団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ジャップ、キノ、シノワ、チニート

2017年10月30日 | Weblog

①    旧ユーゴスラビア

②    タイ

③    台湾

①    アメリカ大リーグのワールドシリーズでロスアンジェルス・ドジャース対ヒューストン・アストロズの第三戦をテレビで観た。ホームランを打ったアストロズのグリエル内野手は、ベンチに戻り、指で両目尻を引っ張りスペイン語で「Chinito」(チニート)と発した。日本からやって来てプレーするダルビッシュ有投手に対する差別行為であることは明白である。このすべてがテレビカメラはとらえていた。アメリカでは白人至上主義が勢いを吹き返してきている。アメフトの黒人選手の一部が国歌演奏の時、この人種差別に抗議する目的で、起立せず膝まずきアメリカの大きな問題になっているさなかでの出来事だった。グリエルは「誰も傷つけるつもりはなかった。日本でプレーしていたし、日本人には多大な敬意を持っている」と釈明した。これは嘘である。人間は、酒に酔った時、勝利に酔った時は、本音が出る。グリエル選手もダルビッシュ投手からホームランを打ち、得意慢心になり本音が出てしまったのだろう。だから言い訳は、見苦しい。悲しいことにグリエル選手は、キューバ人である。定かではないが、スペイン系ならアメリカでは、人種的にはヒスパニックである。ヒスパニックがアメリカでどれほど差別されているかは承知の事実である。キューバでは黒人との混血も多いので黒人の血が入っているかもしれない。ダルビッシュ投手だって父親はイラン人で母親は日本人である。子供の頃はだいぶ差別を受けたと聞いている。アメリカの人種優劣ランクではWASP(白人でアングロサクソン系でプロテスタント)が一番だとWASPは唱える。加えてグリエル選手は、かつて日本のDeNAでプレーしたことがある。つまり日本で住んだことがある選手なのだ。収入だって年何十億も稼げるスポーツ選手である。それでも差別は、人間に蜜の味を与える。私もカナダ留学時代数えきれないくらい「ジャップ」と言われ、両手の指で目じりを上げられた経験を持つ。ダルビッシュ投手は会見で「完全な人間はいない。彼の一つのミス。これによって、またいろんな人が学べる。」とツイートした。良い答えだ。私もそう思う。差別心は誰にでもある。もちろん私にもある。それを覆い隠すのが教養と品格かもしれない。私は差別心は、優越感劣等感の発露と思うと同時に。動物の縄張り意識に由来するとも感じることがある。それはさておき、ダルビッシュ投手の好投を期待したが、残念ながら2回グリエル選手のホームランなどの4失点で降板した。

 海外で暮らし、また旅行して日本人であることで差別されたことは多々ある。差別や偏見から解き放されて暮らせることは嬉しい。旧ユーゴスラビアのベオグラードは、その点で住みやすかった。社会主義の教育が、そうさせていたのかもしれない。一度だけロマの子にすれ違いざまに「キノ」と言われただけである。セネガル、チュニジアで「シノワ」と数えきれないほど言われたのとは、大違いである。石を投げられたり唾を吐きかけられたこともある。

②    ネパールに住んだ3年4か月の間、休暇や買い出しの度にタイを頻繁に訪れた。ここでも日本人だからという理由で嫌な思いをしたことがない。

③    台湾も普通に接してくれる世界で数少ない国である。

 差別は絶対になくならない。しかし心の奥深くに教養と品格で包み、隠してしまいこむことはできる。教育の目的は、教養と品格を身に着けることだと私は思う。鎌倉円覚寺に「教養とは、気配り、目配り、手配りである」の教えが掲げられている。


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好きな親戚 苦手な親戚

2017年10月26日 | Weblog

①    直江津のおばちゃん

②    東京のおばちゃん

③    いとこのしず坊ちゃん

①    直江津のおばちゃんが亡くなった。92歳だった。おばちゃんは、私の母、継母の一番下の妹である。おばちゃんの長男から手紙が届いた。「暖かい心づかい、ありがとうございます。そしてお手紙を読んで感泣してしまいました。私が幼い頃両親に信州へ連れて行ってもらった時は〇ちゃん(注:私のこと)に会えるのを楽しみにしていたのを思い出しました。お手紙は仏前にそなえてあります。(お袋が喜んでいると思います。)これから寒い時期になりますが、体にはくれぐれも注意して無理せず余生を過ごしてください。」 この長男は、私の母親が死んだ後、何度か私が直江津に預けられた時、私には結構つらく当たった。当たり前のことである。自分の両親がよそから突然迷い込んでき子に優しくするのを見て、親を取られたと思ったのだろう。自分の子供にそう思わせたほど、直江津のおばちゃんは、私をかわいがってくれた。姉の子、それも4歳でその姉と死に別れた私を不憫に思ってくれた。直江津でおばちゃんおじちゃんから嫌な仕打ちや言葉を受けたことはなかった。自分の家族から離れて直江津で暮らした一時期、ホームシックにかからなかったことが何よりの良くしてもらった証拠だろう。

