団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

「せったかせわねかせってみよ」

2011年04月28日 | Weblog

 お知らせ:私が投稿するyahooブログ『胴長下短豚』のタイトルを『気配り目配り手配り・ひざくりげ』に替えることになりました。4月27日に『コウモリ』を載せました。投稿は土・日・祭日を除いた3日おきです。両ブログ共々ご愛読いただけたら幸いです。

 

『せったかせわねかせってみよ』

「せったかせわねかせってみよ」これは私が子供の頃知った信州の言い回しである。標準語で「言ったのか言わなかったのか言ってみて」ということだろう。言った、言わないは人間の争いの常である。動物は言葉を持たない。動物の争いは種の保存のための交配相手の奪い合い、食料の争奪、領地の保持という生存をかけた本能に引き起こされる。殺すか殺されるかの真剣勝負である。

 13日菅首相が官邸で松本健一内閣官房参与と会談した際、「原発周辺10年住めないのか、20年住めないのか」と菅さんが言ったと松本参与がだれかに打ち明けたらしい。それをどこかの記者が記事にして大騒ぎとなった。何のことはない、「せったかせわねかせってみよ」論争である。人間は嘘つきである。どんなことでも相手の話を自分の都合よく曲解する。人間は言質を簡単に翻す。長いものに巻かれろは、役人の生き延びる知恵である。権力の強い者は、目下の者を服従させる。そこに正義とか真実はなく、あるのは都合だけだ。これを防ぐ方法は、速記、映像録画、録音などの記録であろう。

 多くのアメリカの大統領を描く映画が面白いのは、カメラが大統領の執務状況を普段見ることができない聖域の中で、事細かく実写のように追い回すからに違いない。観客は、絶対に見ることができない権力の中枢に何の障壁もなく同時に存在できるからだ。この日本国の存亡がかかる危機的状況において、仲良しクラブの記者たちのブラさがり会見など国民はだれも見たくない。ただ見たいのは、国家元首である菅さんが、官邸執務室において命がけで指揮をとる姿に他ならない。だれも伸子夫人と仲むつまじいプライベートな姿を覗き見たいのではない。松本内閣官房参与と口角泡を飛ばして、原発周辺の日本国国民のために、いかにして安全を確保するかを論じている姿を見たいのである。ここで「せったかせわねかせってみろ」の争いや言い訳は、だれの心をも揺り動かさない。テレビ、映像がダメなら、せめてラジオか新聞で、まず小さなありのままを伝えてほしいと願う。

 東京電力、原子力安全委員会、経済産業省原子力安全・保全庁どこの組織にも同じことが言える。雁首揃えて、ひな壇に並ぶだけなら、毎日民放テレビの番組でお笑いタレントだか芸能人だか知らないが、学芸会のように数だけ並べて騒いでいるのと何も変わらない。だれもが見たいのは、会見する内容を決める現場である。それができなければ、せめてその過程を事実のままに詳細に発表したらいい。演技はいらない。いるのはありのままの真実である。これは隠して、ここはぼかして、あれはここまで発表して、あそこは知らぬ振りを押し通そうとする三流映画のような脚本と演出が哀しい。聖域とタブーばかりが、まかり通るのが今の日本である。だからだれが首相を勤めてもかわり映えがしないのである。この5年間に10人の首相が入れ替わっても、もう国民は驚かない。国民が待ち望むのは「私が自分で覚悟を持って決めました。みなさん、私を信じて、私にこうさせてください」と日本を引っ張る指導者の決意である。「せったかせわぬかせってみよ」の茶番劇は、当事者双方だけで、だれも見ていないところでどうぞ。同じ茶番でも、あれだけ数のいる国会議員のだれ一人として、避難所で被災者と寝食を共にして東京を行き来する者がいない。避難所へ「行ったか行かぬか言ってみよ」。 避難所で「寝たか寝なかったか言ってみよ」。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方選挙

2011年04月25日 | Weblog

 24日の日曜日、朝8時40分に家を出て、市議会議員選挙の投票に夫婦で歩いて行った。私が住む所は、飛び地のように属している市の主要部から山を隔てて離れている。川を挟んで県境になっていて、普段ほとんどの生活は他県に属する町に依存している。今回の地方選挙は、川のこちらは市議会議員選挙で川のあちらは町長選挙である。川のこちらは、山にへばりつくようにけして多くはない人々が暮らす。

