♪いまでは指輪も まわるほど
やせてやつれた おまえのうわさ♪
渡哲也の『くちなしの花』の出だしにある指輪がまわるどころか、私の結婚指輪が指から飛び出て、路上に転がった。結婚指輪がまるで子どもの頃遊んだ輪転がしのように器用に立ったまま転がっていく。私は慌てた。道路はかすかだが下り坂になっている。追いかける私、逃げるように転がる小さな結婚指輪。奇跡のようにその小さなワッカが倒れて止まった。排水溝の重そうな格子状の鋼鉄製のフタの前だった。心臓の鼓動が脳にまで伝わっていた。安堵で倒れそうだった。誰かに見られているのではと辺りを見回した。誰もいなかった。散り終わったソメイヨシノの枝のカラスが「(バ)カァ、(バ)カァ、(バ)カァ」と鳴いた。気に障った。足音を立ててカラスを追い払った。
以前ダイエットで体重が10キロ減ったと書いた。去年の11月17日から毎日朝起きてすぐと夜寝る前の2回体重計に乗り、折れ線グラフをつけ始めた。今年4月6日64.9キロと64キロ台に突入した。まずズボンの腰周りがブカブカになった。気に入っていたズボンも幾重にもヒダを作り、それをベルトで押さえるように締め付けなければ、はくことができなくなった。ベルトの穴も足りなくなり、フリーサイズの穴がないベルトしか使えなくなった。鏡を見ても相変わらず顔はでかかった。結婚指輪がユルユルになっていたことに気がついていなかった。ただ指輪をつけていた左の薬指が痒いと感じたことは、何度かあった。それほど結婚指輪は私の体の一部となっていた。
道路のアスファルトの上に横たわる指輪を元の指にはめた。今まで気が付かなかったのに、指輪をはめていた跡は、深くくぼんでいた。空回りするように指輪が安定することを拒んだ。付けたままにしていれば、運動療法として歩く時腕を振るようにしているので、再び指輪は遠心力で飛び出すだろう。どこへ飛んでいくかはわからない。失くしたら妻への説明が大ごとになる。私は鍵も保険証も免許証も首に掛けている。鍵のホルダーのワッカを爪でこじあけ、結婚指輪を保全した。
夜、帰宅した妻にいつものように一日の報告をした。「フン、フン」と聞いていた妻が、「結婚指輪」に異常な反応を示した。私が差し出した左手の薬指には、指輪の痕しかない。気持妻の目が少しつり上がった。私は首掛け鍵ホルダーを取りに行き、妻に結婚指輪を手渡した。「ねえ、結婚式であなた私にあなたの指輪をはめたの覚えてる。私、あの時、カツラの重さで首の骨が折れるかと思って、吐き気さえしてたの。結婚への不安と緊張で私の指がこんなに細くなってしまったとがく然とした。そしたら何のことはない。あなたは間違えて私があなたにはめる指輪を私にしたの」 私はまったく憶えていなかった。ただその瞬間、妻の母親に式の前「2度目だから何でもよく慣れている」というようなことを言われたことで、結婚式では一つ一つの言動、行動に過度に神経をつかっていたことを思い出した。
あれから20年が過ぎた。当時私は体重が85キロ以上あり、貸衣装は最大サイズギリギリだった。それはともかく、2度目がこんなに穏やかに続いていることに感謝せずにはいられない。