②    東京のおばちゃんは、父の姉である。とにかく面倒見の良い人だった。私たちにばかりでなく、おばちゃんは、親戚の誰にも優しかった。私の母が亡くなった時、東京のおばちゃんは、即、私を東京へ連れて行った。父親が落ち着きを取り戻すまで面倒をみてくれた。4歳にして東京へ行き、生活したことは私に大きな影響を与えた。私ばかりではなかった。いとこ5人、私の姉と妹二人も東京で就職すると必ずおばちゃんは、生活が落ち着くまでおばちゃんの家で面倒をみてくれた。偉いと思ったのは、押しつけがましくなく、気前がよく、寛大だった。働き者で、内職でパン粉を作っていた。狭い場所にパンやパンの耳からパン粉にする機械を置いていた。旦那がパン会社の配達をしていた。10軒くらいのレストランや食堂のパン粉の注文を取って来た。その注文に従ってパンの白い部分だけを、または耳も入れたりと作り分けていた。評判が良く、けっこうな稼ぎがあったようだ。そのお金で私の姉弟やいとこを援助してくれた。おばちゃんには娘がいたが、それでも娘一人をかわいがるのではなく、みなに親切だった。

③    父の兄は、最初の結婚で二人の男の子を持ったが、妻と離婚して再婚した。再婚して4人子どもが生まれた。家を継いだのは、再婚してできた男の子だった。最初の二人の男の子は、東京のおばちゃんが面倒をみて自立させた。長男が静男で私にとても良くしてくれた。1964年の東京オリンピックの頃、冷暖房の設備会社を設立して成功した。苦労人だったせいか、他人の痛みがわかる人だった。従業員と家族を大切にしていた。彼に“はとバス”で東京見物に連れて行ってもらったことを忘れない。大相撲が好きで武蔵丸の後援会に入っていた。そのしず坊ちゃんは、癌になり54歳で亡くなった。

 

 親戚はたくさんいても頻繁に行き来する関係はあまりない。冠婚葬祭などで表面上の付き合いがあっても、それ以外はそれぞれの生活に戻ってしまう。親戚という血縁関係は、決して強固な精神的な結びつきではない。人間関係においても、お互いの相性がものをいう。妻と親戚について話すと、妻にもいろいろあったらしい。苦手だった親戚の話も聞いた。ことわざに“遠くの親戚より近所の他人”がある。私は親戚だからとか他人だからというのではなく、やはりその人の人間性に注目する。そして何より人間関係に必要なのは、直接会って一緒にどれだけ多くの時間を共有するかであろう。嫌いな人と、そうすることはできない。相性電波に敏感に反応したい。妻とは今でも相性電波が火花を放ちながら通い合っている。嬉しいことだ。これからも周りに残っている相性を認め合っている人を大切にして余生を送る。


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台風一過

2017年10月24日 | Weblog

①    台風一過の青い空 日本

②    カナダ アルバータ州 午後9時の青空

③    チュニジア 砂嵐の後の青空

①     23日の午前1時ころ私の住む町の真上を台風21号の中心が通過した。風邪でこの10日間ずっと風邪薬を服用していたせいか、私はぐっすり寝入っていた。まったく台風の直撃を知ることはなかった。朝目を覚ますと妻が「夕べの風と雨凄かったね」と言った。私は何か罪を犯したように恥ずかしさを感じた。

  前の日、テレビの台風直撃予報進路図を観て、ベランダの強風に吹き飛ばされそうな物を風邪でふらつく私に代わって妻が片づけてくれた。瞬間最大風速は45メートルで大型トラックが横転する強い風が吹くとも聞いた。これは大変だと北側の窓の外が心配になった。窓の外は幅2メートルぐらいの植え込みがある。その植え込みのヘリは石のタイルが貼られていた。すでに建築後13年になる。あちこちのタイルが剥げていた。先日植木屋が入って草を刈った。その時今の管理組合の理事が植木屋にタイルの点検を頼んだらしい。なぜか彼らは剥げたり剥げそうなタイルを集めて窓のすぐ外に積み上げてあった。大型トラックを横倒しにするくらいの暴風なら、これくらいのタイルは吹き飛ばされるだろう。窓に直撃してガラスが割れたら家の中は暴風でめちゃくちゃになる。私は妻に外のタイルを飛ばないように家の中に入れると言った。雨が強く降っていた。妻は長靴合羽で窓の外に出てタイルを片付けてくれた。自分を情けなく思った。妻の若さ強さを再認識した。おかげでベランダも北側の植え込みも台風の被害はなかった。

