団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

リコール

2018年10月31日 | Weblog

  高島屋から封書が届いた。何かの商品の案内だろうと一応封を開けてみた。気に入って使っているバルミューダのトースターのリコールに関してであった。バルミューダとデロンギは私のお気に入りの電化製品ブランドである。最近乗っているトヨタの乗用車のリコールがあり、部品の交換を受けたばかりである。手紙の指示通りに我が家のトースターの型番を調べてみる。K01A-KG。間違いない。リコール対象商品である。バルミューダ スチームオーブントースター BALMUDA The Toaster K01E-KG(ブラック)

 手紙の文章は続く。「無償製品交換プログラム」の文字に目が留まった。無償交換って新しいトースターにしてくれるってこと。価格は確か2万円以上したはず。もうすでに4年間使った製品だ。何の不具合も感じずに使っていた。ちまたでは最近の電化製品は5年でダメになると言われている。それに「この不具合による重大製品事故の発生は確認されておりません」とある。バルミューダ社思い切ったものだ。横で妻が言う。「何か事が起こってからやれ補償だ、訴訟で裁判だより、交換する費用なんて安いものよ」と嬉しそう。確かにそうかもしれない。しかし今回のバルミューダ社の判断はなかなかのもの。私は「バルミューダさん、やるではないか」とほくそ笑む。

 最近のデータ改ざんなどで日本企業の信用は失墜している。一社で改ざんやリコールが発覚すると次々に芋づる式に「実は我が社でも…」となる。企業文化というか企業気質というのかがどこもかしこも似かよっている。所轄官庁が規約や規定を必要以上に設定して、お上の権威を示そうとしているかにも見える。厳しい規定基準を施行しても、その後の査察は自分たちの天下りである何とか公益法人の何とか協会が取り仕切る。そんな協会のいい加減な査察を企業は、あの手この手で潜り抜けてきた。人間はずる賢い。法律や規則を守ろうとする人がいる反面、それらからどう逃れるかを考える。残念だが経営の上層部に昇り詰める人たちは、難関大学卒業した秀才が多く権力と企業業績を追及する。東日本大震災で福島の原子力発電所の事故の責任を裁判で問われている当時の東京電力の会長、フェロー、副社長の3人の態度言動こそ日本の企業トップのひな型である。お上がお上なら、企業も企業である。優秀な役人や企業人がこのていたらくで、日本が国際的競争で次々に牙城を崩されている現状が理解できる気がする。

 ネットで無償交換の手続きできるというので早速やってみた。すると即座に返信が届いた。「…尚、交換製品のお届けは、受付日から2~3週間程度を予定しております。ヤマト運輸が交換製品のお届けと同時に、今までお使いのバルミューダ製のトースターをお引き取りいたします。交換品の入った梱包箱を再利用して、ご愛用いただいておりました交換対象のトースター(型番K01Aシリーズ)をお引き取りいたします。引き取り時の詳しい方法は無償交換品のお渡し時に説明書を同封しております。今後ともバルミューダの製品をご愛用くださいますようお願い申し上げます。」 バルミューダの誠意を感じた。

 一旦リコールになると、企業も多額の費用と人手がかかる。購入者だって余計な心配をして、そのリコールための手続きで手間取る。こんなリコールをしないで済めばそれにこしたことはない。日本のモノづくり企業は、製品出荷まで職人気質の完全主義を貫いてほしい。


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ハズキルーペとセロテープ

2018年10月29日 | Weblog

  テレビの拡大鏡ハズキルーペのコマーシャルで渡辺謙が叫ぶ。「世の中の文字は小さすぎて読めない」 私は叫ぶ。「世の中のセロテープは透明で見えない」

 いつのころからかスーパーやデパ地下などで食料品を買うと頼みもしないのにビニール袋に品物を入れ、口をセロテープで留めてくれる。私はレジ袋が嫌いなので、自分の買い物袋かリュックサックを持参する。レジ袋はいらないと表示されたレジ横のカードを清算前カゴに入れても、商品のほとんどは個別にビニール袋に入れられる。それだけではない。袋の先端をねじるかまとめてセロハンテープで留める。このビニール袋は家にある『キッチンパック』のように半透明な薄い袋だ。おそらく商品から液や水分が漏れた場合を想定して気を利かせたのだろうが、これが家で問題を起こす。

