団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

結婚指輪

2012年04月27日 | Weblog

 ♪いまでは指輪も まわるほど
やせてやつれた おまえのうわさ♪

  渡哲也の『くちなしの花』の出だしにある指輪がまわるどころか、私の結婚指輪が指から飛び出て、路上に転がった。結婚指輪がまるで子どもの頃遊んだ輪転がしのように器用に立ったまま転がっていく。私は慌てた。道路はかすかだが下り坂になっている。追いかける私、逃げるように転がる小さな結婚指輪。奇跡のようにその小さなワッカが倒れて止まった。排水溝の重そうな格子状の鋼鉄製のフタの前だった。心臓の鼓動が脳にまで伝わっていた。安堵で倒れそうだった。誰かに見られているのではと辺りを見回した。誰もいなかった。散り終わったソメイヨシノの枝のカラスが「(バ)カァ、(バ)カァ、(バ)カァ」と鳴いた。気に障った。足音を立ててカラスを追い払った。

 以前ダイエットで体重が10キロ減ったと書いた。去年の11月17日から毎日朝起きてすぐと夜寝る前の2回体重計に乗り、折れ線グラフをつけ始めた。今年4月6日64.9キロと64キロ台に突入した。まずズボンの腰周りがブカブカになった。気に入っていたズボンも幾重にもヒダを作り、それをベルトで押さえるように締め付けなければ、はくことができなくなった。ベルトの穴も足りなくなり、フリーサイズの穴がないベルトしか使えなくなった。鏡を見ても相変わらず顔はでかかった。結婚指輪がユルユルになっていたことに気がついていなかった。ただ指輪をつけていた左の薬指が痒いと感じたことは、何度かあった。それほど結婚指輪は私の体の一部となっていた。

 道路のアスファルトの上に横たわる指輪を元の指にはめた。今まで気が付かなかったのに、指輪をはめていた跡は、深くくぼんでいた。空回りするように指輪が安定することを拒んだ。付けたままにしていれば、運動療法として歩く時腕を振るようにしているので、再び指輪は遠心力で飛び出すだろう。どこへ飛んでいくかはわからない。失くしたら妻への説明が大ごとになる。私は鍵も保険証も免許証も首に掛けている。鍵のホルダーのワッカを爪でこじあけ、結婚指輪を保全した。

 夜、帰宅した妻にいつものように一日の報告をした。「フン、フン」と聞いていた妻が、「結婚指輪」に異常な反応を示した。私が差し出した左手の薬指には、指輪の痕しかない。気持妻の目が少しつり上がった。私は首掛け鍵ホルダーを取りに行き、妻に結婚指輪を手渡した。「ねえ、結婚式であなた私にあなたの指輪をはめたの覚えてる。私、あの時、カツラの重さで首の骨が折れるかと思って、吐き気さえしてたの。結婚への不安と緊張で私の指がこんなに細くなってしまったとがく然とした。そしたら何のことはない。あなたは間違えて私があなたにはめる指輪を私にしたの」 私はまったく憶えていなかった。ただその瞬間、妻の母親に式の前「2度目だから何でもよく慣れている」というようなことを言われたことで、結婚式では一つ一つの言動、行動に過度に神経をつかっていたことを思い出した。

 あれから20年が過ぎた。当時私は体重が85キロ以上あり、貸衣装は最大サイズギリギリだった。それはともかく、2度目がこんなに穏やかに続いていることに感謝せずにはいられない。


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桜餅

2012年04月25日 | Weblog

 八重桜が満開である。八重桜を見ると“桜餅”を連想する。私が食いしん坊ということもあるだろうが、どうも八重桜の花の咲き方と花の色,それに花と同時に葉も出ることに関係がありそうだ。花はちょうど桜餅の大きさぐらいにいくつも固まって咲く。葉は桜餅を包む塩漬けされた桜葉の色に近い。その組み合わせが桜餅に結びつくのだろう。私の家の前の道路には、川に沿って桜並木が続く。桜は8割方ソメイヨシノだ。ソメイヨシノが満開になっても、並木の中に、頑として花を咲かせない木がポツン、ポツンと散在する。それはあたかも木が枯れてしまったかのようである。しかしどっこい枯れてはいない。人々がソメイヨシノは見事に散ってしまったのだ、桜は来年まで見納めだ、と思い始めた頃、八重桜が蕾に色を吹き込み始める。そのタイミングが絶妙なのだ。もう桜は終ったと思った矢先「私をお忘れではありませんか」と言わんがばかりに登場する。八重桜は、ソメイヨシノよりずっとあでやかだ。その色は、まさしく桜餅の食紅に近い。咲き出すタイミングと、その風貌の違いが存在感を生かす。ソメイヨシノと八重桜が同時に咲いたら、人々は間違いなく、可憐で上品なソメイヨシノに心奪われる。知ってか知らずか、八重桜は絶妙なタイミングで花を開かせる。もしソメイヨシノより先に咲いたらどうか。あまりの八重桜の“はでさ”と“重さ”に食傷気味となるに違いない。朝からいきなり分厚い血の滴るようなビーフステーキをだされるようなものだ。何事においても順番は、重要である。

 月刊誌『食生活』(株式会社カザン発行)2011年5月号に東京農業大学の中西載慶(ことよし)教授が63、64ページの“身近なエビデンス”というコラムに「桜餅の香り」を書いている。中西教授の文章は、学者に多い、小難しい理論や学説をこねくり回すものではなく、難しいことでも、わかりやすく面白く、最後に“なるほど、そうだったのか”と唸らせる。このコラムで私は、桜餅に関する他人に話したくなるようないくつもの情報を仕入れた。その一、桜餅は、江戸時代江戸の向島の長命寺の門番“山本新六”が考案した。毎日散り落ちる桜の葉を掃除していたのだろう。面倒くさい厄介だと文句を言うことは誰にでもできる。しかし彼は、あんこ餅を塩漬けにした桜葉で包んだのである。その二、桜餅に使われる葉は、オオシマザクラという品種で、伊豆半島の静岡県松崎町で70%が生産されている。オオシマザクラの若葉は、葉の色や形が良く、表面に毛がなく柔らかである。その三、オオシマザクラの若葉を長時間塩漬けにすることで、桜餅の桜葉独特の甘くかぐわしい香りの正体であるクマリンが生成される。

 和菓子、その中でも生菓子と呼ばれるモノが私は好きだ。日本茶と和菓子の組み合わせがいい。子どもの頃、私は桜餅の葉を取り除いて餅だけを食べた。父は、そんな私に、葉と一緒に食べなければ、桜餅を本当に味わうことはできない、と薀蓄を語り、桜餅をあろうことか葉っぱもろとも旨そうに食べた。その姿を見て、私の脳裡に浮かんだのは、草や木の葉を食べる類人猿だった。歳を重ねるごとに、ものごとを理解し楽しむには、相当期間の時の経過が必要なことが身にしみて分かってきた。大人になるということは、歳を取るということは、燻し銀のように渋いことだと思える。日本にはそういう渋い文化がたくさんある。歳を取るごとに、次々に魔法の扉が開くように、渋さが理解できてくる喜びがある。

 八重桜はソメイヨシノに比べて、派手で何となくしとやかさに欠ける。それでいて私が八重桜と桜餅を重ねるのは、見た目とは異なり、自分の出番を心得ているという健気さを渋さと評価しているからかも知れない。あんこ餅の甘さとオオシマザクラの塩漬けされた若葉のほろ苦さとの絶妙なバランスが醸し出す渋さに相通ずる。今の日本の政界にも、メイド イン ジャパンの製品にも、芸能界にもその“渋さ”がいつの間にか欠落してしまっている気がしてならない。(写真:八重桜)


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ホノルル長岡花火大会

2012年04月23日 | Weblog

 2012年3月4日、第18回ホノルルフェスティバルの最終日をワイキキ海岸で日本の長岡花火が盛り上げたというニュースは、私を喜ばせた。かつて私は拙著『ニッポン人?!』青林堂刊の第4章に『花火』128ページ~132ページを書いた。

 

  『花火』『今日は私の住む町の花火大会である。日本の花火は最高だ。花火といえば、ネパールで夢見たことを思い出す。ネパールの首都カトマンズは盆地にある。標高八百メートル。この標高はちょうどマラリアの媒体である、ハマダラ蚊の繁殖できない位置になる。ネパールを旅行していると不思議に思うことがある。なぜ、わざわざこんな不便な山の高いところに、ひとが住んでいるのだろうかと。答えは蚊から逃げるためだ。インドやイギリスが、軍事力でネパールを支配下に置けなかったのは、印ネ国境のタライがマラリアの発症地帯で軍隊の侵入を拒んだからだ。中国がネパールを取れなかったのは、ヒマラヤの山々が要塞になり中国軍の侵入を拒んだ。カトマンズは要塞のような首都である。

 飛行機でカトマンズ国際空港に着陸するときは、窓から下を見ないほうが良い。盆地の底に向けて降下する機体は、山の頂上スレスレである。この頂を出来るだけ低く越えないと、空港の滑走路の長さをフルに活用できない。着地角度のキツイ着陸である。いつも晴れていれば事はもっと容易だが、カトマンズ盆地は雷雨、濃霧、気圧変化、乱気流、風向多変、突風など問題だらけである。

 その盆地に三年暮らした。大洪水、停電、断水、赤痢、肝炎、寄生虫いろいろ経験した。人々の生活は、いまだ日本の室町時代並という人もいる。しかし、人間味の実に深い人々が暮らす地である。カースト制度が根強く残っている。一般庶民の生活の貧しさは目を覆うばかりである。私に夢がある。カトマンズで気候のいい冬、花火大会をやるのが夢である。カトマンズの真ん中を流れるバグマティ川の中州から、空高く次から次へと花火を打ち上げる。

イラクのバグダッド、チグリス・ユーフラテス河で花火大会を。アフガニスタンのカブールで。パレスチナで。いかに人殺しが無意味で悲しいことか。人びとに平和を訴えるために、紛争の地に花火を届け、打ち上げるには途方もない時間、費用がかかることだろう。誹謗中傷、非難、無理解、妨害を嫌と言うほど受けるだろう。しかし同じ火薬でも殺人とためと観賞用とは雲泥の差がある。継続は力という。何といわれようとひたすら花火にした火薬を世界に広げる。100年かかるかもしれない。1000年かかるかもしれない。ODAの美名に隠れて、賄賂をばら撒くぐらいなら、発想の転換で花火の効果に期待したい。

北朝鮮は買いたいという国があれば、へミサイルでも武器でも、危険をかえりみず古い設備の悪い船で世界中に送り届ける。アメリカ、ロシア、フランス、中国、イギリス、皆、武器輸出大国である。核兵器も所有する。日本は武器を輸出しない。しないと言うより、世界は日本の再軍国化をいまだに警戒しているのでそうさせない。日本には平和憲法もある。ならば花火を輸出したらいい。花火輸出専用船で世界中へ平和の花火を配送する。人々を感嘆させる美しい花火を届けたらいい。花火を安全に輸出できる船舶やシステムを日本ならつくれる。一瞬の花火の美しさを提供したい。世界の希望を失いかけている貧しい人びとと醜い憎悪と復讐に明け暮れる紛争地帯の人々の瞳の中に、美しい日本の花火を映したい。そして私はそこで叫びたい。

「玉屋!」「鍵屋!」「平和万歳!」「人間万歳!」と。』

 

 かつて画家山下清が長岡の花火大会を観て大作『長岡の花火』を世に出した。長岡で山下は言った。「みんなが爆弾なんてつくらないで、きれいな花火をつくっていたらきっと戦争なんて起きなかったんだな」 私も山下の言う通りだと思う。9.11テロ以来、日本からの花火の持ち出しは出来なくなった。2011年からやっと持ち出しが可能になった。日本の花火が、北朝鮮のミサイルよりはるかに“平和”という威力を持って世界に受け入れられことを再びここで切に願う。


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物忘れと竹の子ごはん

2012年04月19日 | Weblog

 竹の子がこの辺でも出たらしい。“らしい”と書いたのは、私自身の目で実際に竹の子をまだ見ていないからだ。散歩する道筋には、たくさんの竹林がある。手入れされていない、とうてい人が立ち入ることができない昼でも薄暗い密林のように生い茂る竹林が多い。手入れの行き届いた竹林は、かなり広い範囲を見渡せる。そんな場所で竹の子を見つけるのは、私の春到来の確認行事のひとつである。

 竹の子の季節になると待ちわびることがある。米を買うたびに3分搗きの玄米にしてもらえる近所の米屋からこの5年間、毎年時期がくるといただく竹の子ごはんである。私は、“お呼ばれ”が大好きだ。その次に旬の食べ物の“頂き物”が好きだ。毎年恒例となると、はしたないとは思うのだが、密かに「いまかいまか」と待つ自分がいる。子どもの頃から混ぜご飯が大好きだった。「おかわり」の連発で母を困らせた。ニンジンと油揚げや竹輪を細かく切って醤油を加えた混ぜごはんが多かった。それでもごちそうだった。数えるほどしか経験はないが“松茸ごはん”や“竹の子ごはん”は、私を舞い上がらせた。

 そんな混ぜご飯大好きな私には嬉しい季節である。先週の週末神戸から戻り、帰宅する前に妻と二人で米屋に立ち寄った。決して竹の子ごはんの偵察に行ったわけではない。神戸へ行く前に米は、底をついていた。精米してもらうのだから神戸から戻ってから買う、と言ったのは妻だった。米屋のおかみさんが夢のような言葉を発した。「竹の子ごはんするんですが、明日か明後日かいつがいいですか」 それは早いほうがいい。私は「明日がいいです」と即答した。「では明日の夜炊けたら電話します」とおかみさん。私「6時28分に駅に迎えに行きますので、その帰りに寄らせていただきます」 明らかな私の先走りだった。待てない、性格がもろに出てしまった。それでもおかみさんは「わかりました。ではその頃までに用意しておきます」と優しかった。

 次の日私は妻を迎えに行くために家を出た。玄関で靴を履きながら「竹の子ごはん、竹の子ごはん、竹の子ごはん」とお使いに出る前の子供のように繰り返した。駅で妻を車に乗せ、家に戻った。事情があってその日の夕飯はいつもより遅かった。7時50分ごろ、突然妻が「竹の子ごはん」と叫んだ。最近の私は物忘れが激しい。私だけではない。気がつくのを一時間遅れた妻にもその傾向が出てきた。米屋へ直行した。店のシャッターは閉まっていた。裏の自宅の玄関の呼び鈴を押した。わざわざ店のシャッターを開けて、娘さんが店へ招き入れた。平謝りした。ちょっとご機嫌ななめなのを感じた。当たり前である。言い訳できるわけがない。まだ暖かい4つのパックに分けて入れていただいた竹の子ごはんを手に家に戻った。気持は、落ち込んでいたが、竹の子ごはんは、ほっぺが落ちるのではと思う程美味しかった。