私には町長選挙のほうがずっと興味があるのだが、投票できない。住むところの市議会議員選挙は、まず立候補者を誰一人知らない。選挙カーもほとんど廻って来ない。有権者数と地理的問題であろう。新聞に折り込まれて配布された立候補者の紹介欄だけが頼りだ。それでも夫婦とも棄権はしない。

 私たち夫婦は、いまだかつて誰に投票するかお互いに口にしたことがない。誰かに投票してと頼んだこともない。いかなる組織や政党にも属さない。選挙があれば、必ず二人共、投票する。それは投票しないで、政府や行政を批判できないという考えからである。夫婦で政治の議論は、頻繁にしている。意見の対立もある。しかしこの関係は、実に心地良い。ずっとこのままの関係を保ちたいと願っている。

 福島の原子力発電所の建設誘致の賛否を問う住民投票は、なかったとそうだ。原発を受け入れた2つの町は、町議会において全員賛成で可決された。地方選挙であれ、選挙がいかに市民の生活にとって重要であるか再認識した。民主主義では、多数決で重要案件が決定する。事が起こってから、ああすればよかった、こういうはずではなかったというわけにはいかない。有象無象が利権に群がるのは、どこにもあることである。官僚、政治屋、独占電力会社は、やりたい放題の結果、尻拭いを一般庶民に押し付ける。いくら日本が民主主義の国であっても、いまだに旧態依然の村社会的悪習がはびこっている。どこも地盤、看板、カバンの世襲がのさばる。それを許しているのは、すべて一票が産み出す幻想権力である。少しずつではあるが、確実に日本の民主主義も改善されてきている。国のあちこちで変化の兆しの狼煙があがっている。小さな一票の力ではあるけれど、この一票には責任がある。あと何年かかろうとも、日本が国家として存在する限り、私は責任は果たしたい。

 私の家から投票所に指定された町内会館へは、万歩計で往復3084歩だった。歩数は、さほどのものではない。しかし標高差は大変なものだ。ジグザグの急坂は、辛い。夫婦で「こういう坂を登るとつくづく歳をとったって思うね」と息を切らせ、ふくらはぎのケイレンを心配しながら登った。山の中腹の少し下がった沢に町内会館がある。竹林に囲まれ、沢を勢いよく音をたてて清流が下り落ちる。桜は散ってしまったけれど、山は一斉に新緑におおわれ、若さと希望でむせかえるようだ。いい季節である。天気も申し分なく晴れている。投票を終えて、沢を上がり、急坂を今度は、転がらないように気をつけながら来た道を下り始めた。眼下に県境の川が流れ、その向こうに町長選挙まっさかりの町が広がる。その先には海が穏やかにきらめいている。


 かの町の町長立候補者は二人。一人は地元の現職で、もう一人は余所者と地元民にそっぽを向かれている移住してきた新人である。正直そっちの選挙に興味がある。いつまで閉鎖的な村社会を維持できるものなのか。川のこっちもあっちも、まだまだ深い因習にがんじがらめである。それでも夫婦で調べるだけ調べて、それぞれの想いを一票に込めて急坂を「なんだ坂、こんな坂」と大変な熱量を消費して往復して投票した。今できること、やらなければならない義務は果たした。


 家に帰って窓を開け放つと、裏庭でウグイスが鳴いていた。4年後、変化の狼煙をウグイスの唄と見てみたい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緊急停車

2011年04月20日 | Weblog

 電車に乗っていた。天気の良い日だった。トンネルを抜けて海が見えてきた。キラキラ光る海を見る。突然急ブレーキがかかり、電車の車輪が「キーーキィキィー」と音を立てた。私は上体だけを「ガクン」と停まると同時に投げられるように前につんのめる。15名ぐらいの乗客しかいなかった車両内にいた全員が固まった。停まるのに100メートルくらいかかった。次の停車駅はまだずっと先だ。前のベンチ式シートにいた二人のおばさんが大きな声で話し始めた。「だれか飛び込んだかな。最近自殺多いんだってよ」「イヤだよ。変なこと言わないで。私、これでも気が弱いだから」シルバーシートに座っていた体ががっしりしたジーパンをカッコよく着こなしている男性が不安げに窓ガラスの向こうを覗き込んでいた。何か車内放送があるかと待つ。沈黙が続く。二人連れの女性の一人が携帯電話を開け、話し始める。「あたし、まだ電車。それがさ電車急に止まっちゃってさ。うん、自殺だと思う。だからさ、もうちょっとそこで動かないで待っててよ」 それ以外の車内の沈黙が気味悪い。

