団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

ぎっくり腰

2023年01月31日 | Weblog

先週、40年近く使ったウォーターベッドを破棄した。最初の結婚は7年で離婚に終わった。二人の子供を引き取った。2年間一緒に暮らした。その時思った。このままだと3人がダメになってしまう。可愛い子には旅をさせろ。二人の将来を考えた。長男を全寮制の高校へ。長女は、英語を身に付けさせるためにアメリカへ行かせた。毎月、二人に仕送りするために、予備校、専門学校、自分が経営した塾、家庭教師を掛け持ちした。腰痛が悪化した。ウォーターベッドが腰痛に良いと聞いた。何としてでも二人の子が大学を卒業するまで支えなければと思っていた。ウォーターベッドは百万円くらいしたが、月賦払いで買った。腰痛が消えた。高価だったが、100万円でも40年使えば、1年2万5千円だ。1日68円ということになる。

 縁あって再婚できた。妻の仕事の関係で海外勤務に、私は自分の仕事をやめて同行した。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアのサハリンに暮らした。サハリン以外の国ではウォーターベッドを使った。ウォーターベッドの便利なことは、シリンダーの水を抜くと意外と小さくまとめることができるので引っ越しが楽。こうしてウォーターベッドは、私たち夫婦とずっと一緒だった。妻が日本の病院に勤務するため、帰国した。終の棲家として温暖な地の集合住宅を購入した。ここでもずっとウォーターベッドを使った。ウォーターベッドの水は、1年に1回取り替えなければならない。さすがに40年も使い続けるとビニール製のシリンダーが漏れてきた。製造元のフランスベッドに問い合わせると、すでにウォーターベッドの販売をやめていて、シリンダーの在庫もないと言われた。ネットで調べると、中古のシリンダーがあったので買った。私たちも歳をとった。毎年の水替えが、しんどくなった。ベッドを買い替えることにした。でもウォーターベッドを捨てる気にはならなかった。水を替えもせず、私の書斎に置いておいた。40年間以上ずっと私と一緒だった。悲しいことがあった日も、嬉しいことがあった日も、私はウォーターベッドの上で寝た。愛着というか、何か体の一部のような気持ち。でも思った。私が死んだら、誰かがこのウォーターベッドを処分しなければならない。迷惑はかけたくない。処分しようと決心した。

 町に何でも屋がある。この街に越してきて、いろいろやってもらってきた。頼むとさっそく来て、ウォーターベッドを運び出してくれた。前夜に妻と二人でウォーターベッドを分解しておいた。

 ウォーターベッドを運び出した書斎は、広々した。一向に進まない私の終活。よくもまあ、これほどのごったくがたまったものだ。妻が勤めに出た後、一人で書斎を片付けていた。

 何かの拍子に腰のあたりが「ギクッ」。ぎっくり腰! 思った。ウォーターベッドのお陰で、長い間腰痛を防げたのだと。そのウォーターベッドはもうない。


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暑さ寒さも玄関まで

2023年01月27日 | Weblog

 「暑さ寒さも玄関まで」 東海道線の大船駅と戸塚駅の途中に、大きな看板があった。これは「暑さ寒さも彼岸まで」をもじったリフォームの会社の看板だったと思う。現在、この看板はなくなってしまった。

 このところの寒波で、私が住む町でも、26日に最低温度が氷点下2度になった。故郷の上田市は、氷点下10度になったそうだ。26日散歩の途中、日陰で霜柱を見つけた。土を押しのけ、スクっと伸び上がっていた。柱状の細い水晶の結晶のよう。綺麗。子どもの頃は、霜柱は、踏みつけて破壊する対象でしかなかった。何であんなことをしたのだろうと今は思う。