 ベッドに入る前点滅する寝室の留守番電話に2つの伝言があった。2つとも米屋のおかみさんだった。一度目より二度目の伝言の語気が強かった。それでも竹の子ごはんは、私の気持を支えてくれた。物忘れは激しくなるばかりだ。私の竹の子ごはんへの憧れと、舌が憶えたその味は、私の人生の最後まで残るに違いない。おかみさん、ごめんなさい。そして今年もありがとう。


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イージス艦と舞鶴引揚記念館

2012年04月17日 | Weblog

 妻の用事に便乗してこの週末3日間神戸へ行ってきた。私は14日の土曜日、以前からの念願だった舞鶴の引揚記念館へ行った。

 ずっとこの引揚記念館に来たかった。二葉百合子の『岸壁の母』の影響ではない。『忘れられた墓標』人間の科学社刊全3巻の著者小林多美男のシベリアからの帰還の足どりを感じたかったからである。できれば小林の名を資料の中に見つけたかった。展示されている資料で期待は満たされなかった。小林多美男その人の足跡は、何もなかった。当たり前である。展示物は、ほとんどが引揚者から寄贈された民間人の私物である。公的な文書も資料もない。しかしボランティアの男性ガイドからの説明、年表、写真、引揚船の模型、記念館の立つ丘の上から見た引揚船が停泊したであろう今は製材会社になっている場所、それら全てが私の一種の臨場感を高揚させた。私はそれを求めていたのかもしれない。納得と同時にケジメがついた気がした。

 私の住む町の桜は、もう散った。舞鶴の桜は満開だった。丘の上から舞鶴の港が見渡せた。昨日は大雨だったそうだ。晴れ渡っていて港全体がはっきりと見えた。地図で見た舞鶴と実際に肉眼で見る舞鶴は違う。軍事関係のことは、何も知らない私にも舞鶴が軍港としていかに適地であるか一目瞭然だった。ガイドの男性の説明によると引揚者の上陸したのは、東側のどうしようもない港のはずれだったという。進駐してきたアメリカ軍が舞鶴港の良い部分を占有した。敗戦国である日本の引揚者は、アメリカ軍の3段階による審査尋問を受け、戦犯の洗い出し、思想調査、ソ連軍のあらゆる情報の収集にあたった。小林多美男も舞鶴に1箇月間留め置かれ、徹底的にアメリカ軍の取調べを受けた。後にその時の取調べの調書で述べたことが『忘れられた墓標』の土台になったと聞く。

 ガイドの男性への私のあらゆる質問は、ことごとく次の返答で締めくくられた。「あなたが知りたいことは、ここにはほとんどありません。あっても今は個人情報保護という規制が存在して、あなたは閲覧することはできません。岸壁の母の引揚船の専用埠頭も、引揚者の手続きが終るまで留め置かれた施設も、多くの資料記録も全てが忌まわしいと、壊され消され燃されました」 これが日本人の気質なのだろうか。今回の3.11東日本大震災、福島原子力発電所事故、政府のあらゆる重要な会議の議事録が残されていなかった。かつて長野の冬季オリンピックの重要書類も紛失したと報告された。重要な記憶や書類は、いとも簡単に忘れられ、無くなる。うやむやにすること、つまり水に流すのも、前進する方法であろう。私はそれを潔しとはしないが。人が死ぬと日本ではいつのころからか火葬し、外国ではいまだに土葬にする。学術的なことは、よくわからないが、その違いが、記録をありのままに残すか残さないかの文化の違いを生んでいるように私には思える。残されたとしても公開されなければ意味がない。歴史という言葉は、出来事、事件、事故、現象、異変を時系列にありのままに記録する意味だと聞いたことがある。ありのままに記録に残せないことであっても、あえて正確に記録に残すことが、これからの日本の課題のようだ。私に残された小林多美男の足跡探りは、ありのままの記録保存と公開の世界のお手本であるアメリカの国立公文書館で、アメリカ軍の彼の尋問調査書を探し当てることしかない。

 「お役に立てなくて」と申し訳なさそうなガイドに、私は感謝の礼を述べ、引揚記念館を出た。東舞鶴駅のバス停に戻る途中、タクシーの運転手が「あれは今朝帰港した、北朝鮮のミサイル発射の不測の事故に備えて出動していた海上自衛隊のイージス艦です」と教えてくれた。そして駅周辺には昨日入隊式が行われたという、真新しい制服に身を包んだ凛々しく体格の良い日本国中から集った新自衛隊員が大勢いた。一隻1300億円のイージス艦、真新しい制服の若者たち。過去の清算も、ありのままの記録もないまま、日本はどこにどう向かって行こうとしているのだろう。