 朝5時に起きた。南側のベランダも北側の植え込みも木や竹の葉、枝がびっしり。つい先日、業者にガラス掃除をしてもらったばかりのガラス窓も汚れや葉が張り付いていた。しかし被害がなかったのは何よりだった。子供の頃長野県を通過した台風7号で我が家は浸水、ガラス戸が破損して家中メチャクチャになった。胸をなでおろした。

 そして台風一過の青い空が見えた。自然は過酷獰猛の一方どこまでも優しい。昨夜の悪夢も私の風邪の症状も吹き飛ばされた。散歩に出たくなるような良い天気になった。

②    十代後半から学んだカナダの夏は、午後12時ころまで明るく、午前3時ころにはもう太陽が上がって来た。反対に冬は午前10時ころ陽が昇り、午後3時には暗くなった。寮から大平原も空も良く見えた。午後10時が消灯時間だった。私は夜9時ころの青い空を見るのが好きだった。日本の真昼のような青い空だった。夜9時に見た青い空は不思議な青だった。

③    チュニジアの空は地中海式気候の明るい眩しい青い空だった。砂漠を旅行した。大砂嵐に巻き込まれた。何も見えなくなった。真っ暗になった。恐怖心で震えた。車の隙間から細かい砂が入り込んだ。喉が痛くなり目も痛かった。車の中でじっと嵐が通り過ぎるのを待った。台風一過のように砂嵐が去ると、チュニジアの抜けるような青い空がのしかかるように降りてきた。その美しかったこと。忘れない青である。

 住む集合住宅の管理人が道路を掃除した。いくつもの小さな緑のかたまりが一列に並んだ。彼の愚直でまっとうな性格が見て取れた。(写真参照:掃除前、掃除後

 22日投票の衆議院議員選挙が午後8時にその大勢が表示された。当選議員はクモの糸を駆け上がり別の世界へ行った。投票した一般庶民は自然の脅威にさらされながらも、下で重税に耐え、懸命に彼ら彼女らの家業としての政治屋特権生活を支える。北朝鮮の世襲を笑えない。日本もある意味、封建時代の社会構造も人心もさして変わっていない気がしてならない。せめてもの慰めは、風邪が悪化する前に期日前投票をしたことと、台風一過の青い空が再び美しかったことだ。

 


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コインホルダーと段取り

2017年10月20日 | Weblog

①    コインホルダーとコインストック (写真参照)

②    冷凍食品の解凍

③    宅急便到着予告

①    「グズグズしてんじゃねえよ」と男が大声で叫んだ。私はスーパーのレジで支払いをしていた。小銭だけのガマグチの中から五円玉を探そうと少し手間取っていた。男の声にビビった私は千円札を出してお釣りをもらった。私はレジを出たところで立ち、後学のためにその男を観察した。ごく普通の中肉中背の中年の男だった。私を大きな声で急がせた人がどれほどテキパキと支払いを済ませるのか見せてもらうことにした。ところが男はやはり支払う段階で私以上に手間取っていた。胸のポケットを探ったりズボンのポケットに手を入れて小銭を探していた。やっと見つけた小銭を手のひらに乗せ、探していたがあきらめて札で支払った。彼の後ろにいたおばさんが、私の顔を見てニコッと微笑んだ。

 私の父は職人だった。職人に一番大事なのは、“段取り”だが口癖だった。子供の頃この“段取り”の意味がよく分からなかった。だんだん経験を通して理解するようになった。これはイメージトレーニングに似ている。あることを想定して何が必要か、どう進めるかの手順を考え、完成したことをイメージする。

 私はスーパーで他の人を威嚇したり怒鳴ることなどできない小心者である。できることは、そういう場面にあわないようにすることである。いつも札を出していると小銭はたまる一方だ。購入額をお釣りがないように支払うにはどうすればよいか。そうだコインホルダーを買おう。簡単なコインホルダーであるが、これを使うようになって支払いが早くできるようになった。発見もあった。銀行での両替が不便で手数料が高いと初めて知った。例えば1円玉を49個まで両替すると無料だが、それ以上だと手数料は200円かかる。1円玉を50円分両替すると50円+200円となる。両替機を使っても窓口で頼んでも同じである。最近の銀行は手数料が稼ぎ頭らしい。私はできるだけ素早く額に合わせた支払いを心がける。そして時々札を出して小銭を補う。数字が苦手は私には、良い頭の体操になっている。

