒から突き出た圓朝の名が大きく書かれた看板の絵を描いている幕末の絵師がいたが、その文字は特に寄席文字に見えない。寄席文字はいつから使われるようになったものか。 高座の円朝を仕上げながら、圓朝の立ち姿の制作を進め、寄席の外観の画像制作にそろそろ取りかからなければならない。
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昨年地元の『タウン誌深川』に隔月で一年間休業中の居酒屋について書かせていただいた。『常連席にて日が暮れる』は、週の半分だけ再開するという朗報を締めくくりとした最終回を店に届けた翌日、常連に向け不可解な張り紙が貼られ、一年間、再開までは、とつなぎ止めていたつもりだった我々は以来、私も含め一度も顔を出していない。私など30年顔を見続けた旧?女将さんの顔が見られないのが実に寂しい。 一方常連席を暖め続けた我々は行き場を失い、落ち武者の如く散り散りと。たまに顔を合わせては落ち武者とはかくの如し、とブツブツいい合っている。休業中は店の人に一見の客とこんな客以外は断って欲しい、とセーフリストを作らされて、そんなことは我々客でなく店側がやって下さい、と思いながら他の客を断っていたが、それを知らない客からすると、我々はすっかり悪者になっているに違いない。まあ、今となってはどうでもいいことである。 ところで『タウン誌深川』だが、1号空けて新連載をやらせていただくことになった。『明日できること今日はせず』。タイトルを考えるのが面倒でつい。第一回は『受け継がれぬ教訓』。当ブログに毛が生えた、いや生えていないかもしれないが、編集者がいるので、誤字脱字がないことだけは保証させていただく。明日25日より配布となる。書店での購入他、協賛店での入手も可能である。
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明日には届くであろう『円朝』(小島政二郎著)を松岡正剛が『千夜千冊』で評していた。山岡鉄舟を師と仰ぎ、禅を修行した人物であったが、読む限り、やっぱり円朝は立派な人物だったようである。鉄舟の剣禅稽古にへこたれるような男ではなかった、とある。 人をすぐ信じちゃうんだから」。といわれてしまう私だが、作るとなるとそーはいかない。文豪といわれる夏目漱石でさえ自らのワシ鼻を写真師に修正させているくらいだから油断は出来ないのである。鼻の形なんて気にしてるようでは胃の調子だって悪くなるだろう。 造形的には鏑木清方のイメージに影響を受けることなく、照明で案配することにした。どちらにせよ円朝は下からの行灯や蠟燭の灯りで子供のとき懐中電灯でやった“オバケだぞ〜”調照明などで様々な表情をあぶり出す予定である。上からと下からの照明で、表情が一変する人物ほど効果的である。乱歩で一度やったが、平面的な顔でなおかつ目が細く、黒目が隠れてしまって効果は薄かった。円朝は小さいので、微妙なニュアンスまで醸せるかどうかは、やってみないと判らない。
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三遊亭圓朝像は先日完成した九台目團十郎と比較するとかなり小さい。というより團十郎が大きすぎたのだが。圓朝のそのサイズに合わせた金屏風、火鉢、鉄瓶などすでに用意してある。両脇に二本立てる燭台は、撮影用の実物はすでにあるので、展示用の燭台はおいおいということで。後は湯飲みと扇子くらいか。  九代目のように有名な制作者の先達がいると、やはり違った味を出したいと考え、若い40才代の九代目にした。口の悪い三世沢村田之助にはまだ“大根”などと陰口を叩かれたかもしれない。 また松尾芭蕉像のように、実像のことなど無視して、ただ枯れた老人像が全国に数千体も乱造されていると、意地になって弟子の描いた芭蕉像のみを参考にしたりして。圓朝像となると、いくら検索しても出て来ず、立体像は存在していなさそうである。文学芸能にこれだけ貢献した人物で記念像が存在しない、というのは不思議である。だったらそれはそれで手付かずの土地を好きに耕して下さい、といわれているようで、なんとも清々しいことではある。気になっていた小島政二郎著『三遊亭円朝』(河出文庫)上下をヤフオクにて落札。小島だったら圓朝の真の姿に迫っているかも、と期待。

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疑い  


ほぼ完成といってよい圓朝だが、足踏みしている理由がある。 若い頃は派手ななりで、弟子の肩に捕まって咳しながら歩いたり、気障で目立ちたがり、自己演出にたけた人物だったようだが、次第に芸一筋。弟子を頭ごなしに叱ることもせず、寄席で子供が泣いても腹も立てず、楽屋に向かって子供にお菓子はないかい? 困っている弟子に手を差しのべ、意地悪された師匠も大事に面倒を見、と優しい人格者として描かれている。現代に生きる私としてはそういった口伝を信じるしかすべはない。 しかし、気になっているのは圓朝の取材旅行に同行したり、兄のように慕っていたという鏑木清方の描いた、肖像画の傑作といわれる『三遊亭圓朝』である。リアルさよりも圓朝の内面を描いた、といわれる名作である。確かに残された写真とはちょっと雰囲気が違う。圓朝は客を手のひらで転がすように操り、舟上の場面では船酔いの気分にさせた、という名人であるが、その鋭い眼差しの奥に、してやったり思う壷的な、一物を抱えているような気がしてくるのである。清方が知る、圓朝の一瞬の真の表情をとらえているのではないか?この絵を凝視してから肖像写真を見ると、表情も違って見えて来て、圓朝の自己演出に、まんまと引っかかっているのではないか、という気がしてくるのである。

