団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

「この際だから」

2011年03月30日 | Weblog

 1923年9月1日関東大震災が起こった。その後の復興の過程で「この際だから」という言葉が流行ったそうだ。日本では冠婚葬祭が日常生活の中で人々に大きなウエートを占めている。儀礼付き合いを重んじる文化を持つ。そこで大震災の被害から立ち上がる際、そのような儀礼的慣習から人々を解放する合言葉が「この際だから」となってお互いに了承しあったようだ。あれから88年が過ぎた3月11日の東日本大震災以後、日本は「この際だから」の発想が人々の行動に大きな影響を与えている。歴史は繰り返されるのか。関東大震災を経験した人々は、すでに第一線から退いている。関東大震災を経験したことのない多くの人々が、「この際だから」と本能的な行動を起こし始めた。先人の体験を多いに参考にしたい。そこで私もこの際だから10の提案を試みる。

①    自主停電:東京電力が計画停電といって5グループに分けて更に各グループを5分割して停電を実施している。ところがこの計画停電は、その地区内の病院、工場の電気も止めてします。これはまずい。しかしこれしか方法がないという。ならば自主停電をしたらどうだろう。国民が率先してできるだけ自らブレイカーを落として自主停電する。東京電力はその自主停電申告書をまとめて、その申請に基づいて電力供給を管理する。

(昨日①まで書いた。今朝の新聞で天皇陛下皇后陛下がすでにこの自主停電をされていると伝えた)

②    夏時間の実施:日本の夏は朝4時といえば明るい。この夏も猛暑が予想されている。夏の間2時間時計を進める。8時半始業を6時にして終業を2時とする。最高気温を記録するのは午後2時なので何とか冷房による電気の大量消費を防げる。

③    民放テレビ放送局を隔日当番制にする:どうせどこの局も同じタレントによる同じような番組ばかりである。

④    スパー、デパートの隔日営業:毎日停電時間を割り当てられても実行するかしないかで不安定な営業を継続するよりフルに安心して営業できる。

⑤    学生の夏休み3ヶ月と5ヶ月にする:欧米の学校の夏休みと同じく小中高3ヶ月大学専門学校5ヶ月とする。

⑥    食料増産:休耕田を学校農地にして学校単位で食料を備蓄する。夏休みを活用して農業実習とサバイバル術を学ぶ。

⑦    病院船:各県に空港を建設するより各県が病院船を持つぐらいの危機管理先進国に。まず国がヘリコプター搭載型病院船を建造する。仮設住宅の代替にも使用可能だが、高齢者の避難に最適。47都道府県2000人収容で9万4千人。

⑧    仮設住宅:カマボコ型住居の建設を普及させる。カマボコ型は、厚型鉄板や強化プラスチック成型品を接続させるだけで敷設可能。余震防災に強い。中はキャンプ用テントでプライバシーを確保する。仮設住宅を2段階方式に。まずカマボコ型に入居して、普通型仮設住宅の完成を待って入居してもらう。

⑨    簡易ベッド:日本人のほとんどは畳の上に布団を敷いて寝る。しかし災害の避難所では固い床に寝ざるを得ない。キャンバス地の一人用組み立てベッドの備蓄は、毛布と同じく必需品とする。

⑩    修学旅行:たとえ1週間でも10日間でも学生が、被災地へ行ってボランティア活動をする。この経験が今後の防災、危機管理に役立つ。

 

 「被災地のことを思えば」という言葉を3月11日以来多く聞く。これも関東大震災後の「この際だから」に通ずるものがある。11日の都内から帰宅の混乱の中、黙々と列を作って待っている通勤者がいた。日本人を誇りに思った。まだまだ続く復旧への長い道のりが目の前にある。政府行政のトップは、だれでもできる日本であるけれど、日本の強みは常に先頭で踏ん張る現場に立ち向かう一般庶民である。世界が福島原発から拡散する放射能にかこつけ、日本製品の不買輸入禁止に動いている。日本の強みは、不幸な350年の鎖国と2発の原爆の経験である。日本は現場がお上を支える強い国である。


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息吹

2011年03月25日 | Weblog

 私が住む町を取り囲む山々がうっすらと白化粧した24日の寒い朝、信じられないことが起こった。なんと裏庭からウグイスの鳴き声が聴こえたのである。短い時間だった。きっとウグイスは忙しいのだろう。あちこちの庭をまわって「春が来るよ。もうすぐ来るよ」と告げまわっているに違いない。