 帰りのバスの中から目にした丹波の里山の桜は、あまりにも美しかった。その美しさが、なぜか私をとても哀しくさせた。

(写真:記念館の丘から見た引揚船埠頭(観光用につくられたもの)と引揚者援護施設があった現在の製材会社工場)


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くわえタバコ

2012年04月13日 | Weblog

 私の父は、ニコチン中毒だった。幼くして父親との死別、丁稚奉公、戦争、シベリア抑留、戦後のドサクサで東京の事業と不動産を戦勝国国民に奪われ、長野県に戻っての日雇い、妻(私の実母)の第4女出産時の親子双方の死亡、そして実母の妹との再婚。父をヘビースモーカーにした理由は、いくらでもあった。父は、『富士』と『ピース』しか吸わなかった。『富士』を置いてあるタバコ屋は少なかった。私はお使いに出され、市内のタバコ屋をあちこち回った。タバコが原因の夫婦喧嘩も絶えなかった。四六時中タバコを口にくわえる父は、自分の服もふとんも畳もコゲ跡だらけだった。家族は間違いなく、全員間接喫煙状態であった。そんな父を反面教師に、私は結局生涯タバコと縁がなかった。

 私の元妻と駆け落ちした13歳年下の大学生と数回、直接対峙したことがある。相手はくわえタバコで部屋の中でコートさえ脱ぐことがなかった。精一杯虚勢を張っていたのだろう。くわえタバコから立ち昇る青い煙、斜にかまえた男と女の関係の誰をも寄せ付けない勝ち誇る炎がゆらぐ相手の鋭い視線の両方に押され気味だった。タバコは、そんな心理的場面には打ってつけの小道具である。それでも瞬間だが吹っ切れた気がした。その時から私の手元に残された二人の子どもとの新たな生き方を模索し始めることができた。しかしその場だけのものだった。悶々とした妄想や悔しさや反省や後悔は、夜毎、私を底なしの螺旋階段にひきずりこんだ。螺旋階段は、地獄に続くような闇に吸い込まれるように果てしなく延びていた。階段や踊り場のあちこちに点在するくわえタバコの男たちが私をあざ笑っていた。私自身がたばこを吸えたらと、どれほど思ったことか。そんな冷や汗をかくような状況は、タバコを吸うことで脱却できたかもしれない。しかし私の体も心もタバコを拒んだ。子育ては、壮絶で気を抜けない大事業だった。父の“くわえタバコ”の幼児体験に追い討ちをかけ、極度な嫌悪感を持った。それがある種の復活へのエネルギーになって、十数年続いた私の暗黒の時代を突破させたのも事実である。

 数年前、イラクの政府機関のビルがテロで爆破されて多くの死傷者がでた。そのビルの屋上で飼われていた犬が奇跡的に生きていて無事救出されたニュースがテレビで放映された。屋上の床があちこち爆破されて崩れて穴が開いていた。かろうじて残されたビルの屋上のハリの一部に犬小屋があり、犬は、その小屋にクサリで繋がれていた。もともとアラブ人は犬をあまり飼わない。イスラム教で犬は、決して好まれてはいない。コーランの中にその理由が書いてあるらしい。自分が信じる宗教、そしてその宗教の中での分裂する派の覇権争いは、熾烈である。そこに派生する卑劣なテロ行為によって、屋上の犬は、とばっちりを受け九死に一生を得た。くわえタバコのイラク人男性が助ける場面を戦場テレビカメラマンは、逃さなかった。

 テレビのニュースを観ていて、くわえタバコに対する嫌悪感が薄らいできている自分に気が付いた。イラク人男性は、いつ崩れてもおかしくない爆破された建物の屋上で、過度に緊張したのだろう。犬を助けようとする気持と恐怖とを、くわえタバコで折り合いをつけようとしたのかも知れない。いずれにせよ犬は、くわえタバコの男によって抱きかかえられ、安全な場所へ運ばれ、救出された。私は屋上に残され、クサリにつながれ不安を隠せないで救出を待つ犬と、悶々と自分の悲運を嘆いていた最悪の事態に放置されていた私自身を重ねていた。犬も私も助かった。生きているということは、どんなことでも許し、受け入れる力を与えてくれる。


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セブン・イレブン♪いい気分♪

2012年04月11日 | Weblog

 散歩の途中、セブン・イレブンに寄って東京電力から送られてきた請求書の支払いをした。アマゾンで本を買って振り込みをしたことがある程度で、コンビニに普段無縁である。

 制服に身をつつんだ20歳前後の少しふっくらとした女性が、応対した。請求額の3771円を受け皿に置いた。女性は、3枚の千円札と500円の硬貨1個、100円2個、10円2個、1円1個を面倒くさそうにはじくように数えた。「おしていただけますか」とはっきりしない発音でぶっきらぼうに言った。私は彼女が私に話していると思わなかった。まず私の後ろにだれかいるのかと振り向いた。だれもいなかった。ひとり言?そうでもなさそう。2,3メートル離れた隣のレジにも店員の女性がいた。店員同士の会話でもなさそう。他のレジにも客がいて接客中である。ならば彼女が話しかけているのは私しかいない。彼女は不機嫌そうに「おしていただけますか」とまた言った。「いただけますか」は、セブン・イレブンの接客マニュエルにある丁寧表現であるのだろうが、彼女の気持は、丁寧親切からはずいぶん距離があった。あまりに鈍い客の私に苛立ったのだろう。私の前のカウンターの左横のモニターの画面を指差した。私にはまだわからない。彼女はため息をついた。モニターの画面の「確認」という文字の近くを指し示した。