 やっと車内放送が始まった。「ただいま、緊急停止ボタンをお客様が押されたため、緊急停止いたしました。係員がその車両で状況を点検中です。もう少しそのままお待ち下さい。絶対に車外に出ないようお願いいたします」それから5分ぐらいして再び車内放送。「お急ぎのところ、電車遅れまして大変申し訳ございません。お客様が緊急停止ボタンを押されたので点検いたしましたが、安全が確認されましたので、14分遅れでこの電車発車いたします」こうして電車は動き出した。

 次の駅に到着して乗降が済み、ホームの発車のベルが鳴る。ところがドアが閉まらない。そこにホーム前方で男性の騒ぐ声。私の席から様子を見ることができない。二人連れのおばさん、携帯電話をかけたほうの女性が首を限界まで曲げ、実況放送を始める。「あのオヤジ、酔っぱらってるんだ。さっき電車を停めたのだってあのオヤジに決まってる。いやだよ。ああっ駅員を殴ってるよ。やっちゃえばいいんだよ。優しすぎるんだよ、最近のおまわりさんも駅員も。あ~あ馬鹿オヤジ、むこうの線路に飛び降りちゃったよ」今度は車内放送「ただいま、ホームから乗客が落下されましたので、救助中です。そのまま車内でお持ち下さい」

おばさん「なにがお客様だよ。早く警官来ないの。駅員なにやってんだよ。呼べばいいんだよ。逮捕。逮捕。助けることないのに」 私は喋ることもなく、行動をとることもなくじっと座っていた。こういう時まったく役に立たない男である。ジーパンの男性、立ち上がる。ずいぶん身長が高い。190センチはあるだろう。開いているドアから外に出ようとしたとき、車内放送「ただいまお客さまが無事救出されたので出発いたします」 勇ましい男性は何もなかったように静かに席に戻った。ドアが閉まり、電車が出発した。駅員に両側から支えられた貧弱な老人男性がホームにいた。結局25分遅れて私が降りる駅に到着した。

 この酔った男性は、東日本大地震で被災地の人々の苦しみを知っているのだろうか。それともその重圧で男性は、彼なりきにその無常さに耐え切れずに騒ぎをおこしたのだろうか。私だってこの1ヶ月間尋常ではない。このくらいの事件では、新聞記事にもならない。それぞれの人が、それぞれのやり方で、今回の国難ともいえる大災害人災に対峙している。日本にそして個人に暗雲がたちこめている。日々の生活の中にも危機管理の自己管理の試練が与えられる。人間は考えることができる。日本人もそれができる。試練を通して自らを鍛え、今度こそ日本が本当に変わる歴史の証人になりたいものである。
 「人を制するものは強し。自らを制するものは、尚、強し」老子


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿に追いかけられて

2011年04月15日 | Weblog

 13日朝5時35分頃、台所にいた妻が「猿!」と声をあげた。以前このブログで猿2匹が洗面所の網戸を開けて、我が家の台所に侵入した話を書いた。私は「またかよ」と書斎から飛び出した。妻が「そこを歩いて向こうへ行った。首に何かつけられていた」と取り乱すこともなく落ち着いて窓の外を指差して話した。それでそこは終わった。


 妻を駅に車で送り帰宅した。午前8時45分にジムへ行こうとリュックに運動着をつめて歩いて家を出た。川沿いの桜も風が吹くたびに花びらを舞わせる。川の水は、澄んでいた。先日放流された鮎をさがそうと川床が砂になっている個所をあちこち目を凝らして魚影を追いながら歩いた。プロパンガスの充填所の崖の下に来た。崖の縁の柵で男性が拡声器を持って身を乗り出していた。その拡声器には、津波警報のような緊急事態を知らせるサイレンがついていた。「ファンファンファン ウーウーウー 猿がいます。危険です。気をつけてください」 歩いているのは後にも先にも私一人だった。いつもこの道にはお犬さまを連れて排泄物を撒き散らしていく人間がたくさん押し寄せる。今日に限って誰もいないなんてどういうことだ。犬猿の仲というではないか。すっかり人間化したお犬さまにも野生の厳しさを経験させたらいいのに。ごててもしかたがない。よりによって私がこんな危険に遭遇するなんて。家に引き返そうとも考えた。去年のちょうどこの季節、この先の桜の木で桜の花を食べていた猿2匹に出くわした。カメラを向けると一匹の猿が真っ赤な顔して「クーウーグァー」と牙をむいて攻撃態勢を取った。あわてて逃げて難を逃れた。今度も大丈夫だろうと高を括った。これが油断であった。