 歩いて買い物に行く途中、毎年楽しみにしていた椿が見事に咲いていた。大輪で真っ赤に白が墨流しのように入っている。椿の葉はいつもツヤツヤしている。その濃い緑と赤と白。綺麗だ。

 久しく出没しなかった猿の一団が、大震災後、初めて出てきた。13匹みんないた。街に出てきた。収集前のゴミ袋を漁っていた。山に食料になるモノがないのだろう。

 川の土手にツクシを見つけた。ツクシの頭はイガグリ頭のようだ。緑色を持たないツクシが偵察隊となり、地上の様子をうかがう。もうしばらくするとスギナが出てくる。

 テレビを観た。被災者の老婦人が流された娘の家の現場に来た。1歳に満たない孫娘も娘一家の全員の行方が判らない。老婦人が叫んだ。「あった」ガレキの中にぽっかり空いた土を指差した。何か行方不明者につながる発見かと思った。高さ60センチくらいの木だった。「梅の木です。娘が孫娘の誕生を記念して植えたんです。私は桜にしたらと言ったら、娘は私は梅の花が好きだからと梅の苗木を買って来て記念植樹したんです。かわいい。新しい芽が膨らんできている」老婦人が木に触れた。

 大震災後、追い討ちをかけるように寒波が被災地を襲い、寒さと雪に見舞われている。自然は、どこまでも残酷でそれでいて限りなく優しい。地上で繰り返される愚かな人間同士の戦争、犯罪、詐欺、略奪、差別、愛憎劇に圧倒的な自然の力を見せつけようと人間に冷や水を浴びせるのかもしれない。

これで頭を冷す人間ではないようだ。ここぞとばかりに投機という名目で、国際的貪欲集団が日本の通貨を売買する。私は金を金で買売する仕組がわからない。買いだめも売り惜しみも、平均的日本人になじまない。

 日本の多くの庶民は、いたって健全である。日本人は自然を神と崇め、有史以来ずっと付き合ってきた。そのDNAは、全開である。第二次世界大戦で広島、長崎に原子爆弾を落とされた。多くの犠牲者を出した。忘れてはならないのは、現在広島も長崎も廃墟ではない。営々と犠牲者の後継者がその地で生きている。その事実が今回の原子力発電所事故を収拾するに違いない。守るべきは日本を受け継ぐ若い命である。60歳を過ぎた団塊世代の我々が現在検出された程度の放射能汚染された食料や水を飲んでも、発病するには20年30年かかると言う。それも長期間食べ続け飲み続け浴び続けてだという。ならば水もホウレンソウも牛乳も年寄りが引き受けようぞ。せめてもの罪滅ぼしだ。若い命を生かす方法だけを考えたい。


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コジキのおじさん

2011年03月22日 | Weblog

 「地震が来るぞ。みんな死ぬんだ。山が崩れ、海が割れ、津波が来る。地面が揺れ、地割れがはしり、みんな底知れぬ地中や水中に飲み込まれる。だれも助からない」長い間、着替えることもなく着続けた黒光りする服の形態さえ留めない身なりの男が、とぼとぼ誰に語るでもなく、ブツブツ言いながら歩いていた。髪の毛は、赤茶けて汚れモーツァルトのカツラのように盛り上がりカールしていた。近所の子どもたちは、一定の距離を保ちながら、その男の後をぞろぞろ追った。50数年前の私もその一人だった。小石を拾って投げつける者もいた。私は、男の言葉を聞き逃すまいと聞き耳をたてていた。やがて男は矢出沢川(千曲川の支流)にかかる橋の下に下りた。そこで焚き火を起こし、大きな石に座った。独り言は続いた。私は、下りていって男の話を聞きたかった。たくさん尋ねたいことがあった。しかし親が迎えに来て、引きずられて家に戻された。