 レジ袋や漏れ防護袋だけではない。例えばパック入りのサシミを買うとこれまた厳重にフタをしたりラップされたトレイに入れられて売られている。弁当、サシミ、肉、総菜、和菓子、シシトウとその数は膨大である。トレイには透明なフタがかぶせてある。家でこれらを開けるのが憂鬱なのだ。

 何が問題なのか。なぜ憂鬱になるのか。セロテープである。レジ袋にしろ、漏れ防護の薄い袋にしろ、トレイにしろセロテープを探すのが難しい。セロテープは透明である。袋やトレイが透明だと、そこにはられたセロテープは伊賀や甲賀の忍者の隠遁の術で姿を隠す。やっと探せても端っこから剥がそうと爪を立ててもなかなかめくることができない。もどかしい。端っこを捕まえたので引っ張る。セロテープの接着力は強い。セロテープが袋から離れない。袋のビニールが糸のようになるまで伸びる。切れない。あわよくばビニール袋を台所の流しのごみ入れにしようという魂胆で袋を現状維持したいと丁寧に扱っている。それなのにそんな気持ちは相手にされない。結局セロテープは、袋の再使用を不可能にするくらいに破れてしまう。

 透明なトレイのフタもセロテープで留められたら、そのいどころを見つけられない。ついセロテープで留められていることを忘れて強引にパックトレイを開けようとする。トレイが開くと脳は予測しているので、手は力任せに開けにかかる。急ブレーキがかかった車に乗っていたように動きが止められる。トレイのプラスチック蓋が破れる。破れるだけなら許せる。中身が飛び出す。セロテープがしっかり踏ん張ってフタとトレイをくっつけているのがここではっきり目に映る。

 私はセロテープにイチャモンをつけているのではない。使い方にモノ申しているのである。テープに色をつけるなりにして見える化を求める。たぶん却下されるであろう。薄利多売の競争激化の中、どの企業も経費削減に努めている。セロテープは透明だから安い。

 ハズキルーペはもう何年も前に購入した。ほとんど使わない。つけても老眼鏡よりよく見えない。メガネよりかけ心地が悪い。セロテープも常備している。便利なものだ。東海道新幹線の三河安城駅近くにセロテープの工場がある。大きな看板に「無くしてわかるありがたさ 親と健康とセロテープ」がある。すでにある「いつまでもあると思うな 親とかね」のことわざの引用かもしれない。陳腐だが会社は、自社製品に相当な自信を持っているのだろう。でもセロテープの使い方には改善の余地が、まだまだあるのでは。看板を目にするたびに私の頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」の看板が描かれる。ただ心配なのは、セロテープもビニールもプラスチックもゴミになると“ひとへに風の前の塵”と同じにならないことである。


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外国人労働者の受け入れ拡大

2018年10月25日 | Weblog

 友人からメールが届いた。「…フィリピンの介護士さんはボランティアの団体から頼まれました。楽しくBBQして、ケーキ食べて、たくさんお喋りしました。思っていたよりもずっと前から介護は日本に入っていたようです。将来的には香港シンガポール等と同じように家庭で外国人介護もあるようになると思います。ただし日本が経済的に行き詰まらなければですが。今でも地域の方達の事を考えて市役所と外国人のお手伝いさんなり、介護の話をしています。残念ながら意識がそこまでいってないのが実情です。問題はいくつかありますが、住宅問題です。メイドさんの部屋がなければ無理ですものね。…」

 友人はグループホームを経営していて、地域の民生委員でもある。私は以前から万が一長生きして介護を受けなければ生活できない事態になったらフィリピンの看護士か介護士の世話になりたいと思っていた。友人がフィリピン人の介護士を家に招くと聞いたのでどうしたらフィリピン人の介護士を雇うことができるのかを尋ねるメールを送った返事だった。

 日本政府は入管難民法を今度の国会で改訂して外国人労働者を受け入れを拡大したいと表明した。長期展望を持たない政府の付け焼き刃的な政策転換である。日本人の多くは、外国人を自分の生活圏に受け入れることができないと私は思っている。最近出版された星野ルネ著『まんが アフリカ少年が日本で育った結果』(毎日新聞出版定価1000円+税)を読めば私が言わんとすることが理解されるはずである。

 私は外国人が日本へ働きに来ること自体に反対しない。しかし日本という国で生活するのは、どうしても日本語という超えるに超えられない壁がある。肌の色、宗教、文化の違いがあっても言葉の壁がなくなれば、事はずっと緩和される。いきなり来日して働いても、差別や暴言にさらされるだけである。日本政府は、ただ労働年齢に達した労働者を受け入れようとしている。