 橋まであと50メートルの所にみかん農家の物置がある。私は鼻が良い。ケモノ臭を嗅ぎ取った。物置の屋根を見た。3匹の猿がのんびり座っていた。今朝家の前を通った猿に違いない。突然後ろの木から「ザワザワ」と音がして枝が揺れた。4匹の猿が木を一気に逆さまになって駆け下りる。私は走ろうとした。脚がもつれる。最近片足立ちをしてもグラつく。靴下をはく時、ケンケンしてしっかり立っていられない。老化だ。とにかく走ろうとした。逃げれば追う。これ動物世界の掟のようなもの。猿の走るほうが私の全速力より速い。もうだめかとカラカラの口からゼイゼイ息を切らし覚悟して走った。小学校の運動会で力いっぱい走って以来の全力疾走だった。倒れこむように体が橋に入った。突然猿どもは橋は橋でもガス管なのか下水管なのか水道管なのかわからない水色のパイプになだれ込んだ。私の心臓は、胸から飛び出しそうになっていた。脚はもつれ、ガクガク震えていた。難は逃れたようだ。どっと汗が噴出した。フラつく頭を持ち上げてまわりを見回した。空が青く、山は芽吹きに湧き立ち、川は何もなかったように流れていた。私は、長く感じたことがない「自分は、生きている」という確固たる自覚にとらわれた。目頭が熱くなった。


 おそらく猿どもは、人間と車が渡る橋を本能的に避けているのだろう。このグループのボスの雌猿は、何匹も子猿を車に轢かれて失くしていると聞いた。それとも意味もなく弱そうなオヤジをからかった憂さ晴らしだったのか。とにかく命拾いした。ジムに行かなくてもいいほどの体力を消耗した。息が戻ると桜を撮ろうと手にしていたカメラで最後にパイプを渡っていた猿を震える手でシャッターを押してカメラにおさめた。


 猿から逃げながら、なぜか一瞬、今回の東日本大震災で大津波から必死で逃げた人々のことを思った。得体のしれないモノに追いかけられる悪夢のような恐怖。パニック。津波から逃れるために高台に向かって走った人々の中にも、私のように心臓病を患っている人もいたであろうに。必死で逃げた数十メートルであっても、私には長い距離に思えた。ましてや自然や野生動物は、人間が及ばぬ力を持っている。人間は、自分たちが自然界を征服したと驕っている。ところが身ひとつで一人でいれば、闘う術がない。猿に大切なことを教えてもらった。惰性で肩を落として、ただ生きていた。私は反省した。おかげで、生きているという鋭い感覚が戻った気がする。東日本大震災で津波から逃げきった方々もきっと私のように「生きている」実感を持ったに違いない。そうでなけれければ、あんなに全てを受け入れて我慢強くしていられる訳がない。犠牲になった人々の分まで生きて!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鮎の放流

2011年04月12日 | Weblog

 私の家の前に川が流れている。窓から川を眺めるのが好きで、時々窓辺に立つ。4月3日(日)、午前11時ころ、咲き始めた桜並木の反対側の道路に車が5,6台、列をなして駐車していた。歩道の柵を乗り越えて作業着姿の男性が脚立をはしごにして、黄色の菜の花が咲き乱れる川原に下りようとしていた。私と妻は、何か事件か事故があったのではないかと窓から注視した。しかし人々の動きと様子がどこかのどかで緊迫感がない。4メートルくらい下に幅2,3メートルの堆積土の岸がある。ちょうど堰があり2メートルぐらいの段差から勢いよく流れが滝のように落ちている。脇に魚道が階段状に作られている。車の列の先頭に青い水槽を積んだトラックがあった。「鮎の稚魚の放流だ」とすっかり事件と思い込んでいた推理小説好きの妻に言った。