 63歳になった今でもあの男のことを時々思い出す。今回の東日本大震災の後、夢まで見た。夢の中の少年は、私だった。少年は橋の下で焚き火にあたりながら男と話していた。「おじさん、東北でとても大きな地震があったね」「坊主、俺はずっと警告していた。誰も聞く耳を持たなかっただろう」私「でも地震にあった人がかわいそうで。テレビ観ていると泣いてばかりいるんです。僕はどうしたらいいのかわからない。僕は心臓の病気を持っていて、被災地に行ってお手伝いもできない。おじさん、僕に何ができる?」男「しかとテレビをよく観ていなさい。そこに映る現地の人々と共に祈り悲しみ、坊主のように泣いていればいい。救出や進展などのよいことがあったら喜べばいい。俺は失うものがない。家族、財産、職業、家、車、友。何もない。自分だけだ。ずっと失うことが怖くて世の中から逃げていた。俺は弱虫だ。世間の奴らは、みな凄い。たいしたものだ。坊主、お前もだ。俺にはできない」私「僕、おじさんとずっと話したかった。会えたら僕疲れちゃった。寝ていい」男「ありがとう。俺も坊主と話せて嬉しい。もう安心して、寝なさい。そこのダンボールと新聞紙の中にくるまれば暖かいぞ。※明日が来ることは、それ自体が奇跡だということだ。ただ生きていればいいんだ。誰もがいつか死ぬ。それまで生きていなさい」私「はい」 私はおじさんの脇で暖かく眠りについた。

 朝、目が覚めると、私は、再び元の63歳の私に戻っていた。私の目に映る、耳で聞こえる、手で触れるすべてを受け入れることができる気がした。裏庭からウグイスの鳴き声が聞こえた。嬉しかった。たしかに地震が恐い。津波が怖い。原発事故に脅える。小学生の時、出会ったおじさんの言葉に恐怖を感じながらも、それ以後も平気で大胆に無謀に生きてきた。私も凄い世間の奴らの一人だ。乞食のおじさん、「私は、このままでいます」

 

※長島千恵さん『余命1ヶ月の花嫁』が癌になり24歳で亡くなる前に残した言葉「皆さんに明日が来ることは奇跡です。それを知っているだけで日常は幸せなことだらけであふれています」


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寺田寅彦『天災と国防』

2011年03月16日 | Weblog

 成す術もなく、かける言葉もない。3月11日の東日本大震災以後、停電以外の時は、テレビだけつけて、停電になればラジオの前で,暖房を消してダウンのコートを着込んで座り込んでいる。

 ずっと頭の中に寺田寅彦『天災と国防』の一節がある。

「統計に関する数理から考へて見ると、一家なり一国なりに或年は災禍が重畳し又他の年には全く無事な廻り合はせが来るといふことは、純粋な偶然の結果としても当然期待され得る『自然変異』の現象であって、別に必しも怪力乱神を語るには当らないであろうと思はれる。悪い年廻りは寧ろ何時かは廻って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年廻りの間に十分の注意をして置かなければならないということは、実に明白過ぎる程明白なことであるが、又此れ程万人が綺麗に忘れ勝ちなことも稀である。尤もこれを忘れてゐるおかげで今日を楽しむことがあるかもしれないのであるが、それは個人銘々の哲学に任せるとして、少くも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないやうにして貰ひ度いと思ふ次第である」

 この国の為政の枢機に参与する人々も、東京電力のような官僚もどきが経営する大会社も、本来どこからも独立しているべき原子力安全・保安庁も、この期に及んでも政治ショウと責任逃れのイス取りゲームに明け暮れ、対策が後手後手になっている。しかし現場の人々の立派さにこの国の底力をみる。優等生と世襲の民のなれの果ては、札束の札と票の勘定と自分の毀誉褒貶の策略に弄ばれている。何故私がテレビを観ているか。今までのテレビを牛耳っていた虚が一斉に消え、そこに映る日本人の現場の真実が映るからである。それが本来の人間の姿なのだ。朝起きて寝るまで、私は誇るべき多くのずっと会いたかった見たかったニッポン人を拝している。「タテ社会」と呼ばれる何事もタテ割りの為政階級と違って、そこのニッポン人は、現場で庶民の「ヨコ社会」を見事に維持している。私に今できることは、現場の人々をしかと見守ることだと思っている。


