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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



6月に4日間の展示が決まった。作家シリーズ最後となった三島由紀夫へのオマージュ展『椿説男の死』(ふげん社)での無観客によるトークで「次は何を?」の質問に、いつかは、と考えていた「寒山拾得」とつい口にしてしまったが、ふげん社が拾得が普賢菩薩の化身であることから付けられたという。そんな縁を逃がさず2年後の『Don’t Think, Feel!寒山拾得展 』となった。誰かがシナリオを書いている。そんな気になるのはこんな時である。三島由紀夫で個展をと思ったら、そのビルの先代の社長が事件に使用された『関の孫六』を三島に進呈した人だった、なんてことさえあった。この時はその件で大変だったらしく三島だけは辞めてくれということに終わった。 シナリオが良いのか悪いのかアマゾン川の如く蛇行する紆余曲折の有様だが、その原点といえば、幼い鍵っ子の頃、頭に浮かんだイメージはどこへ行ってしまうのか?という疑問だった。どこへも行かず、ここに在る。という展示になれば良い。



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〝考えるな感じろ“で生きていると、自分の中の自然物に等しく備わっている某かが導いてくれる、と薄々感じてきたが、禅宗の人物をモチーフにしていてほとんど確信となった。そうなると、単なる創作上のモチーフではなく、創作行為がそのまま自分とは何か、を探求することになる。本来そうあるべきだろう。 達磨大師は岩壁に向かってまる九年坐禅したという。おかげで手足が腐り取れてダルマの姿になった、というのは日本だけのストーリーらしい。 私は粘土に向かって40猶予年。悟ることなど頭の隅にも考えたことはないが、足腰の衰えだけは一人前である。



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架空の人物制作に転向するはずが、一枚の大覚禅師(蘭渓道隆)の頂相のリアリズムに打たれ気が変わった。我に返る思いで一転実像にこだわり、挙句に陰影さえも戻ってしまった。創作された、実際はあり得ない後頭部から前頭部にかけて盛り上がった臨済像や臼のような円筒形の頭をした栄西は、陰影なしならともかく、もう作ることはないだろう。 臨済済義玄は“仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す“といっている。何かを求める時、外に依存するのではなく、自分自身の内面を見ろ。師の教えに依存や執着するな、ということらしい。外側にレンズを向けない独学我流者は納得である。

 

 



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前回の寒山拾得展で、寒山拾得が臨済宗に伝わる話ということで〝怒目憤拳“の様子が興味深く、臨済宗の開祖臨済義玄を作ってしまった。当時はいくら調べても実態が判らず。結局、中国のある僧が注文で描かせたものが日本に伝わり、一休の弟子の曽我派の画僧などに模写され描き継がれ大徳寺周辺から広がって行ったものらしい。大徳寺にはまったく別人の穏やかな臨済の肖像画があり、これが実像に近ければ作りたいのだが。 間もなく出るタウン誌に書いたばかりだが、昔、未発見だったロバート・ジョンソンの写真が発見された、と音楽雑誌に載った。さっそく作り始めたが、あの音楽を生み出すような“十字路で悪魔と取引した感“が感じられず、酔っ払って編集部に電話をした。「そういうことになってます。」結局納得できず止めたが、後に誤報と判明した。飲んだくれては作り散らかしていた二十代と違って、今はどこの馬の骨か判らないものを作っている時間はない。



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雲水姿の一休宗純は、窓際に置いて自然の塵、ホコリをまとわせた。小四で読んだ『一休禅師』はとにかく汚いイメージだったが、どうやら“オリジナル”があるようで。一休が尊敬していた大燈国師は、師から悟りに達したと認められてなお、さらに二十年乞食の中で修行をする。国宝である大燈国師の頂相は眉をひそめ、写真で言えば横目でレンズどころかあらぬ方向を見ている。横目の一休の肖像画は一休が意図的に真似たのだろう。両者ともに後世に立派な己が姿を、などと考えていない。ここは肝心である。 江戸中期の白隠禅師が『乞食大燈像』を残している。禅宗の中興の祖にたいして申し訳ないけれど作風が私の好みではない。令和の時代に乞食大燈像を可視化するのは私の役目だろう。例によって”頼まれもしないのに” 。時代は合わないが一休との共演も果たしたい。策はすでにある。



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一日  


今年、同い年の友人に、こんなことをやっているが、最新作が人生上の最突端である。といったら付き合いの長い彼に「ボケた?」といわれてびっくりした。制作に体力を使う訳でもなく、材料費もたいしてかからない。あとは好奇心、集中力が年齢と共に衰える気がしなかったので、経験を重ねて行けばピークを最晩年に持って行ける、と若い頃から想定していた。神奈川に住むその友人は建長寺に来て、梱包など手伝ってくれた。からなず一言いう彼が何もいわないのでのでどうだった?と聞いても作品には触れようとせず身体の心配ばかりするので、自分もいつの間にか頸動脈あたりに介錯を失敗したような手術跡をつけておいて “余計なお世話である”



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昔から人間も草木同様自然物、あらかじめ肝心なものは備わっている、と考えて来た。それこそが〝考えるな感じろ“で進んだほうが結果が良い理由だろう、と。そうこうしてある一文が目に止まった。〝禅は仏を外に求めず、自らの中にあると信じた“ここでいう仏とは、自然物に備わっているであろう肝心なものを指しているのではないか?だとすれば、それを追求して来た高僧をモチーフにすることは、結果的に、その肝心なものに多少なりとも関わることになるのではないか?私が長らく〝レンズを外に向けず眉間に当てる念写が理想“と標榜して来たことも無縁とは思えなかった。 寒山拾得展で虎に乗った禅師や仙人など手掛け、以後、実在した人物は作らず、架空の人物像で行くつもりが前言撤回し、実在した高僧の像を作ることになったのは、以上の理由による。



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頭に浮かんだイメージを制作するなら、どうせなら数百年間可視化されておらず、私がやらなければ今後も誰もやらないだろう画を作ってみたいが、そんなモチーフはなかなかない。 天気も良い。部屋の片付けをしようと思ったとほぼ同時に、袈裟を着た法衣姿の鎌倉幕府第5代執権北条時頼と大覚禅師が対座して見つめ合っている。そこには如何なるものが通いあっているのか。そんなイメージが浮かんだ。こういう場合、構図も出来上がった状態で降って来る。だがしかし、とりあえず予定した作品はおおよそ出来て一息ついたところなので、建長寺の開基北条時頼という大ネタは、いずれかの機会に、ということに。これだからうかつに部屋を片付けよう、などと考えないことである。



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建長寺訪問後、腹の具合が悪い。バレエを一度観ただけでニジンスキーで個展を開いてしまった私も、坐禅を一度もしたことないのに建長寺開山を、和尚様がおっしゃったように「頼まれもしないのに。」まるで発表の予定に向けて制作しているような顔をして作り続けて来た。 そもそも通常と違い、特定の寺の開山をモチーフにしたのだから建長寺以上に展示するのに相応しい場所などない。さすがの母も、授業が始まってるのに図書室から出て来ず騒ぎを起こすような、ブレーキが効かないところは、大人になれば治ると踏んでいたはずだが、そうはいかなかった。私としては、これは生まれついてのことで、不細工や足が短いことが本人に責任がないのと同様、私には責任がないと考えている。といいながら、プレッシャーに対し腹具合は実に正直である。しかし某事のおかげで、明日あたりから腹具合は回復することだろう。



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 小学校では図工の時間が大好きだったが子供の絵ではない、と私に向かっていう教師がいて、担任も全員参加のコンクールに私の絵だけ出すのを忘れた、という。そんなことがあってその後美術部にも入らず。高校の進路指導では、系列の芸術学部と書いたら「お前デッサンやってるのか?」「えっデッサンの試験あるんですか?」写生など幼い頃から苦手で木炭など触ったこともない。かといって浪人する根性などないので、デッサン描けなくても入れる工事現場のプレハブみたいな工芸学校の陶器科に。浪人したり美術の短大出た経験者もいたが、粘土でリンゴを作る課題で、最初にリンゴ大に粘土を丸めるド素人組の一人であった。それが鎌倉時代の高僧の像を作り、写真やパソコンなど蛇蝎の如く苦手だったことばかりを手段としている。殴られて20年ぶりに目が覚める男のドラマが始まったが、私もどこかで頭をぶつけてはいないか?変なところで目が覚め正気に戻るのだけは勘弁してもらいたい。


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重圧から解放され、未だ何も手に付かずにいる。2002年に、前年にイベントで一度バレエを観ただけで、ニジンスキー、ディアギレフ、コクトーで個展を開催した。ご丁寧にも廃れた写真の古典技法オイルプリントで。あれを持ってパリのオペラ座を訪れても、これほどの緊張感はなかっただろう。 食欲に任せて目の前のパンに齧り付くようにモチーフなど変化させて来た、と頭では思い込んでいるが〝考えるな感じろ‘’の感じる担当の丹田辺りのもう一人の私が実は仕切っているのは判っている。幼い頃から人間にしか興味がない私にとって、これ以上のモチーフはないように思える。創作欲を刺激する祖師の個性的な面相、まつわる伝説。何故早く気が付かなかった、と思わないでもないが、人生にショートカット機能はない。独学我流でひたすらほふく前進してきて身に染みている。

ディアギレフとニジンスキー



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蘭渓道隆像は、国宝である斜め45 度向いた唯一の寿像(生前描かれた)だけを元に制作したが、立体にすれば、どこからでも撮れる利点を生かしたい。蘭渓像は絵画、立体像ともに数々残されているが、何百年前に制作された名工の作だろうと、没後に作られたとなれば条件自体は私と一緒である。寿像が真実にもっとも近い、と考えるのが当然とするならば、信仰の対象になって来た開山像に対して失礼を承知でいうならば、どの蘭渓像とも私は意見を異にする。男専門に四十年以上制作してきた渡世上の信念に従ったとはいえ、建長寺のHPにも載る開山様の木像と面相が違う像を持って建長寺の門をくぐるのは、ネズミが象の股下をくぐるが如き心持ちであった。



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寒山拾得の制作以来、幼い頃からのことを思い出すことが多い。それが実在した高僧を作るに至り、鍵っ子時代、百科事典の別巻日本の美術の高僧像のリアルさに飽きずに眺めたことを思い出した。共働きとなった母が私の教育に悩み、学校と相談して某施設に連れて行ったり苦労していたことが思い出される。しかしある時から治らない?と諦めたか、好きな道で、と応援してくれるようになった。 ホームの母に一休宗純を作っていることを伝えると、小四の時に大人向けの『一休禅師』を書店の店先でねだる私に、最初は「読んだって判るわけない」と反対したことを覚えていた。そして “それはこういうシナリオだったのね。“ 母はおそらくどこかでそう納得したことであろう。



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昨日の建長寺でのこと。高井和尚様が、私の作品を前に「頼まれもしないのに」とユーモアを交えお話いただいた。 実在した人物はもう充分作った。寒山拾得の続編を寺の多い鎌倉あたりのスペースで、と思っただけで、寺での展示など考えてもいなかったが、建長寺を検索していて開山である蘭渓道隆の頂相に感銘を受け、何も決まる前から作り始めてしまい、円覚寺の開山無学祖元まで作ってしまった。 私は作りたいと思ったら需要など考えない。感心されるぐらいなら呆れられた方が。と常々思っているが、作りたい、という本気の想いに呆れ、笑顔にでもなってもらえれば何よりだと考えている。 長年あれをこれを作れば良かった、と後悔しながら死ぬことを恐れてきたが、高井和尚様の〝頼まれもしないのに“を思い出しながら、どうも私はそんなタマではないな?しなくても良い心配だった、と独りごちた。


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七百数十年前、建長寺の開山となった自作の蘭渓道隆像を持って鎌倉禅研究会に参加するため門をくぐるプレッシャーに、境内の満開の桜が桜に見えない。演台には参加者に向け蘭渓道隆像が置かれ始まることとなった。高井和尚様のご指導で椅子に座ってではあったが生まれて初めての坐禅を経験。一部は鎌倉国宝館の学芸員による『鎌倉地域の羅漢図』以前ブログに書いたが、男性ばかり作ってきた私が、最後に男の種々相を表現するには羅漢像を作りながら終わるのは良いと考えていた。2部の前に長辺150センチのプリント6カットを解説することに。近所の居酒屋で新聞を読むとしわくちゃになると知られていた私なので、ふげん社から送られてきたプリントは初めて開けて見た。大きすぎてテーブルに乗らないので畳に広げることに。2部『蘭渓和尚とその時代』蘭渓道隆の生まれ育った場所のスライドに釘付け。講師が荷が重かった『蘭渓録』の訳者の方だったので再び読む気になる。 改めて建長寺での展示をご検討いただくことに。去年の年末に亡くなった母がホームで高井和尚様にご恵投いただいた『建長寺物語』を膝に車椅子で寝ていた姿が思い出されてならなかった。
 
 


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