団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

大掃除

2011年12月30日 | Weblog

 28日今年最後のスポーツジムに出かけた。車で行くことにした。車からあちこちで大掃除をしているのを見ることができた。セブンイレブンの店外で女性が、脚立にあがって明かり取りの小さな窓のサッシを雑巾で拭いていた。なにかの事務所では、部屋の蛍光灯を抜き取り、管を一本一本掃除していた。庭のある戸建て民家では、老夫婦が庭の雑草を刈り取り、熊手でかき集めている。マンションのベランダで部屋の敷物を親子で叩いている光景もあった。

私が子供の頃、一家総出の大掃除が一年の締めくくりだった。父、母、姉、私、妹二人。それぞれ担当が決まっていた。それは今、考えると、性格や体格や体力が自然に振り分けようだ。父は身長は低かったが、とにかく力があった。畳を軽々と抱え上げ、家の外に運び出す。私は父を手伝いたいと手を出すが、父はやんわりと他の仕事をするよう命じた。病弱で痩せていた私とモタモタやるより、父ひとりでやる方がずっと捗がゆく。それでも父は、畳を叩く時は、私を呼び、長い棒で両側から、一年分のホコリを叩き出した。父は大掃除で男が知っておかなければならないコツを教えてくれた。時々父の棒と私の棒がぶつかった。手がシビれるほど強烈な一撃だった。そのシビレは今も手に残っている。

畳を出した部屋の床は、荒削りの板が大雑把にクギ留めされていた。母が敷いてあった新聞紙を片付け、ホウキで掃いた。南側の日当たりの良い部屋に私の大掃除の最大の楽しみがあった。私はコタツ用に開けられた穴から床下に降りる。床下は狭く、当時家族では私しか入る者はいなかった。廊下の部分にすばやく移動する。当時、5円だって大金だった。何故硬貨が落ちていたのか今でも不思議でたまらない。冬の太陽の光がすき間と通気口から差し込む。光がホコリをスターダストのように浮き立たせる。廊下のほんのわずかな、すき間に沿って床下の土の上にゴミやチリや砂が溜まっている。私はそっとその山を指で崩す。毎年必ず5円玉か10円玉が見つかった。2個見つけたこともある。嬉しかった。エジプトのピラミッドの地下の王様の宝を見つけたくらい興奮した。

しばらく床下に留まった。妹たちが「お兄ちゃんいない」と騒ぎ出す。父が「こら、ジュンイチ出て来い」と太い声で言う。みんなが私を気にかけてくれた。貧しかったけれど家族っていいなと思った。自分も家族の一員だと自覚できた。冬の早い太陽が西の山に沈む頃、大掃除が終了する。古くて、何も大した家具もない家だったが、まるで宮殿のようだった。母と姉妹たちが張り替えたまばゆいばかりの真っ白な障子、父と私が叩いた畳。大掃除の終った家の中は、モッタイなくて手も触れられず、歩くのも抜き足差し足だった。心地良い疲れをそれぞれの下着、手拭い、石鹸と一緒に風呂敷包みに入れて、ゾロゾロ歩いて家族全員で近所のフロ屋へ行った。暖まったあと、つかもと食堂でみんな同じく35円の中華ソバを食べた。たった一枚のチャウシューをなかなか口に入れられなかった。大掃除が終ると指折り数えて待っていた正月は、もうすぐそこまで来ていた。

29日、正月休暇に入った妻と二人だけで大掃除をした。我が家には畳がない。床下もない。大きな冷蔵庫の中身を全て出す。新聞紙をカウンターの上に敷いて、その上に並べる。賞味期限が切れたもの、干からびてミイラ化した食品。どれもこれも私が子供の頃なら、見たこともない舶来品や高級品だった物ばかりだ。1時間で冷蔵庫を片付け、消毒した。ゴミ袋ひとつがいっぱいになった。流し、洗面所、風呂場、トイレの水周りを掃除した。風呂場の排水槽を掃除した。ヌメリ、髪の毛、カビ。気持のよいもではない。汚れ仕事をしながら、自分が人間として、50年前と少しも変わっていないと思い知らされた。食べて、寝て、排出する。なんだか安心した。「自惚れるな、地道が人の道」と父の声が聞こえたようだ。

 「日本に大掃除の風景があるかぎり、まだまだ日本は捨てたものじゃない」 政府、民主党、官僚、産業界の迷走、暴走を横目に、私は、ひとり合点していよいよ大晦日を迎える。


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行司

2011年12月28日 | Weblog

 第三十五代立行司木村庄之助が秋場所を最後に引退した。

 子どもの頃、ひょんなことからある職業を自分の天職かもしれないと早とちりすることを繰り返すことが多かった。「♪もういくつ寝るとお正月♪」と指折り数えて待つことが長く感じた10歳前の頃の私は、蒸気機関車の機関手、電車の運転手、サーカスの猛獣使い、映画『鞍馬天狗』の杉作を演じる子役、相撲の行司と、年が替わる度に新しい夢にすぐ飛びつき、ひとり未来の夢の中をさまよった。

 

 なぜ行司に興味を持ったかというと、自分が相撲取りのような大きな体になれると思えなかったからだ。私の子どものころは、“巨人、大鵬、玉子焼き”の時代である。まずラジオで、それからテレビでの相撲中継に私は夢中だった。十四インチの小さなテレビ画面を占領する巨体のほぼ裸に近い相撲取りとは対照的なチグハグな衣装をまとって、変な軍配を持ってチョロチョロする小さな行司の姿を見て、これは自分に向いた仕事かもしれないと思った。私の父は身長150センチに届かないほど背丈が小さい人だった。母は当時の日本人女性としては大きい160センチぐらいだった。結婚式の記念写真は、文金高島田の母が椅子に腰掛けて、父は羽織袴に扇子を持って立っている。写真では、ノミの夫婦であることは発覚しない。

 

 この背丈の小さな父は、房錦勝比古という相撲取りの大ファンだった。理由の一つは房錦の父親が行司だったからである。小さな行司の子どもが関取になって活躍する姿に自分と自分の子どもを重ねていたのではないだろうか。房錦は横綱の大鵬と柏戸に対して共に五勝六敗とほぼ互角の成績を残した。“褐色の弾丸”と呼ばれ、身長176センチ118キロと関取としては小粒だった。房錦を応援する姿や房錦親子の話を私に語り聞かせる父は、私に強烈な印象を残した。

 

最近、私は大相撲はテレビ放送終了間際の大関、横綱の取り組みしか観ない。土俵の上で闘う大きな両関取のすき間を小さな行司が動き回ると、私は小さな父をなつかしく思い出す。父とテレビの前で一緒に熱心に応援した。父と一緒に時間を過すことはほとんどなかったが、相撲だけは一緒に並んで観た。当時の他の多くの相撲取りの名前を忘れてしまったが、房錦の名も姿も明確に思い浮かべることが出来る。あれほど私たち親子を夢中にさせた関取は房錦以後出てこないことが残念だ。それでも父と共有できた、あの熱さを再び味わいたくて、今は一人ぼっちでテレビを観てしまう。そして大相撲中継を観るたびに、幾度となく変えた希望する職業の一つが行司だった安直さを恥ずかしく思い出す。行司も関取と同じく大相撲を支える重要な仕事だ。私が行司になれたとは、とても思えない。

 1年がなんと早く過ぎることか。そして年の瀬が押し迫っても、指を折って正月を待つことも、なりたい職業の夢を替えることはもうはるか昔にやめた。1日1日を「節電節食 知恵全開 日々感謝」の気持で、頭の中に響く行司の「ノコッタ ノコッタ」の声に答えて、人生という土俵の俵に足をかけて踏ん張っている。


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ダイエット

2011年12月26日 | Weblog

 11月17日から体重のグラフをつけることにした。前日に定期検診で血液検査の数値が悪化していた。主治医は、新しい薬の処方を宣告した。私はこれ以上薬を増やすことに抵抗がある。ダイエットすることを決心した。諸悪の根源は、このところの体重の増加である。正確な体重を知ることを恐れて、もう長い間体重計に乗っていなかった。17日の夜、全裸で体重計に乗った。73.5キロ。私の理想体重より約10キロ多い。「目指せ、60キロ台」とさっそくダイエットすることにした。養老猛司さんは「体重を減らしたいなら、食べる量を半分にする」とどこかに書いていた。養老さんは、簡単に言うが、これがなかなか私には難しい。

菓子類(砂糖、バター、生クリームを含むモノ)は口にしない。②揚げ物、肉をやめて魚にする。③野菜とこんにゃくを多く食べる。④体重を毎日寝る前に計り、グラフにする。④食べる絶対量を減らして、週3回のスポーツジム通いと毎日一万歩を目標に歩く。

以上五つのことを決めた。

この決め事の実行2日目の夜から体重は右肩上がりに増えていった。8,9,10日目には74.3キロを記録した。私は凹んだ。冗談じゃない。こんなに努力しているのに、と怒りを覚えた。これではカスミを喰っていても太るということなのかと。(もうやめよう。太っていたって構わない)と少し自暴自棄になっていた。何か始めると意地になって自分が納得できるまで執着する性質である。ムカッ腹が本気の火をつけた。

知人に毎日体重を計ってグラフにつけていると話した。「いつ測っているの?」と聞かれた。「夜、寝る前」と答えると、「朝測れば、それより一キロから一キロ半は違う。それが励みになる」と言われた。体重を計ることにばかり気がいっていた。翌朝体重計に乗ると、前の晩より何と1キロ400グラム減っていた。折れ線グラフに赤で朝の体重も記録することにした。知恵は、こうして何げない日頃の会話から、ついてくるものだと感心した。知人の助言に感謝しきりである。

ダイエットの最初の5日間、体重は横ばいで6日目から10日まで増え、10日めで頂点の74.3キロを記録した。これはあたかもダイエットを始めた者の本気度を試すような展開である。失望させ、あきらめさせようという魂胆のようだ。それを通過できると体重は一気に下り坂に突入する。個人差があるだろうが、初めの約2週間が勝負のようだ。プロボクサーは、試合前に体重を限界まで絞って自分が闘う体重範囲にまで落とす。体重測定は試合前日に行われ、体重審査が終ると選手は、やっと普通に食べることが出来る。彼らのように普段から体を鍛えていれば、体重の変動にも耐えられる。私のような一般人は、体力を維持しながらダイエットをしなければならない。

 体重を測定する時間や条件は変動的である。私は黒線を午後9時に測定、赤線を午前5時に測定してグラフに書き込んでいる。薬を増やすか、食べたいだけ食べて体重を増やし持病の悪化を容認するかの選択を迫られた。食べることになるといかに自分に甘いかよくわかる。食べることは喜びである。苦行を超えて、健康の楽しさを取り戻したい。今朝5時の「継続は力なり」と唱えながらの測定は、70.5キロだった。年内60キロ台突入を目指す。


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見ザル言わザル聞かザル

2011年12月21日 | Weblog

 駅の改札を出たところでの出来事だった。私の前を足早に歩く女性が右腕にかけたトートバックから何か落とした。女性はまったく気がつかず歩き続けている。私は落とされたモノに近づいた。何かの動物のイラストの入ったハンカチタオルだった。私は拾って女性を追いかけた。追いついた。背後から声をかけた。「これ、落としましたよ」 まったく反応がない。私は女性の前にまわった。女性は私を見て、声を上げんばかりに驚いた。左手にはスマートフォン、毛糸の耳あて付きの防寒帽子の両端からイヤフォンのケーブルが垂れ、どこかにつながっている。聞こえるはずがない。濃い化粧の中で重そうなツケマツゲが引き上げられて、小さな目が大きく見開いた。私の風貌や顔から、この女性の反応には、がてんがゆく。何の接点もない二人の人間、犯罪のニオイがしたのだろう。

日光東照宮の三匹の猿の二匹、聞かザルと言わザルの空間だった。彼女の目の前に差し出されたハンカチタオルだけが彼女に状況を察しさせることができた。反応の遅い人だった。声を出してお礼を言われるでもなく、会釈でお礼を示されることもなく、魂を抜かれた操り人形のように立っていた。ハンカチタオルをトートバックに押し込んで、姿勢悪く歩き去った。

 駅ビルのエスカレーターが点検中だった。階段はビルの反対側にある。近くにエレベーターがあった。若い出張らしい男性会社員が待っていた。私は彼の後ろに並んだ。その男性社員はカート付きバッグとビジネスケースを横に置き、しきりにスマートフォンを片手で操作していた。エレベーターが到着してドアが開いた。誰も乗っていない。前の男性会社員は、まだ携帯に夢中になっていた。それでも順番は順番である。私は待った。すると後ろから箱根の温泉帰りと思われる3人連れの男性が私と男性会社員を差し置き乗り込もうとした。「並んでいるのですよ」と私はすかさず言った。「知ってるよ」と3人のうちの一人が言った。その態度は、(文句あるならかかって来い)と言わんばかりだった。3人が横柄に乗り込み、男性会社員も乗り込んだ。私はエレベーターに乗るのは止めた。気分が悪かった。向きを変えて、階段のほうへ歩き始めた。男たちは勝ち誇ったように薄ら笑いを浮かべていた。見ザルたちには目配りを期待しても無理なのだ。

 たて続けに遭遇したスマートフォンが関わる出来事だった。私はすっかり今の社会からはぐれてしまったようだ。家から外に出て、人と関わるのがますます億劫になる。現代社会は三つのスクリーン(テレビ、パソコン、携帯電話)に壊されかかっている。画面を見つめるのを少しやめて、私の目を見て、私の話を聞いて、意見や主張があるなら私に解るように言ってもらえないだろうか。私はあなたに大事なことを伝えたい。


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12月のいちぢく

2011年12月19日 | Weblog

 週三回通うスポーツジムのすぐ近くの商店街に、シャッターを降ろした商店の軒下を借りて出店する、イチジクを売る農家の夫婦がいる。二人はすでにゆうに70歳を超えている。この二人は、天気が良くても悪くても出店する。駅ビルの食品スパーなら1パック600円以上するイチジクでもこの老夫婦は300円で売る。農協を通じて出荷すれば、手取りはもっとずっと少額だそうだ。駅の近くの路上には、他の果物の安売り屋台もある。それらは生産農家の売店ではない。スーパーより安いが、やはり商人の売店である。私はこの老夫婦に好感を持っている。彼らはイチジクが好きで、イチジクを育てている。イチジクが健康に良いと固く信じている。ちょっとした会話を通してそれが伝わってくる。おじいさんのおばあさんの手が、イチジクを一所懸命に育ててきた歴史を刻み込んでいる。日焼けした顔に、そのイチジク栽培作業の蓄積が記録されている。

私はイチジクが好きだ。私は生ハムをイチジクに巻いて食べる。キンキンに冷やした白ワインと一緒に。この食べ方を初めて知ったのは、イタリアのサンダニエルという小さな町だった。サンダニエルの生ハム製造会社直営の小さなレストランの女性経営者も生ハムが大好きだった。熱心に食べ方といかに自分の会社の生ハムが優れているかを大きな身振りを交えて話してくれた。それ以来イチジクの季節になると、イチジクを買い、生ハムを買い、白ワインのボトルを開ける。

毎年ワインの新酒が出る頃、友人を集めてワイン会をやる。最初は必ず生ハムのイチジク巻きで始める。ワイン会前日、スポーツジムに行った。老夫婦の売店の前を車で通った。イチジクのパックが10個くらい並んでいた。私はたった一時間だから帰りに買えるだろうと高を括った。ジムでたっぷり汗をかき、爽快な気持でイチジクを買いに歩いて行った。全部売り切れていた。あまりに残念そうな私の様子に、おじいさんは「これからうちまで行って採って来るから、2時間後に来てください」と言ってくれた。おじいさんの家へ車で往復すれば、ゆうに2時間以上かかる。そんなことを2パック600円のためにさせる訳にはいかない。もし交通事故でも起これば、私の責任である。「おじさん、ありがとう。また買いに来ます」と言って売店から駐車場に向かった。背後から「申し訳ないね。また買いに来てください」と夫婦相和す声が聞こえた。

ワイン会では生ハムをデパ地下のフルーツ専門店で手に入れたイチジクと和歌山の富有柿に巻いた。客は皆喜んでくれた。イチジクを売る老夫婦の話はしなかった。でも私の心の中に、家にまで採りに帰ってまで、イチジクを提供してくれると申し出てくれたイチジク生産農家の夫婦の温かい気持があった。準備も後片付けも大変だった。でも私の応援団がいてくれて、ワイン会の出席者をオモテナシできた心境が、疲れを吹き飛ばした。

以前イチジクを売る夫婦に生ハムとイチジクと白ワインの話をした。「そんな食べ方聞いたこともねえ」と驚いていた。来年のワイン会では、必ず足柄のイチジクとイタリアのサンダニエルの生ハム、そこに信州小布施酒造の白ワインソッガ・シャルドネを添える。表に出てくることもない、多くの生産者がいて、食卓で出会う。その人たちのおかげで、消費者の私たちが幸せをおすそ分けしてもらえる。調理人を担当する私は、選んだ材料と料理の仲人でありたい。そしてお客様を喜ばせたい。

12月9日イチジクを買った。おじいさんが「今年最後のイチジクです。来年もまたたくさん買ってください」と他のパックから2個抜いて、オマケとして私の買ったパックに加えてくれた。それをおばあさんがハサミで不恰好に切ったダンボールをビニール袋の底敷きに入れて2パック並べてしっかり私に渡してくれた。イチジクを傷めないという生産者のイチジクへの思いがそこにあった。その夜、妻にイチジクの売店であったことを話しながら、今年最後の老夫婦が生産して、自らイチジクスタンドで売るイチジクの生ハム巻きをつくって、白ワインで乾杯した。


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テレフォン人生相談

2011年12月15日 | Weblog

 ラジオニッポン放送が毎週月曜日から金曜日の午前11時から「テレフォン人生相談」をライオンという会社の提供で放送している。1965年から46年間続く長寿番組である。長年パーソナリティを勤めた俳優の児玉清さんが今年の5月16日に亡くなり、今度はやはりパーソナリティを勤めていた脚本家の市川森一さんが12月10日に亡くなった。

 私は自分の人生で再起不能と思われたどん底時代に「テレフォン人生相談」をよく聴いていた。離婚した後、知人の借金の保証人になっていて、その知人が夜逃げして代理弁済をすることになった。引き取った二人の子供を一人はアメリカの先輩の一家に預け、一人を他県の全寮制の学校に入れていた。子どもには、親のドロドロの愛憎劇や生き様を見せたくなくて、あえて別れて暮らした。一人で暮らす寂しさ、経済的な困窮、時々町で見かける、同じ町に居続けた元妻と、彼女と暮らす年下の彼氏への殺意さえ伴う嫉妬とで、精神状態は滅茶苦茶になっていた。自暴自棄になって犯罪に走るかもしれない自分を沈静させるために、児玉清さん、市川森一さん、加藤泰三さんになら聞いてもらえると思って、数回「テレフォン人生相談」のダイヤルを回しかけたこともある。結局踏みとどまってしまった。

私と同じ境遇で同じ悩みを打ち明ける相談者の言葉、それに答えるパーソナリティや回答者の言葉を私は噛み締めるように聴いていた。同時に毎朝4時に起きて車で一時間のお寺へ坐禅に2年間通った。毎日、津波のように襲いかかってくる現実という非情な時間に押しつぶされそうになりながら、泥沼を手探りで這い廻るように少しずつ前に進めることで、ようやく最悪期を脱出できた。そして離婚から14年後、今の妻との信じられない出逢いがあり、結婚した。

 今でも時々「テレフォン人生相談」を聴く。いろいろな相談がある。私自身が経験したこともあれば、全く経験したことがない相談もある。相談する人は、電話がつながって、自分の悩みや問題を話し始めた時点で、大方自分の解答をつかんでいるように思える。勇気ある人々だと思う。電話をかけることもできなかった卑怯な私は、エエカッコシイの臆病者だった。いろいろな本を読む以上にこの「テレフォン人生相談」から勉強させてもらった。パーソナリティや回答者の言葉も私自身への教訓となる場合がある。児玉清さんも市川森一さんも、相談者への気遣いと優しさがあった。相談者のもつれた心の中を、ときほどく導入部分を見事にこなしていた。ラジオは声だけしか伝わらない。人間の声音もその人の才能のひとつである。臆病者の私でも電話の向こうから、児玉清さんか市川森一さんの“この人なら私の話を親身になって聞いてくれそうだ”と思える声音に誘引されて、洗いざらい私の苦悩を告白していたかもしれない。多くの悩める相談者の声に耳を傾け、生きる勇気を与えてくれた二人に敬意と感謝を捧げたい。私は最悪期の自分と比較すれば別人になって、まだ生きている。私は、私と関わった過去の人々に、出遭っても、頭を深く下げて、通り過ぎることが出来る域にまで成長している。

 『あのとき 飛び降りようと思ったビルの屋上に 今日は夕日を見に上がる』 萩尾珠美 中央経済社『日本一短い手紙 大切ないのち』


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汚物タンク殺人事件

2011年12月13日 | Weblog

 2009年、滋賀県米原市で女性会社員小川典子さん(当時28歳)が、小川さんと交際していた森田繁成容疑者(当時40歳)に殺害された。警察の捜査の結果、その後山中の汚泥タンクの中から遺体が見つかった。裁判員裁判で裁かれているが、懲役17年を求刑されているが、いまだに結審されていない。殺人事件は毎日のようにある。しかしあの事件は私を腹わたが煮えくり返るほど怒らせた。殺すことも許せないが、人間を生きたまま汚物タンクに投げ入れ、殺したことをどうしても許せない。

 なぜ私がそれほど怒ったのか。それは私が子どもの頃、ポットン便所つまり汲み取り便所を知っていることと、トイレの汲み取りや汚物タンクの清掃と洗浄を私自身がした経験があるからである。子どもの頃使っていた汲み取り便所だが子ども故の好奇心や怖いもの見たさでのぞいた。しかし仕事として命じられてやったトイレの汲み取りや汚物タンクの清掃はまったく別なものだった。

私は新聞を読んだ時、そのおぞましい光景が臭いさえ伴って、現実味を持って迫った。カナダ留学への体験学習と誘われ、結局寺男のように働かされた。初めてその仕事を命じられたのは、軽井沢のキリスト教の団体施設だった。夏の軽井沢には多くの外国人宣教師が避暑のために日本中から集る。そこの別荘やバンガローは、水洗トイレが付いているものと付いていないものがあった。汲み取りトイレにしても水洗トイレにしてもさして変わらない。当時軽井沢には下水処理場はなかった。水洗トイレは敷地内に一か所のタンクがあり、そこに汚物が集められ、処理をして地下に浸透させるという簡単なものだった。

 私は裁判の判決にハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」を採用して欲しいと願っている。昨今、人権主義者と言われる罪人にとことん優しい法関係者が多く活躍している。ハムラビ法典などと私が言えば、その人たちをいたずらに刺激するだろう。私は、紙に文字で書かれた法律も必要だと思う。しかしどんな理由があったにせよ、汚物タンクに生きたまま沈めて人間を殺すなぞ許しがたい。人権主義の法職者は、おそらく自分の排泄物など水洗のボタンを押せばそれで終わりと思っているだろう。便所の汲み取りにせよ、汚水タンクの清掃でも、それら作業を自分がすることなど有り得ない人々である。どんな方法でもいい。汚物タンクで人殺しをしたなら、酸素ボンベを背負わせてでも、ビニール袋に入れ、汚物タンクにその犯人を1分でもいいから沈めて、被害者の屈辱を経験させて欲しい。判決がどうこうという前に、更生がどうのこうのという前に、汚物タンクに沈めることで、そのあとの事は自ずと道が開かれると私は信じる。


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シンガポールの寿司屋

2011年12月09日 | Weblog

 伊豆の温泉旅館に泊った。15人しか泊れない、夫婦二人と数人のパートさんだけで経営する小さな旅館である。温泉と料理の評判が良いということでその旅館を予約した。川のほとりにたたずむ二階建ての小さな旅館だった。

 女将さんは、入館時にいろいろ指示をした。「夕食には浴衣のままで結構ですが、朝食の時は、服を着て来てください。お風呂は24時間いつでも入れますが、必ず出たら電気を消して下さい。靴は下駄箱に入れてください」などなど、延々と述べられた。早めに運転の疲れを温泉で癒そうと風呂に入った。かけ流しの温泉風呂に私だけという贅沢を満喫した。湯の温度が高く、私には熱過ぎたが、慣れるとその熱さを心地良く感じた。タオルを頭に乗せて、浪曲でも唸りたくなる心境だった。ふと窓を見ると大きく「マドを絶対に閉めないで下さい」と書いてある。女将さんが入館時に注意したことあちこちにこうしてボードに書かれている。これはきっと女将さんの注意をきく客が少ないに違いない。それにしてもちょっと行き過ぎの気がする。汗をかくほど温まって、脱衣場の電気を消して廊下に出た。

すると今到着したばかりらしい男性客が、すれ違いざまに私の電気を消したのを見て「つけておけば」と言った。「必ず消すようにとここの女将さんに言われているので」と私は答えた。「節約、節約、日本はどこへ行っても節約かい」とその男性は言いながら歩き去った。年齢60代後半でセーターを着ていた。私はこの年代で普通の人が「日本」と会話の中でいう使い方はあまりないと思った。もしかしたら海外に住む人・・。

 夕食の宴会場兼食堂では、この男性のテーブルの隣が私たち夫婦の席だった。男性のテーブルに5人座っていた。男性だけが宿泊していて、四人は服装から食事だけに来ているようだ。聞くとはなく、この男性の独演会が耳に入った。どうやらこの男性は、いまをときめく海外に進出した日本企業のお偉いさんらしい。タイとシンガポールの話が多い。「日本はどこへ行っても寿司は回転寿司ばかり。100円とか120円とかでしょう。シンガポールには寿司屋が850軒もあって、日本のように二貫づつでなく、一貫づつ出す。それも一貫800円とか高いものは1800円もする。現地の人でも寿司をばんばん注文している。日本はデフレだな。これじゃダメだよ。負けてるよ」 

わかった。なぜこの男性が風呂から出てきた私が電気を消したことに意見を述べたのか。彼は海外できっとお手伝いさんや使用人のいる、電気代にもわずらわされない優雅な暮らしをしているのだろう。日本がバブルの時のままの生活感覚を引きずっていられる経済力があるに違いない。3.11以後の日本の閉塞感をよその国のことのように考えているのかもしれない。日本から自分の工場を海外に移転したことで我が世の春の勢いを維持しているのだろう。

 

招待した日本側の取り引き会社のおそらく社長夫妻と部下らしい40歳代の男性二人の四人が、この男性を囲んでいた。しかし喋る男性以外のだれもただ「ほう」とか「そうなんですか」と首を縦にふりながら言うだけである。日本残留会社側の覇気のなさに何となく気が重くなってきた。

そんな空気を吹き飛ばすように、奥の仕切られた宴会場の前の三和土に白いスーツを着た三人の若いコンパニオンと呼ばれる女性が姿勢よく並んだ。ハイヒールの高さは15~20センチあるかもしれない。そこへ十数人の60代後半の男性が、浴衣姿でぞろぞろ入ってきて、コンパニオンが深々と御辞儀して迎えた。これで宿泊者全員がそろったようだ。中での様子はまったくわからなかった。食べ終わって部屋に戻った。9時前に寝てしまった。

次の朝、朝食を食堂に食べに行くと、コンパニオンと宴会をしたグループがすでに朝食を終えて、昨夜のことをあれこれ大声で話し、盛り上がっていた。このグループは警官の退職仲間だということも判った。昨夜のコンパニオンは一本(30分)8千円で最低時間は2時間だという。私は計算した。一人3万2千円で3人だから計9万6千円。宿泊代別だから支払いは大変な額になる。

シンガポールの寿司屋で一貫ずつ注文して食べるのも凄いが、日本の旅館でコンパニオン呼ぶのも凄い。日本の老人は海外でも国内でも元気いっぱいのようだ。しかし私は、こんなんでいいのかなと言い知れぬ不安を感じた。


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煽られる、でも煽られない

2011年12月07日 | Weblog

 伊豆下田へ妻と車で行った。国道135号線を左側に時々太平洋を見ながら進む。道路は日曜日だったので、東京方面への反対車線は、ところどころ渋滞していたが、下田方面は空いていた。早咲き桜で有名な河津の海浜公園に車をとめて、家で作って持ってきたおにぎり弁当を食べた。伊豆七島すべてを見ることができた。昼食後、気分を良くして運転を続けた。

 菖蒲沢を過ぎた頃、対向車がパッシングライトをパカパカさせた。私は私の車のヘッドライトが点いていて、それも上向きになっているのかと、すぐ点検した。どこもおかしくなかった。妻が「車をどこかで止めて、調べてみたら」と言う。速度制限40キロの交通標識が目に入った。(もしや、対向車は私に警察の速度取締り通称“ねずみ捕り”を教えてくれたのでは)と思い始めた。私はその時、車の速度を55キロに設定して運転していた。また対向車がパッシングをして通り過ぎた。かなりの確率で速度の取り締まりを行っていると私はよんだ。

 まず速度設定を40キロに変えた。とたんに後ろの観光貸切バスが私の車にぎりぎり迫った。今度は後ろからパッシングライトを浴びせかけられた。でも私は慎重に40キロを保つ。制限速度が70キロ100キロの道路を40キロで走っているのではない。最高速度40キロの道路を40キロの制限ギリギリで走っているのである。速度40キロ制限の上、ずっと追い越し禁止の黄色のセンターラインが続く。私の後ろに10台くらいの列ができていた。『狭い日本、そんなに急いでどこへ行く』を唱えた。観光バスは、途中のお土産屋に入っていった。次に後ろにつけたのは、商業バンで制服を着た男性が運転していた。この運転手も気が短いというか、日本人特有のせっかちな性格なのか、いらついているらしく何かわめきながら煽る運転を続けていた。50メートルくらいの直線に出ると、私を睨み付けて、追い越していった。(バカ野郎)と言ったのを私の読唇術は見逃さなかった。それでも私は度重なる煽りにも屈しなかった。そして2メートルくらいの笹が繁る看板の影に警官がスピードガンを道路の通行車両に向けていた。約150メートル先の駐車スペースが広く取られた場所に警察車両が並び、違反車が5,6台捕まっていた。私の車の後ろについていた車は、抜いていった商業バン以外、全部助かったことになる。

 臆病者の私は、検挙地点を通過した後も、法定速度の40キロで走り続けた。感謝知らずの勇気ある運転者たちは、次々に私の車を追い越し禁止の黄色のセンターラインを超えて追い越していった。どうやら交通法規というのは、自分の勝手な解釈で自由自在に変えていいものらしい。つまり捕まりさえしなければ、何をやってもいいということだ。それでダメだったら、罰金を払えば済むということらしい。パッシングライトで反対車線から、取締りを教えてもらわず、40キロの速度制限の標識を見落としていたら、私も速度違反で切符を切られ、罰金を払うことになっていただろう。

 どんなに後ろから煽られ、バカと言われても、私はできるだけ交通規則は守ろうと思う。たとえその取締りが50キロの制限を意図的に40キロに落としたワナであっても、標識に従う。警察は、取り締まりで罰金の徴収高も署員の勤務成績に反映させるという。警察も取り締まる方法をいろいろ工夫している。今の日本車は、どれも性能がよく、40キロのスピードで走るのは、何ともまどろこい。40キロで走行を継続するのは、困難である。我慢比べになる。それでも私は法定速度を守りたい。私はチュニジアで雇った運転手の運転する車の助手席で大きな交通事故に遭った。大怪我をして、車一台を廃車にした。運転手のスピードの出し過ぎと信号無視だった。車は走る凶器だという恐怖を痛く体験した。だからできるだけ他の人を事故に巻き込むことのないよう気をつけて運転したい。凶器に成り得る車を運転するには、慎重に成らざるを得ない。バカと言われようが、どんなに車間距離を詰められ、煽られても、事故は、金輪際ご免こおむりたい。私の心の中にも交通法規を守らなくてもいいという考えが時には起こるが、できるだけその考えを押さえ込んでいる。法律は、私にとって理不尽なこともあるが、法律を守ることで私の生き方に良心の筋は通る。

『最も恐ろしい目撃者そして告発者は、万人の心にある良心である』 ポリュビオス


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国会のヤジ

2011年12月04日 | Weblog

 国会のテレビ中継を観ているとヤジが耳障りである。下品なヤジも多い。何を言っているのかわからず、ただ動物が吠えているようなヤジもある。女性議員のヤジの多いのにも驚く。誰がヤジっているのか知る由もない。テレビカメラが映し出す議員はみなおとなしい。議員たちは、ヤジるところを全国放送されることを好まないらしい。ネットに匿名で誹謗中傷を繰り返す卑怯な人種に似ている。

そこで考えた。国会議員というのは、多くの投票してくれた支持者の代表である。投票した人は、自分の代理である議員が、国会でどのような発言やヤジをしているかをいちいち知るべきである。マイクの集音技術は日進月歩を続けている。私は提案する。国会のテレビ中継にヤジ専門の集音マイクとカメラを駆使してヤジの発信源を映像と音でとらえ、ヤジの内容を画面に文字表示で字幕のように取り入れる。


 最近ヤジることが国会議員の仕事と勘違いしている輩が多い。あの広く天井の高い議場でただギャアギャア言われても、それも一人や二人でなく不特定多数のヤジのままだと、国会中継を傍聴している視聴者は、欲求不満におちいる。テレビ画面上にヤジをとばす発言者の顔とヤジの内容をテロップ表示で映す。これをすれば、国会中継の視聴率は上昇間違いない。テレビは視聴率がすべてだそうだ。テレビ局がこの手法の中継を始めるよう期待する。そうなれば、急に現在ヤジを仕事だと思って励んでいる議員が、借りてきたネコのようにおとなしくなることは見え見えである。あまりに議員の数が多く、国会議員になったけれど、鳴かず飛ばずの鬱憤をヤジで晴らすことが出来なくなる。

 しかし国会が静かになり、本来の国の重要事項を議論する場所である議事堂に戻れば、それはそれで大きな前進である。

 

(このブログは土、日、祭日を除いて、2日おきに投稿していますが、12月5日(月)の投稿分を都合で本日4日に変更しました。)


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