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喫茶店勧誘

2011年03月11日 | Weblog

 スポーツジムで水曜日のプログラムは、予約の番号を取らないと参加できない。定員60名。11時20分から始まるのだが10時に行って予約券を並んでもらう。待ち時間をランニングマシンなどで運動すればいいのだが、私はビルの中の喫茶店で本を読む。その日、49番の予約券をもらってジムを出て、喫茶店に入った。

 読みかけの本を読んでいた。本は上下巻に分冊になっている。やっと昨日上巻を読み終え、下巻の山場に入っていた。ところが何だか喫茶店のよその席での会話が耳障りだった。客はちらほら全部で7人いた。私のようにひとりで本を読んでいる人が5人、60歳後半の男性と30歳くらいの女性のカップルだった。そのカップルの女性に見覚えが会った。この町のあちこちをリュックを背負って、独り言をブツブツいいながら、よく歩き回っている。立ち止まったり、喋ったり、手の指で不思議な形をつくったり、気になる女性だった。カップルに奇異を感じた。男性の声がとにかくでかい。私は聞くまいと本に集中しようとする。そうしようとすればするほど、男性の声が耳に入る。「今日本人の8人に一人がうちの信者になっている。皇室はじめ有名人がどんどん信者になっている。貴女も早く」

これって私が小学生だった時、家の仕事場で夜、働く父親のところに三日とあけずにきていた豆腐の売り子をしていた男性と同じだと、もう本から完全に脳が違う方へ行っていた。昼間、豆腐を自転車に積んでラッパで「パープー パープー」と売っていた男性が、夜、神妙な顔をして父親のところに来ていた。ひとの好い父は、だれにでも分け隔てなく接していた。私は好奇心の固まりで、大人の話を聞くのが好きだった。男性が「早く入信しないと、そのうち天皇陛下も入られて、大変なことになるよ」と言う。父親が「いままで日本にずっと続いてきた神道も仏教もあるのに、ここで急にそれは間違いだから、こっちにって言われても俺は受けいれられねえ」と返す。その繰り返しがずっと続いた。父親は、その後もそのまま毎日神棚を拝み、仏壇に手を合わせる信心を続け72歳でこの世を去った。

 最近読んだ本ジェフリー・アーチャー『遥かなる未踏峰』(上)138ページに『「僕は神を信じていないんだよ」ジョージはあっさり答えた。「それは聖衣を着る妨げにならないだろう。実際、最も名高い私の同僚のなかにさえ、そういう聖職者はかつてもいまも存在しているんだ」父親が言った。』 ジョージの父親は英国国教会の聖職者で息子のジョージに聖職者になることを勧めた描写である。正直な会話だと思う。私は多くの人間は心の中で神の存在に懐疑的であると思っている。

喫茶店での勧誘に声をあげている男性に対して不思議な気持を持った。信仰は自由である。喫茶店の他の客もいる。私は立ち上がってその男性の前に行き「すみません、そのような話は他の場所でお願いします」と告げた。男性は「ここは公共の場所だから何を話しても自由でしょ」と言う。私は公共の場所だからこそ他の人に迷惑をかけてはいけないと思うのだが、この男性は違う考えを持っている。男性は何もなかったように女性に話を続けた。私は本をカバンにしまい、半分しか飲んでないコーヒーカップがのるお盆を持って席を立った。違うテーブルで本を読んでいた女性がニコッとして私と同じようにお盆を持って席を立った。

 ただそれだけの話である。信教の自由は憲法で保障されている。ロシアで暗殺された女性記者アンナ・ポリトコフスカヤは「思想信条の自由が守られている社会というのは、たとえば街頭で、自らの思想信条を声に出して述べても、危害が公的にも私的にも加えられる怖れのない社会である」と言った。私もそう思う。日本はその意味で自由が守られている。どの宗教を信じるのも自由で私も全面的に同意する。海外に暮らし、ヒンズー教、イスラム教、セルビア正教、ロシア正教、キリスト教カトリック、キリスト教プロテスタントを信じる人々にまみえた。どこでも異教徒として受け入れてもらい、現地の宗教に勧誘されたことは一度もなかった。同時にどの宗教を信じている宗教徒にも心を奪われるほど感心したこともない。理想の信者に会ったことがない。