②     海外生活では冷凍食品や自分で下ごしらえした食品を冷凍保存していた。しかし冷凍食品は解凍法で味が大きく変わってしまう。冷蔵庫に移して自然解凍するのが一番安全だ。しかし、それをわかっていても翌日の献立までなかなか気が回らない。その時になって急に必要とわかり、解凍しようとしても間に合わない。やはり段取りである。鮭の半身、丸ごとチキンなどは解凍に数日かかる。いつ使うか逆算して冷蔵庫に移しておけば、あわてることはない。

③     通信販売で物を注文して会社からいつ届くか返事があれば、その日は出かけられない。会社によってはあいまいな出荷予定を言って来る。10月9日から21日の間に出荷します。これでは困る。段取りできるようにとクロネコ・メンバーズになった。ネットで配達情報が的確に知ることができるようになった。都合が悪ければ、配達日、配達時間の変更も可能である。ただ待つだけから大きな進歩である。こうして段取りがつけば、暮らしが楽になりストレスが減る。

22日は衆議院議員選挙である。多くの政治屋さんたちは、陣笠議員として党利党略に身を捧げ、あとは自分個人の議員としての特権を狙う。国の将来をどうするかの“段取り”を公約に掲げる候補者はいない。そもそもその能力に秀でているとも思われない。悲しいことである。


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感謝の表現

2017年10月18日 | Weblog

①    家にご招待

②    年一度長野産のブドウかリンゴの送付

③    『Thank you card』礼状かありがとうメール

①    ②10月1日友人がまた一人先だった。彼の姉からメールが入った。「弟が1日に亡くなり、昨日葬儀も終わりました。最後までほんの少しですが、食べられたのが巨峰とメロンでした。頂いたブドウも本当に何粒でしたが、食べました。葬儀の祭壇に花と一緒にブドウと好きだった梨をアレンジして飾ってありました。お棺にもブドウを入れました。頂いたブドウを弟が頂いた事をご報告させて頂きます。本当にありがとうございました。母にはこの何週間会ってませんが、なにも教えてませんし、弟にも双方可愛そうなので会わせませんでした。弟は心残りはオフクロの事だけと申しておりました。家族皆に見守られて逝きましたが、若い死は無残です。弟が最後まで私には教えなかったのも、私を苦しめるのが嫌だった。弟の最後の優しさだと思うことにしました。そして実家に9日間だけしか居れませんでしたが、看病させてくれたことを感謝しております。ありがとうございました」(原文)   

 3年前の秋、兄弟のような友を失くした。癌が見つかったと電話してきた。必ず治して会いに行くから見舞いに来ないで欲しいと言った。入院中にもリンゴを送った。宅配会社の手違いで届いたのは亡くなった次の日だった。奥さんが残念だった最後に見せてあげたかったと泣いた。

 海外から日本に戻ったのが56歳だった。年に一回11月末か12月初旬に家で感謝したい友人知人を招いてワイン会を開いた。ある年は2回に分けて総勢70名を招待した。11年間続けたが、もう体力的にこれは無理である。今は一回多くても6名になるようにして年間を通して小さな食事会を続けている。いろいろな会合や寄り合いにも出かけることをやめた。年賀状と同じで“お付き合い”の範囲は縮小する一方である。交際範囲は狭くなったが、今の付き合いを大切にしている。

 ご馳走を心がけている。以前のように出かけて食材を集めなくても、今は取り寄せで全国どこからでも食材を手に入れられる。体が許す限り、家に招いて感謝を伝え続けたいと思っている。

 家に来てもらえない人達に、お中元もお歳暮も贈っていない。その代わり、9月下旬に巨峰とシャインマスカット半々のセットを、11月下旬にふじリンゴを贈り、今までの感謝の気持ちを送り届けている。 

 ③以前はアメリカへ行くたびにThank you cardを買ってきた。それも使い終わって、娘や娘の旦那が出張や旅行で海外へ行くとき、買ってきてもらう。私自身がアメリカへ行くことはもうない。このカードも3日ルールを遵守している。それが私の最大限の感謝だと思っている。

 

 父は私たちに口うるさく1.大きな声での挨拶2.相手に伝わるように感謝の言葉を口に出す3.人に迷惑かけない、としつけた。感謝している。政治屋は選挙中1.も2.も過剰に連呼する。当選するとと私たち選挙民とは別の極上特権階級世界へ入り込んでしまう。22日は投票日、さて結果はどう出るだろうか。