 信州上田は、冬寒い。寒いながらに「子供は風の子元気な子」と遊びを楽しんだ。上田城の掘は、スケート場になった。矢出澤川の土手は、川の水を汲んで撒き、ソリのスロープを造った。ちゃんと足ブレーキを使って止まらないと、ソリもろとも川に落ちた。「♪おしくらまんじゅう押されて泣くな♪」と歌いながら、尻、背中で本気でぶつかり合った。しまいには湯気を上げるほど温まったものだ。あちこちにできた霜柱、皆で競って踏みつぶした。今のように防寒服もなく、綿入り半纏ぐらいの服装だった。当時、霜焼けやヒビ、アカギレのない子などいなかった。ほっぺが真っ赤な子も多かった。今のようにティッシュペーパーがなかったので、寒さででた鼻水は、みな服の袖で拭いた。だから袖は、テカテカ。

 高校からカナダに留学した。厳寒地で冬、気温は氷点下40度を超えることもあった。日本の高校では、教室に石炭ストーブがあった。一日に割り当てられる石炭の量は、昼まで持つことはなった。カナダに行って何が驚いたと言って、体育館まで暖房されているのにびっくり仰天。外が氷点下30度40度でも、室内は、ハワイのようだった。もうひとつ驚いたのが、鼻をかむのに皆ハンカチを使っていた事。考えようによっては、SDGS運動が盛り上がってきた今、ティッシュペーパーの替わりにハンカチを使うのも良いかも。

 寒い日、散歩を終え、外から家の中に戻る。玄関のドアを開けた瞬間、中からほんわり温かな空気が頬に当たる。そんな時いつも、東海道線の沿線で見たあの看板の「暑さ寒さも玄関まで」が浮かぶ。ありがたいことだ。離婚した後、引き取った子供二人を全寮制の高校とアメリカに行かせた。仕事を終えて帰宅する。真っ暗な玄関を開ける。外より冷たい空気が当たった。「お帰り」の言葉もなく無音の空間。冷え切った部屋、冷たいベッド。

 今は違う。オール電化の終の棲家。寝室は、デロンギのオイルヒーターを一日中弱で入れっぱなし。風呂場と脱衣所は、ヒートショックを防ぐためにTOTOの暖房機を使える。エアコンは、夏冷房で冬暖房。タイマーを駆使して、こまめに温度調節できる。

 今月の電気料の請求書に4万5835円!先月は3万3212円。電力会社は4月から30%の値上げを申請したとか。携帯電話を格安のものに変更。車も小さくした。節約できることはして、健康な生活に重点を置こうとしている。いつまで「暑さ寒さも玄関まで」と言っていられる生活を続けられることか。


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ぐじ 甘鯛

2023年01月25日 | Weblog

  京都では甘鯛のことを“ぐじ”という。

 子どもの頃、親が婚礼に呼ばれると、必ずというように焼いた鯛が入った折詰を持ち帰ってきた。長野県は海がない。生魚といえば、サンマかサバだった。鯛は、保育園で聴いた浦島太郎の話の中にでていたので、名前だけはよく知っていた。婚礼の折詰の中の鯛は、存在感が半端ではなかった。母親が網の上で、どでんと真っすぐのまま焼いた、焦げ目のきついサンマやサバと違う。黒い焦げ目などない。どういうわけか、腹のあたりに切れ目が入っていて、体が波のように曲がっていた。鯛の白い身も美味かった。父親は、「鯛は捨てるところがない」と骨までこんがりと焼いて、晩酌のつまみにしていた。普段貧しい我が家の食卓も、婚礼の折詰で竜宮城の食事のようになった。

 長野県にいた頃、海の魚の名前など、ほんの少ししか知らなかった。母親に「お前の魚の食べ方は、上手」と褒められていたせいか、私は魚好きになった。今、終の棲家と決めて、海の近くに住んでいる。新鮮な魚を手に入れることができる。