  ではどうしたら良いのか。長野オリンピックで実施された『一校一国運動』を応用展開するのだ。言語習得の再適齢期は12歳前後と言われている。日本の中学校と高校それぞれで最低一人ので留学生を受け入れる。各学校がくじ引きで受け入れ先の国を決める。特に高校では農業科や機械科などの実業高校に日本で働きたい外国の若者を数多く受け入れる。現在地方の多くの学校は、過疎化と少子化で存続を危ぶまれている。私はカナダの高校へ留学経験がある。3カ月で生活に不自由しない英語を身に着けた。私の娘は8歳でアメリカの小学校に転校して半年で英語を不自由なく話せた。まず言葉ありき。言葉は、多くの外国人労働者を受け入れ後の問題解決のカギとなる。

  そもそも外国人労働者の受け入れをしなければならなくなったのは、国の少子化対策の失態である。日本が目指すべきは、あらゆる領域において国民の生活を現在の国会議員の処遇並みにすることである。ところが一足早くその恩恵にどっぷりつかってしまった議員たちは、議員に投票した選挙民の生活を自分たちと同じであると思い込んでいるかのような行動をとっている。日本の人口が増えていれば、外国人労働者の受け入れを拡大する必要はなかった。何事も後手後手。

  まず気を落ち着かせて、1年後2年後5年後10年後を見据えることではないだろうか。法律を変えるのは、その後でもよいのでは。外国人労働者受け入れ拡大問題に関して“急いては事を仕損じる”を諌言させて頂きたい。


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プリンス駅伝飯田怜選手と実業団

2018年10月23日 | Weblog

  10月21日に福岡県で開かれた「プリンセス駅伝 」をテレビのニュースで観た。画面に地面を四つん這いになっている女子選手が映し出された。音声はその選手が岩谷産業の飯田怜選手だと伝えた。飯田選手は両手両膝をアスファルトの道路につけてハイハイの姿で進む。次の選手にタスキを渡さなければ失格になる。残りは300mだと音声が言う。400mにも見えてしまう。飯田選手の膝から血が出ていた。大会役員らしき男性が伴走するかのように横に立ち、移動しながら飯田選手を見ていた。

 このニュースに多くの意見が寄せられたようだ。飯田選手が可哀そう。飯田選手の根性がすごい。監督はなぜ飯田選手を止めなかったのか。大会役員や審判は何をしていたのか。小心者の私は確かに飯田選手の膝の出血を見て動揺した。同情もした。と同時にそもそも実業団スポーツとはどういうものかという疑問に気が向いた。アメリカにマイクロソフトのフットボールチーム、GMの野球チーム、マクドナルドのバスケットボール、コカ・コーラのアイスホッケーチームとかあるだろうか。私は聞いたことがない。ネットで調べてみたが、やはりないらしい。実業団スポーツは、日本独自のものらしい。

 スポーツの世界では、選手はまず学校という括りに所属する。そこで頭角を現して活躍して認められれば、プロの世界に入ることができる選手がいる。これが世界では普通の流れであろう。日本には実業団スポーツという括りがあり、学校を卒業して、ある会社の社員になって、その会社のチームに所属してスポーツを続けながら会社にも勤務する。あわよくばプロから声がかかって移籍して本当のプロになれるかもしれない。

 スポーツの世界も甘くない。どんなに実力があっても怪我や病気で道を絶たれる選手は多い。有名になり活躍を続けられる選手は、少ないのが現実である。学生時代からスポーツに打ち込んだ選手の多くは、学業面では例外もあるが他の学生とは当然就職でも不利となる。プロになれても高収入を得られる保証はない。プロにはなれないがスポーツは続けたい。その願いを叶えるのが日本の実業団スポーツなのかもしれない。

 駅伝は日本発祥のスポーツである。世界に普及されていない。オリンピックの400mリレー男子が銀メダルを取ったようにバトンにせよタスキにせよ、なぜか日本人は個人がチームを組んで、その絆を生かして、人から人へ何かを渡すスポーツを好む。私も駅伝の中継をテレビで観だすと、どうしても最後まで観てしまう。アメリカ人の友人に言われたことがある。「こんなスポーツのどこがおもしろいの?」 私は答えに窮する。「…」