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昨晩母と家で鍋をやり、ハイピッチで飲んだせいで9時に寝てしまった。そして私としては快挙といってよいが、途中トイレに起きたものの計9時間寝てしまった。有り得ない。起きたと気付いた母の喋りに付き合ったせいで後1時間寝られそうだったのに惜しいことをした。 久しぶりに夢を観た。その夢自体はわざわざここで書く程の内容ではないのでそれはいいとして、その場所に到着するまでにしていたことが、博物館に行ったことと釣りに行ったことと写真を撮りにいったことが鵺のように混然一体となり、博物館に行ったような釣りに行ったような写真を撮りにいったようなこと、としかいえないようなことをした。という、さすが夢ならではのイメージだな、と目が覚めながら感心した。
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既に何度かアップしているが、行方不明であったネガが出て来た。デジタルではなくネガフィルムというところが大事である。 私は幼い頃から怪奇猟奇の徒であった。その類いのTV番組はかかさず観た。しかし実際体験していないので、幽霊お化けを信じているとはいえなかった。世の中はおっちょこちょいばかりである。友人知人の寝床での怪奇体験談は、どうせ寝ぼけ話にきまっていたし。しかしこの写真が撮れた時は嬉しかった。光の点などはレンズの光学的な事故がほとんどだろうが、白い物が揺らめき尾をひきながら飛び回っている。フラッシュが光る一瞬であったから、この類いの物は動きが早すぎて知覚できないといえばそんな気もする。 通りの向こうは靖国神社で、地下では226の将校がビラを刷ったと聞いたが。それはともかく。床などにも蠢いているし、一度大きく伸ばしてみようと思う。実在する云々はともかく、怪奇猟奇少年だった私はこの1カットでとりあえずは気が収まった。写っているのは気のせいでなく本当であるから。


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幕末、明治の頃の寄席を写真で再現する予定である。上野の戦争の最中も寄席はやっていた。幸いな事に伊藤晴雨のようにあらゆる風俗を描いた画家などが描き残しており、それこそ圓朝が出演中の看板なども描かれている。ほぼ線描だが、その寄席の軒先に突き出た看板は夜間には火が灯されていたにちがいない。 そういえば乱歩が団子坂で兄弟等と営んだ『三人書房』や「目羅博士」の作中の眼科の看板など板に文字を彫り、彩色して合成した。写真は無い物は撮れない。在る物を撮るのはいくらでも上手な人がいるので任せるとして、私は私の頭の中に在る物を取り出して撮ろう。何しろ眉間にレンズを向ける念写が理想である。 ただ、浮んだそのまま忠実にやってしまうので、野暮臭く、身も蓋もないところがある。何気ない物を撮影し、比喩的な、見る人に想像を促す、などというシャレた真似が私にはできない。詩を、さらにポエチックな表現を解しない、というのもその辺に理由があろう。
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ようやく深川江戸資料館に九代目市川團十郎を搬入する。何もしていない團十郎にしたが、眉をいくらかキリッとさせた。何しろ坪内逍遥が「写真を撮られるのが下手」というほど、写真には荒事の成田屋は写っておらず、まして普段着の九代目は切な気でさえある。 もう少し顔に陰影を出したかったが、ケースの天井に光を柔らかくする物が付いていてそうはいかなかった。今はさすがにそうではないが、裸電球1灯の下でながらく作ってきたので、コントラストの高い照明を好む。この顔の下に埋もれてしまったが、最初のバージョンの九代目も写真だけでも展示してもらおう。展示は「歌舞伎と深川」コーナーに11月12日まで。昨年の個展で出品できなかったことさえ忘れていた徳川慶喜だが、最初の構想では九代目他、幕末期のメンバーのコーナーを作るつもりでいたが、坂本龍馬も出せなかった。出せなかった物だけでも個展が出来る程だが、担当者と飲んでいて、松本清張も出せなかったのを思い出した。

