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勝・西郷の会見の地と江戸城無血開城

2006年12月03日 07時50分16秒 | 旅行記

上の写真は明治維新の前慶応4年(1868)3月14日に行われた陸軍総督の
勝安芳(海舟)46歳と軍参謀の西郷隆盛42歳の会見の様子を記した
モニュメントがJR田町駅の近所15号線沿いの都営地下鉄浅草線三田駅の
上あたりにあります。
当時このモニュメントのある場所は薩摩藩の江戸屋敷のあったところで、すぐに
自然の海岸線に面していたそうである。会見の場所は蔵屋敷。
明治5年(1972)鉄道も敷かれ更に埋め立てが進み現在は海岸線からは
遠くなっています。

1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川家の運命はもはや風前の灯火であった。
徳川慶喜(32歳)は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、
これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に
臨む覚悟でいた。
新政府軍による江戸城総攻撃は3月15日と予定されていたが、会見で
西郷が勝の「公のために」という説得を受け入れ、1868年(慶応4年)
4月11日に江戸城は開城され、新政府軍に明け渡された。
これにより江戸100万の民は戦禍を免れた。

西郷が出した条件は、「4月11日までに、慶喜は水戸に引きのき、
謹慎せしむべきこと、武器、軍艦等を一旦官軍に引き渡すこと」などの、
5か条の条約。
しかし、旧幕府軍にとっては納得のいかない開城だったことも
事実であり、海舟は、自ら海軍局に赴き、きちんと明け渡しが完了するまで
監視していたという。


表舞台は上記のようであるが裏の立役者は山岡鉄舟。
高橋泥舟、勝海舟と並び、幕末の三舟と称された男である。
その山岡が、わずか2~3人の部下と共に官軍の本陣(駿府)に赴き
西郷隆盛と直談判した結果なのである。

こうして明治新政権は1868年9月8日に誕生した。




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