 世界にも類をみない駅伝というスポーツに私たち日本人は私たち自身の人生を重ねているのかもしれない。寂しい。悔しい。あいつは嫌いだ。どんな感情に振り回されようが、時間は進む。決められた運命(区間)を生きなければ、次につなげない。志半ばにしてバトン、タスキを止めなければならなくなる人もいる。それでも残った人は次につなげるために前に進む。

 飯田選手の健闘根性には感服する。しかしスポーツには規則がある。駅伝の規則を明確化する必要がある。それと多くの会社が実業団チームを作り、経費削減を理由に解散する。実業団チームに所属する選手にも、いつどこで身を引くかの見切り決断が必要なのかもしれない。


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カヤバ工業と面倒な検査後のやり直し

2018年10月19日 | Weblog

  もう何十年も前のことである。カナダのプラスチック部品成型会社でのことだった。注文先の会社から大量に不良品として返品されてきた。その工場の従業員は歓声をあげて喜んだ。なぜならこのことによって製造工程が止まるからだった。しばらくの間不良品の手直しに全員で取り組むからだ。製造より手直しの方が楽だった。カナダのその工場も労使の別がはっきりしていた。経営陣と労働者の間には、常に賃金や労働時間や諸条件での闘争があった。製品の誇りとか、自分の仕事への愛着とかとは無縁であった。

 今回、旧カヤバ工業(現KYBだが何でも英文字を使うのは嫌いなので、あえて旧社名で書く)が製造して納品設置した免振、耐震装置であるダンパーは、性能検査で適正なデータが出なかった際に、検査員がデータに不正な係数を加えて適切な数値になるように操作していたことが発覚した。製品を分解して調整し、組み立て直して再検査するなどの手順が必要になり、一連の作業は「平均5時間前後かかる」ため、納期に間に合わせようとして不正を行ったとみられている。

 テレビのニュースでカヤバ工業の社員が5時間の作業やり直しを面倒くさがって検査数値を操作したと知って、カナダの会社での出来事を思い出した。日本人はモノづくりに誇りを持つと信じていた。私の父も職人だった。父が職人であることで高校の同級会でバカにされたことがある。多くの日本人の頭の中は未だに江戸時代にとどまり“士農工商”の階級がこびりついている。ちなみに私をバカにした者の家は商家だった。職人だった父親の口癖は、「職人は段取りだ」と「自分が納得しない物は客に渡さない」そして「損して得取れ」だった。その頑固さで損を繰り返す父は、父の頑固さにあきれ果てた母親とよく喧嘩になった。少しの客ではあったが、父の職人気質を認めてくれた客もいた。

 カヤバ工業には、もう職人気質の労働者はいないのだろうか。ましてや免振、耐震装置は、命に係わる製品である。日本のような地震の多い国では、これらの装置がますます多く設置されるに違いない。カヤバ工業は、5時間のやり直しを面倒くさがって、長年にわたって築いてきた会社の信頼と評判を失った。不正検査で出荷設置した装置は、現時点で1000件を超している。すべての装置のダンバーを交換できるのは、2021年になるという。これから3年以上かかる。5時間を惜しんで3,4年を苦しむ。会社の存亡に関わる。

 カヤバ工業だけではない。他にも東洋ゴム、スバル、スズキ、日産などの大企業が検査で不正を犯した。日本企業だけでなく、ドイツのフォルクスワーゲンやアウディでも同じことが起こった。

 カナダのプラスチック部品製造会社と同じように労使の間に連携も相互理解もなく水と油のように分離してしまったのだろうか。日本の物づくりが危うい。今、大量生産、利益最優先の大企業より、昔ながらの職人気質の三鷹光学のような小さな日本の会社の製品が、世界の見る目がある会社や人々に支持称賛されている。テレビドラマ『下町ロケット』の気質が日本を復活させると私は思い、また願う。


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お通し

2018年10月17日 | Weblog

  先日友人と焼き鳥屋へ行った。こぎれいな店だった。1階は調理場とカウンター席で2階がテーブル席。2階に通された。4人掛けの席についた。すかさず店員女性が小鉢に入った“お通し”を4つ各人の前に置いた。私は好奇心が強い。出されたものが何なのか知りたかった。「べっこう漬?」 独り言のように発した問いに妻以外が首を縦に振った。おそらく妻は、それがべっこう漬かどうかより、注文もしてないのに、これにもお金払うの、と思っているふうだった。ふだん外食をしない私は“お通し”と妻の様子を見て最近外国人観光客の増加に伴い、このお通しが物議をかもしていることを思い出した。