 私が一番好きな魚は、甘鯛である。妻も甘鯛の塩焼きが好きだ。甘鯛の存在を知ったのは、京都に行った時だった。友人に京都の先斗町にある『余志屋』という小料理屋を紹介された。小さな店だが、美味しい店である。そこで食べた甘鯛は旨かった。京都では甘鯛の事を「ぐじ」という。諸説あるが甘鯛の頭が屈折しているところから、屈頭(ぐず)というのが変化して「ぐじ」になったらしい。とにかく美味い。

 余志屋でぐじを食べてから、ぐじの虜になった。行きつけの魚屋にも時々入荷している。魚は、旬に食べるのがいい。先人たちのお陰で、魚の旬は、定着している。ぐじは冬が旬。最近甘鯛の大きいものは、店頭に並ばない。獲り過ぎなのか、海水の温度の変化なのか。甘鯛の調理は、難しい。他の魚と同じ様に、ウロコ落としでウロコを剥ごうとすると、身までこそげ落ちてしまう。そのせいか、甘鯛の料理に、「ぐじの松かさ焼き」といって、ウロコを取らずにそのまま焼いて、ウロコまで食べるものがある。You tubeは、役に立つ。京都の料亭の板前さんが甘鯛のウロコの取り方を実演している。沸騰しているお湯にさっとくぐらせて、氷水に入れ、手で丁寧にウロコを取る。早速やってみた。うまくいかない。こうして自分で試してみて、余志屋の凄さを知る。

 コロナ禍で余志屋にも行ってない。仕方がないので自分で甘鯛の料理に挑戦している。先日甘鯛の酒蒸しを作った。魚が悪いのか、私の腕なのか、甘鯛の身が粉っぽくなってしまった。色々試しているが、普通に塩焼きして食べるのが一番美味しいのかも。でもあきらめずにこれからも甘鯛の調理に挑戦していくつもり。そしていつか私も甘鯛の事を「ぐじ」と呼べるようになりたいものである。


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異次元の少子化対策

2023年01月23日 | Weblog

 「神 彼等を祝し 神 彼等に言たまひけるは 生よ 繁殖よ 地に満てよ」聖書 創世記1-28

 私の父は、三男二女の次男、母は四男五女の次女だった。父も母も極貧家庭に生まれた。父は、尋常小学校に2年間、母は、他の兄妹の子守の為、ほとんど学校へ行けなかった。私は一男三女の長男。私は一男一女の子ども二人。長男が二男、長女は一男。我が家でも少子化が進んでいる。

 岸田首相は、最近、異次元の少子化対策なるものを発表した。詳細は分からないが、要は子育てに対する援助を増やすということであろう。コロナ禍、感染者は全額国費で治療が受けられる。ワクチン接種も国費。事業者には、支援金や助成金が。いったいどこからこの金が出てくるのか。これはまるで打ち出の小槌を政府が持っているかのようだ。イタチごっこになる軍拡競争突入が確実な防衛費の増額を増税で賄うとも言いだした。

  最近、私が聴いているラジオのコマーシャルは、過払い金とB型肝炎と相続税の3つに占領されている。英語にbeg(乞う)と言葉がある。Begする人の事をbeggarという。ローマ時代と同じ『パンとサーカス』の愚民化政策かと耳を疑う。ラジオで「もらわないと損ですよ」と煽る。それはまるで政府もマスコミも国民をbeggarにさせようとしているように思える。

  私の父や母が子どもの頃、あれほど貧しくても父や母もちゃんと育って家庭を持った。私が生まれた頃だって、終戦直後で近所みんなが貧しかった。貧しさの中で、両親は、政府からの援助金などbegすることもなく、食べて、教育まで受けさてくれた。今は、何か違う。行く末に不安ばかりが募る。

  少子化対策に予算を組む。軍備費を増額する。遅いのである。長期展望を持たずに何事も先延ばしにしてきた報いだ。政府にも責任があるが、その政府を構成する議員を選んできたのは、国民である。