日本では政教分離とはいえ、宗教の政治進出が目覚しい。韓国で竹島は韓国の領土であるという宣言書にわざわざ出向いて、署名した民主党の国会議員は、キリスト教の牧師だそうだ。聴いてあきれた。ラジオを聴いてもテレビを観ても、電車の中釣りでも宗教関係のコマーシャルが目立つ。こんな不安定で混迷する時代なので人々が宗教に頼ろうとする気持は理解できる。

 喫茶店で、私は静かに私の読みたい本を読みたかった。喫茶店がこれでは、ますますこれから私は、家に閉じこもるしかない。天皇陛下が改宗されても、宗教政党が政権を取っても、私はこのまま神の存在は在るやなしやと、もがき苦しみながら、毎日を妻と大切に生き、人生を終わらせたいと思っている。他人の信仰を尊重する。だから私の迷いも認めて欲しい。外交の世界では、政治と宗教の話はタブーと言う。私も友人知人とできるだけそう付き合っていきたい。

 ジムでの運動を終えて、駅に行くとアメリカ人モルモン教の大学生宣教師が「神さまからの大事なメッセージです」と小冊子を私に渡そうとした。「けっこうです」とにこやかに断った。駅の壁に「いかなる印刷物の配布も禁止する」の大きな貼り紙。宣教師以外でも近所の食べ物屋、メガネ屋、サラ金のビラ配りがいた。日本って自由な国?


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体重差

2011年03月08日 | Weblog

 午前11時をすこし過ぎていた。私が乗り降りするJRの駅のホームに立っていた。観光客が多いこともあって、ホームで電車を待つ列は、きれいに並ぶ時もあるが、その日はばらばらであった。電車が止まった。ドアに向かって乗客が無秩序に押し寄せる。私は、ホーム上にしるされた号車番号の数字の前に並んでいたが、列も順番も何の意味もなくなっていた。興奮した群が乗り込んだ後、私はゆっくり乗り込んだ。あわてなくても座れた。

 7人掛けのシートの一番端に親子連れらしい60歳代の女性と30代後半の男性がいた。女性はどこにもいる普通の女性だった。男性は、体重150キロ以上ありそうだった。ズボンの下腹部がはち切れそうに飛び出していた。電車が発車した。私は電車後部の3人掛けの優先席に一人で座っていた。私の側の車両中央部から歌っているらしい異様な声が聞こえた。私の斜めまえの親子連れの母親が「電車の中ですよ。静かにしてください」と言った。歌声は止まなかった。今度は息子が「やめろと言っただろう。歌うなら降りろ」と太く低い声で言った。迫力満点。「黙れだと」「降りろだと、上等じゃねえか」相手もタダでは引き下がらない。決闘かと電車の中が緊張した。 私は恐る恐る電車中央を見た。痩せた、あまり身なりのよくない60歳代の男性がいた。頭の毛が薄く、残っている毛は長かった。おそらく体重差は100キロ以上ある。「どうなるのだろう」の野次馬の関心が電車の中央部に集合した。歌っていた痩せた男性が左手をガードの構えにして、人々の野次馬的関心に打ち込むように右手を「シュツ シュツ」と打ち出した。『あしたのジョー』のジョーのように数回繰り返した。打ち出す右腕は、空手のようにねじりを入れている。痩せているけれど、もしかしたらボクシングか空手の達人かもしれない。

 親子連れの母親が息子の顔を見た。息子がニコッと母親に微笑み返した。何ともいえない笑顔だった。乗客の目が集っていた。それを見た乗客の目から緊張が消えた。私の肩から力が抜け、心が軽くなった。優しい力持ちらしい。おそらく喧嘩、それも暴力事件にはいたらないと私は思った。歌っていた男は、腕をシュッシュと前に出すだけで、それ以上の行動は取らなかった。男は、次の駅で降りて行った。足取りがふらついていた。朝からどこかで酒を飲んできたのだろう。男が降りると電車の中は、穏やかな空気に包まれた。

私は小心者で本来注意をするべき場面でも黙んまりを決め込む。(許せない)と心で思いながら、見て見ぬフリをする。いつも注意したり、ひとこと言いたいことがあっても、それがきっかけとなり暴力事件になることを妄想してしまう。よくアメリカ、カナダ、ヨーロッパで、平気で相手の不正や過ちを顔色変えずに指摘する人を見て、凄いと思っていた。アジア、アフリカ、アラブ、ロシアで暮らした。貧しい国々だった。家から外に出ると、マナーが悪かったり不正がまかり通っていた。それを正す者などいなかった。誰もがそうしなければ、生きていられない厳しさがあった。