  カナダへ10代後半で留学する前、軽井沢に住む多くのアメリカ人キリスト教の宣教師と知り合った。まだ英語をよく理解できなかった。不思議なもので日本や私自身のことが話されていると理解度が急上昇した。ある日宣教師たちが日本の食堂やレストランの“お通し”の話をしていた。聞いていると日本の食べ物屋では、頼みもしないのに変なものを持ってきてテーブルに置いてゆく。日本人の商売は、狡猾だとそれぞれの体験を披露して会話が盛り上がっていた。自分たちは、可哀そうで洗練されていない日本人に神の福音を伝えにやってきているという優越感がプンプン臭っていた。

  カナダに渡った。学校の寮にいるうちは、学校の外の様子は知る由もなかった。だんだんカナダでの生活に慣れ、学校の外へも出かけられるようになった。隣国であるアメリカへも長い休みがあると出かけるようになった。貧乏学生だったので、レストランのような高級なところへは誰かに連れて行ってもらう以外行けなかった。それでも現地の人々の暮らしに触れ、日本との文化の違いを体験できた。マクドナルドで注文する時、現地の人たちの注文の仕方に驚いた。ケチャップはつけないで、タマネギは多めに、マヨネーズは少し、と人それぞれ。帰国して日本にもマクドナルドが進出してきても、アメリカやカナダで見た注文の仕方をする人を見たことがない。

  最近、テレビ特にテレビ東京が外国人の日本滞在を多く番組で紹介している。『YOUは何しに日本へ?』『世界!ニッポン行きたい人応援団』などを観て感心する。外国で実によく日本のことを勉強している。私がカナダへ留学する前、私が住んでいた地方都市で見かけたのはキリスト教の宣教師ぐらいである。幼い頃、アメリカの進駐軍がいて、トラックやジープで通りかかると「ギブ ミー チョコレート」と叫びながら追いかけたことは未だに覚えている。それを知っている私は、番組に出てきて日本へこういう理由で行ってみたい、と訴える人々がいることを信じられない。興味を持って日本の事を知りたいと思うそのことが信じられない。そしてこの事実が日本を理解してもらえる大きな希望に思える。

  “お通し”も日本の文化の一つである。積極的に日本の文化を知りたいと思う人々は、前向きに理解してくれるであろう。しかし時代は変わっても、アメリカの進駐軍やキリスト教宣教師のような感覚で日本を訪れる人もいる。鍵は言葉である。日本人はお任せを粋とする。言葉に出さなくてわかるでしょの傾向が強い。それがわからないなら、うちの店には来ないでくれ、となる。これだけ海外から観光客が押し寄せてくれば、もうそんなことを言っていられない。外国からの観光客の中には、読んでない、聞いてない、見てないを主張する人もいる。もっと多くの日本人が英語や外国語を話せるようになれば良いのだが、現状ではまだまだ時間がかかりそうである。日本政府は外国からの観光客を年間2千万人にまで増やそうとしている。ただ観光客の数を増やしても問題が発生してしまう。誤解されやすい勘違いされやすい文化風習を一つづつ説明するしかない。話して直接説明できないなら、冊子を用意する。お互いの納得が気持ちを和らげるに違いない。

 先日、行きつけの丸亀製麺に英語で外国人客に対応しているパートのおばちゃんがいた。その光景が近未来の日本の姿であってほしい。それにしてもおばちゃんの英語凄すぎ。


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黒たまごで7年

2018年10月15日 | Weblog

  友人夫妻と念願だった箱根の大涌谷へ車で行ってきた。火山活動の影響で2015年5月からずっと立ち入り禁止なっていた。2016年7月から規制が一部解除になった。以前はいつでも行けるからと先延ばしていた。規制がかかると「あぁ~行っておけばよかった」と後悔した。規制解除になるとニュースで外国人観光客が多く押し寄せる様子が繰り返し放送された。好きなテレビ番組NHKの『ブラタモリ』でも箱根の特集で大涌谷が詳しく紹介された。それでもなかなかいく決心がつかなかった。泊まりで訪ねてくれた友人夫妻が車で来ていて、日曜日の朝、「車でどこか行きましょうか」と言ってくれた。私は「ずっと大涌谷へ行ってみたかったので連れて行ってもらえますか」とお願いしてみた。快く受け入れてくれた。妻もまだ大涌谷へ行ったことがなかった。

