団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

取扱説明書

2019年01月30日 | Weblog

  テレビの宣伝に滝川クリステルが出ていた。『「ねえ、あなた技術者さん」「え!そうですが ……ぇッ 何なんですか」…「どうしてあなたたち技術者がマニュアルを作るの。マニュアル作りのプロに任せなさい」』

  韓国製電化製品が勢いよく私が暮らしていた国々で日本の電化製品にとって代わられ始めていた。ネパールにいた1990年代はさほど日本製品の弱体化は感じなかったが、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジア、サハリンと時を追うごとにひどくなっていった。チュニジアのどこの電化製品売り場からも日本製品はほとんど姿を消していた。私は悔しかった。

  どこの国に住んでいた時に聞いたかは、忘れた。「日本製品は質が良いけれど、マニュアルが悪い。その点韓国製のマニュアルは、日本の何倍もの厚さがあり、実に丁寧に作られている」と多くの人から聞いた。あれからすでに数十年が経過した。平成が終わろうとしている今頃になって、やっと今回のマニュアル作成専門会社グレイステクノロジーの宣伝でマニュアルに関しての指摘がなされた。

  カテーテル手術が終わって先週の金曜日に再びブログ掲載を始めることができた。本来なら“賭け”に勝った妻に褒美を上げるべきなのに、いつの間にか私は褒美を要求した。かねてから欲しかった富士通のスキャナー『ScanSnap xi1500』を買うことになった。近所の家電量販店ノジマへ妻と出かけた。値段交渉で5万千円になった。アマゾンでは同機種で4万5千194円だった。これでは勝負にならない。帰宅してアマゾンへ発注した。なんと翌日に届いた。

  早速設置に取り掛かった。取扱説明書を拡げた。字が小さくて読めない。ハズキルーペを使った。字の問題は解消した。今度は書いてあることがわからない。これを解決する方法はない。パソコンでホームページを開いてそこからダウンロードしろとある。煩雑きわまりない。とても私ごときパソコンブラックボックス派に理解できる代物ではない。グレイステクノロジーの滝川クリステル宣伝、どこかの国で聞いた日本製品の取扱説明書の不親切さが頭に浮かんだ。腹が立った。餅は餅屋に。私は普段パソコンに問題が生じた時、助けてもらっているパソコン119に電話した。日曜日にも出張してくれる。機械も凄いが人間も人によってはもっと凄い。

  ScanSnap、実に使いやすい。どうしてこんなに良いモノを作れるのに、取扱説明書はダメなのか。滝川クリステルが「どうしてあなたたち技術者がマニュアルを作るの」というように技術者が書いているのだろうか。私は台所の調理道具調理器具にも大いに不満がある。実に多くの商品は、調理をしない職人が作っているのではと思っている。だから使い勝手が悪い。痒い所に手が届くような目配り気配り手配りが欠けている。

  それでもScanSnapのおかげでまず1000枚以上の写真を片付けた。名刺500枚以上もスキャンして整理がついた。年賀状の整理もできた。妻に「凄い!書斎の壁と床が見える」と褒められた。イノシシもおだてりゃ木に登る。


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大規模修繕

2019年01月28日 | Weblog

  2003年3月妻はチュニジアからロシアのサハリンへの転勤になった。一旦東京へ戻ることになった。フランクフルトで飛行機を乗り継いだ。フランクフルトの飛行場はターミナルがいくつもある。到着便が着陸したターミナルで荷物を受け取りカートに8個のスーツケースを積み、日本への出発便が出るターミナルへ歩いて向かった。私は心臓バイパス手術を2002年の1月に受けていたが、心臓の調子は相変わらずだった。開胸手術だったせいもあり、重い物を運ぶなどで過度な動きは取れない状態だった。私が先にゆっくり歩き、カートを押した妻が私の後にいた。通路で多くの外国人とすれ違った。彼らの目は私を睨みつけていた。私には何故彼らがあのような視線を私に向けたかわかった。「見ろよ、あの日本人の男、話には聞いていたけれど、日本は男尊女卑の国だね」 それぞれの言葉が話せれば、私は説明したかった。「みなさん、私は妻にこんなひどいことをさせたくないのです。でも私は心臓が悪くて去年心臓バイパス手術を受けて重いカートを押せないのです」 出発便のターミナルまで多くの人々のあきれ返った怒りの視線を浴びた。私は「人は目で見たことを勝手に判断してしまう。いろいろな事情があっても自分が思うようにしか物事を把握しない。これからは自分も気をつけよう」と思った。