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ソニーα7の修理に出しに出かける。二度目である。その道中昨日の続きを読む。 前半はほとんど自惚れが強い性格の歪んだ、しかし天才肌の美貌の女形の話しで、後半はケガが元で四肢が次々と壊死していき、なおも舞台に立ち続ける執念を描いている。周囲には迷惑な話しであるが、読者としてはこういう人物こそ面白い。 最初に施術した医者のヘボンは、術後間もなく田之助が舞台復帰し、その姿に喝采を浴びせる観客に驚き、日本人はなんて残酷な人々だ、と驚いたという。本書によると、四肢を失っても喝采を浴びていたが、それには同情や好奇な興味が含まれることに気付いた田之助が舞台を降りることになっている。そして舞台を降りてもなお美貌を維持するため日常的に化粧を続け、白粉の鉛毒により狂っていく。好奇な興味といえば、責め絵で有名な伊藤晴雨は四肢を失った田之助と医師ヘボンがからみ合っている絵を残している。描きたい放題である。 田之助と仲が悪かった九代目市川團十郎像の深川江戸資料館搬入は、先方の都合でさらに一日伸び、17日となった。
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横浜への行き帰りに読む.。随分昔に読んだが、脱疽により四肢を切断しながらも舞台に立ち続けた美貌の女形、という興味だけであって、当時は歌舞伎自体には興味がないまま読んだ。今読み返したらどうか。  大変な美しさだった、というが、著者も書いているが、残された写真を見る限り、意地悪には見えるが、それほど美しいとは思えない。 当時の十代の美しい役者はまず男のパトロンに金のために買われ、16、7になると、今度は女が群がる番。それがあたりまえだった、ということである。ニジンスキーとデイアギレフの関係を連想するが、歌舞伎役者は金もかかる。田之助もパトロンである僧侶に身を任せるが、金の切れ目は縁の切れ目。そこからは女に走る。その中の年増芸者には、後に三遊亭圓朝の妻となる女もいた。 九代目團十郎は田之助より7つ年上だが、自惚れが強い田之助とは仲が悪かった。田之助にいわせると、團十郎はただ家の名ばかりが大きい、ということらしい。という辺りで今日は時間となりました。 私が子供の頃、エノケンこと榎本健一は、やはり脚を切断後も舞台に立ち、TVに出ていたのを覚えている。
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フェイスブックは、1年前だ何年前だ、と過去のブログを思い出させてくれる。よけいなおせっかいではあるが、その時そう思い込み、そう信じていたな、と反省させられる。 一年前というと『深川の人形作家 石塚公昭の世界』にむけて制作中であった。改めて新作は手がけず、すくなくとも頭部が既にある物に限った。撮影用に写る部分しか作っていない作品を作りなおし、仕事で作った物も出せる物はできるだけ出品するはずであったが、今回改めて作り直した九代目市川團十郎、セルゲイ・デイアギレフは頭が見つからなかったし、会期中も控え室で作り続けた村山槐多、太宰治、坂本龍馬は完成寸前に断念、その他、ウエス・モンゴメリー、ライカを作ったオスカー・バルナック、ニジンスキー、チャーリー・チャップリン、宮沢賢治、稲垣足穂、作家シリーズ最初に作りあまりに小さい澁澤龍彦、渡辺温。他にも抜けている物があるかもしれないが、結構あったな、と呆れてしまった。毛色の変わった物としては、高橋幸宏さんのレコード『EGO』(88年)ジャケット用のオブジェは昨年片付け中に壊してしまった。反省することばかりである.

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三島由起夫を書籍の表紙に、という話しが来て、時間もなく有り物で、ということであったが、何しろ私の三島は怪獣に噛み砕かれていたり、エレベーター内で射殺されていたり、ジェット機に載っていたり、腹切っていたり、背中で唐獅子牡丹が泣いていたり、何かしらやっていて、とても使えない。ただ立っているカットがⅠカットだけあったので、これが使えるなら、と送ってみたのだが。 母がヒステリーを起すとうるさくてしょうがない。子供の頃はカッときたら裸足でよいから家からまず飛び出すのが先決。駐車しているトラックの荷台にでも乗っていたらいずれ夕飯、と迎えに来る。そういえば歌舞伎座の前を走ったこともあった。この場合、靴が脱げたのが功を奏した。銀座を片方靴を履いていない少年が走っていればみんな見る。 有り難いことに叱られても食事を抜かれることはなかったし、外出時にしでかしたことについて、帰宅後叱られることはない。ようするに私と一緒で怒りが持続しないのである。後始末には血統値を上げることである。何がいいというとチョコレートと鳥の唐揚げという。87にもなっていい加減にしろよ、というのだが、平気で連日唐揚げを食べている。こんなに好きなのは同居して知ったのだが、私の鶏肉好きも母由来か、となんだか複雑である。
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一日  


團十郎は搬入しようと思ったら、深川資料館側の都合で16日の搬入となった。となるとまだ時間があるわ、とピタリと手が止まる。もう出来たも同然だから圓朝のことを考えたい。こういうところがいけない。完成させてから次に行けという話しである。しかし九台目團十郎は今の所写真作品にする予定がないので人形が完成すれば終わりである。 某所より夏に圓朝展示を、という軽い打診。たしかに圓朝は白い壁に囲まれたギャラリーという感じではないかもしれない。すでにランプ、ガス灯の時代だったのに、あえて燭台を立て蠟燭の光て口演した人物である。 二台あるパソコンが調子悪くなり、一台が回復したと思ったらモニターが壊れる。ネットで調べもの1つやれない。これはもうトイレットペーパーの次くらいの必需品である。しかたなく買いに行く。
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