 この川は鮎釣りがさかんである。毎年解禁されると多くの釣り人が鮎の友釣りに訪れる。ここの集合住宅の豪華なパンフレットにも夏は鮎釣りができると謳ってあった。ここに来る前住んでいたサハリンで釣りの師匠リンさんとサハリンの渓流、河、海で釣りをしてきた。(拙著『サハリン旅のはじまり』を参照されたい)そのせいか放流や養殖と聞くとそれだけで釣りの気が失せてしまう。ここに住んで5年が過ぎたが、一回も釣りをしようと思ったことがない。釣りはしないが、散歩で川の流れを覗き込み、魚影を見るのが好きだ。

 カメラマンが道路から川の岸に降り、カメラを構えた。トラックの水槽から網でバケツに稚魚が移された。バケツリレーで川岸の男性の手に渡り、カメラマンの合図でバケツの稚魚が川面に放たれた。太陽の光に稚魚の魚鱗が煌く。桜並木に山下清画伯の貼り絵ようにびっしり咲く桜の花びらに圧倒されながらも、一塊のキラキラは、これから成長するエネルギーを発散させて堰の淀みに波紋を拡げた。土手に鈴なりの関係者が拍手で稚魚を送り出す。何もなかったように人も車も消えて、普段どおりの景色に戻った。

 3月11日の東日本大震災からすでに1ヶ月になろうとしている。いまだに日本中が固唾を呑んで、遅遅として進まぬ行方不明者の発見と福島原発事故の収束を見守っている。悲しみが国中を覆っている。それでも土手の桜並木が満開になれば、鮎の稚魚が川に放たれる。今多くの日本人が「明日は我が身」と恐怖に身をまかせ、臆病になっている。去年、小さな日本の人工衛星「はやぶさ」が到達着陸し資料を回収して7年ぶりに見事地球に帰還した。その惑星に「イトカワ」と名づけられたロケット博士こと糸川英夫博士が「最后の一時間まで世界はあなたを必要としています」と言っている。

「日本沈没」と新聞に大見出しをつけ、過去の憎悪の溜飲をさげ、特需に沸き立つ国もある。日本という国が現状の位置になかったならば、あの津波はどこへ向かったか考えて欲しい。平和を保つ国際社会は、持ちつ持たれつの関係である。すべての国家が尊厳をもって成熟しなければならない。地表は地球というマグマの固まりのカサブタだ。危険は地球のどこにでもある。それを忘れてはいけない。

 どっこい日本は沈没していない。極東にあって世界の変わり者ニッポンかもしれないが、糸川博士の言葉を「最后の一時間まで世界は日本を必要としています」と考えて、その自負を胸に抱いて地球に居続けよう。あの小さな衛星「はやぶさ」の孤独で暗黒の気の遠くなるような飛距離を進み幾多の困難を克服して惑星イトカワと地球を往復した姿が、今の日本に思えてならない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石碑とプレート

2011年04月07日 | Weblog

  3月11日の東日本大震災後、その影響で福島原発の危機的状況にさらされている。思い出したのがアメリカ映画『不都合な真実』である。映画を観た時、私は「何を大げさに」と正直思った。映画は、クリントン大統領時代の副大統領だったアル・ゴア氏の懸命な全世界へのスライド講義行脚と講義内容の記録である。素直でない私は、売名行為とか、ある意味で下心があるのではと私は疑った。どこの国でも政治は、闇で多くの利権がうごめいている。今回の日本の危機は、ゴア氏の講義での指摘「審判の日が来てから、もっと早く気づいていればと後悔しても遅い」に当てはまるのではないだろうか。

このゴア氏の指摘から連想したことがある。過去の被災から岩手県宮古市姉吉の石碑に「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津波 此処より下に家を建てるな」とあるそうだ。(gooブログ山の恵み里の恵み3月21日より引用:山の恵み里の恵み氏の碩学と適時な投稿に敬意を表する)被災地の人々は気づいていた。4月4日付け産経新聞に「集落守った石碑 流されたプレート 明暗分けた津波の教訓」でこの石碑が写真入りで記事になった。この石碑は海抜60メートルの地点に建つ。明治29年の明治三陸地震と昭和8年の昭和三陸地震で姉吉地区は津波で激しい被害にあった。この凄まじさは、吉村昭著『三陸海岸 大津波』(文春文庫438円+税金)に詳しい。昭和三陸地震では、津波は海抜40メートルまで押し迫り、姉吉地区の生存者は4名だけだった。石碑は、その生存者たちによってさらに20メートル高い所に建立された。現在12世帯約40人が暮らし、今回の津波は、石碑の50メートル手前で止まり、全員が命拾いをし、家屋も無事だった。