 ロシアのサハリンに移り住んでも私の心臓の調子は芳しくなかった。妻を再びサハリンに残して私は日本へ戻った。手術を受けた病院でカテーテル検査を受けた。脚から取った3本のバイパスは、すべて機能していなかった。医師はいとも簡単に再手術をしなければ命に関わると言った。サハリンにいる妻に連絡した。妻が違う病院を探してくれた。葉山ハートセンターの須磨医師の診察を受けた。須磨医師は、細川丈志医師のカテーテル検査を受けてから今後の診療を決めたいと言った。細川医師のカテーテル検査を受けた。その場で先生は、「僕出来そう。やってもいいですか」と言った。私の唯一残った内胸動脈のバイパスがコの字型に変形していた。細川医師がその変形を開胸することなくカテーテルの風船療法で修正してくれるという。私は「お願いです、やってください」と即答した。その後私は見違えるように元気になった。

 2月4日から私たちが暮らす集合住宅の大規模修繕が始まる。その前にベランダを片付けなければならない。以前終活の一環としてベランダを片付けた。それでもまだ少しテーブルやイス、バーベキューセットなどがある。27日日曜日朝からベランダを片付けた。フランクフルトの飛行場と同じく妻が力仕事を引き受けてくれた。私は情けないと思うが無理をして体調を崩す方がもっと妻に迷惑をかける。簡単な拭き掃除と小物の片づけだけを手伝った。ベランダがほぼキレイになった。これで工事が始まってもあわてて片付けることもない。

 住む集合住宅も今年で築16年になる。建物でさえ16年で大規模修繕を施さなくてはならない。私はすでに71年間生きた。体のあちこちに支障をきたすのも当然である。今回は心臓の冠動脈の狭窄箇所をカテーテルで修復してもらった。ステントも入れた。家と同じく体も定期的に点検修理しながら長持ちするよう努力する。妻の支えがなければ、私はただ息をしているだけの老いぼれになっていただろう。感謝。


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医師への感謝

2019年01月25日 | Weblog

 入院していた病室。夜9時過ぎ。私はベッドでウトウトしていた。「大丈夫ですか?」とささやくような声が聞こえた。聞き間違いかと思った。カーテンが開けられた。カテーテル手術をしてくれた細川医師が立っていた。帰り支度をしてコートを羽織り、カバンを手にしていた。「胸痛くない?」と尋ねられた。私は「ハッ ハイ 大丈夫です」 「そう、良かった。明日退院できるから」 私頭を深々と下げ「ありがとうございました」と言った。顔を上げると、もう先生はいなかった。

 2000年にチュニジアで交通事故に遭った。救急車がすぐ来て病院に運ばれたが、すぐ見てもらえず担架に乗せられたまま1時間以上待たされていた。妻が大使館員と病院へ駆け付けた。もしあばら骨が肺に刺されば命にかかわると、妻はすぐプライベート病院へ私を移送した。幸いあばら骨が一本折れていたが肺への影響はなかった。医務官である妻が赴任するのは、医療事情が良くない国が多かった。チュニジアも公立病院での診察を受けるのは難しいこと身をもって体験した。多くの国々で医師の診察を受けるには、コネと金が必要で治療は金次第だった。また医者も特権階級のようで、誰にでも同じように接することなない。

 以前日本で知人に頼まれて東京の大学病院へ知人の重病だった親戚の紹介を頼まれた。探すと、教授なら100万円の紹介料で治療費は別払いと言われた。日本で医師に治療を受けるのに金が動くこともあるだろう。しかし、私が暮らしたどこの国より医療制度は、いろいろな問題はあるが、患者に平等で高度な医療が受けられるのは事実である。

 今回私は東京ハートセンターでカテーテル手術を受けた。私は過去7回カテーテル検査や手術を受けている。ある病院でカテーテル検査を断ったことがある。そこの医師は「もう二度と来るな」と怒った。カテーテルは私にとって悪夢である。カテーテルをするたびに恐怖に包まれる。血管に針金みたいな線を通すなんて。それも心臓の周りをあちこち行き来させるなんて、たまったものではない。2002年に受けた人工心肺を使って心臓の機能を止めた心臓バイパス手術は、全身麻酔だったので何もわからないうちに終わってしまった。麻酔からさめてもまったく痛みを感じなかった。