 日本は豊な国になった。しかしまだまだ公衆道徳やマナーに問題が多い。過去の長い封建身分制度の抑圧から一般大衆が開放された。今の日本には将軍さまのような裸の王様やお妃さまで溢れている。これから時間がたてば、もっと人々も洗練されてくるだろう。過渡期だからこそ、外に出れば、興味深い出来事を観察できる。今日の圧倒的体重差の対決もその一つとして日記に記される。私も親子連れのように、正すべきこと、言うべきことを相手に伝える勇気を持ちたい。同時にだれかが私に意見してくれたら、素直に感謝して受ける勇気も持ちたい。電車は私の教室である。


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リビアのドライクリーニング

2011年03月03日 | Weblog

 リビアの情勢を見守っている。リビアは忘れられない国のひとつだ。最初にリビアのトリポリの空港に到着した時、私は自分が文盲かと思った。空港の表示が全てアラブ文字で、私の視界から判読可能な文字が消えていた。漢字はもちろんアルファベットさえなかった。空港係官は、リビア語でしか話さない。昔、鎖国をしていた日本を訪れた外国人も、私がリビアの空港で異邦人として不安と恐怖を感じたに違いない。あのような体験は初めてだった。空港から外に出ると、目だったのはあちこちに緑色の旗とカダフィの写真や銅像だった。当時住んでいたチュニジアとは、町に漂う雰囲気が違った。チュニジアを総天然色映画とすれば、リビアは白黒映画の世界に異常な緑が、無理やり紛れ込まされていた。何かの圧力に屈して、じっと耐えている空気を感じた。砂漠地帯ということで町が砂っぽいこともあったが、それよりも秘密警察がチュニジアよりずっと厳しく人々を監視しているという圧迫感がそうさせたに違いない。

リビアの首都トリポリのホテルに泊まった。暑い気候で汗をかき、ワイシャツが汚れた。さっそくホテルのランドリーに洗濯を頼んだ。さすがにホテルのボーイは英語を理解しているふうだった。翌日の夕方部屋に届けてあったワイシャツは、アイロンはしてあった。が、洗濯をした形跡はなかった。前日の汗のシミも汚れもしっかり残っていた。普通の国の普通のホテルなら、文句を言っただろう。しかし私は、これが本当のドライクリーニングだと笑ってあきらめた。

リビアでは他の砂漠を持つ国と違って、日本のトヨタ・ランドクルーザーのような4輪駆動車を見ることがなかった。カダフィが抵抗勢力の攻撃を恐れて、一般市民が4輪駆動車の所有を禁止していた。リビアにはこのようなカダフィの妄想や単なる思い付きが、いとも簡単に国家の掟になっている。独裁者の治める国の恐ろしさを体験できた。

リビアで在留邦人の家に招待され歓迎会をしてもらった。貴重な酒を飲んでカラオケを楽しんだ。空港でのアルコール飲料の検査は厳しい。それでも日本人は、懲りずに持ち込みを断行する。何しろリビアで酒を入手するには北朝鮮大使館で法外な値段で売っている酒を買わなければならない。そんな貴重な酒の味は、格別だった。

住めば都という。そんな不便なリビアでも良いこともある。地中海黒マグロが安く買える。どこの日本人家庭に招かれても、日本では高価でとても買えない大トロをご馳走になった。またあちこちに点在するローマの遺跡が観光地になっておらず、まるで廃墟のまま放置されているかのようで、どっぷりと古代ローマに戻った気分を満喫できた。そんなローマ遺跡を訪れた時、道でハリネズミを見つけた。それほど人が訪れることがない遺跡だった。

 そのリビアが内戦状態で、ある国際機関の発表で6000人の犠牲者がでたという。それでもなお人々はカダフィの圧制から脱したいと抵抗を続ける。もし再びリビアに行くことができれば、その時、街に明るい空気を感じること、ホテルでドライクリーニングが国際標準のドライクリーニングであること、空港に少なくとも英語の表示があること、できれば遺跡にハリネズミが歩き回っていることを願っている。リビアに一日も早く平和が訪れることを祈る。


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