 口を開いて説明すれば「お客様の脇のモニターの画面に『確認』の表示がありますので、画面の表示内容を確認されて、よろしければ『確認』を押していただけますか」となるはずだ。それを彼女は唐突に「おしていただけますか」と文章のほとんどをはしょって言った。主語の省略は認める。しかしそれ以外の省略があれば、私には理解不能となる。私には、「おす」が「押す」とさえ理解できなかった。まず「おす」が不明で頭の中で迷子になった。毎日、妻以外との会話がない。ベッドから立ち上がるのがしんどくて、妻に手を引いて立ち上がらせてもらうことはある。夫婦の日常の会話に「おす」の言葉も動作も、ほとんどない。「いただけますか」は、聞く限り丁寧な言葉である。この言葉には、何より気持がこもらなければならない、と私は思っている。美しい日本語が壊れていくのを今の日本でみるのは辛い。

 接客マニュエルなるものができ、店での会話が規格化されてしまった。気持をどこかにおいてきてしまった会話は、味気なく、薄っぺらで、白々しい。私は店員女性に「もっとだれにでも分かるように丁寧に話してください」と言った。ずっと不機嫌に(ジジイ、つべこべ言わねえで早く押せ)と顔をふくらませていた女性は、振込み用紙の片隅にシャチハタの領収のスタンプを「バシャン」と勢いよく押した。

 何か割り切れない切ない気持でセブン・イレブンの緑と赤とオレンジ色のマークがあるドアを押して店の外に出た。昔、たしかこの企業は、「♪セブン・イレブン♪いい気分」と歌って宣伝をしていた。それを思い出して、私は鼻で笑った。

通りには、コブシの並木があり、花は純白から茶色がかってきていた。それでも何百本と並ぶ白い列はキレイだった。道路に面した民家の庭は、花盛りである。五月中旬の陽気だとテレビの天気予報で言っていた。空を見上げると、真っ青だった。ジェット機が白い飛行機雲を描きながら、北西に向かって飛んでいった。朝のキリスト教のラジオ番組で繰り返される番組スタートの言葉「愛がなければ、どんな言葉も心に響かない」がふと心に浮かんで消えた。


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人工透析

2012年04月09日 | Weblog

 駅からバスに乗り、いつものバス停で降りた。バス停は、みかん屋の前にある。自分の農園で栽培するみかんの直売店である。いつの頃からか、みかん屋が開いていると中をのぞくようになった。不定期に70歳台ぐらいで痩せていて顔色がよくない婦人が店番をしている。そのおばさんがいるかどうかたしかめるのである。いた。モンペに薄い花柄模様のエプロン姿で、店の奥に座っていた。客はあまり来ない。たまに来る客に応対する。人好きで客が来ると、良く喋る。私は、普段妻の出勤したあとひとりで家にいて、独り言以外、人と喋ることがほとんどない。私は常に人との良い会話に飢えている。しかし、好みがはげしく、誰とでも話すことはない。おばさんは、珍しく私に“話したい”思わせる人の一人だ。このおばさんのお陰でこの町の情報をたくさん得ている。このごろやっとこのおばさんに顔をおぼえてもらった。

 この店は立派な家の一部をみかんの出荷時期だけ開けている。開けていると言っても開いていない日の方が多い。先日おばさんに「このところ、みかんを買おうと思って寄っても、戸に鍵がかかっている日が多いですね」と言った。するとおばさん、突然右腕をまくり始めた。そこには透析のためにできたであろうあきらかに周りと色が違っている膨らみがあった。私は、気が小さい。血や傷、それを連想するものに滅法弱い。きっと私は、「気持ち悪い」と顔ではっきり意思表示していた。おばさんは、そんな私を楽しむように「透析、透析」と言った。「週3回は透析に行くから、そのときは店閉めているの」 

 私はかつて糖尿病の教育入院したとき、病院の講義室で直接透析患者から体験談を聞き、透析する現場を見学させてもらったことがある。患者の話は、私に「できる努力を全てして、絶対に透析は受けないようにする」と決断させた。それから私は、本気で食事療法(一日の摂取カロリーは1800カロエリー以内にして極力、肉、特に脂肪を避け、生クリーム、練り物、揚げ物、甘いものを食べない)と運動療法(一日最低1万歩以上歩き体重を理想体重である64キロに保つ)を始めた。

