私の父は毎朝、仏壇のご飯と水を取り替えた。神棚に柏手を打ち、東の太陽に向かって頭を垂れ、仏壇の前で線香をあげ目を閉じた。父は家族の誰にも父と同じ事をするように強制することはなかった。ご飯を器に盛ることも、水を取り替えて備えることもさせなかった。父の一連の行動は、まるで神職者のようだった。当時食糧事情が悪く、米は配給に頼っていた。朝だけは必ずご飯は炊いていた。今思えば、仏壇に温かい炊き立てのご飯を上げるためだったに違いない。夜はうどんやスイトンの日も多かった。私が物心ついた頃から毎朝続いていた。その光景は私の目に焼き付いている。
散歩の途中でお地蔵様の前に魔法瓶が置いてあるのを見た。魔法瓶とお地蔵様。面白い組み合わせだと思った。魔法瓶をお供えした人は、きっとお地蔵様に冷たい水をと置いたのだろう。何しろ今年は猛暑が続いていた。そろそろ秋の気配があちらこちらに迫ってきている。冬になれば、きっと温かいお茶が魔法瓶に入れられてお供えされるのかもしれない。私は、父が貧しくても炊き立てのご飯を仏前にお供えしていたのを思った。魔法瓶をお供えした人と、父は同じような気持ちを持っているのかもしれない。
日本の高度成長期が始まると、我が家にも電化製品が入ってきた。まず電気炊飯器。これによって母親の家事は、一変した。毎朝、炊き立てのご飯を仏壇に供える父のための母の手間が省けた。そして3種の神器と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫と続いた。魔法瓶もあった。私は電化製品のそれぞれの虜になった。学校の宿題そっちのけで、年が変わるごとに増えていった電化製品を観察することに夢中になった。魔法瓶という名前に感心した。お湯が必要になるたびに、ガス台でヤカンに水をいれて沸かしていた。母ちゃんが言った。「魔法だよ。お湯がずっと冷めなくて。助かるよ」
今、魔法瓶は家庭で使うより、会社や学校や行楽で使うことが多くなった。我が家でも魔法瓶を使わず、お湯が必要な時は、電気ポットを使う。お地蔵様の前に置かれた魔法瓶は、小さなものだ。魔法瓶は進化してきた。お地蔵様は、ずっと昔から場所を変えずに座り続けている。お地蔵様がある場所は、昔の街道沿いである。いつからあるかはわからない。古いことだけは間違いない。
今朝、お地蔵様の前を通ると、魔法瓶がなかった。我が家でも冷房も暖房もいらない快適な温度になった。お地蔵様にも魔法瓶はいらなくなったのだろう。これから気温が下がったら、今度は温かいお茶を入れた魔法瓶が置かれるかもしれない。この先、それを確かめるのが楽しみである。
今日29日、自民党の総裁選挙が行われる。誰がなっても政治は変わらない。期待もしない。私も路傍のお地蔵様の気持ちになって時代の移り変わりを見ていよう。そんな私にも仏前に炊き立てのご飯を供える、お地蔵様に魔法瓶を置く、そんな気持ちで毎日飽きもせず、優しく接してくれる妻がいる。