 今回、両手の手首から2本のカテーテルを入れた。カテーテルを入れる手首にだけ局所麻酔をしたが、覚醒しているので音、ニオイ、明かり、医師たちの会話すべてが聞け、見られて、嗅げた。手術室の無影灯に照らし出された細川医師を見続けた。もの凄い集中力である。何度もカテーテルの先端につけられたバルーン(風船)で血管の拡張を繰り返して、ステントを1か所に埋め込んだ。一本の血管は細くカテーテルは通ったが、血管が硬くてバルーン療法ができないという。ダイヤモンドのドリルで血管のつまりを開けることもできるが、あまり重要な欠陥でないので今回はやらないと先生は言った。恐怖で固まっていた私だが、疑問を持った。ただの一介の患者の狭窄をこれほどまでに真剣に丁寧に治療してくれるのは何故?10年前と比べ先生の髪の毛も白いものが増えた。体力的にもつらい仕事である。しかし先生はある意味喜々として私の心臓の血管の狭窄に立ち向かっているように見えた。その姿は神々しくさえ見えた。大嫌いなカテーテルが私の体から出た。終わった。

 看護師が点滴の針を抜きながら言った。「普通なら3,4時間かかる治療を細川先生だからこんな短い時間で終わらせられたんですよ。良かったですね。今回使ったあんなに長いステント私は初めて見ました」 細川先生はもう次の患者の準備に入っていた。

 退院して私はひとりで電車に乗って家に戻った。毎日ネジを巻いているグランド時計のネジのオモリが底に届きそうに下がっていた。私はネジを巻いた。家に帰ってこれた喜びが湧き出た。夕方帰宅した妻が言った。「カテーテルうまくいって良かったね。10年前よりカテーテルはずっと進化しているし、細川先生の技術も多くの患者の治療で向上しているし良いことばかりじゃない」 金曜日のブログが書ける書けないの賭けの勝ち負けの話はなかった。今はそれがこわい。


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人生ひと区切り・節目

2019年01月22日 | Weblog

  【お知らせ:23日水曜日の投稿分都合により本日22日火曜日に変えて投稿】

 20日の日曜日、天気も良く、外に出かけたかったが、22日にそなえて体調を万全に保ちたいので外出を控えて、妻と静かに家で過ごすことにした。10時のお茶。舟和の芋羊羹をつつきながら私が言った。「すべての準備はできないけれど、お金のことは、困らないように書き出して表にしておく。ブログも来週は、月水金なので月曜日に月水のを投稿する。金曜日はわからない」 妻「大丈夫。あなたはブログを必ず金曜日に載せられる」 私「もし載せられなかったら、いくらくれる」 私は冗談でよく妻に賭け事じみた問いかけをする。 妻「もし載せることができたら何してくれる?」 私「…」

  入院する前に23日(水)の投稿分のブログでこれまでの私の人生をまとめておこうと決めた。画家の不染鉄は言った。「私は有名にならず、こんな絵を描くようになっちゃった。でもいいよね」 心に響いた。私は、一介の普通の人で終わりそうである。不染の「でもいいよね」に魅かれる。

  私の悪いこと弱点などを書き連ねれば、何ページでも書ける。だからそれはやめておく。私が全力投球できたと思えることだけを書いておく。

①      私は最初の結婚に失敗した。離婚して二人の子、長男長女を育てた。二人が大学を卒業するまではと、自分のことを犠牲にして子育てに力を注いだ。離婚直後、長野市の禅寺に2年間通って自分の改造に取り組んだ。二人の子供は自立した。孫も3人になった。良い家庭を築いてくれた。私は、子供のまたとない反面教師となった。

②      15年間のやもめ暮らしの後、再婚した妻との出会いがあった。15年という人間改造修行の甲斐あって、再婚後、以前では考えられなかった穏やかな夫婦生活を持てた。妻が外務省の医務官に転職した。私は自分の事業を閉めて、配偶者として海外赴任に同行した。

③      高校2年でカナダの高校へ留学できた。この留学はまだ1ドルが360円だった時で、外貨の持ち出しは一人年間700ドルの制限があった。両親は貧しかった。他の3人の姉妹を犠牲にしてまで私はカナダへ渡った。カナダで多くの事を学んだ。親にカナダに行かせてもらった恩返しができなかった。

④      中学生の時、国語の小林先生に「君は学校の教師に向いている」と言われた。先生がなぜそういったのかは分からない。しかしその言葉が心に残った。カナダから帰国して学校の英語の教師になろうと思った。しかし日本で教師になるには、教員採用試験に受からなければなれない。受験資格は日本の大学を卒業していなければならなかった。あきらめて英語の私塾を始めた。塾で多くの生徒に英語を教えた。再婚して海外へ行くまで18年間教えた。