 箱根は気温9度と肌寒かった。日曜日なのに渋滞もなくナビで大涌谷の駐車場まであと400mのところまで行けた。駐車場が満車で待つことになったが、博識の友人との会話がはずみ楽しかった。会話というより大学の講義そのものだった。友人は大学で教えていただけあって、私たち夫婦が投げかける質問に丁寧にわかりやすく克つ面白く話してくれた。20分くらいで駐車場に入ることができた。料金所で運転していた奥さんが窓を開けると強い刺激臭が鼻をつき、同時に目が痛くなった。車の窓さえ閉めていれば、車内には臭いはまったく入ってこなかった。今の車の気密性が優れていることを実感した。これほどの気密性なら練炭自殺も可能などとふと頭に浮かんだが首を振って邪念を追い出した。後で知ったことだが、駐車場の入り口に「心臓疾患、もしくは呼吸器気管支に支障があるかたは、外に出ず車内にいてください」の注意書きがあったと妻が言った。私は狭心症で心臓バイパス手術を受けている。先に知ってしまうと私のような“病は気から”の歩く実験塔は、そく心臓が痛み出す。マスクを持ってくればと思いつつ、鼻と口を手で押さえながら外に出た。

 友人の先導で友人お勧めの“黒たまご”の売り場へ行った。友人が代表で列に並んで“黒たまご”を買ってくれることになった。私たちは土産物屋の店内で待った。しかし友人があと3人で順番がくるところでたまごを売っていたおじさんが「残りあと三つ」と不機嫌そうに言った。友人の二人前の客がその三つを買い占めた。結局買うことができず他の店へ行った。そこで5個500円の袋入りを買ってきてくれた。車に戻って車内で“黒たまご”を食べた。美味かった。

 なんでもこの“黒たまご”を1個食べると寿命が7年延びるとか。日本のどこにでもよくある話である。でもこんな話は、会話を盛り上げる。妻が言った。「71歳だから1個で78か。ねえ、もう1個食べて」と2個目を差し出した。私は計算した。2個だと14年、85歳か。無理無理。たとえ生きていても、息をしているだけで「ここはどこ?私はだあれ?」の状態であろう。でもあと7年が加算される黒たまごを袋ごと密かにカバンにしまった。そして帰宅して書斎で願いながら食べた。冷めていたけれど美味かった。

 友人が大涌谷で黒たまごを食べた後私に、「10年は大きいな」とポツリと言った。友人は奥さんと10歳の歳の差がある。私たち夫婦は11年ある。友人の言葉が私のジジイの壁を突き抜けた。


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結婚記念日

2018年10月11日 | Weblog

  友人夫婦が今週末金婚式を50年前に挙式した横浜のホテルで家族と一緒に祝うと知った。結婚記念日は【1年目】紙婚式【2年目】藁婚式(綿婚式)【3年目】革婚式【4年目】花婚式【5年目】木婚式【6年目】鉄婚式【7年目】銅婚式【8年目】ゴム婚式【9年目】陶器婚式【10年目】錫婚式(アルミ婚式)【11年目】鋼鉄婚式【12年目】絹婚式【13年目】レース婚式【14年目】象牙婚式【15年目】水晶婚式【20年目】磁器婚式(陶器婚式)【25年目】銀婚式【30年目】真珠婚式【35年目】珊瑚婚式【40年目】ルビー婚式【45年目】サファイア婚式【50年目】金婚式【55年目】エメラルド婚【60年目】ダイヤモンド婚とある。友人夫婦が50年間添い遂げて金婚式を祝う。偉業達成。祝福したい。

 毎朝妻を駅まで送る車、エンジンをかけると尋ねもしないのに必ず「今日は10月11日、木曜日です。鉄道安全確認の日です」ととってつけたような記念日を告げる。よくあるのは日本語特有の似た音からの語呂合わせだ。よくまあ毎日毎日無理やり記念日を作るものだと感心する。これだと365日毎日何かの記念日になってしまう。

 私は家族の誕生日と自分の結婚記念日を大切な日だと思っている。孫の誕生日には、カードと1歳につき500円玉一つの祝い金を贈る。1歳の誕生日に500円玉を5万円分貯めることができる500円玉がちょうどはめ込められる貯金本を1個の500円玉を押し込んで始めた。その昔、曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)は、豊臣秀吉から褒美を取らすというので、最初の1日に米一粒貰い、次の日から2粒、4粒と2倍ずつ増やして1カ月間もらい続けたいと頼んだそうである。秀吉は「欲のない奴だ」と笑って許したが、そのうちに米蔵が空になった、という話がある。孫たちに小さな積み重ねが大きな結果になることを知って欲しいと願っている。4月に17歳になった孫は、8500円、17個のずっしり重い500円玉の現金封筒を手にしている。

