CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

岩国の人材を育てた英国人教師Herbert Augustus Stevens(改訂版)

2021年04月28日 04時04分01秒 | 岩国情報

2005年1月19日に表題と同じブログ記事を書いています。

今回、新たな資料も加えて書き直すことにしました。

明治4年(1871)2月2日、岩国藩は人材育成の重要性から、藩校養老館の精神を引き継ぐ

藩立岩国学校を開設した。小学、中学に加え語学、女学、医学を備える先駆的な体制

であった。しかし、問題が一つ。岩国には外国語の教師がいなかった。そこで藩主の

吉川経健は私費の家禄から経費を捻出し、現在の価値で200万円ともいわれる月給を

払い、英国人教師(Herbert Augustus Stevens以下、スティーブンス)を雇用した。

明治4年5月27日契約、8月16日から勤務。勤務地は岩国英国語学所

その英断が、日本の電気の父と称される藤岡市助(東芝創業者)など、岩国は

もとより、国の発展をかなえる多くの人材を生むことに繋がった。

以下は以前に書いた記事を再掲

英国人教師Herbert Augustus Stevens
(1847 3/27---1878 5/3病死)
明治4年(1871)5月27日より明治6年(1873)8月23日までの
2年間Stevensは山口県出張御雇教師として英語にて物理、化学
歴史、地理を教えた。場所は現在岩国資料館となっている当時の
岩国学校である。
藤岡市助(日本のエジソン---東芝の創始者)、大屋権平(鉄道の発展に
寄与)、山県修(大阪造幣局)、江木哀&渡辺安積(中央大の創立に
参画)他多くの有名人を傑出した。
彼は2年間の契約終了後は神戸の裁判所に勤務している。
彼の墓は神戸市立外人墓地にある。
岩国ではStevensの後、仏人ミットンが外人教師となっている。

上の写真は明治4年(1871) or 明治5年(1872)に撮影された写真をもとに

上田えいこさんが描いたイラスト画 「スティーブンスと弟子」 

出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

岩国観光振興課のサイトにベースとなった写真が掲載されていましたのでリンク

させていただきました。

このサイトにはステーベンス先生の略歴、功績についても記載されています。

 たった2年の 偉大な学校 岩国英国語学所 | 岩国観光振興課-岩国 旅の架け橋 (iwakuni-city.net)

 

上の写真は明治前期の岩国小学校の全景 出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

右手上に岩国学校があった現在は岩国学校教育資料館となっています。

上の写真は「追憶」と名付けた筧良一郎さん撮影の作品 岩国学校のイメージ

出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

 

H.A.スティーブンスの生没年月日と墓所

 生まれ:1847年3月27日 英国海峡Jersey島(ジャージー島)St.Helierで生まれる

 没年 :1878年5月3日(31歳、神戸で死去)

 墓所 :神戸市立外国人墓地 (O 4-25)機会をつくり墓参したい

 

岩国学校(外国語学所)での報酬(2年間)

 期間:1871年(24歳)から1873年の2年間

 報酬:支度金 100ドル、初任より6か月 月100ドル 次の6か月 月150ドル

    2年目は 月200ドル  2年間無事に満了時 300ドル

 時間:日曜日と祭日を除き 毎日 6時間 (実際には朝から16時まで)指導

 

岩国学校での指導科目

  英語、仏語、数学、代数学、地理学、史学、天文学

  指導はすべて英語で教えられた

 

スティーブンスの弟子

 藤岡市助をはじめ、帝国図書館(現・国立国会図書館)初代館長となった田中稲城

 中央大学を興した法律学者・渡辺安積及び江木哀、日本の鉄道発展に貢献した

 大屋権平、大阪造幣局で技師として活躍した山県修、など優秀な人材を輩出した。

 その他弟子で名前が判っている人物は小田周太郎、栗屋雪城、笠井環、佐伯成言

 

 藤岡市助については下記ブログで纏めています。

  日本のエジソン 藤岡市助 山口県岩国市が生んだ偉人 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

  岩国市岩国美術館前に建立された日本のエジソン藤岡市助博士の銅像 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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岩国市岩国美術館前に建立された日本のエジソン藤岡市助博士の銅像

2020年12月03日 04時11分31秒 | 岩国情報

久しぶりに岩国情報に関する記事を投稿します。

テーマは2014年3月25日に建立、除幕式が挙行された「藤岡市助博士の銅像」です。

銅像は現地で写真を撮ったものではなく、Googleのストリートビューでバーチャル

訪問したものです。

上の2枚の写真が藤岡市助博士の銅像です。 Googleストリートビュー(2018年4月)

岩国美術館の前、岩国城に登るロープウェーの横にあります。

駐車場側からが正面(上の写真)、岩国美術館側からは裏面(下の写真)

写りが悪いので2014年5月の広報いわくにに掲載の除幕式(2014年3月25日挙行)の

時の様子を紹介した写真も添付しておきます。(下の写真)