 国会議員の先生方が先頭に立ち、国が津波に備えて万里の長城のようなスーパー防波堤をいたるところにつくった。あの防波堤と気象庁が近代計測機器とコンピューターで解析予測してくれる逐一提供される警報システムを信じて“此処より下に家を建てるな”の先人の知恵と教えをも乗り越えていった。“家を建てるな”と言っているが、働くなと言っていない。山の高いほうに暮らし、海で働く海岸で働くことはできた。職住一体が便利であることから、近代科学万能に自惚れ依存した。その結果として防災の備えを疎かにしてしまった。1896年以来今度で4度目の大津波である。宮城県南三陸町には「チリ地震津波水位」のプレートが何ヶ所にも設置されていた。地元の人々は、「チリの津波でも大丈夫だったから逃げなかった」とプレートに依存していたことを話した。石碑とプレートが明暗を分けた。先人たちは、どんなに非合理的で面倒くさくて不便なことでも守れと警告を残している。今回かろうじて無事だった私たちは、日本全国どこにでもその土地だけに遺されている先人たちの教訓を再検討する必要がある。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強烈に生きる

2011年04月04日 | Weblog

 東日本大震災の犠牲者は、行方不明者を含めると2万人を超え、3万人にせまる。毎日胸を締めつけられるような報道に接している。それぞれの犠牲者の方々が壮絶な死の瞬間を迎えられたと思うと、私ごとき人間がこうして生きていることを申し訳なく思う。

 3月29日のテレビ朝日『報道ステーション』を観た。キャスターの古舘さんが岩手県の山田町を訪ねた。そこでかつて古舘さんが老人医療の取材で会った県立山田病院平泉宣副院長と再会する。古舘さんは、平泉院長の往診に同行して避難所を回る。途中平泉院長がある家族が暮らしていた家が建っていた場所に足を止めた。ガレキ以外何もない場所だった。80歳の老婆が86歳の痴呆症の寝たきりの夫と筋ジストロフィーでやはり寝たきりの息子を介護していた。大津波は、その家を跡形もなく消し去った。平泉院長が「私はおばあさんは逃げなかったと思います。逃げようとも思わなかったでしょう。おばあさんは、息子とおじいさんの手を握って、きっと2人のそばを離れなかったと思います。あのおばあさんは、そういう人です」と言った。何と強烈な生命の一瞬間だったことか。

 それ以前に福島原子力発電所からわずか5キロしか離れていないところに住んでいる家族に避難するよう迎えに行った自衛隊の救援隊の記録映像を観た。自衛隊隊員が耳の不自由な老婆に大きな優しい声で避難を勧める。老婆が毅然と言う。「ここにおいといてください。どうなってもかまいません」 夫は寝たきり、息子は留守だった。老婆の態度、言葉に私は覚悟を見た。一般庶民であるこの老婆が、放射能の恐怖を知っているのか知らぬのかは知る由しもない。避難を勧める自衛隊員の身支度だけで、ただならぬ事態を嗅ぎ取っているのは間違いない。しかし老婆のオーラは、放射能防護服に身を包み、防毒マスクの屈強な自衛隊員をも圧倒した。この強烈さが現政府、東電、原子力安全委員会、原子力安全・保安院のお偉方に決定的に欠けている。原子力安全委員会の委員の年間報酬は3000万円を超えると週刊誌に書いてあった。その高額な報酬は、名も知られぬ原子力に関する知識を一切持たぬ一般庶民を守る“強烈”な知恵と英断のために支払われるものではないのか。日々、日本の現場最前線にいる一般庶民の底力を思い知らされる。この福島原発近くに住む老婆と平泉院長の話した山田町の80歳の老婆とが重なる。

 「強烈に生きることは常に死を前提としている。死という最もきびしい運命と直面してはじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ」岡本太郎


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする