散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

天童

2010-09-30 | Weblog
博物館の寿命って、どれくらいだろう?

というのも、だんだん訪れるお客さんが少なくなるにつれて、カギを締めて
「予約制」にしてしまう博物館が、日本全国いたるところにあるみたいだから
・・・たとえば博多の元寇記念館がそうだったし、天童で訪ねた天童民芸館
(佐藤千夜子の生家)もその通り。


さすが将棋のまち、天童。

もともと、興味があるわけじゃなかったんだ。事情があって東北にいき、帰りに
1泊するのにちょうどよかったから天童に泊まって、せっかくきたから何か見よう
と、手元のガイドブックをめくってみた。


歩道のタイルが詰め将棋に!

2~3年前に古本屋さんで買った、1996年発行のJTB『ひとり歩きの東北』で、
天童のページに載ってた天童民芸館の紹介文がちょっと風変わりだった。

〇〇〇から×××まで何を展示しているかわからないけど、とにかくすごいもの
を見せられた気分になる不思議な空間・・・・・・といった紹介の仕方。


将棋下手の天童市民は大変?

ぼくが天童にきたのは1992年以来、18年ぶり2回目だって思い込んでたから、
将棋資料館みたいな定番観光スポットより、ちょっと変わったところが見たい。
そう思って民芸館に予約の電話を入れてみた。「予約制」とあったので。


期待通り! ポストに将棋の駒。

朝9時40分。そろそろかな? ホテルのチェックアウト前に天童民芸館に電話すると、
なぜか温泉旅館につながった。・・・つぶれたかな民芸館。ガイドブック古いし・・・。
めげずに一応、聞いてみる。「天童民芸館の予約はこちらでよろしいですか?」


電信柱にまで・・・・・・

「いま係の者がおりませんので、確認して折り返しでも、よ、よろしいですか?」
なぜか慌てる旅館のひと。民芸館、つぶれたわけではないらしい。約5分後、
地元訛りの早口のお爺さんから電話がかかってきた。何を言っているのか
よくわからないけど、要約すると大体こんな感じ(・・・だと思う)。

「まだ家にいるから開けられない、10時半すぎでいいか? 千夜子が見たいのか
将棋が見たいのか? 何が見たいんだ? 東京か? 何人だ? 1人?」

こいつわ、マンツーマン見学になっちまいそうな予感がしやがるぜ。


天童、もしや初めてかも?

千夜子って誰なのか、よくわからないけど、生家が天童民芸館ということはきっと
興味があるフリしたほうが見物するのに都合いいはず。そう考えつつ返事する。
これだから編集者というやつは信用できないのさ。


結論。天童じつは初めてだった!

なぜ天童にきたことがあると思い込んだのだろう? 山寺にも山形にもきたから
天童にもきたと思ったんだろうな。歩き回っても、ぜんぜん見覚えなかった。
再開発されたわけでもなさそうだし、完全に勘違いだ~~~!!

そうこうするうち、天童民芸館(NHK朝の連続ドラマ『いちばん星』佐藤千夜子の生家)
に到着した。お爺さん、もうカギを開けにきてくれたかな?


「人間将棋」の山のふもとに・・・

「天童民芸館は、昭和43年個人で市郊外の旧家を譲り受けて民具(昭和30年代以前)
を展示公開したのがはじまりである。その後、昭和45年に富山県五箇山から合掌造り
の多層民家を移築して見てもらうとともに、屋内に民俗資料を収集して展示した」

ということは、今年で42歳の厄年にあたる施設なのである。(博物館の寿命って・・・)


みーつけた!

「また昭和57年には、天童の生んだ歌姫・佐藤千夜子の生家(注/写真上)を移築して
関係遺品を展示しており、千夜子のヒット曲をテープで聞けるようにしている。これは
見学者から大好評を得ていることの一つである」

つまり、昭和57年(1982年)頃がこの民芸館の全盛期と思っていいのではないだろうか。
以来、四半世紀とちょっと。(博物館の寿命って、どれくらいだろう?)


中に入る前に様子を伺う。なんとなく、待たれている?

「日本の流行歌手第1号・レコードアイドル歌手佐藤千夜子は、1897年(明治30年)
3月13日天童市一日町に生まれ、子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、賛美歌
を歌う。14歳で上京。ミッション系の普連土女学校、青山女学院と進み、オペラに感銘を
受けて音楽を志す。1920年(大正9年)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、
聖歌隊員として賛美歌を独唱したところ、作曲家の中山晋平に見出された」

歴史上の人物ぽいのキター(・∀・)イイヨイイヨー!


全国カラオケ大会?

思い切って、中に入ってみる。

「昭和30年代までの生活用品」・・・といっても、映画『ALLWAYS 3丁目の夕日』
でみた東京下町の生活用品と、また違った趣がある。「昭和の世界」というよりも
「明治・大正の世界」という感じ。


案の定、お客さんは他に誰もいない様子。

奥からお爺さんが、ゆっくりした足取りで出てきた。「いらっしゃい。お電話くれた方?
もう天童は大体見て回ったの? いつまでいるの? 千夜子のファン?」といったことを
地元訛りの早口でしゃべっている(らしい)。「まぁ、ゆっくり見て行って。ここはね・・・」


千夜子はクリスチャンだった。

「・・・昭和43年に亡くなった千夜子の生涯が、昭和52年にNHKで朝の連続ドラマになってね、
『いちばん星』って見たことある? ない? ないの? もう30年ちょっと前になるからね・・・
だんだん来る人の数が減ってきてね・・・昔は観光バスでお客さん大勢来たけど、いまはもう
ほとんど来なくなったから、普段はカギ閉めてね、電話で予約くれた人にだけ、カギ開けて
見てもらうことにしてるの。入場料500円ね。はい、ありがとうどうも。ゆっくりしていって」


鴨居には四十七士が勢ぞろい。

ゆっくりしていって、ゆっくりしていってと何度も声をかけにくる。何やら急かされている感じ?


こんなものまで展示してある。

「ゆっくりしていって。2階もありますから」・・・「ゆっくりしていって。離れもありますから」・・・
「ゆっくりしていって。離れでは千夜子のレコードをテープで流しますから」・・・

うるさいな! きっと千夜子の歌が聴かせたくて、聴かせたくて、聴かせたくて、聴かせたくて
カギを開けて待ち構えていたんだな? (これは一通り聴くまで帰れないぞ)


2階は1階に比べて明るい。電話機がズラリ。

さて、千夜子は1921年(大正10年)24歳のとき、中山晋平、野口雨情らと全国歌の旅に参加し、
中山晋平とつきあい始める。3年後、帝国ホテルの「中山晋平作品発表会」で歌手デビュー。
27歳だった。1926年(大正15年)、NHKラジオ放送で「中山晋平作品集」を歌う。29歳。

当時まだレコードが登場していないから、歌手活動といえば地方興行とラジオなのね。


蓄音機は千夜子の魂のコレクションだったんじゃないか?

1927年(昭和2年)、千夜子が30歳のとき初めてレコード会社「日本ビクター」が設立され、
翌年「日本ビクター」の第1号レコードとして佐藤千夜子の「波浮の港」が発売された。
おそらく蓄音機を持っている家庭はすべて、彼女のレコードを買ったであろうという。

日本のレコード歌手第1号の誕生で、芸名を「佐藤千夜子」としたのも、このときらしい。
ちなみにコマーシャルソング第1号を歌ったのも彼女で、いまのカルピス(当時は別の名前)
のラジオCMソングを、レコードデビュー前に歌ったらしい。音源はカルピスの会社にも
残っていないとか。

あとでお爺さんが見せてくれた「波浮の港」のレコード盤には、「新民謡」と書かれていた。
いわゆる「歌謡曲」は、そのころ「新民謡」と呼ばれていたんだって。


将棋の歴史まで展示されるとブログ長くなるから・・・

映画主題歌の第1号も彼女で、1929年(昭和4年)、32歳のとき歌った「東京行進曲」がそれ。
ほかにも続々とヒットを飛ばし、古賀政男のマンドリン・ギター曲「影を慕いて」を世に出して
作曲家として大成するきっかけを作るなど、人気絶頂の1930年(昭和5年)、33歳でイタリアに
オペラ歌手の修行をするため旅立つ。

ある意味、ロックな生き方だけど、目指すところはロックではなくオペラだった・・・。


駒作りの道具もズラリ。

3年ほどオペラ修行したが、イタリアで名声を得ることはできず、1934年(昭和9年)37歳で
帰国。しかし日本を留守にしている間に若手が台頭していて、レコードデビュー当時の勢いを
取り戻すことはできなかった。「プライドが高い人だったから・・・」お爺さんはレコードかけながら、
マンツーマンで語り聞かせてくれる。


離れには、こんなステージが!

レコードは傷みやすい(割れやすい)ので、カセットテープに吹き込んだ歌を、ステージ脇の
ラジカセ(上の写真)で聴かせてくれる。奥にある背広は、古賀政男の遺族から贈られたという
古賀のステージ衣装。そして右に掛かっているのが、千夜子のステージ衣装(の着物!)。


おしんもきたよ!(朝ドラつながり?)

戦時中は、戦地訪問団員として慰問をして回った。1939年(昭和14年)、42歳ぐらいからだ。

そういえばNHKの朝のドラマって、ちょっと前まで「大戦中の暮らし」が必ず描かれてたね。

すごいのは1943年(昭和18年)、46歳のとき南方の戦地へ慰問に向かう途中で船が沈んで
5日間も太平洋を漂流したこと。日本海だったらカラダが冷えて死んでいたかもしれないが、
たまたま戦艦「大和」に助けられて、山本五十六の前で歌ったとか。

その後も71歳まで生きて、昭和43年に新宿の都立大久保病院で亡くなり、天童民芸館の
隣にある天童教会共同墓地に埋葬されているそうだ。


安らかにお眠りください。

カセットテープを取り替えつつ、千夜子の歌を説明しながら、マンツーマンでお爺さんが
DJトークした内容は大体そんなところ。疲れたでしょ? 直に聞いたら、もっとだよ?

でも、お爺さん、ありがとう。予約制でこれからも、がんばって!

そして天童は初めてだったみたいなので、駅前にある将棋資料館にも一応いきました。
織田信長の子孫が、関が原のあと領地変えを繰り返し命じられて、幕末に天童にくると
たった2万石・・・。困窮した武士が内職で始めた将棋の駒作りが、そもそもなんだって。
意外に歴史は新しい。明治・大正に育った工芸品がブランド化したのは昭和。しかし、
平成になって廃業する家も多いという。


やたら駒数ある! できるんだろうか、こんな将棋。
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