 私と妻が結婚式を挙げたのは、27年前の10月10日だった。バツイチ二人の子持ちの私と初婚の妻。妻の母親から「2度目の式で慣れていますね」とキツイお言葉にも耐えた。離婚してから15年が過ぎていた。やもめだった15年間が私を少し変えた。二人の子を育てるのに必死だった。2度目の結婚式は、私44歳妻33歳のときだった。最初の結婚での失敗が再婚生活での教訓となった。27年間何とか夫婦でいられたのは、私が仕事つまり事業をしなかったからである。私は、変に野心家で見栄っ張りなので事業に向いていない。残念だが下手に仕事をしないことが平穏無事な生活を与えてくれる。私たちは結婚後、まもなく妻は病院勤務をやめ、外務省の医務官になり海外勤務についた。私は仕事をやめて妻に同行した。13年間海外で暮らした。どこの赴任国も二人にとって初めて暮らす国だった。お互い助け合わなければ生きていけなかった。転地療法でもあった。知人も友人もいない外国で二人は助け合った。

 日本に帰国して13年が過ぎようとしている。二人とも歳をとった。昨夜二人で27年めの結婚記念日を祝った。発泡ワインの小瓶と小さな380円のケーキだった。妻からカードをもらった。「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。サミュエル・ウルマン」


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稚内物語

2018年10月09日 | Weblog

  Aが稚内に降り立った。サハリンのコルサコフを出て約6時間が過ぎていた。東日本海フェリーがその年の運行を始めた最初の便だった。Aはその日が来るのをカレンダーにマジックで✖をつけながら待ちわびていた。アントノフAn-24には金輪際乗りたくなかった。アントノフAn-24が世界で商業運行されているのは、サハリンとアフガニスタンだけだと聞いていた。恐ろしい飛行機で乗っている間、生きた心地がしなかった。飛行機大好き人間だったAは、飛行機恐怖症になった。残るは船しかなかった。稚内―コルサコフ間のフェリーは東日本海フェリーが運航していた。船の中は日本だった。ユジノサハリンスクで冬を過ごしたAは、ずっと閉塞感でうつ状態だった。

 Aの妻は外務省の医務官だった。うつ状態のAに稚内へ行って気分転換してくるよう勧めた。Aは喜んでその案に飛びついた。ネットで稚内の宿を探した。いくつかの宿にメールで予約を入れようとした。しかしどこも満室だった。6月から北海道の観光シーズンが始まっていた。満室をわびる一軒の宿からメールで他のホテルを紹介してきた。そこに決めた。これがAと宿のおじさんとの出会いだった。港からタクシーに乗った。宿の名前は『プチホテルJoy』だった。2階建ての小さなホテルだった。宿のカウンターにいたのは、ずんぐりむっくりのまるでプロレスラーのような初老の男性だった。3日間の滞在だった。Aは狂ったように買い物をした。飛行機なら20kgしか荷物は持っていけないが、フェリーは200kgまで無料で運べた。サハリンで溜まった閉塞感は、買い物と稚内の美味い海産物料理で春の雪解けのように消えていった。Aはジョイのおじさんとの会話も楽しんだ。おじさんを気に入った。再会を誓ってサハリンに戻った。Aは、サハリンにいた間に、5回フェリーで稚内を訪れた。妻の休暇で稚内のプチホテル・ジョイを起点にゴルフをしたりレンタカーで北海道北部を観光した。Aは、ジョイのおじさんと仲良くなった。ジョイのおじさんと話すことがサハリンのうっぷんを忘れさせた。東京から取り寄せた150kgのウーキングマシンを港まで自分の車で運んでくれた。心臓バイパス手術をして半年も経っていないAのためにジョイのおじさんは、宿泊するたびに荷物をすべてAのためにフロントから部屋へ、サハリンへ戻る日は部屋からタクシーまで運んでくれた。

 Aの妻が外務省をやめて日本の病院の勤務医に戻った。その年からAは毎年ふるさとの巨峰とりんごをジョイのおじさんに送った。以来再会することはなかったが年賀状は途切れたことはなかった。