 おばさんに私も糖尿病を患い合併症で狭心症になり、心臓バイパス手術を受けたと告白。おばさんは、黙って私の手を取った。ゴツゴツした手だった。そして目に涙をいっぱいためて「そうだったの。大変だったね」と言った。同病相哀れむ。同類の苦い経験を持つ者どうしには、「あ、うん」の境地を与えられる。まるで静かな水面に小石をポチャンと落として、水紋がきれいに伝播するようにお互いの気持が理解できる境地に達する。心地良く、人心地する瞬間である。

 話をしなければ相手のことは、ほとんど理解できない。見た目だけで相手がわかれば苦労しない。話すことが人間の相互理解を深める。みかんを介してのなんでもない日常の中にありふれた交流だが、私にはとても嬉しい出会いである。そろそろ冬みかんの季節が終りになる。夏みかんが店頭に並ぶまで、おばさんは店を閉める。今日明日のうちに今年最後の少し酸っぱいおばさんちのみかんを買いに行きたいと思っている。家の前の桜が満開である。桜が散ると、ここの冬みかんの収穫も終る。

(写真:私が住む集合住宅の駐車場の出入口から見た桜並木)


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ネコ

2012年04月05日 | Weblog

 家の前の川に沿って桜並木がある。桜の花が開花する前のことだった。桜はいつ咲くのかと春を待ちわびる気持で心をいっぱいにして、散歩から家に戻ってきた。私の住む集合住宅の玄関脇の側溝でネコのシカバネを見つけた。ネコが死んでから、相当時間が経過していたのだろう。雨に打たれたシカバネは、かなり膨張していた。黒く濡れたボロキレが丸まっているようだった。数十年前、長野県に住んでいた頃、出くわしたある光景を思い出した。

 “長野県上田市から群馬県長野原町へと国道144号線は通じる。あの日、私はアメリカの友人で、当時日本の中小企業、特に下請け会社の接待商法を研究していた女性大学教授を、ある会社へ案内するために、車で国道をその会社に向かっていた。
            

 神川の橋を渡り、菅平方面に向かって大きくカーブしている箇所で、私の車の前を走っていた軽トラックが停車した。片道一車線の狭い国道である。対向車が途切れなく通行していたので、追い越すことができず、私も停車した。軽トラックから農作業着のやせた70歳を超えていると思われる男性が降りた。助手席には妻とみられる女性が乗っていた。私はこんなところで爺さん立小便かよ、と内心で毒づいた。男性はゆっくり前方に進み、屈み込んだ。立ち上がると、車に轢かれ、腸がとびだした血だらけの犬が、男性の胸に抱かれていた。私の車の後ろに、長い車の列ができていた。私のすぐ後ろに停まった車の運転手が、私を睨んでクラクションを鳴らした。私は、車から降りて、後続の車の運転手に向かって、犬を抱いている男性を指差した。車から降りてその成り行きを見ている人もいた。

 男性は、道端の草むらに犬を静かにやさしく降ろした。そしてむぎわら帽子を脱ぎ、合掌して頭を垂れた。軽トラックの中の婦人も頭の手拭を取り、手を合わせていた。男性は車に戻ると、ドアを開ける前に、後続車の人々に深々とお辞儀をして車に乗り込んだ。車内の婦人も後ろを振り返って頭をさげた。軽トラックは、まだ生々しく血の跡が残るところを、大きく迂回して動き出した。私もアメリカ人大学教授もしばらく言葉を失っていた”という強烈な光景だった。

 あれから数十年後、朝6時45分に地下駐車場で車に乗り込んだ。日課の妻を車で駅に送るためである。妻に昨日側溝で見つけたネコのシカバネの話をした。妻は「私が片付ける」とまるでテーブルの上の食器を片付けるような物言いをした。私は血とか死体とかにからきし弱い。いくら妻が医者でも出勤前にコートとスーツのままで、できることではない。私は玄関前に車を停めた。「まだある」と妻が言った。私は「今日、管理人が出勤する日だから、相談しておく」と妻に片付けるのを思いとどまらせた、私は車を発進させた。「偉いね」と言う私に妻は「だれかがしなければならないでしょう」と答えた。

 午前10時頃、散歩に出ようと玄関へ降りた。顔見知りの管理会社社員の若い男性が玄関ホールにいた。早速ネコのことを話した。「管理人さんから電話で片付けるよう頼まれました。彼女が片付けられないというので、今朝早く私が来ました。すでに処理しました。ありがとうございます」とちょっと青ざめた顔で言った。私こそ「ありがとう。ご苦労様でした」と言いたかった。ここの管理人は女性である。すでにシカバネを発見していて、自分ではそうすることもできずに管理会社に報告したに違いない。このような事態には、多くの人が私や管理人と同じく対応する。しかし世の中には、長野県の軽トラックのおじいさんや私の妻のような人もいる。

 夕方、駅で妻を車で迎え、早速ネコのことを報告した。「これから着替えて片付けようと思っていたけど、良かったね。管理会社も大変ね」と激務と長時間の通勤の疲れも見せずに妻が言った。外務省の医務官をしていた頃は、飛行機事故の邦人のご遺体確認をはじめ、かずかずの悲惨な事故事件の死亡案件に関わった。家の中で虫を見つければ、あれほど大騒ぎをする妻が、魚のウロコさえ落とせず、魚に触れることもできない妻が、どうしてネコのシカバネには平気で「片付ける」なんて簡単に言えるのか。私は軽トラックに乗ったまま、夫が抱きかかえるイヌのシカバネに向かって、車中の奥さんが手を合わせたのは、イヌはもちろん夫に対しても手を合わせていたのではないかと、妻の顔を見ながら思った.