  少子化に関して大きな原因が、学校教育の在り方にあると私は、思っている。私が中学生だった時、私は恋をした。好きになった女子生徒に恋文を渡した。後日、私は彼女の担任に職員室に呼び出された。他の先生がいる職員室で、その教師は、私の恋文を、こともあろうに声を出して読んだ。職員室中に笑い声が満ちた。私と同じ学年に信州大学の教育学部の教授の息子がいた。学校全体で男女交際が禁止されていた中、彼は堂々と好きな女子と愛の交換日記をしていた。教師のほとんどが彼の父親の教え子だった。まったくおとがめなし。忖度だったようだ。

  今でも小中高、どこもほとんどが男女交際を禁止している。校則でガンジガラメである。思春期を規則で抑え込む、そんな国の子どもが大人になって、急に結婚というわけにはいかない。恋愛にも経験が必要。私は、高校の途中からカナダに留学した。カナダもアメリカも高校生でお母さんになる生徒が大勢いる。日本の高校では考えられないことだ。カナダでもアメリカでも、思春期に男女交際を求めるのは、当たり前の事と捉えているようにみえた。異次元の少子化対策で金をばらまく前に学校内での規則の多くの見直しの方が、この先、効果が大きいと思う。金ばかりBegするのではなく、政治を変えるbegが、私たちには必要ではないだろうか。

 


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ネパール飛行機事故

2023年01月19日 | Weblog

 

  ネパールは、妻が医務官として赴任した最初の任地だった。2年半ネパールに暮らした。

 私は、日本人補習校で小学3年生のクラスを受け持った。生徒は、ネパール人と結婚した日本人の子と現地で働く日本人の子だった。全部で4名。日曜日ごとに授業があった。ある日、一人の子が欠席した。その子の父親が、飛行機事故で亡くなったと連絡があった。私の妻は、墜落現場からカトマンズの空港へ届いた残がいの中から彼の父親を捜した。大変な作業だった。結局遺体は見つからず、靴下を履いたままの足首から下だけが見つかった。この後、妻は、しばらく鬱状態に陥った。

  事故から2週間後の日曜日、その子がクラスに戻って来た。私はどう声をかけて良いのか分からなかった。平静を保とうとした。その子は、とてもおとなしく勉強もできる子だった。私以上に彼が平静を保とうとしているのが、見て取れた。他の生徒もいつもは、ふざけ合って騒がしいのに、その日はおとなしかった。授業が終わるとその子が私の所に来て、「先生、僕日本に帰国します。お世話になにました。」と言った。私は、何をどう言っていいのか分からなかった。

 日本から高校の同級生のK君がネパールに来てくれた。象や犀のいるチトワンや釈迦の生まれたルンビニ―などを巡った。K君は、どうしても自分の目でエヴェレストを見たいと言った。空港からエヴェレスト観光飛行があるというので、それに乗れるよう手配した。空港で見送って、到着時間に迎えに行った。待てど暮らせど、飛行機が戻って来ない。2時間が経った。飛行機事故?ネパールは、飛行機事故が多い。1992年の7月にタイ航空の311便が墜落して日本人乗客を含む113人が犠牲になっている。私の補習校で教えていた生徒の父親が亡くなった事故で、妻が遺体捜索での悪夢のようだった語った光景が浮かぶ。私の妄想は、最悪のことばかり。パニック。何の情報も流さなかった空港アナウンスが飛行機の到着を告げた。飛行機から降りてきたK君に抱き着きたかった。

 1月15日ネパールのポカラで、イエティ航空の飛行機が墜落した。乗客乗員71名死亡1名が行方不明というニュースがあった。私は、補習校の父親を失った生徒、遺体の捜索で泥だらけになって放心状態で帰宅した妻の表情を思い出した。墜落で失われた人々が、どれほどの恐怖であったか。そして突然の事故の遺族の方々の悲しみを想う。

 私たちがネパールで暮らした2年半、10回以上タイ航空に乗った。危ないかもと思ったことも数回ある。天候が悪く、インドのカルカッタ(現コルカタ)に緊急着陸したこともある。ネパールに訪ねて来てくれた家族友人は、多かった。今更ながら、皆無事でよかったと思う。今でも、乗った飛行機が、ネパールのトリブバン空港へ着陸態勢に入って、山々の頂きスレスレに降下する光景を夢でみることがある。飛行機が、世界最高峰のエヴェレスト目指して突っ込んでいく途中で目がさめる。


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頻尿

2023年01月17日 | Weblog

  妻の旧ユーゴスラビアからチュニジアへの転勤は、所有していた2台の車で移動した。家財道具の多くを運送業者に委託した。到着したらすぐに必要な身の回りの物と飼っていたシェパードを乗せた。1台は、私が妻と犬を乗せて運転した。もう1台は、アルバイトを雇って、チュニジア行きのフェリーが出る、イタリアのジェノヴァまで運転して運んでもらった。ジェノヴァでチュニジア船籍のフェリーに乗り込もうとした。フェリーの車を積み込む狭い開口部に、チュニジアに帰る出稼ぎの人たちの、屋根にまで荷物を積んだ車が、一斉に我先にと動き出した。カオス!まったく動きが取れない。早速、アラブ社会のカオスの洗礼を受けた。こういうカオスもいつしか不思議に収まる。2台の車を無事積み込んだ。犬は部屋が決まってから連れてゆくことにして、そのまま車に残した。フェリーの受付で、チュニジア行きの手配を頼んだ旅行社から受け取った、船室の予約が記載されたチケットを提示した。予約チケットの部屋番号と違う部屋の鍵を渡された。船室をやっと探し当てて鍵を開けようした。鍵はすでに開いていて、中に人がいた。受付に戻った。また違う部屋の鍵を渡された。その部屋にも先客が陣取っていた。同じことを4,5回繰り返した。先に取った者が勝ちは、当たり前のことだと、後にチュニジアで暮らしてわかった。フェリーはすでに出向していた。部屋が決まったので犬を迎えに行った。客室から車のある甲板へのドアは、到着するまでロックされるということで、犬は、そのまま車に置かざるをえなかった。フェリーは夕方にイタリアを出て、翌日の昼近くチュニジアに到着した。

 私たちは、きっと車の中は犬の排泄物で大変なことになっていると思った。犬は、私たちを見て、狂ったようになって喜んだ。じっと荷物でいっぱいのシートの片隅に臥せっていたのだ。排泄物もなかった。もともと犬は、マーキングをするので尿は、小出しに調節することができる。

 私は、塾で教えていた頃、一度午後4時に机に座ると、最後の生徒が帰宅する9時までトイレに行かなかった。そういう生活が、20年以上続いた。おそらく膀胱がそういう生活で、鍛えられたのかもしれない。そのお陰か、私は、夜中に尿意で起きることはなかった。芸者さんも私と同じように強靭な膀胱でなければ、勤まらない仕事だと聞いた。

 ところが60歳を過ぎてから、糖尿病治療のために新しく開発された薬を服用することになった。主治医に「この薬は、糖を尿と排出するため、頻尿の傾向がみられます」と言われた。この薬のお陰で、血糖値に大きな改善があった。主治医が言った通り、頻尿になった。

 以前、妻の両親をディズニーランドへ連れて行った。妻の父親は、高速道路のサービスエリアが来ると、「悪いが止めてくれ」と言ってトイレに行っていた。義父は、糖尿病でなかったが、年齢による頻尿だったようだ。

