標題の碑は吉香神社の西側に位置(日本庭園の入口)にあります。
明治維新の際に必死組(総督:東崇一 参謀:栗栖天山)を組織し
活躍した東沢寫、栗栖天山、南部五竹の三士の誠忠の
履歴が書かれている。
Wikipediaによれば
「東沢瀉、栗栖天山、南部五竹を岩国では三士と称する。
彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年(1892年)藩公および
旧藩有志により、吉香神社境内に三士誠忠之碑が建立された。」
とあります。
さらに東沢瀉について同じくWikipediaより引用しますと
「東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日(1832年11月1日)
- 明治24年(1891年)3月28日)は、日本の武士・儒学者(陽明学)
・岩国藩士。名を正純、通称崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、
明治になってから用いている。
天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。
藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。
その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。
文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の
学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、
尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に
兵制改革を進める。結果、岩国藩に精義隊(必死組より改名)・
日新隊・建尚隊・敬威隊の四隊が編成されることとなった。
しかし、精義隊隊士の粗暴な行動が問題になり、沢瀉と天山が
責任をとって自首、慶応2年(1866年)11月17日、両名は柱島へ
流罪となる。天山はまもなく柱島を脱出、後自決する。
沢瀉はそのまま柱島に留まり、明治2年(1869年)秋、戊辰戦争での
精義隊の活躍もあり赦された。
明治3年(1870年)10月、号を白沙から沢瀉に改め保津村に沢瀉塾
を開き、明治17年(1884年)までの14年間、後進の教育に尽くした。
現在も保津に記念館がある。
保津の記念館に関する小生作成のWebサイト1
岩国の偉人東沢瀉の像と偉業について小生作成のBlog
明治維新の際に必死組(総督:東崇一 参謀:栗栖天山)を組織し
活躍した東沢寫、栗栖天山、南部五竹の三士の誠忠の
履歴が書かれている。
Wikipediaによれば
「東沢瀉、栗栖天山、南部五竹を岩国では三士と称する。
彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年(1892年)藩公および
旧藩有志により、吉香神社境内に三士誠忠之碑が建立された。」
とあります。
さらに東沢瀉について同じくWikipediaより引用しますと
「東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日(1832年11月1日)
- 明治24年(1891年)3月28日)は、日本の武士・儒学者(陽明学)
・岩国藩士。名を正純、通称崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、
明治になってから用いている。
天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。
藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。
その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。
文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の
学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、
尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に
兵制改革を進める。結果、岩国藩に精義隊(必死組より改名)・
日新隊・建尚隊・敬威隊の四隊が編成されることとなった。
しかし、精義隊隊士の粗暴な行動が問題になり、沢瀉と天山が
責任をとって自首、慶応2年(1866年)11月17日、両名は柱島へ
流罪となる。天山はまもなく柱島を脱出、後自決する。
沢瀉はそのまま柱島に留まり、明治2年(1869年)秋、戊辰戦争での
精義隊の活躍もあり赦された。
明治3年(1870年)10月、号を白沙から沢瀉に改め保津村に沢瀉塾
を開き、明治17年(1884年)までの14年間、後進の教育に尽くした。
現在も保津に記念館がある。
保津の記念館に関する小生作成のWebサイト1
岩国の偉人東沢瀉の像と偉業について小生作成のBlog
また、思いましたのが、錦帯橋・吉香公園一体が、ふるさとの誇りが自然に認識できるような一帯となっていることに感銘を受けました。あの場所に行けば、吉川氏ならびに岩国出身の偉人の徳に触れるように出来ている。前に行ったときはそんなに感じませんでしたが、今回はその思いを強くしました。私は、宇部在住ですが、分散していてそのような思いを持たせる場所がありません。考えると、もしそのような場所をつくるのだったら、「常盤公園」だろうと
勝手に思っています。宇部の歴史も、気概に満ちた非常におもしろい歴史です。気概の継続こそが新しい未来を切り開く大きなポイントであると思いますし、そのような教育を行いたいな
と考える次第です。
再び丁重なコメントをいただきありがとう
ございました。
岩国には6年しか住んでいませんが、今も
なつかしく思い出します。
今後とも宜しくお願い致します。