参考写真

 


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停電

2012年04月03日 | Weblog

 4月1日午前1時30分だった。(時間は後で知ったのだが) 眠れないで困ったことが64年間に数十回しかない私は、ぐっすり寝入っていた。妻は、眠ることを楽しまない。かえって無駄なことと捕らえているふしがある。

 「トイレの電気がつかないの」と妻が私をすまなそうに起こした。窓の外から街灯と灯りや川を挟んだ向こう側のマンションの玄関の明かりが入っている。その明るさだけでは、壁の時計が見えない。妻は4月1日の4月馬鹿の日に私を騙して、喜ぶような人ではない。深刻な声で「台所のインターフォン以外の電気がどこも切れているの。トイレの水も流れない。見てくれる」と言った。

 オール電化と大々的にまるで最新式の文化生活を謳って販売された集合住宅も、昨年の3.11東日本大震災以来、停電や電力不足に振り回され,かえって厄介なお荷物と化している。私たち夫婦は、停電が当たり前の国々に14年間暮らした。日本に帰国してから、停電とか節電という言葉さえを忘れた。何もかも高度に管理され、先進国ならではの安心と安定の日常生活に自惚れていた。以前の不自由な海外生活に引き戻されたようだった。過去のつらい経験が、役立つ。普段からベッドの脇にアメリカ製の協力な懐中電灯を置いてある。いざという時には武器にもなる頑丈なモノである。配電盤のある玄関脇の納戸に向かった。

 尿意を催した。懐中電灯で暗闇を照らしてトイレに入った。便器の中の水は、あきらかに普段と違う色をしていた。懐中電灯を消した。済むとやっと落ち着いた。同時に頭と目がはっきりした。立ち上がると自動的に水が流れるのだが、立ち上がってもウンともスンともいわず静かだった。

 納戸に戻り配電盤に灯りを当てた。ブレーカーが全部で20くらいある。どれも落ちていない。しかし裸眼なので高さ2メートル以上の高さの配電盤の細かい文字が読めない。寝室に老眼鏡を取りに行く。ベッドに妻が横になっている。自分の担当以外ことは、私に任せ、脇でチョロチョロしない。「直った」とまるで私が映画やテレビドラマに出てくる器用で何でもござれのヒーローに語りかけるように言った。「字が小さくて読めない」と言う。妻は言葉には出さなかったが、明らかにがっかりしていた。

 配電盤の下に戻った。老眼鏡を掛けても、字が遠くて余計にボヤけた。台所に踏み台を取りに行く。暗闇で太ももをカウンターの縁にぶつけた。目から真っ赤な炎が出たかと思った。納戸に置いてきた懐中電灯を手探りで取りに行った。普段なら数十秒でできることだが時間がかかる。あごに懐中電灯をはさみ、両手で踏み台を持った戻った。やっと小さい文字が読めた。読めたが書いてあることが理解できない。閃いた。“メーターが動いているかどうか見れば、家に電気が来ているかわかる” 家の玄関の脇の壁の収納ボックスにメーター類がある。玄関を開けた。煌煌と電灯がついていた。(停電は我が家だけだ) それでもメーターを見た。かすかにではあるが数字が動いていた。ますますわからなくなった。高校の不得意な数学で追試をたびたび受けた劣等生だったあの時の嫌な気分がよみがえった。家の中に戻った。再び配電盤の小さな文字とにらめっこした。

 左端に黄色と青のポッチが2つ縦に並んでいる。その横にスイッチがある。“観察こそ操作の基本” DVDで観たアメリカ刑事ドラマで名刑事がそう言っていた。スイッチの位置が微妙である。“ON”と“OFF”の中間なのだ。小さな小さな字で「動作後の再投入はOFFに戻してからONへ」 文字が言わんとすることが理解できない。あせる。しかし文字の脇に矢印と線でスイッチの動きを表す図が描かれていた。文字には弱いが、絵に強い。動物的なのである。その通りにスイッチを操作した。スイッチの横の黄色いポッチが「カチン」といって凹んだ。電気が戻った。寝室から「ついた」と嬉しそうな声がした。

 ベッドに戻った私は、目が醒めて眠れなくなった。しばらくすると妻の寝息が気持よさそうにリズムカルに始まった。寝息を聞きながら、何ともいえない久々の充実した幸せを感じた。

 (後日談:東京電力の技術サービスに点検を依頼した。綿密に検査してもらったが、重大かつ深刻な漏電やショートは見つからなかった。精密で敏感な機器が過剰に反応することがあるそうだ。しばらくこのまま様子をみることになった。)


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