明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



3年間まったく手を付けていなかったHPの更新を、ようやく再開した。古臭くなったので大幅なリニューアルを、と考えていたが、何しろ2000年に始めて以来のデータが多く、当時できるだけ軽く、といわれていた画像も改めてスキャンする気にもなれない。よって木に竹を継ぐようになってしまうが、まずはここ数年の穴埋めから始めたい。何をしていたかは自分のブログを確認するしかないが、これはがそうとう苦痛なことであるがしかたがない。 今はインスタグラムだワ一ドプレスだとか訊くが、知らない事は無いと同じ。というわけで、マニュアルを放り投げながら作った素人臭いHPのまま、とりあえず続行することにした。HPソフトを再び購入しての再開だが、すっかり要領を忘れ、アップしてはリンクがはずれ、とやたら時間がかかってしまった。まずはデ一タも少ない渡辺温のペ一ジとエドガ・アラン・ポ一のペ一ジを作った。あまりに愛想がないので、いずれ制作ノ一トなどアップしてみたい。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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模様  


圓朝は座布団と着物に模様をいれようか考えたが、やはり止めた。今まで何体作ってきたか判らないが、着衣に模様を入れたのは、ただ一度きりである。このストライプはさすがにしょうがない。不器用なので線がヨレヨレであるが。 せっかく立体で作っても、模様が入ると目がそちらへいってしまう。何度か書いたことだが、九代目團十郎を隔月のフリ一ペ一パ一の表紙用に作った時、それ以前、歌舞伎座で海老蔵丈の目玉に照明が反射してピカ一ッと光ったのを見ていた。昔から團十郎に睨まれると風邪をひかないといわれている。当時インフルエンザがはやっていたし、歌舞伎座も改修するというので進言して決まった。歌舞伎座の上に巨大な鎌倉権五郎景政の『暫』が乗っかり東京中を睨み倒す予定であったが、せっかく作った顔の造形があの隈取りに隠れると思うと耐えられず、初志貫徹はならなかった。 海老蔵丈の目玉が光ったとき、お家の芸のためには目の小さな嫁さんは貰いにくいだろうな、と思ったものだが、無事な快癒を願いたい。海老蔵に睨まれると癌も治る、という新たな伝説はどうか。 

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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集中して制作していると妙な偶然を引き寄せることがある。『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)を制作中に、みみずくのカットがどうしても必要になり、いったい何処へいって撮影すればいいんだと検索していたら、まさか、という極近所に猛禽類だらけの『鳥のいるカフェ』ができてしまった。集中していないとこうはいかない。今回はというと10月1日より早稲田大学演劇博物館の企画展『落語とメディア』がある。体験的展示だそうで『幕末から明治にかけて、寄席は庶民娯楽の王道でした。どの町内にも寄席があり、近所の人々が気軽に足を運んだのです。その当時の小規模で親密な寄席を再現することによって、当時の寄席がどのような空間であったのかを体験していただきます。』私のためにお手数おかけして申し訳ない。タイトルからして圓朝の速記本が重要な展示となるのは間違いないであろう。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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噺家が高座で使う湯飲みは、寄席側が用意した物を使うのが通例らしいが圓朝は自前の湯飲みを用意した。単に衛生面を考慮した、という説もあるが、圓朝の名声に対する同業者の妬みから、水銀を混入されるのを避けたともいう。たしかに場合によって男の嫉妬は、むしろ女より凄まじい物がありそうである。 そもそも圓朝が創作を始めたのは、鳴り物道具仕立ての芝居噺で人気を得ていた時に、師匠の二代目三遊亭円生にスケ(助演)を頼んだ所、その日の圓朝の演目を先にやられてしまった。用意した道具などが使えない。これが連日続き、たまりかねた圓朝が、先にやりようがないオリジナル作品を創作したのがきっかけであった。師匠の嫉妬からの嫌がらせが創作者圓朝を生んだというわけである。これにより二代目圓生は圓朝を語る時、必ず登場するセコイ男として残ってしまった訳である。

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4時にトイレに起きると、母がすでに出かけるカタチになっている。本日白内障の手術の検査に出かけるのが楽しみらしい。私は構わず寝ると、病院に行くのは今日じゃなく、明日じゃないか、と言い出した。今日だよ。書類を引っ張り出し見せる。もうこれで目が覚めてしまった。9時になるのを待って二人でT屋で朝定食。今日はもう寝不足だ、と母のお喋りの相手をT屋のかみさんにまかせてビ一ルにチュ一ハイ。肝硬変にて溜まった腹水を抜きに入院する主人のHさんを見送る。ちょっと早かったがタクシ一で近所の某医大病院へ。話には訊いていたが広くて新しくてガランとしていて気持ちが良い。さらに女性職員が全員美人に見える。これはいけない。家に閉じこもって怪談噺なんぞ創作する男とずっと向かい合っていたせいであろう。 そういえば処女出版の写真原稿の入稿を終えた日もこうだったし、4キロ四方誰も住まない廃村で男3人焼き物をやっていて、たまに東京に帰ってくると同じ現象が起こった。いやその前の二十歳で岐阜の山に居た時は、同じ工場で働く金歯むき出したオバさんが次第に可愛く見えて来る、という怪奇現象を経験した。たまには粘土ベラ捨て街へ出よう。

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和蠟燭も良いが植物油に灯心よる灯りがまた風情がある。撮影用にいくつか骨董市やヤフオクで灯火器を入手してみたが、いずれも素朴で単純な物である。未だに茶事に使われているようであるから、作家物もあるだろうが、多くは蠟燭が贅沢であった庶民が使っていた物であるから、陶芸作家などという存在が登場する以前の物が多いだろう。これなら私にも作れるような気がする。 私はもともと陶芸作家を目指していたがロクロをやったのは学生時代の二年だけで、その後二年間岐阜と茨城で陶芸には携わっていたが、岐阜は量産工場でロクロなどなかったし、茨城は下働き専門であった。その後は東京で自分の窯を持つべく溶接で物干を作っていたが器には関心がなくなっていた。地元には陶芸をやっている先輩がいたが、遊びに行っても、冗談でさえロクロどころか陶土に触れることもなかった。 それが、そういえば近所に陶芸教室があったな、と調べてみたりして。しかし何が迷惑といって、趣味で陶芸をやっているから使って、と手渡されることである。それが判っている分私はマシであろう。

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解読  


三遊亭圓朝を作るにあたり、鏑木清方の圓朝像の存在のおかげで対象をとらえる、また表現する、ということに関して随分考えさせられ勉強になった。ただし、清方作品を直接参考にしたかというと、横に配された燭台を含めた高座の様子、これから塗る予定の着物の色くらいである。なぜなら清方のイメ一ジの圓朝であり、造形的には残された写真と少々違うからである。それにしても圓朝にこう苦労させられたとなると、今後の制作において、よほど楽しませてもらわないとならない。

私は色紙、短冊、掛け軸の類いをいくつか持っているが、昔の人物がそれに触れ、筆をふるったと思うとシミジミするだけであって何が書いてあるのかサッパリ読めない。同じ日本人のたかだか百年二百年前の文章を読めないというのは実に情けないが、英語を解さない洋楽好きでもあるし諦めている。ところが今年知り合った若い女性が見かけによらず実は古文書の研究者で、幕末明治あたりなら楽勝らしい。そこで早速、先日骨董商のMさんから預かった某歌舞伎役者の掛け軸と一緒に入っていた手紙をメ一ルで送って解読してもらった。曰くありげに収まっていたが、掛け軸とは全然関係ねエじゃねエか。見てるかMさん?

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表現  


圓朝の残された写真は知っているだけで四種ある。うち一つはネット上で見つけた写真か画か判然としない物。もう一つは画質が悪くて、晩年の禿げ具合がかろうじて判る物。残りの二つは比較的高画質な、チョンマゲを切って間がなさそうな物。もう一つが伝えられる圓朝の風格その他がもっとも現れている物である。 画でいうと、その写真を参考にしたのは間違いない、寄宿していた画学生に圓朝が描かせた物。何故か顔の長さが表現されていない。全く似ていない河鍋暁斎作品は、角川の全集別巻の解題によると、酒興にとんだ奇人暁斎が圓朝を揶揄した画という説得力に欠ける解説がなされている。問題は肖像画の傑作、鏑木清方の圓朝である。これは『後世残されてある写真をもとに描いたのではなく、あくまでも「瞼の人・圓朝」を永遠に残そうとし、清方の目に残っている圓朝の俤(おもかげ)のみを追求した』そうである。リアルに描かれる画ほど、写真を写さざるを得ないが、圓朝はそうでないことを示すかのように、写真で残されていない角度で描いている。私も立体作品であることのメリットを生かすためにあえて違う角度から撮影するが、今回私が圓朝作品の完成に手間取っているのは、清方に“瞼の人”を残されてしまったせいである。表現とは。表現することとは。

タウン誌深川 常連席にて日が暮れる

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昔は蠟燭は高価だったので植物油、さらに安い魚の油を使ったらしいが、試しに植物油で有明行灯という寝所に置かれる色っぽい行灯で試したら、まあ暗い。これはいわゆるベッドサイドランプ的な物で、寝ている間も点けっ放しなのだが、昔の人には、これでも眩しいのか光量を調節するために木製の覆いを被せる。 以前書いたが、昔の春本の贅沢な物になると、レリ一フ、エンボス効果を出すためだけの版があった。初めて見た時気が付いたが、これは現代のような真上からの室内光ではなく、寝床で、低い行灯の光で見てこそ効果的にできている。残念ながらそんな春本を所有していないので試すことはできない。いや例え持っていても、8日ぶりにショ一トステイから母が帰って来た日に試すこともないだろう。 先日介護ホ一ムに送って行き、帰りに昼間からサイゼリアで一人祝杯を上げたばかりだというのに。その間、あれしようあそこ行こうと思っていたが、母が留守なのに出かけるなんて勿体ない、と結局写真展に一度行ったきりである。母がトンカツを食べたいというので近所で“出所祝い”。そういえば祖母も亡くなる直前まで天丼、鰻丼を食べていたな、と母を眺めた。

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圓朝には影絵という物が残されている。人物の横顔をシルエットの状態で描いた物で、歌舞伎役者などもあるが、役者絵が浮世絵調にデフォルメされているのに対し、影絵は障子に映った物を正確にトレ一スしたようにリアルである。正面を作っていれば横はどうなってるかおおよそ判る。残された二種類のうちの一つが、どうみても圓朝ではない。圓朝でない、といえば“画鬼”河鍋暁斎の描いた圓朝像が、これまた圓朝に見えない。圓朝が長顔なのに丸顔であるし、眉が薄いのに老人の眉毛のように長く伸びている。合点がいかない。 先日圓朝の“あの感じ”が出ていないと気付いたのは、山手線の車中で圓朝の首を眺めた時であった。“あの感じ”とは何か。自分でも良く判らない。写真の中にはあるが、私が作った圓朝の中に無い何か。としかいいようがない。そこから粘って一押し。

 

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私がHPを立ち上げたのは2000年であるが、廃れてしまった写真の個展技法『オイルプリント』の作品と技法の公開が目的であった。前年に入手したPC相手に悪戦苦闘。それまでワ一プロ一つ触ったことがなく、HP作成ソフトのマニュアル本を隣の部屋まで全力投球を二回はしただろう。「このヤロ一いい加減にしろ!」本に向かっていう言葉ではない。いい加減にしなくてはならないのは私の方だが、人には当たらないが物にはよく当たるのである。 当時は今とはネットの環境も違い、とにかく画像は軽く、といわれていた。何か更新していかないと誰も見てくれないともいわれ、身辺雑記も始めた。随分続けたものであるが、長い分地が出てしまって人形作家としての神秘性は台無しである。 今から数年前、私事でバタバタし、PCの不調も重なり面倒になりHPの更新を止めてしまった。しかし時代とともに当HPの体裁も実にどんくさい物になってしまった。リニュ一アルとはいかないまでもその間に制作した作品ぐらいは更新したい。最新のソフトを入手したが、似ているようで勝手が違う。本日はまずポ一のペ一ジを作ろうと、エドガ一・アラン・ポ一の文字を書いたところでギブ。バチが当たったということか、マニュアル本を再び入手しないとならないのかも。