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教育無償化と父親の後ろ姿

2017年10月16日 | Weblog

①    N君のこと

②    西田敏行と養父。

③    私と父親

衆議院選挙の投票日が次の日曜日にある。各党の党首演説を聴いていると相変わらず女子アナ並みの稚拙な喋りと内容のない演説が虚しく耳を通過する。他党の批判ばかりで気分が悪くなる。私の心に響く演説はない。こんどの選挙で消費税の10%への引き上げを来年度実施して教育無償化を目指すという公約を掲げている政党がある。私は教育無償化に反対である。

日本は教育において自由が認められている世界でも稀有な国である。入学試験方法に問題はあるが、成績さえ良ければ、誰でも進学できる。大学は700校あって現在その60%の大学で定員割れを起こしている。こんな国もないのである。つまり大学を選ばなければ、望む高校卒業さえできれば、どこかの大学へ進学できる。かくして大学を卒業しても、その人がエリートと呼ばれるかどうかは疑わしい。私立大学をたくさん認可したのは、大学を作る過程で議員、業者、創立者側に大きな利権が絡むからである。モリカケ問題もその一端だった。

現在日本では、政治屋グループ、宗教グループ、芸能グループが庶民とはかけ離れた上流社会を形成している。世襲制は当たり前。日本社会は近代化されたというが、内情は江戸時代とさして変わらない。政治屋が不倫しようが、暴力暴言問題を起こそうが、支持者は彼ら彼女らのカバン、地盤を支えている。

教育は、個人の価値観に依存する。パチンコで自己破産する人もいる。フェラーリのようなスーパーカーを生活まで犠牲にして乗る人がいる。海外旅行が生きがいで多くの出費をする人もいる。大金持ちでなくても、自分の収入のうちから自分の価値観に見合うこと、ものに金を使うことができる。一方自分のことは犠牲にしてでも、子どもの教育のために金を使う人もいる。人生は自分で切り開くもので、国が作るもではない。だから教育無償化は、必要な人だけにするものだと私は思う。

①    塾で教えたN君はまれにみる優秀な生徒だった。高校受験で相談を受けた。N君は「自分は機械科に行きたいけれど、学校の先生が普通科へ行けという。自分は父親が好きで父親と将来一緒に働きたい。自分はどうすればいいのでしょう」と言った。確かにN君は学校でもトップの成績で全教科に良い成績だった。私もこの子なら東大に受かるかもしれないと密かに期待していた。でも私は彼の父親を羨ましいと思った。N君は、いまでも小さな町工場を父亡き後も引き継いで旋盤を操作している。

②    NHKテレビで一時中断していた『ファミリーヒストリー』が再開された。先日俳優西田敏行を取り上げた。西田は、訳あって実母の姉妹に養子となった。養父母は、大事に西田を育てた。西田が俳優になっても売れず相変わらず親のすねをかじっていた。そのころの養父母のことを西田のいとこが「嬉々として西田にすねをかじらせていた」と言った。西田のために自分たちの生活を犠牲にして西田の俳優として成功するのを応援援助した。教育無償化が完全施行されたら、西田敏行のような俳優がうまれるだろうか。

③    私がカナダへ留学したいと言うと父親は「行ってこい」と言った。バカな私は家計のことなど一切考えなかった。カナダから帰国して初めて、父親が家の敷地の一部を燐家に売って留学費用を賄ったこと、私が留学したことで3人の姉妹が大学進学できなかったことなど家族が私のために犠牲になっていたことを知った。

私は離婚後二人の子どもを男手で育てた。「この子たちが大学を卒業させるまでは」と過去のずぼらな金銭感覚を改め、仕送りと借金返済に奔走した。それを成し遂げたおかげで自分の改造計画にも成功して、再婚さえできた。

 

もし、国が私を経済的に援助して子どもの教育を無償でしてくれたなら、私はあの困難を乗り切れただろうか。明らかにNOである。私は以前より更にとんでもないまっとうでない人間に堕落していたに違いない。教育無償化以前に国がやらなければならないことはいくらでもある。それを語れずして政権を欲しがるのは、選挙民を愚弄するに他ならない。議員とは、自分を犠牲にすることから逃げて、選挙民を犠牲にして自分の野心を充たすことだけなのか。


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セブンルールならぬ私の3ルール

2017年10月12日 | Weblog

①    三日ルール

②    一日10単語10漢字

③    遠回りになっても信号のある交差点

①     フジテレビで火曜日夜11時19分から11時49分に『セブンルール』が放映される。私はもちろんこの時間にはすでに白河夜船である。今の時代は本当に凄い。テレビ番組が2週間にわたって録画記憶されている。そのおかげで私は、観たい番組観たい時に観ることができる。『セブンルール』は、いろいろな職業分野で活躍する女性が、日ごろ自分に課しているルールを一つずつひも解いていく番組である。時々7にこだわりすぎていると感じる。日本のテレビ番組の常道、余計なタレントを並べて喋らせる手法に食傷気味になるが、番組に取り上げられた主人公たちには関心がある。

 私は自分に課してきたルールで役に立ったと思うのは3つある。手紙にしてもメールでも受け取ってから大事だと思ったものには3日以内に返事する。受け取った時点で決定する。この3日ルールを知ったのは、本を読んでなのか、誰かに言われたのか記憶がない。しかしこれは自分の人生で大いに役立っている。ものぐさで何でも先延ばしする私は、明日こそ、こんどこそ、次こそと遂に古稀を迎えた。それでも手紙とメールへの3日ルールはずっと守ってくることができた。

②     塾をやっていた時、私は塾生に毎日10英単語10漢字の10回書きを課し、1週間ごとに提出させた。これは私が小学生の時、尋常小学校を弟たちの面倒を見るために中退した養母に頼まれて漢字やアルファベットを教えたことに由来する。養母は、新聞の折り込みチラシの裏の白いものを糸で綴じてノートを作った。先生の私は、小学校から帰ると、その日学校で習った漢字を養母のノートに書いた。そのノートは、1漢字10回書いて練習できるマス目が引かれていた。そして養母は漢字を覚え、読書するようになった。私も養母を真似ようと努力したが、とにかく先延ばしの天才は、継続できなかった。後悔あとにたたず私の反省を込めて、養母のチラシノートを参考に私は表に英単語裏に漢字が練習できるシートを作った。

小田原のJRの駅に二宮尊徳の銅像がある。その台座に「一日一字ずつ習えば、一年では三百六十五字となるぞ この小僧 譲って損なく 奪って益なし:建立 小田原報徳実践会」と書いてあった。驚いた。あの二宮尊徳も小さな積み重ねを大切にしていた。

③     大きな交通事故に2回遭遇した。その2回とも海外だった。国内でも数回追突されたことがある。交差点での出会いがしらにぶつかりそうになったことは数えきれないくらいあった。東名高速道で注意されたのに腹を立て、追跡してブロックして道路わきに止めさせ、後ろから来たトラックが追突して注意した男性と妻が子供たちの目の前で亡くなった。とろくて小心者の私は、後ろの車にあおられたり、幅寄せされるのは、日常茶飯事である。だから「あせりは禁物、あさりは海産物(沖縄の交通標語)」と唱えながら、制限速度を守り、あおり接近にも反応せず、遠回りしてでも信号のある交差点を通る。おかげで交通事故から免れている。

 自分に何らかのルールを適用しなければ、私は道を踏み外していただろう。ルールがあってはじめて、私は、まっとうでいられる気がする。衆議院選挙真っただ中である。私の投票ルールは、20年30年を見越しているか否かである。残念ながら党利党略、自分の議員としての保身狙いしか見当たらない。私の願いである日本が世界に病院船艦隊で貢献するなどと言ってくれる候補者など一人もいない。でも私には選挙には必ず投票するというルールがある。棄権はできない。頭が痛い。


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ペットの思い出

2017年10月10日 | Weblog

①    ベオグラード空港事件

②    ゴルフ場の猫

③    妹のひよこ

①    妻の最初の海外赴任地はネパールだった。親戚のつてで優秀な警察犬の親の血を引くシェパードのオスを連れて行った。名前は“ウイ”。ネパールで3年半そしてセネガルで2年“ウイ”は、私たちを守る警備犬、愛すべきペットだった。旧ユーゴスラビアのベオグラードへの転勤が決まった。犬の輸送に定評があるスイス航空を選んで私たちと同じ便でベオグラードに向かった。

 10月9日午前9時羽田空港で、一時、滑走路が閉鎖される騒動があった。乗客から預かった飼い犬が滑走路の周辺を40分余りにわたって逃げ回った。犬は飼い主の協力を得て保護されたが、旅客機が着陸をやり直すなどして合わせて14便に遅れなどの影響が出た。

 このニュースを観て、ベオグラード空港での私の経験を冷や汗と共に思い出した。無事ベオグラードに到着して入国手続きも終え、出迎えの人々と挨拶を交わしていた。そこへ空港警察官と空港職員がやって来た。「あなたの犬が貨物室でケージから出て荷物が降ろせなくて困っている。すぐ一緒に来て犬を捕まえて欲しい」と言われた。私は彼らと飛行機に戻った。貨物室は機体の下部にある。地面から3メートルほど高い。荷物を積み下ろすリフトに乗った。貨物室は荷物でいっぱいだった。ウイのケージがあった。無残にもケージは、壊されていた。作業員は犬を恐がり外にいた。私は「ウイ、ウイ、もう大丈夫だ。出て来て」と声を出した。貨物室の奥から「ウーゥウーゥ」と獣の攻撃態勢の唸り声が聞こえた。私は怖くなった。それでもニオイで私と分かったのか、だんだん唸り声がいつもの甘え声に変わった。そしてついに私に向かって体当たりするように抱き着いてきた。首輪を押さえながら、機外へ出た。10人くらいユーゴ人のごつい作業員がリフトの下で拍手をして待っていた。ちょっといい気分だった。