 Aは私である。昨日稚内から宅急便が届いた。差出人がジョイのおじさんでなく奥さんの名前だった。稚内の魚の干物の上に封書が入っていた。考えてはいけない、そんな馬鹿な、いけないそんなこと考えては、自分を叱りつけながら慌てて封を切った。「稚内の秋も深まり朝夕めっきり冷え込む頃になりました。今年も主人の大好きな立派な葡萄をありがとうございました。早速主人の仏前の供えさせて頂きました。実は三年前に肝硬変が見つかり治療していました。けれども今年の三月二十八日に帰らぬ人となりました。毎年送って頂いた葡萄を二人で美味しく頂いた事を思い出すと涙があふれて参ります。本当に長きにわたりありがとうございました。どうぞお体ご自愛くださいますように。今まで頂いたご縁に心より感謝申し上げます。」


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カマキリと祈り

2018年10月05日 | Weblog

  10月4日木曜日の午前2時頃、携帯の緊急地震速報を告げる警報音が鳴り響いた。私は、夜中目を覚ますことはほとんどない。朝私たちは午前5時にラジオと目覚まし時計の2つで起きる。ラジオでもない。目覚まし時計のジリジリとも違う。妻がベッドから飛び起きて出て、居間のテーブルに置いてある携帯電話を見る。「千葉で地震だって」 私は身構えて揺れを待つ。何も感じなかった。でも恐かった。

 いつの間にか再び眠りについていた。平常通り5時きっかりにラジオが点き同時に目覚まし時計が鳴った。そして朝食を食べ、支度して妻を駅まで車で送った。駐車場に車を止めて歩き出した。ふと駐車場のコンクリートむき出しの支柱に目がいった。綺麗な黄緑色の物体が張り付いていた。よく見るとゆっくりではあったが動いた。近づいた。カマキリだった。カマキリって英語で何だったけ、と可笑しな疑問を持った。パッと思い出さないこの間が、老化である。思い出した。カマキリ→祈る姿→そうだpraying mantis。正式な学名ではないであろう。確かにまるで祈っているかのような雰囲気だ。

 私たちは、「祈る」を何気なく使っている。広辞苑には「神や仏の名を呼び、幸いを請い願う。祈願する。」とある。私は特定の神や仏の名を呼ぶことはしないが、祈ることはする。私の場合、祈るというより単なる願いかもしれない。子供が誘拐されたと聞けば、無事に発見されますようにと願う。虐待されて殺されれば、殺した親に罰が当たるように願う。日本各地の集中豪雨で、台風で、地震で、インドネシアの地震で亡くなった人々の無念さの鎮魂を願う。台風が自分の住む地を避けるように願う。ただの同情かもしれない。自分勝手な願望でしかないかもしれない。

 アメリカの友人宅を訪れると食事の前に祈る家庭が多い。定例の祈りをささげる家庭、そこにいない家族、親戚、友人のために長く祈る家庭もある。私は、そういう光景を見ている友人が「いつもあなたのために祈っています」と言われると心にズシンと感じるものがある。この地球のどこかで誰かが私の名を口にして祈りをささげてくれている。私の側は、「彼は元気だろうか?彼女は元気でいるだろうか?」と思うだけで祈りではない。思うのと言葉で特定の神や仏の名を呼び、特定の人の名を告げ、その人の無事や幸いを請い願うのとでは、違う。私は特定した人々の写真を飾っている。もうすでに他界した人々も多い。写真を見て過去を思い出す。生死にかかわらず、私はその人に想いを馳せる。貴重な一瞬である。寺院や神社で首を垂れるのと同じ心境になる。

 NHK教育テレビで番組『香川照之の昆虫がすごいぜ』を持つ俳優の香川照之が「自分は単に昆虫の変な生態が好きなんじゃないんです!本能のままにまっすぐに生きる昆虫の姿が最高にいいんです!ケータイまみれで時に自分を偽って生きねばならない子どもたちや、軟弱になったとか草食系とか言われる男子たちにそんな昆虫の姿を見せたい。人間は昆虫から学ぶことがたくさんあるんです!」と言う。

 カマキリといえば、小さなメスが交尾の後大きなオスを食べてしまうことばかりが取り上げられる。私は駐車場で見たカマキリの祈るような姿とあまりにも鮮やかな黄緑色に魅せられた。カマキリもすごいぜ!


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