⑤      あきっぽく何事も長続きしなかったが、再婚後、日記を書き続けた。このブログも掲載日も変えたことはあるが、休まずずっと投稿できた。

⑥      主夫を27年間働く妻を支えてきた。44歳で糖尿病発症。54歳で狭心症になり心臓バイパス手術。それでも今日まで妻と仲良く楽しく美味しく、いつもニコニコ現金払いを標榜して生きてきた。

 21日月曜日、妻はいつものように出勤。私は一人家で、かねてから終活で写真と手紙などの私しかできないであろうことに着手した。2台のシュレッダーで裁断した。でもなかなか捗らない。英国で1億5千万円で落札されたバンクシーの絵が額にはめ込まれたシュレッダーで裁断されてしまった。そういう思い切りが私にはない。それでも一日かけて“これだけは”と思っていたブツは、切り刻めた。

 ここでひと区切りしよう。節目としよう。我が人生、反省はいくらでもある。でもいいよね。


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心臓カテーテル手術

2019年01月21日 | Weblog

  先週の金曜日、胸に先が尖った金属で刺されたような痛みが走った。「もしや、また」と悪い予感がした。その後も心臓を柔らかな手袋でつかまれているような感じがある。

 チュニジアのチュニスに暮らしていた時のことだった。毎日近所の市場に買い出しに行った。チュニジア独特の買い物かごを使っていた。野菜、魚、肉すべてキロ単位での販売だった。値段も日本の10分の1以下だった。チュニジアは食材の宝庫だった。籠いっぱいに買い物して家に戻った。住んでいた家は、一階に大家一家が暮らしていて、二階が貸家になっていた。道路から階段で上がって玄関になっていた。階段の途中で私はかがみこんだ。胸に痛みを感じた。その時は、買い物かごの荷物が重すぎたのだと思った。ゴルフは、チュニジアでの楽しみだった。ゴルフをしていて、坂を上るときにも、胸に違和感や痛みを持った。妻に話した。妻は現地の病院へ私を連れて行った。24時間の心電図を測れるホルターをつけた。診断は狭心症。チュニジアの病院の医師たちに心臓バイパス手術をチュニジアで受けるように勧められた。妻は日本で再検査を受けて、手術を受けるにしても日本の方がいろいろな点で私にとって良いと判断した。私は2002年1月24日に心臓バイパス手術を受けた。6時間以上にも及ぶものだった。術後2-3週間で再度心臓カテーテル検査を受けた。

  バイパスを3本つけたが、そのうち2本がまったく血流が見られず、1本しか機能しておらず、更にその1本のバイパスもクランク状に変形してしまっていた。失望した私は術後1カ月でチュニジアに戻った。1年後休暇で帰国した。病院を変えた。そこで細川丈志医師によるカテーテルでの再手術を受けた。細川医師が見事にクランクを解消してくれた。その後、症状は安定していたが、2004年海外での生活に終止符を打ち帰国した。その後通院している循環器科の医師と相談して久々にカテーテル検査を受けることになった。紹介してもらったのはあの細川先生だった。2008年に東京ハートセンターに移っていた細川医師のカテーテル検査を受けた。検査は異常なく、「定期的なカテーテル検査は必要ない。症状がでたら、また来てください」と言われた。カテーテル検査が苦手な私はとても嬉しくなった。それから心臓にあまり不安を感じることなく普通に生活できた。

 私は71歳になった。今年の誕生日には72歳になる。この72歳というのは、私にとって特別な年齢である。私の父親が72歳の時、膵臓癌で死んだ。54歳で心臓バイパス手術を受けた時、これで私の命も尽きるのかと思った。せめて父親と同じくらいは生きたかったのだがと、その時は嘆いた。でも考え直した。人間、病気も怖いが、殺人事件や事故や自然災害でいつ何時に巻き込まれて命を失うかもしれぬ。生きているだけで感謝。

 18日細川医師の診察予約が取れた。検査の結果、2か所に狭窄が見つかった。(写真:私の今回の心臓CT写真)22日に入院することになった。行きはよいよい、帰りはこわい。私は不安で帰りの電車の中、ずっと窓から外を眺めていた。

 帰宅した妻に診断書やCT写真を見せた。うなだれ、不安げな私に向かって妻が言った。「今回のカテーテルをやる、やらないを比べたら、やる方がずっとメリットが多い。やったらいいことばかりなのに、どうしてほぼ起こらないであろう最悪のことを考えるの。バカげてるわ」 妻は強い人である。私に妻ぐらいの度胸があったなら。でも私は細川先生に絶大な信頼を持つ。妻を信じ、細川医師に託す。

 (東京ハートセンターの細川丈志医師は、アメリカのBest Doctors社の2018~2019年の日本のベスト・ドクターに選ばれている)


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レンコン・れんこん・蓮根・Lotus root

2019年01月17日 | Weblog

  蓮の花が好きだ。鎌倉、石川県の蓮寺などあちこちの蓮の名所を訪れた。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の中に「極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます」とある。小学生だった私は文章の中のすべての極楽の文字を読み飛ばし、現実の世界に置き換えていた。近所の寺の池に蓮の花が咲いた。私は蓮の花に見とれた。そして蓮の葉を恐る恐る覗いた。何も見えなかった。私は自分に下の世界が見えないのは自分がカンダッタのような罪深い人間だからだと思った。

  私が生まれ育った地で、レンコンはあまり食べられなかった。産地でもなく、当時、物資の流通は、いまよりずっと悪かった。お盆に母はテンプラを揚げた。レンコンのテンプラもあった。変な食べ物だと思った。穴が気になった。レンコンが蓮の地下茎だと知ったのは、理科の授業でのことだった。私はジャガイモのテンプラが一番好き。『蜘蛛の糸』を読んだ後から、あまり好きでなかったレンコンを今までとは違った目で見ていた。レンコンを食べるということに抵抗していた。高校に入ってカナダへ留学した。カナダでレンコンを食べたいと思ったことは一度もなかった。レンコンのことは、すっかり忘れていた。

  大人になって、食べ物の好みが変わっていった。子供の頃、気持ち悪いとさえ思っていたネギの“ぬた”さえ食べられるようになった。レンコンはテンプラしか知らなかったが、いろいろな食べ方があると知った。九州の辛子レンコン、中華のレンコン餅、煮物“筑前煮”、酢の物。美味しいと思った。  

  再婚した後、妻の海外赴任に同行した。最初の妻の赴任地は、ネパールだった。お釈迦様が生まれた国だった。釈迦生誕の地といわれるルンビニを訪ねた。衛生面で受け入れがたいところもあった。しかしよどんだ汚水の中に咲く蓮の花を見た時の感動を忘れない。

  海外で暮らしていると日本でしか手に入らない食材を無性に食べたくなるものである。アフリカのセネガルにいた時、妻のロンドン出張について行った。ロンドンの中華街の食料品店で乾燥レンコンを見つけた。乾燥食品は、海外生活に欠かせない。軽くて持ち運びに便利。保存が効く。使いたい時、水で戻せる。先人たちの英知に感謝した。かくしてアフリカのセネガルでシャキシャキの歯ごたえ抜群のレンコンのテンプラを食せた。

  1月12日土曜日日本テレビの『青空レストラン』を観た。新潟県のレンコンを取り上げていた。宮川大輔さんの安易な「うまい」には違和感を持つが、番組で紹介する食材や料理に興味がある。餡かけレンコン団子が紹介された。一緒に観ていた妻が「材料全部あるよ。明日つくってみない」と言った。13日の日曜日、朝から台所でレンコン団子を調理した。日本の停電がない、最新の調理器具がある台所、何でもそろう食材、最高の助手。できたレンコン団子は、宮川さんが言うほどの美味さではなかった。しかし日本でこうして妻とレンコンを調理できる喜びは、香る蓮の花に囲まれているようだ。


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市原悦子

2019年01月15日 | Weblog

  市原悦子は私の母ちゃんに似ている。かつて美人大物女優と共演した時、市原は、その女優に尋ねられた。「あなた生まれはどこ」 市原は「千葉の生まれです」と。大女優は「あなたは千葉の顏ね」と。それ以後、市原は、美人には近づかないようにしたそうな。私は市原の演技力はここから始まったのではと感心した。私の母ちゃんなら「あなた生まれはどこ」と聞かれれば「長野」と答え、「長野の顏ね」と言われたであろう。

 最近日本のテレビや映画を観て、美しいと言われているだけの芸能人と奇抜でしかない芸能人しかいないのではという不安を感じる。やれ“世界で最も美しい顔100人”やれ“1000年に一人”などと騒がれる芸能人もいる。しかし私は疑問を持つ。この人のどこが美しいの、綺麗なのと。ドラマにしても劇にしても演技力こそ評価されるべき点である。別に私は芸能評論家でも何でもない。ただただ感性だけで映画もドラマも観る。映画もドラマも俳優一人で作られるものではない。脚本、監督、撮影、配役、撮影場所、セット、衣装、音楽などなど多くの人々が関わる。そして作品が完成して公開される。その作品を観て、満足できるものと、これはいったいなんなのと思うものもある。日本の多くの作品は、主演女優と主演男優を中心としたものである。私はいつも配役に不満を持つ。外国映画、特にフランスやイタリア映画が好きな理由は、配役が見事としか言いようのないからである。主役も大事だが、脇役に実に味のある役者がいる。海外映画がそうできるのは、おそらく目の肥えた観客が多く存在するからであろう。私は配役に細かく配慮と作品への寄与度を計算された作品に感動する。

 近頃日本のテレビは、お笑い芸人からすべてが始まるようだ。テレビ局会社に採用されるには、何十倍という入社試験に合格しなければならない。そんな競争を経てアナウンサーになっても、なかなか番組を持てない。しかしお笑い芸人は、人気を得て、視聴率を稼げるようになれば、番組の司会、ひな壇への登場、はてはドラマや映画に出演などと、テレビで顔を売る登竜門となる。あれだけ難関のテレビ局へ入っても、お笑いタレントが次々に出てきて、正規アナウンサーの職を奪う。まさにテレビは、お笑いタレントの独壇場になりつつある。そこへ加えて親ばかなタレントが、子どもをコネでテレビ界に入れる。そんな出演者も多い。私は画面に長嶋一茂さん、石原良純さん、小泉孝太郎さん、渡辺裕太さん、関根麻里さんなどの親の七光りタレントが出るとすぐにチャンネルを変える。観たくないものを観ない、のも精神衛生上有効な行動だと思っている。

 名優が消えてゆく。樹木希林。市原悦子。混沌とした演技力だけでは、評価されない日本の芸能界で精一杯自己主張してくれた。まわりの程度の低い演技力のない、人気や見た目だけの芸能人の多い中でさぞかし歯がゆいことが多かったのではと推察される。あまりの迫力で周りから浮くような時にさえ、抑えを効かせた演技中の演技も、私には読み取れた。それこそが名優の証拠であろう。

 市原悦子を見るたびに母ちゃんを思う。私の母もけっして絶世の美女ではない。生まれはどこ、には長野、と堂々と答え、美女とうぬぼれる人々には近づかない。そういう人がいることが愉快である。


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カリフラワーとジャガイモのカレー

2019年01月11日 | Weblog

 カレーが好きだ。私が子供だった時、誕生日はいつもカレーだった。誕生日ケーキもプレゼントもなかったが、カレーが食卓に出てくるだけで嬉しかった。私は第二次大戦が終戦して団塊の世代と呼ばれる食糧事情が悪かった時に育った。カレーといっても、オリエンタルカレーの粉末をジャガイモ、ニンジン、タマネギに加えた。豚肉が入るようになったのは、中学生になった後だった。牛肉など口にしたこともなかった。肉の代わりにチクワが入れられたこともあった。ちょっと豪華なカレーは、ニワトリのガラを買い、出汁を取り、ガラの骨の間に残っていた肉を丁寧に串でほじりだした。手を汚してほじっていた姉ちゃんが言った。「大きくなったら肉がいっぱい付いた鶏を買いたい」と。

 私は高校2年生からカナダに留学した。カナダでホームシックに何回もなった。母ちゃんのカレーを食べたくなった。カナダでカレーを一度も食べてない。夢にみた。そんな朝は枕にべっとりよだれの後があった。

 妻が英国留学中、ロンドンのホワイトシティにある『カーン』というインドカレーに連れて行ってもらった。そこで初めてインドカレーを食べた。ナンも初めて食べた。3種類のカレーが小さな器に入っていた。その中にアルゴビがあった。アルゴビは、ジャガイモとカリフラワーのカレーである。私は懐かしいと思った。食糧難の子供時代の我が家のカレーを思い出した。インドはヒンズー教の影響で菜食主義者が多い。カレーにはいろいろなスパイスが入っている。1950年代のオリエンタルカレーに、どのようなスパイスが含まれていたかはわからない。でもあの時代である。だいぶ端折られていたであろう。母ちゃんのカレーは、インドカレーに近かったと胸にグッと迫るものがあった。貧しさにあっても、物事の捉え方で豊かに思える事もある。

 若かった時は、肉に憧れた。日本も戦後、だんだん豊かになって、肉が食べられるようになった。私も古希を迎えた。肉を口にすることが減り、魚が献立に多くなった。1月4日、妻の仕事始めの日、私は東京へ行く決心をした。妻の勤務先の近くにインドカレーの店がある。そこのカリフラワーとジャガイモのカレーが無性に食べたくなった。妻が受け入れてくれた。妻の昼休みに合わせた。私は迷いなくランチセットカレー2品とスープ、ドリンク付き2060円。カレー2品は“アルゴビ”とチキンボール・カレーを注文した。妻は辛いマトンとチキンのランチペアセット1545円を注文。ナンもライスも食べたかったので夫婦でそれぞれを注文して、分け合った。美味かった。やっと正月を迎えたような気分になった。

 6日の日曜日、久しぶりに映画を観た。NETFLIXの『奇跡がくれた数式』だった。1910年代インドから英国のケンブリッジ大学に招かれた天才ラマヌジャンの実話をもとにした映画である。私の妻も英国のロンドン大学に留学した。そこでの人種差別はひどかったという。ましてや映画は1910年代の話である。英国国内でさえ超すに超えられぬ階級制がある中、インドの学歴もない貧しい天才がケンブリッジ大学に来た。ヒンズー教を信じるラマヌジャンは、菜食主義なので第一次大戦が始まると英国の食糧事情も悪くなりラマヌジャンは満足に食べられなくなる。それでも数式解明に没頭する。そして肺結核になり自殺未遂の後、インドに帰国。32歳で死去。悲しい映画だった。

 10日映画の影響かラマヌジャンも食べたであろうアルゴビを私が作ってみることにした。しかし失敗だった。いつもそうだが、レシピ通りに作って美味しいと思ったことがない。多く作りすぎた。しばらくとんでもなく不味いアルゴビを食べきるまで、ラマヌジャンを偲びたい。

 つくづく思う。天才と美人はどこからでも出てくる。人知れず消えてゆく天才、美人も世界中にいるであろう。超凡人である私からすればモッタイナイ話である。


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旭硝子AGCとAGA

2019年01月09日 | Weblog

 最近旭硝子が社名をAGCに変更したとして大々的にテレビで宣伝画像を放映している。他にAGAという男性型脱毛症の宣伝がある。AGCは、旭硝子株式会社を旭をローマ字表記してASAHIのA、硝子をローマ字表記してGARASUもしくは英語のGLASSのG、会社COMPANYまたはCORPORATIONのCでできたと思う。私には旭硝子がこうする必要があったのか疑問である。

 他にAGAという男性型脱毛症の宣伝がある。紛らわしい。歳を取ったせいか、似た言葉の区別と音の違いを聞き取ることがよくできない。世の中には新語、流行語、略語、隠語、俗語、業界用語、専門用語があふれている。特にアルファベットを3つ4つ並べる略語には手を焼く。竹下元首相の孫とかいう芸能人がKMSSを(興味津々)とかIISを(いい勝負)とかいうらしい。本人は、マスコミが取り上げるので面白がっているかもしれないが、迷惑である。言葉は、聞く相手が理解できるように気遣って口にする、文章にするものだと思う。

 AGAにもAGCにもそう呼ぶ理由があるのであろう。旭硝子のAGCは、国内だけでなく世界を市場としている。世界で通用する社名にしようと考えてAGCに社名変更したと思われる。この新社名が世界で認知されるには相当な経費と時間がかかるだろう。一方AGCの呼び方は、理解できる。かつて自民党の豊田真由子元議員が自分の男性秘書に「このハゲーッ」と罵倒した。ハゲはキツイ日本語である。この国では、直接キツイ言葉を外国語や略語などで言い換える。ハゲッと言われるより、何を言っているのかわからないAGAの方が差しさわりがない。

 ハゲと言えば、私もずいぶん薄毛になった。しかし私の父は30代で禿はじめ、50代では漫画『サザエさん』の波平さんのようだった。貧乏だったせいもあるだろうが、カツラの選択肢はなかった。若い時から帽子が好きで、ハンチングを愛用していた。私は父のように帽子好きではない。母方の祖父は、髪の毛が真っ白だった。妻の父親も髪の毛を黒く染めていたが、ある時突然染めるのをやめた。髪の毛は、真っ白だった。薄毛どころかふさふさしていたので羨ましかった。私は子供頃から母方の祖父のようになりたかった。しかしどっちつかずの中間、薄毛だけれどハゲず、白髪ではないが、薄灰色となった。

 旭硝子には好印象を持つ。今住む家に越して来た最初の冬、ガラスの結露がひどくて往生した。拭いても拭いても床が濡れた。旭硝子が二重ガラスを発売した。結露しにくいという宣伝文句につられて早速工事を依頼した。安くはなかった。もう大丈夫と思ったら、以前と変わらない結露が起こった。工事した会社と話し合ったが、埒が明かなかった。私は旭硝子の社長に手紙を書いた。丁寧な返事が社長から届いた。これほどの対応は期待しなかった。旭硝子の研究所の研究員が二人家に来てくれた。色々調査してくれた。私の集合住宅内の区画位置に問題があると結果が出た。つまり我が家の真下に地下駐車場の通路があり部屋全体が冷やされることと、区画に西陽があたり温度変化が厳しいことが結露を増長する。旭硝子の二重ガラスにガラスとガラスの間にアルゴンガスを入れた物がある。それを割安で入れ替える提案が出て了承した。現在結露は激減して快適な生活ができる。多くの会社に改善や苦情の手紙を書いたが、旭硝子ほどの対応をしてくれた会社はない。私の旭硝子への好感度は群を抜いている。旭硝子がAGCに社名変更しても私の気持ちは変わらない。


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年末年始雑感

2019年01月07日 | Weblog

  今回の年末年始、いつもに増して静かな二人だけの歳取りと元旦だった。私の二人の子供には、3人の孫がいる。全員男である。それぞれの子供たちは、奥さんの家族と正月を過ごす。寂しいが仕方がない。何しろ私たちは、海外で生活していたので、正月を一緒に過ごしたことがない。彼らを正月だけでなくいつも受け入れてくれていたのは、結婚相手の家族だった。日本へ帰国したからと言って、それが急に変わるわけでもない。感謝こそすれ、切ながってはいけない。

 大晦日、朝から家の中の掃除をした。子供時代の“大掃除”には及ばないが、それでも普段できなかった場所を重点的に掃除した。子供の頃の大掃除を思い出し、妻の家庭での大掃除や年取りの様子、私の家庭での様子を話した。当時、畳と障子がどの家庭でも一番大変な作業だった。今住む家に畳はない。障子も和紙を模したプラスチック製なので、ホコリを払うだけだった。大がかりではなかったが、それでも心も家もすっきりした。

  近くのスーパーへ買い物に出た。せめて正月三が日買い物に出なくても済むようメモ用紙書き込んだ品々を買った。おせち料理は、以前懇意にしていた小料理屋のものを買っていたが、その店の主人が廃業したのでそれ以来買っていない。多くの商品が正月値段になっていて、その価格の高さに驚いた。モヤシの大袋詰を買った。

  夕方、夫婦並んでモヤシの根切りをした。私はモヤシの根切りをしていると坐禅のような心境になれる。いつもは一人でやる作業だけれど、二人でやった。安いモヤシをこれだけ手間暇かけて何の価値がある。口には出さないが妻の作業にはその気持ちが如実に表れる。価値観が違う二人の人間が夫婦という括りで一緒に暮らしてきた。モヤシの一本一本が、二人で歩んできた過去に見える。訂正、修正したいことばかりが頭に浮かぶ。こうして1時間くらいかけてモヤシを綺麗にした。さっと茹でて、正月に使えるよう冷蔵庫に入れた。

  我が家の夕食は早い。休日は夕方5時には食べ始める。歳取りのために私が調理したサーモンマリネとラムのチュニジア風ステーキとロブスターのイチゴソースサラダに友人が送ってくれた日本酒『獺祭』の発泡酒を開けた。正月を過ごした国々を日本から懐かしむ料理だった。何も特別なこともなく、ゆっくり時間をかけて年取りを終えた。テレビは観ない。『NHK紅白歌合戦』は別世界。8時過ぎにはベッドに入った。酔いのせいかいつもより寝つきが良かった。

  元旦は天気が良かった。雑煮を食べた。自分たちから年賀状を出さない。最近、年賀状の打ち切り挨拶状が出ているそうだが、私はもうずいぶん前にそう宣言した。届いた年賀状だけに返事を書いている。今年もそれなりに届いた。返事を書くのに時間を多く使えた。

  2日は箱根駅伝を目が疲れない程度にテレビ観戦した。しかし余りの宣伝枠が多く、順位争いのいいところでも遠慮会釈ない宣伝のための中断に腹がたった。お笑い番組やバラエティ番組で頻繁にどうでもよいタレントを画面のはじに枠を設けて映す。駅伝こそ宣伝時間に枠を出して懸命に走る選手を映すべきだ。テレビ局は番組提供社を向いていて視聴者はほったらかし。日本テレビは箱根駅伝のテレビ中継をあきらめ、NHKに戻してほしい。

 そんなこんなの年末年始だったが、4日から妻の出勤が始まった。5日の土曜日も土曜出勤だった。4日には友人の娘さんが1日元旦に無事出産の知らせを受けた。心配していたが母子とも無事だと聞いて安堵した。今年は元旦からめでたいぞ。


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