CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

村上帝社と琵琶塚 on 2022-4-7

2022年04月14日 05時48分33秒 | 神戸情報

山陽電車須磨駅から国道2号線沿いに東に歩くと赤い鳥居の横に「村上帝社 琵琶達人師長」

と書かれた石碑があります。(下の2枚の写真 赤鳥居の左下の石碑 撮影:2022-4-7)

これより添付した写真は特別注記しないかぎり2022年4月7日の撮影です。

2022年4月7日、上述の村上帝社と山陽電鉄の線路北側に現在は市立須磨の浦地域福祉センター

の敷地内に琵琶塚の碑があります。もともと前方後円墳がありその形が琵琶の楽器の形に

似ていたことから琵琶塚と呼ばれるようになったという説があります。

本日は村上帝社琵琶塚をテーマに書いていきます。

村上帝社

 所在地住所:神戸市須磨区須磨浦通4

 村上帝社は「天暦の治」と称される天皇親政で知られる村上天皇(在位946~67年)

 が祀られています。

まず、概要を把握するために西須磨協議会が現地説明板を作成されていますので添付。

(下の写真)

この社(やしろ)にはつぎのような伝説があります。その伝説のひとつが謡曲
絃上(げんじょう)」(玄象)でうたい語られ、広く世に知られております。
『平安期の末期、太政大臣藤原師長(ふじわらのもろなが)は琵琶の名人で
あったが、さらに奥義をきわめたいと入唐の志をもってこの須磨の地まで来ました。
ところが村上天皇と梨壷女御(なしつぼのにょご)の神霊が現れて、琵琶の
妙手を授けたので入唐を思いとどまり帰京した。』といわれております。
一説に『籠宮から師長に捧げた琵琶の名器〈獅子丸〉を埋めた場所である。』
とも伝えられています。いずれにしても、村上天皇にまつわる
伝説からこの地に村上天皇を祀り、神社としたもので、この地はもと前方後円墳が

あり、その形が琵琶に似ているのでこのような伝説に結びついたとも言われています。
帝社への参道の左角に古い標石が建っており、それには、正面に
『村上帝社琵琶達人師長』と刻まれています。
村上天皇の命日にあたる五月末には例祭が行われます。西須磨協議会

ここで琵琶の名手として知られる藤原師長(ものなが)(1138~1192)について簡単に

触れておきます。村上帝社の本当の主役は村上天皇ではなく藤原師長である。

日本大百科全書(ニッポニカ)「藤原師長」の解説(一部改変)

平安後期の政治家、音楽家。左大臣頼長(よりなが)の長男で、1156年(保元1)父に連坐(れんざ)して土佐に流されたが、のち召還され、1177年(治承1)に太政(だいじょう)大臣の位まで昇るが、79年には平清盛によって追放され、尾張(おわり)で出家した。法名理覚。世に妙音院(みょうおんいん)太政大臣という。源家(げんけ)と並ぶ郢(えい)曲の流派の一つ藤家(とうけ)の出身で、音楽的才能にも恵まれ、『十訓抄(じっきんしょう)』や『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には早くから管絃(かんげん)や歌曲に長じたことが記されている。箏(そう)と琵琶(びわ)の名手で、箏では『仁智要録(じんちようろく)』、琵琶では『三五要録(さんごようろく)』という各12巻からなる譜集を編纂(へんさん)し、抄出した『仁智要略』『三五要略』とともに後世に伝えられる。また今様(いまよう)は源資時(すけとき)と並ぶ後白河(ごしらかわ)法皇の後継者、声明(しょうみょう)と朗詠(ろうえい)では新しく妙音院流をおこした。

 

 

上の写真は村上天皇を祀った村上帝社の祠

上の写真は村上帝社の本社の左手にある末社の天降稲荷神社

「天下りの稲荷」と解釈されるような名前です。 すなわち定年を迎えた官僚が、良い

天下り先に恵まれるようにと・・・お参りにどうぞ来てください。

多分実際は神様が天から降りてこられると解釈すろのでしょうが----

謡曲「玄象」(絃上)と村上帝社

上の写真は謡曲「玄象」(絃上)と村上帝社についての現地説明板

そのまま転載します。

琵琶の名手太政大臣藤原師長は、唐(中国)に渡りなおも奥儀を極めたいと願い、

都を出立して須磨の汐汲みの老夫婦の塩屋に宿る。夫婦の奏でる秘曲「越天楽」の

「感涙もこぼれ嬰児も躍るばかり」の神技に感じ入った師長は、渡唐を思い留まった。

この老夫婦は、名器絃上の所持者村上天皇と梨壷の女御が、渡唐を止めさせる為に

師長の前に現れた精霊であった。やがて村上天皇が本体を現わし、龍神を呼んで

今一つの名器獅子丸の琵琶を持参せしめて師長に授け、喜びの舞をなし給うという、

国威宣揚を意図して描かれた曲である。村上帝社は、摂関政治を抑え、文化の向上や

倹約を旨とされて「天暦の治」として名高い天皇らしい社である。師長の名器獅子丸を

埋めた琵琶塚は、もと境内にあったが今は線路で二分されている。

                        謡曲史跡保存会

 

琵琶塚

 所在地住所:須磨区千守町1丁目1−20 (須磨浦地域福祉センター)

 

上の2枚の写真は須磨浦地域福祉センターの前にある琵琶塚の石碑の遠景と近景

田辺眞人著 伝説の須磨のPage30、31より琵琶塚の伝説について要約引用する。
今から800年ほど前、京の都に太政大臣藤原師長(もろなが)という琵琶の名人が
いました。彼はもっと上手になることを願い唐の国に行って勉強しようと考えました。
藤原師長が使用していた琵琶は「獅子丸」と呼ばれる立派なものでした。
藤原師長がそれを持って京より須磨へやってきた時あたりはもう暗くなってある漁師の
家にとめてもらうことになりました。
その夜、漁師の夫婦にたのまれ藤原師長が琵琶を弾いていると老夫婦の姿がぼおっと揺れ
たちまち別の人の姿に変わってしまいました。
それは200年ほど昔にいた村上天皇と梨壺女御(なしつぼのにょご)のお姿でした。
2人は「師長、そなたにすばらしい琵琶の腕前をあげよう。その代わりに唐の国に行くのは
やめて、ここから都に帰りなさい」と言いました。
藤原師長は驚いているうちに2人は消え、また藤原師長が琵琶を弾いてみると自分でも
驚くぐらい自分の腕前があがっていました。
藤原師長は自分の腕前に満足し「獅子丸」をこの地に埋めここから京の都に帰って行った
ということです。
西須磨の村人はその漁師の家のあとに村上天皇を祀る小さな神社を建てました。

琵琶塚は神戸市兵庫区の史跡清盛塚の敷地内にもあります。

平敦盛の兄で琵琶の名手であった平経正の琵琶塚です。(下の写真 撮影は2008年8月頃)

従前にあったお地蔵様

上の3枚の写真は以前、村上帝社の右手にあったお地蔵様等の写真です。撮影は2007年

何時どこに移設されたかは未調査で不明。

最後にこのブログを書くきっかけになった資料名を添付して筆を置きます。

 1)神戸市立中央図書館 KOBEの本棚 第99号 2021年11月20日

   ランダム・ウォーク・イン・コウベ99 「村上帝社と琵琶塚」

 2)渋谷武弘 歴史と神戸 第61巻第1号 350号 2022年2月1日 Page42-48

   「村上帝社と藤原師長 -琵琶の名手の数奇な生涯-」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする