CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

三田の街めぐり on 2018-6-17 その6 川本幸民先生 顕彰碑

2018年07月11日 04時45分45秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年6月17日、神戸電鉄を利用して三田へ出かけていました。
城下町 三田の街めぐりと題して過去5回、下記の記事を書いています。


過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社

第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望


第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺


第4回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その4 三田城跡

第5回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その5 元良 勇次郎 顕彰碑


シリーズ6回目として「川本幸民先生 顕彰碑」への訪問記を取り上げました。

顕彰碑は三田小学校の正門前に説明板と共に建っています。




上の2枚の写真は川本幸民の顕彰碑と説明板
顕彰碑は昭和28年(1953)に建立されました。
側面に略歴、背面に顕彰碑建立の発起人の名簿が記載されており写真を撮りましたが
判読が難しく不掲載とします。

Wikipedia(一部加筆)より川本幸民先生の略歴を引用紹介します。
川本 幸民(かわもと こうみん、1810 - 1871 )は幕末・明治維新期の医師および蘭学者。
名は裕(ゆたか)、号は裕軒(ゆうけん)。父は三田藩侍医の川本周安。
その業績から、日本化学の祖とも言われる。
幸民は化学新書をはじめとする科学技術分野の多数の書物を執筆した。専門性を基礎として、
白砂糖、マッチ、銀板写真の試作をし、日本における技術の発展に貢献した。
幸民は日本で初めてビールを醸造したと推定されている。
また当時用いられていた「舎密(せいみ)」の代わりに「化学」という言葉を初めて用いた
ことでも知られている。川本幸民は化学の他に蛋白、大気、軽金属、ブドウ糖、合成といった
今ではなじみの言葉を最初に用いた人物です。


同じくWikipedia他から年譜形式で川本幸民の足跡を辿っていきます。

文化7年(1810)三田足軽町で、藩医の川本周安の三男として生まれる。
文政2年(1819)数え年で10歳のとき藩校造士館に入り漢書や儒学を学び始めた。
文政10年(1827)木梨村(現在の加東市)で1年間、漢方医学を学んだ。
文政12年(1829)三田藩藩主の九鬼隆国に命ぜられ、西洋医学を学ぶため江戸に留学した。
        足立長雋、坪井信道らに蘭学を学び、医学の他に物理や化学にも精通した。

       ここで知り合った緒方洪庵とは終生友情により結ばれ、その門下の福沢諭吉
       とともに三田に大きな影響を与えた。
天保4年(1833)三田に帰郷し、父と同じ藩医に任じられた。青地林宗の娘、秀子と結婚した。
       しかし、その翌年に傷害事件に関係したことで6年間の蟄居を余儀なくされた。
       蟄居から解放された後も、2度ほど火事にあっており、文字通り幸民にとって
       不遇の時代であった。
       妻秀子の姉は坪井信道の妻、妹は高野長英の妻になっています。
弘化2年(1845)薩摩藩藩主の島津斉彬の誘いを受け兵学、理化学の蘭書の翻訳や講義
        義父で蘭学者の青地林宗が著した日本初の物理学書「気海観瀾」を改訂し
        「気海観瀾広義」と題してまとめた。物理の他、医学、天文を含む内容
嘉永元年(1848)幸民の『裕軒随筆』によれば、この年にに白リンマッチを試作している。
嘉永4年(1851)『気海観瀾広義』を皮切りに多くの翻訳を含めた著作を出版した。
       『遠西奇器述』という本を編訳刊行し、蒸気機関車、電信機、写真などを紹介
        自ら薬品と写真機を製作して銀板写真の撮影に成功した。

嘉永6年(1853)ビールの醸造に成功
        江戸浅草松葉町の曹源寺で開かれた試飲会には、桂小五郎、大村益次郎、
        緒方洪庵、橋本左内などが参加したと伝えられている。
安政元年(1854)薩摩藩籍となり薩摩藩校学頭も務めた。
       さらに造船所建造の技術指導のため実際に薩摩に赴いたとも伝えられている
        江戸の薩摩藩士向けに西洋の先端技術を講義。講義録は『遠西奇器述』
        この頃の弟子に、松木弘安(寺島宗則)、橋本左内等がいる。
安政2年(1855) 薩摩藩が、外輪式の蒸気船「雲行丸」を完成
安政6年(1859)東京大学の前身である蕃書調所の教授となった。
文久元年(1861)幸民の有名な著作『化学新書』を出版し、近代化学を日本に移入した。
       宇田川榕菴の『舎密開宗』と並び江戸時代の重要な化学書の一つとされる。
       化学新書は蕃書調所において教科書として用いられた。
明治2年(1868)幸民は三田に帰郷、私塾の英蘭塾を開校すると分校が出来るほど盛況となる。
明治3年(1870)7月、息子の清次郎の太政官出仕で英蘭塾を閉塾し共に再び東京に戻った。
明治4年(1871)6月1日、東京にて62歳で亡くなった
  墓所は雑司ヶ谷霊園(はじめ浅草曹源寺(カッパ寺)葬られたが、のちに改葬された)



上の写真は息子の清二郎と共に開いた英蘭塾に学んだ人物のリストです。
出典:心月院に掲示の資料


電子書籍 「蘭学者 川本幸民: 近代の扉を開いた万能科学者の生涯」著者: 北康利
が川本幸民先生について詳しく記述されていますのでリンクさせていただきました。
 https://books.google.co.jp/books?id=TDA1DwAAQBAJ&pg=PT133&lpg=PT133&dq=%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E6%B0%91%E3%80%80%E3%80%80%E9%A1%95%E5%BD%B0%E7%A2%91&source=bl&ots=A5ZD92uiTd&sig=khY-CLvp33kdgxPSVQW2Y2DF3Fc&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjVxuOVt5XcAhUBupQKHXWPC1k4ChDoAQgsMAE#v=onepage&q=%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E6%B0%91%E3%80%80%E3%80%80%E9%A1%95%E5%BD%B0%E7%A2%91&f=false

最後に九鬼隆義を中心とした人物相関表を添付して筆を置きます。

出典:三田ふるさと学習館の掲示パネル

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