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福原越後殉難の碑

2004年12月12日 06時19分57秒 | 岩国情報
福原越後元(モトタケ)は、禁門の変で苦境に陥った藩を
救う為、岩国市の竜護寺で元冶元年(1864)11月12日
切腹しました。禁門の変=蛤御門の変
長州藩は幕末皇室に忠節を尽くした結果、朝廷で重んじ
られるようになっていました。
孝明天皇は幕府が勅許を得ずに諸外国と通商条約を
結んだことを非難され、勤皇の志を持つ諸藩に倒幕攘夷
の密勅を出されました。
諸藩は幕府に遠慮して動かなかったが、長州藩だけは
下関で外国船を砲撃するなど攘夷を決行しました。
その後、朝廷の方針は倒幕攘夷と公武合体との間を
揺れ動きます。文久2年(1862)薩摩藩の島津久光は
兵600名を率いて上洛し、公武合体、幕政改革について
建白書を提出しました。朝廷も幕府も久光の脅迫に屈し、
これから薩摩藩の横行がはじまります。
そして、尊王攘夷派の長州藩は朝廷から追い出されました。
長州藩は朝廷に対して「我々の忠誠心に変わりはなく、
以前のようにお役に立たせていただきたい」と陳情する
ことにしました。元治元年(1864)、福原越後ら三家老
(三家老は他に国司信濃(親相)1842-1864と
益田右衛門1833-1864)は藩主(毛利敬親公)の命を受け
約2千人の兵を率いて上洛し、参内を願い出ます。幕府は、
参内を許さず薩摩・会津・桑名藩兵で各門を守らせました。
これに対して長州藩は蛤御門を強行突破しようとした。
争いの最中に長州藩の放った砲弾が御座所の傍に落ち、
「長州は逆賊であると天皇が激怒された」という話が
伝わり、長州藩の戦意は俄かに落ち退却した。
勢いに乗った幕府は、勅命を得て全国の藩に長州征伐の
命令を出します。(第一次長州征伐)
この時、「三家老の首を差し出して恭順すれば許す」という
幕府の条件を呑まざるを得ませんでした。
三家老は藩を救うために切腹しました。
しかし、この屈辱に奮起した高杉晋作らは、民衆を集めて
奇兵隊を組織し、 2年後に再び行われた第二次長州征伐で、
(長州側からは四境の役という)
幕府軍を散々に打ち破って明治維新の基を開きました。
殉難の碑は大正12年4月28日に吉川氏より福原越後の功績を
称え沖原光孚撰の文を碑にした。正3位勲1等功2級
福原越後は文化12年(1815)8月28日徳山藩主毛利広鎮
(ひろしげ)の6男として生まれ永代家老福原家の養子になり
福原家を継いだ。
福原家は広島福井村の豪族であったが戦国時代に毛利の武将
となり寛永2年(1625)には10,125石を領していた。
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