28日今年最後のスポーツジムに出かけた。車で行くことにした。車からあちこちで大掃除をしているのを見ることができた。セブンイレブンの店外で女性が、脚立にあがって明かり取りの小さな窓のサッシを雑巾で拭いていた。なにかの事務所では、部屋の蛍光灯を抜き取り、管を一本一本掃除していた。庭のある戸建て民家では、老夫婦が庭の雑草を刈り取り、熊手でかき集めている。マンションのベランダで部屋の敷物を親子で叩いている光景もあった。
私が子供の頃、一家総出の大掃除が一年の締めくくりだった。父、母、姉、私、妹二人。それぞれ担当が決まっていた。それは今、考えると、性格や体格や体力が自然に振り分けようだ。父は身長は低かったが、とにかく力があった。畳を軽々と抱え上げ、家の外に運び出す。私は父を手伝いたいと手を出すが、父はやんわりと他の仕事をするよう命じた。病弱で痩せていた私とモタモタやるより、父ひとりでやる方がずっと捗がゆく。それでも父は、畳を叩く時は、私を呼び、長い棒で両側から、一年分のホコリを叩き出した。父は大掃除で男が知っておかなければならないコツを教えてくれた。時々父の棒と私の棒がぶつかった。手がシビれるほど強烈な一撃だった。そのシビレは今も手に残っている。
畳を出した部屋の床は、荒削りの板が大雑把にクギ留めされていた。母が敷いてあった新聞紙を片付け、ホウキで掃いた。南側の日当たりの良い部屋に私の大掃除の最大の楽しみがあった。私はコタツ用に開けられた穴から床下に降りる。床下は狭く、当時家族では私しか入る者はいなかった。廊下の部分にすばやく移動する。当時、5円だって大金だった。何故硬貨が落ちていたのか今でも不思議でたまらない。冬の太陽の光がすき間と通気口から差し込む。光がホコリをスターダストのように浮き立たせる。廊下のほんのわずかな、すき間に沿って床下の土の上にゴミやチリや砂が溜まっている。私はそっとその山を指で崩す。毎年必ず5円玉か10円玉が見つかった。2個見つけたこともある。嬉しかった。エジプトのピラミッドの地下の王様の宝を見つけたくらい興奮した。
しばらく床下に留まった。妹たちが「お兄ちゃんいない」と騒ぎ出す。父が「こら、ジュンイチ出て来い」と太い声で言う。みんなが私を気にかけてくれた。貧しかったけれど家族っていいなと思った。自分も家族の一員だと自覚できた。冬の早い太陽が西の山に沈む頃、大掃除が終了する。古くて、何も大した家具もない家だったが、まるで宮殿のようだった。母と姉妹たちが張り替えたまばゆいばかりの真っ白な障子、父と私が叩いた畳。大掃除の終った家の中は、モッタイなくて手も触れられず、歩くのも抜き足差し足だった。心地良い疲れをそれぞれの下着、手拭い、石鹸と一緒に風呂敷包みに入れて、ゾロゾロ歩いて家族全員で近所のフロ屋へ行った。暖まったあと、つかもと食堂でみんな同じく35円の中華ソバを食べた。たった一枚のチャウシューをなかなか口に入れられなかった。大掃除が終ると指折り数えて待っていた正月は、もうすぐそこまで来ていた。
29日、正月休暇に入った妻と二人だけで大掃除をした。我が家には畳がない。床下もない。大きな冷蔵庫の中身を全て出す。新聞紙をカウンターの上に敷いて、その上に並べる。賞味期限が切れたもの、干からびてミイラ化した食品。どれもこれも私が子供の頃なら、見たこともない舶来品や高級品だった物ばかりだ。1時間で冷蔵庫を片付け、消毒した。ゴミ袋ひとつがいっぱいになった。流し、洗面所、風呂場、トイレの水周りを掃除した。風呂場の排水槽を掃除した。ヌメリ、髪の毛、カビ。気持のよいもではない。汚れ仕事をしながら、自分が人間として、50年前と少しも変わっていないと思い知らされた。食べて、寝て、排出する。なんだか安心した。「自惚れるな、地道が人の道」と父の声が聞こえたようだ。
「日本に大掃除の風景があるかぎり、まだまだ日本は捨てたものじゃない」 政府、民主党、官僚、産業界の迷走、暴走を横目に、私は、ひとり合点していよいよ大晦日を迎える。