 犬をペットにしている人は多い。人間以上にお犬様として接している人もいる。私の経験から言えば、犬も獣である。あのケージを壊したのは、おそらく機内の音や速度など普段と違う環境から本能的に逃げようとしたのだろう。大型犬用の頑丈を売りにしたケージはひとたまりもなかった。セネガルで車の下に逃げ込んだネズミを追い、ウイは車をボコボコにしてしまった。犬はペットとして最高である。犬の扱いには、細心の注意が必要だ。

②    セネガルのゴルフ場で経営者のペルシャ猫が子猫を生んだ。父親はゴルフ場に住み着いていた野良猫だった。経営者夫婦が子猫を埋めようとしていた。私はお願いして子猫をもらい受けた。ちょうど妻が猫を飼いたいと言っていた。それに彼女の誕生日だった。プレゼントにした。“福”と名付けた。しかしまったく私たちに慣れることはなかった。セネガル人のメイドさんだけには慣れた。メイドさんは福をかわいがってくれた。後任者に福は引き取られた。その後また後任者に引き取られ福はおとなしいペットとして可愛がられた。

③    私が小学生の時、妹がお祭りでヒヨコを買ってきた。メンドリで大きく成れば卵を産むと言われたそうだ。妹はとてもかわいがっていた。ある日私はコタツに潜り込んだ。何か尻の下でグニャとしたような気がしたが、それ以上探ることもなく寝てしまった。妹の泣き叫ぶ声で目を覚ました。妹は泣きじゃくっていたが、何を言っているのか聞き取れなかった。「・・・殺し・・・」だけ聞こえた。私はコタツに入れてあった妹のヒヨコをつぶしてしまった。ずいぶん長い間妹は私を許さなかった。そして私は「殺し」の呪縛から解放されなかった。

 ペットは人間にとって素晴らしい癒しの存在である。しかし生き物であり、かつては野生動物だった。やはりそのことを忘れずに飼わなければならない。面倒を見切れなくなって、捨てたペットが繁殖して、日本の生態系を壊している。ペットが逃げ出して、人間に危害を加える事件も多い。まず「うちのペットに限って~」の考えを捨てることだ。犬の怖さは、想像以上である。いつ何がきっかけで変身するか分からない。私は壊された車、ケージな無残な姿を時々夢でみる。


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揚げ物

2017年10月06日 | Weblog

①    まりちゃんのお母さんのアジフライ

②    とん亭のとんかつ

③    三陸産カキのカキフライ

①     多くの欲が後退したり消えた今、食欲だけは依然旺盛である。子どもの頃から揚げ物が好きだった。天ぷらは、貧しかった我が家でも時々食卓に上がった。と、言ってもほとんどがジャガイモ、カボチャ、ナスなどの野菜だった。フライを初めて食べたのはずっと後だった。天ぷらとフライの決定的な違いは、野菜なのか肉・魚なのかである。小学生になると近所にまりちゃんという可愛い女の子が引っ越してきた。まりちゃんは、お母さんとだけ暮らしていた。お父さんがいなかった。まりちゃんは、一番下の私の妹と同じ歳で、二人は仲良くなった。まりちゃんのお母さんが総菜の小さな店を始めた。揚げ物が多かった。まりちゃんのお母さんは、フライが得意だった。特にアジフライの評判が良かった。とんかつやコロッケもあったが、値段が安くて我が家の家族6人分を買えたのは、アジフライだった。まりちゃんのお母さんは、毎日店を夕方の2時間くらいしか開けなかった。昼頃から準備していた。妹がまりちゃんの家で遊ぶことが多く、私は時々親に妹を呼びに行かされた。ある日まりちゃんのお母さんが揚げたてのアジフライを私にくれた。揚げ物は揚げたてが一番美味しいのはわかっていたが、まりちゃんのお母さんの作りたては格別だった。引っ越してきて3年目にまりちゃんが病気で死んだ。いつの間にかお母さんが町から消えた。

 今でも時々無性にアジフライが食べたくなる。そしてアジフライを前にすると必ずまりちゃん母子のことを思い出す。悲しい思い出だけれど、あのアジフライの美味しさがよみがえると、私は顔がほころぶ。