2014年3月25日の除幕式は福田良彦市長、東芝の田中久雄社長など関係者150人が出席

して盛大に行われたようです。台座には「明るい未来へ」と書かれています。

銅像は藤岡市助博士顕彰会が岩国市出身の彫刻家「小川幸造さん」に依頼し制作された。

銅像の建立費用は500万円で東芝と東芝ライテックが寄付したものである。

寄付に関する記事は下記サイトをご参照ください。

 東芝:ニュースリリース (2013-09-25):岩国市に建立される藤岡市助博士の銅像への寄付について (toshiba.co.jp)

今迄に添付した銅像の写真では顔の表情が判らないのでたくさんの銅像写真を紹介

しているサイトにリンクさせていただきました。

 藤岡市助博士像 クチコミ・アクセス・営業時間|錦帯橋周辺【フォートラベル】 (4travel.jp)

藤岡市助博士(1857-1918)は「日本のエジソン」「日本の電気の父」と称され、

岩国出身の偉人です。

以前に「日本のエジソン 藤岡市助 山口県岩国市が生んだ偉人」と題してブログ

を書いていますが再掲載し、藤岡市助の業績を紹介します。

 

上の写真が藤岡市助先生である。

まず、Wikipedia(一部加筆)より藤岡市助氏のプロフィールを紹介したいと思います。

安政4年 3月14日周防国玖珂郡岩国町大字錦見 (現在の岩国3丁目15-5)
(1857)  岩国藩士藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。
  
慶応元年 藩校の養老館に入る。
(1865)

明治5年 岩国県語学所で英語の読書や会話、習字、算術などを学ぶ
(1872) 特にイギリス人の英語教師 スティーブンス先生の指導によるところが
       大きかった。

       スティーブンス先生については小生のBlogにて紹介
    スティーブンス先生(Herbert Augustus Stevens氏)は岩国のあと
    神戸の裁判所に勤務されています。墓は神戸の外人墓地にあります。

明治8年 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。合格者は6名であった。
(1875) 在学中にウィリアム・エドワード・エアトン教授に学び、学生として1878年3月25日
      の銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。
       この日は電気記念日となっている。

   ウィリアム E エアトン教授の紹介は小生のBlogにて記載
明治13年 電信技術の教科書「電信初歩」を書く。(23歳)
(1880)

明治14年 名称が変わった工部大学校を首席で卒業。(24歳)
(1881)   卒業論文は「測定器ガルバメーターに就いて」。工部大学校の助手に就任する。
        この頃、東芝創業者となる田中久重に会う。

明治15年  銀座大倉前で2000個のアーク灯を点灯する。
(1882)

明治16年  アーク灯用の発電機を設計製作。
(1883)

明治17年  工部大学校教授に就任。物理学、電信学を教える。(27歳)
(1884)   フィラデルフィア万国電気博覧会を視察し、ニューヨークに立ち寄り
        トーマス・エジソンに会う。

明治19年  帝国大学工科助教授に就任。同年に辞職し、山尾庸三
(1886)   尽力で東京電燈を設立する。
        東京電燈の設立には矢島作郎、三野村利助、大倉喜八郎、原六郎、
        柏村信、蜂須賀茂韶が参加し、設立されようとしていた「日本電灯」も合流している。
        合流には渋沢栄一が関わっている。
        発電機の交流直流論争において、岩垂邦彦が親交の深かったエジソンに
        逆らってもニコラ・テスラの交流に賛意を示したのに比べ、東京電燈の
        技師長であった藤岡がエジソンの直流側についたのも有名である
        (但し、藤岡の説得で財界シンジケートが組まれて資本投下をされていた為、
         後戻りできなかった事情も窺える)。

明治23年  三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。
(1890)   電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る。
        日本電気協会会長、東京電気社長、岩国電気軌道社長などを歴任。

同郷の先輩に江木千之氏がおり電球製造の後援者となる。

上の写真は藤岡市助先生の4回の欧米視察についてまとめたパネルの写真です。
(岩国学校資料館に展示)

第1回 明治17年(1884)8月~12月 フィラデルフィア万国電気博覧会とアメリカの
                          電気業界視察。

第2回 明治19年(1886)12月~翌年6月
       東京電灯会社の技師長として矢嶋社長と欧米各国を視察
       イギリスのスワン会社の電球製造機を購入

第3回 明治31年(1898)2月~12月
       東京電灯会社と帝国大学工科大学を辞職した市助は、自らの研究を自由に
       進めていくための視察を行った。
       電気鉄道や電球、水力発電については特に観察と調査研究を重ねた。

第4回 明治39年(1906)3月~翌年9月
       吉川男爵など5人の同郷の人達や途中合流した長男の圭助と共に欧米諸国
       を巡り、高速電気鉄道や電球製作、大型水力発電所等を視察し各国の
       先進技術に触発された。


上の写真は岩国学校資料館での展示で、藤岡市助先生が愛用していた机と椅子。

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日本のエジソン 藤岡市助 山口県岩国市が生んだ偉人

2010年09月15日 09時52分18秒 | Weblog
本日は日本のエジソンと呼ばれ数々の電気製品を生み出し東芝の創業者をサポートした
ことでも功績のあった山口県岩国市が生んだ偉人 藤岡市助氏を紹介します。