 年齢を重ねることによって、体のあちこちに不具合が増える。若かった頃、あんなに我慢できたのに、薬のせいとはいえ、トイレに駆け込む回数が増えた。

  ディズニーランドへ行く途中の今は亡き義父を想う。フェリーの中の狭い車内に、一晩閉じ込められながら空腹と排出を我慢できた犬を想う。


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海の雑草は海のホウレンソウ

2023年01月13日 | Weblog

  カナダで「日本人は、昆布を食べるんだって!あんな物よく食えるな」と同じ学校で学んでいたカナダ人学生に言われた。英語で昆布や海藻の事を、“seaweed”という。Seaは海。Weedは雑草。そう言われてからずっと後で、社会学の教授が「これから先、人口爆発や気候変動で世界が食糧難になった時、おそらく生き残れるのは、日本人だろう。なぜなら日本人は、海藻(seaweed)など、他の国では食べられない物を食べるから…」と講義中に語った。私の席の周りから、「オェーッ、気持ち悪い」「信じられない」などの声が聴こえてきた。私は、以後seaweedをポパイに因んでseaspinach(海のホウレンソウ)と名付け、普及させてきた。

 私は、子供の頃からワカメ、とろろ昆布、ニシンの昆布巻きが大好きだった。海藻や昆布が“海の雑草”などと思ったこともなかった。国が違えば、これほど食文化は違うのだと思い知らされた。食に関する嗜好は、国によって異なる。健康志向が世界中で強まる中、和食が脚光を浴びるようになってきた。フランスのシェフの中にも、昆布や鰹節で出汁をとる人もいる。嬉しいことだ。貶されたり、馬鹿にされたり、笑われるより理解され、受け入れられることは、喜びだ。

 1月3日の夜、妻と買った“おせち料理”の残りで晩酌をしながら、テレビをつけた。いつものようにチャンネルをあちこち変えて、観られる番組を探した。地デジは、相変わらずつまらなそうな番組ばかり。BSに変えた。タイトルが『北の果て一人生きる 浜下福蔵92歳』とあった。『北の果て…』で思い出すのは、妻の外務省医務官として最後の赴任地ロシアのサハリンだ。観ることにした。北海道礼文島の鮑古丹に一人住む漁師のドキュメンタリー番組だった。風景がサハリンに似ている。それだけでも惹きつけられたが、この92歳の老人が凄い。詩人なのだ。筆を鍋に入れた墨汁に浸し、紙に詩を書く。

 この老人の生業は、漁師だったが、歳をとって船に乗って漁に出るのが危険になった。近くに住む息子夫婦が、昆布の養殖を老人の家の前の湾でしている。老人は、2人の季節労働者に混じって息子夫婦を助ける。番組の中で昆布養殖の過程が見えた。ロープ上に昆布の苗をねじ込む。そのロープを海に入れる。育った昆布を陸揚げする。作業小屋の中で、昆布を商品規格に切りそろえてゆく。乾燥させる。キレイに揃えて束にする。出荷する。老人の生き様にも感動したが、私は、昆布にも感動した。

 カナダで海の雑草を食う日本人と言った学生たちにこの番組を観てもらいたい。どこが雑草なのか。

 私は料理が好き。最近、鰹節と昆布で出汁をとってする料理に凝っている。利尻の昆布を使っていた。浜作さんが出荷した昆布かどうか知らない。でも利尻で同じ様に養殖された昆布であろう。時間をかけて出来上がった出汁の美味いこと。この味が判る人が地球上に増えてきたことは、嬉しい。それ以上に浜作福蔵さんのような人が、昆布を育ててくれている事が嬉しい。これからも昆布で出汁を取るたびに、浜作爺さんを想う。


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元旦の誓い

2023年01月11日 | Weblog

  高校の同級生、吉村君からの年賀状が1月1日元旦に届いた。新年の挨拶の隅に「昨年は3年ぶりにフルマラソンを走り何とか完走を果たしました(5時間代)今年も頑張ります(東京マラソン予定)」

 私はすでに年賀状じまいをした。今では、受け取った賀状にだけ返事を書いている。こうして毎年律儀に年賀状をくれるということは、吉村君が達者である証拠であろう。

 翌2日、今年も箱根駅伝がスタートした。正月は、このところスポーツ観戦するのが楽しみである。

  テレビの正月番組は、同じ顔触れのつまらないおふざけものばかりなので観ない。漫才、コントなどは、正月特番で楽しむものだった。ところが今では、年がら年中お笑いタレントが出まくっている。これでは正月気分になれない。