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目薬  


午前中眼科へ。結膜炎は左はもう大丈夫だが、利き目の右が今一つ。「じゃスペシャルな薬出そう。見た目怪しいけど。」面白い先生である。目薬は透明な物、と思い込んでいたが薄いコ一ヒ一色の目薬である。 先生は学校医もやっているそうだが、先日も書いたが、小学一年の目の検査で、ただ瞼をクルリとめくっただけなのに、眼球を一回転させられた、と思い込んだ私は、以来目薬が怖くなった。しばらくしてベアリングの球じゃあるまいし一回転はないな、と工具屋の倅は思い至ったが。それでもプ一ルの授業の後の目薬はずっと逃げて回った。 中学生になり谷崎潤一郎にはまり、最高作と未だに思っている『春琴抄』の佐助が盲目の春琴に準じ己の目を潰すくだりは耐えられなかった。さすがに今は目薬も、目尻に垂らす方法でどうということはない。

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『ロボットはその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ親しみを覚えるが、それがあるラインを越えると、親しみやすさのグラフが突然反転し、逆に「恐怖」や「不気味さ」を感じるようになる。これがいわゆる「不気味の谷」と呼ばれる現象』だそうである。私には単に実物そのものに見えるのに、何かが不足していることが人にはなんとなく判り、それが不気味に感じるように思えるのだが。昔活き人形展を観に行ったとき、昔の人形師の技術に驚いたものの、活き人形というよりリアルな死体となってしまっている作品を散見した。つまり何かが足りない。ある人形師が弟子に、この陰毛を男女に分けてみろ、といった、という話がある。神は細部に宿るのかもしれないが、細部にこだわった分、木を見て森を見ず、ということも起きるのではないか。陰毛分けている間に、酒場に出かけ、人間観察でもしていたほうがよっぽど良い。と私は思う。

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富岡八幡の骨董市へ行くが雨が降りそうで出店も少なく特に収穫なし。目黒の市民ギャラリ一『Tokyo8x10EXHBITION』へ。私は大判カメラは感度が低くて引き延ばしができないオイルプリント用ネガを得るために始めたが、デジタルネガの登場で出番がなくなった。人形を撮ってみたが、人間として撮ることを考えるとカメラが大き過ぎるのか、上手く行ったためしがなく止めた。久しぶりにプリントを眺めていると私は随分遠くへ行ってしまい、私がやっているのが果たして写真なのかどうか。まあそんなことは爪の先ほども気にしていないが。 今年歌舞伎に関する催事があるとかで、九代目市川團十郎像出品の打診があった。個展の時には間に合わず、出品できたのは写真作品だけであった。以前なんとなくその催事の話を聞いたとき、歌舞伎役者の色紙、掛け軸など少し持っているので必要なら、と軽口をいった覚えが有る。骨董商のMさんから歌舞伎役者の書を預かった翌日にこんな話が来るとは。最もその展示のために私がそんな物を購入する義理はない。だがしかし、それに“菊”があれば3人揃う。

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午前中、知り合いの骨董商Mさんから連絡があり、近くまで来たから、というので止めてあるライトバンまで行くと、頼んでいた蠟燭立て、蠟燭の芯切り、行灯の油差しのセット。Mさんには今まで作品を納める古い木製の箱をいくつも探してもらっていた。「わざわざすいませんね。」のすいませんの最中にMさんの横にある掛け軸らしき箱が目に入る。私の表情に気付いたMさん。「まあまあまあ、そういわず(何もいってない)とりあえずさ、ウチへ持って帰って見てみてよ。今度ここ通るまで預けとくから。」Mさんの一番やばいパタ一ンである。しょうがないな、と思いつつ帰り、多少ワクワクしながら開けてみると、幕末から明治にかけての某歌舞伎役者の書。箱書きは当時の劇作家。三遊亭圓朝の活躍した時代にドンピシャである。ネットなんて、といっていたが、Mさんこのブログ見たろ?

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