②     小さな地方都市にとんかつ専門店ができたのは、私がカナダから帰国した年だった。店主は東京のドイツ料理店で修業した人だった。頻繁に通ったので店主と仲良くなった。私より4歳年上だった。東京の店に入った時は、24番手で耐えて2番手まで上がって出身地の田舎に店を出した。親が八百屋を営んでいて、その八百屋の裏に店があった。カウンター5席の小さな店だった。やがて評判の店になり、店はどんどん大きくなった。両親も弟も八百屋をやめてとんかつ店を手伝い始め、店は移転して大きくなった。後に数店舗を展開するようになった。しかし私は最初の小さな店で食べたとんかつが一番旨かったと言い切れる。糖尿病の食事療法をしているために年に1回か2年に1回しかとんかつは食べられない。どこでどんなお高いとんかつを食べてもあの小さな店のとんかつより旨いとんかつには出会えない。

③     カキフライの季節がやってきた。近くのスーパーの総菜売り場に『三陸産カキのカキフライ 今年も始めました』と貼り紙が出た。東日本大震災以後、減産に追い込まれていた三陸のカキ養殖も元通りの収穫を見込めるようになったそうだ。妻が貝類にアレルギーになり、我が家では食せない。妻が出勤すると私はひとりになる。昼飯にカキフライを食べてみよう。

 世界にはいろいろな揚げ物料理がある。日本の揚げ物は、天ぷらにしてもフライにしても美味い。揚げる食材、使う粉、油、調理器具のおかげもあるが、やはり長年修行した調理人の揚げ物は、美味しい。私は揚げ物だけは、自分でできるだけ調理しない。プロに任せる。でも中々そのプロを見つけられない。お気に入りのプロ探しには、時間と金がかかる。年、数回の揚げ物解禁では無理な話である。


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カメラ

2017年10月04日 | Weblog

①    オリンパス

②    ヤシカ

③    ニコン

①     妻は写真が嫌いだ。13年間にわたる海外生活でも妻が写っている写真は、ほとんどない。自撮りだとかインスタ映えには無縁である。そんな影響か私も動植物や景色ばかり撮って来た。

 終活の一つとして膨大な数の写真の整理は、順調に進んでいる。妻が田舎の両親の家の片づけで写真の扱いに苦労したと言った。結局自分にとっては大切な思い出写真でも、自分以外にはただの写真でしかない。このことが写真の整理に拍車がかかった。

 私が子どもの頃、写真は写真館で撮るものだった。近所に大日方写真館があった。写真館のおじさんは、カッコ良かった。家にカメラはなかった。十代後半で私がカナダの学校へ転校した時、初めてカメラを買って持って行った。オリンパスのカメラだった。カメラはあったが、フィルムや現像代の金がなく、当時の写真は数少ない。学校を終えて帰国する前にカメラを売りに出した。すぐ売れた。日本のカメラは、カナダ人のあこがれの的だった。

②     以前ヤシカというカメラメーカーがあった。結婚して子どもが生まれた時、たくさん写真を子どものために撮ろうと思ってヤシカのカメラを買った。ものぐさ病の私は、結局あまり撮ってあげなかった。自分たちが撮ってもらえなかったのが原因なのだろう。長男も長女もこれでもかと孫の写真を撮っている。

③     妻の海外赴任について外国で暮らした。無理してニコンの一眼レフを買った。海外で今までに経験したことがないほど写真を撮りまくった。ネパールは被写体の宝庫だった。ところが家に泥棒が入って高価なニコンを盗まれた。悔しかった。まだフィルムが入っていた。それも自分で良い写真が撮れたと思い込んでいた写真だった。

 セネガルに転勤になった。やはり写真に撮りたい景色がたくさんあった。再びニコンを買った。2台目のニコンも酷使した。チュニジアでニコンの調子が悪くなった。日本に帰国した時、修理に出した。中に細かい砂が入っていて、内部にカビが生えていて、修理不可能と言われた。

 その後は安いデジタルカメラを買って使った。ニコンより私にずっと合ったカメラだった。この十年ですでに3台のデジカメを使いふるした。

 古希の祝い金でキャノンのデジカメを買った。ブログに添付する写真を撮る。望遠レンズが一眼レフ並みに効き重宝している。カメラは映像のメモ帳である。死後の世界では、自分の目で見た映像がすべて最初から最後まで記録されていて、同じ時間速度で振り返ることができ、出会った人、ペットの映像も見られるかもしれない。ゼロに近い可能性であろう。それでもその映像を見る時、恥ずかしい思いや後悔しないよう、残った日々を細心の注意を払いつつ映像写りが良いように過ごしたい。死後の世界はそうやって永遠に続くといいな、などと、とんでもなく勝手に願っている。


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