上の写真が藤岡市助先生である。

まず、Wikipedia(一部加筆)より藤岡市助氏のプロフィールを紹介したいと思います。

安政4年 3月14日周防国玖珂郡岩国町大字錦見 (現在の岩国3丁目15-5)
(1857)  岩国藩士藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。
  
慶応元年 藩校の養老館に入る。
(1865)

明治5年 岩国県語学所で英語の読書や会話、習字、算術などを学ぶ
(1872) 特にイギリス人の英語教師 スティーブンス先生の指導によるところが
       大きかった。

       スティーブンス先生については小生のBlogにて紹介

    スティーブンス先生(Herbert Augustus Stevens氏)は岩国のあと
    神戸の裁判所に勤務されています。墓は神戸の外人墓地にあります。

明治8年 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。合格者は6名であった。
(1875) 在学中にウィリアム・エドワード・エアトン教授に学び、学生として1878年3月25日
      の銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。
       この日は電気記念日となっている。

   ウィリアム E エアトン教授の紹介は小生のBlogにて記載

明治13年 電信技術の教科書「電信初歩」を書く。(23歳)
(1880)

明治14年 名称が変わった工部大学校を首席で卒業。(24歳)
(1881)   卒業論文は「測定器ガルバメーターに就いて」。工部大学校の助手に就任する。
        この頃、東芝創業者となる田中久重に会う。

明治15年  銀座大倉前で2000個のアーク灯を点灯する。
(1882)

明治16年  アーク灯用の発電機を設計製作。
(1883)

明治17年  工部大学校教授に就任。物理学、電信学を教える。(27歳)
(1884)   フィラデルフィア万国電気博覧会を視察し、ニューヨークに立ち寄り
        トーマス・エジソンに会う。

明治19年  帝国大学工科助教授に就任。同年に辞職し、山尾庸三の
(1886)   尽力で東京電燈を設立する。
        東京電燈の設立には矢島作郎、三野村利助、大倉喜八郎、原六郎、
        柏村信、蜂須賀茂韶が参加し、設立されようとしていた「日本電灯」も合流している。
        合流には渋沢栄一が関わっている。
        発電機の交流直流論争において、岩垂邦彦が親交の深かったエジソンに
        逆らってもニコラ・テスラの交流に賛意を示したのに比べ、東京電燈の
        技師長であった藤岡がエジソンの直流側についたのも有名である
        (但し、藤岡の説得で財界シンジケートが組まれて資本投下をされていた為、
         後戻りできなかった事情も窺える)。

明治23年  三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。
(1890)   電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る。
        日本電気協会会長、東京電気社長、岩国電気軌道社長などを歴任。

同郷の先輩に江木千之氏がおり電球製造の後援者となる。



上の写真は岩国学校資料館での展示で、藤岡市助先生が愛用していた机と椅子。


上の写真は藤岡市助先生の4回の欧米視察についてまとめたパネルの写真です。
(岩国学校資料館に展示)

第1回 明治17年(1884)8月~12月 フィラデルフィア万国電気博覧会とアメリカの
                          電気業界視察。

第2回 明治19年(1886)12月~翌年6月
       東京電灯会社の技師長として矢嶋社長と欧米各国を視察
       イギリスのスワン会社の電球製造機を購入

第3回 明治31年(1898)2月~12月
       東京電灯会社と帝国大学工科大学を辞職した市助は、自らの研究を自由に
       進めていくための視察を行った。
       電気鉄道や電球、水力発電については特に観察と調査研究を重ねた。

第4回 明治39年(1906)3月~翌年9月
       吉川男爵など5人の同郷の人達や途中合流した長男の圭助と共に欧米諸国
       を巡り、高速電気鉄道や電球製作、大型水力発電所等を視察し各国の
       先進技術に触発された。

藤岡市助先生に関するWebサイトへリンクさせていただきます。

 1.日本のエジソン toshiba sprit

 2.藤岡市助と電気鉄道


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岩国の人材を育てた英国人教師Herbert Augustus Stevens

2005年01月19日 05時54分28秒 | 岩国情報
英国人教師Herbert Augustus Stevens
(1847 3/27---1878 5/3病死)
明治4年(1871)5月27日より明治6年(1873)8月23日までの
2年間Stevensは山口県出張御雇教師として英語にて物理、化学
歴史、地理を教えた。場所は現在岩国資料館となっている当時の
岩国学校である。
藤岡市助(日本のエジソン---東芝の創始者)、大屋権平(鉄道の発展に
寄与)、山県修(大阪造幣局)、江木哀&渡辺安積(中央大の創立に
参画)他多くの有名人を傑出した。
彼は2年間の契約終了後は神戸の裁判所に勤務している。
彼の墓は神戸市立外人墓地にある。
岩国ではStevensの後、仏人ミットンが外人教師となっている。
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