  スポーツは違う。実業団駅伝、箱根駅伝、高校男子サッカー、高校女子サッカー、高校ラグビー、高校男子バレーボール、高校女子バレーボールなどなど。熱戦が続く。

  今年の箱根駅伝、いつもと沿道の応援が変わった。沿道にあれほどあった三色旗がない。昨年の統一教会の問題の影響かなと思った。実際は、主催者による「応援に関するお願い」と題した注意喚起によるものだった。「本連盟が認めた出場校公認応援団の活動以外での大学名の掲出はご遠慮ください。のぼり、横断幕、小旗、タオルの掲出、法被など統一した衣類などを対象とします」 私は、いいことだと思った。続けて欲しい。

  箱根駅伝の見どころは、何と言っても小田原中継所から芦ノ湖のゴールまでの峠である。私の体から“走る”という機能が外されてしまった。私は歩くのさえ不自由を感じる。坂道など急に足首に重りを付けられたように感じる。階段も手すりがなければ登れない。箱根の峠の傾斜を凄いスピードで駆け上がる駅伝選手を見ていると、「これが私と同じ人間か!」と感動する。そして今年は、選手が皆吉村君に見えた。いくら吉村君でも、大学の駅伝選手のように坂を駆け上がることはできないであろう。しかし私と同じ歳の吉村君が42,195㎞をたとえ5時間代であろうと完走できることを実に羨ましく思う。

  私は、毎年正月に1年の誓いとして「嫉妬・羨望・妄想からの離脱」と唱えてきた。もう何年続けていることか。抑え込んでも、じきに顔を出す。今、私が生きていること自体が奇跡だと思う。心臓バイパス手術の後、執刀医師が「10年前なら助かっていませんでしたよ。これから与えられた命を大切に生きてください」と言ってくれた。どうしようもない感謝しらずの私だが、正月のたびに心を入れ替えようとしている。

 


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2023年初日の出

2023年01月05日 | Weblog

  2023年元旦、いつもの通り午前5時に目が覚めた。外を見るとまだ暗かった。アレクサ(アマゾン社の自動音声応答機)に「今日の天気は?」と聞く。答えは、快晴。続けて「今日の日の出の時間は?」 「6時52分」 昨夜寝る前、妻が「初日の出、見に行く?」と聞いた。私は、「海岸まで歩くのは無理だから、車で海岸沿いの道を走りながら、日の出を見ようか。」と言った。

 妻が準備した熱いお茶いれた保温水筒を持って6時25分に出発。海の近くのスーパーは、毎年元旦に駐車場の半分を無料で開放する。もし運よく駐車出来たらと、行ってみた。まだ空いていた。車を停めて、熱い水筒の茶を飲む。海岸に出た。たくさんの人がいた。今年は、やけに若い人が大勢。日の出前の暗いうちに、これほど多くの人を見て、心が静かにはしゃぐ。カメラで日の出を撮る準備。手がかじかむほど寒い。

  目の前に広がる太平洋のかなたが明るくなってきた。水平線に雲がまるで山脈のように長く横たわっている。きっとあの雲の上から日の出になるだろうと思った。真っ赤な太陽の一部が突然、海と雲の境に顔を出した。これを日の出と決めつけて良いのか迷う。とりあえず写真を撮った。間もなく、太陽が雲の上から出て来た。初日の出。手を合わせた。祈った。「家内安全 無病息災。コロナ退散、ウクライナ戦争終結、難病の孫の病気の落ち着き、去年3回入院した私の健康、夫婦仲良く元気で暮らせますように、友人知人の健康と今年こそもっと会って、話せますように!」

  閉じた目を開けると、太陽は、見つめられないほど眩しく光り輝いていた。


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謹賀新年

2023年01月01日 | Weblog

謹賀新年 2023年

6:456:476:50


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