団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

ベトナム①

2012年01月30日 | Weblog

 東シナ海に面したヤシの木に囲まれた海岸の喫茶店に入った。混んでいる席を避け、客のいない日向のベランダのテーブルについた。ベトナムの現地で聴く友人の脱出体験話は壮絶なものだった。何もなかったかのようにダイナミックに発展するベトナムの風景と、カナダでの36年間の生活で、友人の脱出当時の悪夢は、薄らぎ始めているかのように思えた。私の執拗で容赦ない質問に対して、友人は、時には悲しそうに不快な表情を浮かべながら、よみがえる鮮明な記憶と闘っていた。それでも終始誠実に答えてくれた。ベトナム式のドリップコーヒーは、あまりにも遅鈍で果たしてコーヒーが抽出されているのかもわからない。友人はカップの上に置かれたアルマイトのコーヒー抽出器のフタを開け、スプーンで抽出器の底の穴の詰まりを取り除こうとする。

 「収容所からどうしてあの手紙を日本の私にくれたのか教えてください?」「無意識だったけれど、家から連行される前、もしかしたら役に立つかも知れないとあなたの住所を暗記しました。それは正しかった。きっと仏さまが助けてくれたのです。そのおかげで今、私はカナダで暮らし、こうしてベトナムの親戚やベトナムの人を助けられるほどになれました」彼は熱心な仏教徒である。

友人は1センチほどカップの底に溜まったコーヒーに、魔法瓶に入った湯を注いだ。私のカップにはまだ1ミリぐらいしかコーヒーがない。友人はコーヒーにスプーン3杯もの砂糖を入れて飲んだ。「またベトナムに戻って暮らしたいですか?」「それは絶対に嫌です」「私はカナダが好きです。あの生活を続けたい。カナダでならお金を稼げます。一生懸命働けば、ベトナムの親戚や援助が必要な人を手伝うことができます。ここではカナダの何十倍何百倍も価値になって使えます。その手伝いは楽しいです」 

私はやっと3ミリぐらいになったコーヒーに湯を加え、一口飲んだ。友人が続ける。「カナダでは医療費は、無料です。ここは金持ちしか、ちゃんとした医療が受けられません。だから私は安心してカナダで暮らせます。あなたがここに来て、私が恥ずかしいと思うことたくさん見るでしょう。でもここは私の生まれた国です。いつか良い国になることを信じています。一度私はベトナムを捨てて逃げました。罪滅ぼしをしたいのです」「北ベトナムが国を統一して、国民は、共産主義のおかげで平等公平なって幸せになれたのでないですか?」「とんでもありません。すべての反政府行動は、監視されています。だれも抵抗できない仕組みができています。賄賂がはびこっています。人間の根源は政治や思想で変わりません」

 まだ10歳前後の少年が、私たちのテーブルに来てピーナッツをビニール袋に入れて売りに来た。友人はベトナム語で何やら会話して金を払って新聞紙で作った小さな袋いっぱいのピーナッツをテーブルの中央に置いた。「茹でたピーナッツです。日本円で10円です。でも美味しいですよ」と私にも勧めて、早速ひとつ手に取って殻をつめで割って、皮を剥いて食べた。

 私は友人の許しを得てテープレコーダーで会話を録音していた。気がつくと90分テープが2本終っていた。すでに水平線が綺麗に夕焼けしていた。友人のベトナムからの脱出とカナダへ難民として入国してからの苦難の合計10年以上の生活が180分のテープに収まった。これが最後と思い、私は尋ねたいことを率直に言葉に出した。質問し答を聴きながら何度も嗚咽をかみ殺さなければならなかった。それを知ってか知らずか友人は「今日はベトナムの大晦日です。明日から正月新しい年です。オメデタイ祝う時です。一緒にうんとベトナムの正月を楽しんでいって下さい。私はもうこのことは、できることなら忘れたいです。来年は龍の年です。景気がよくなり、ビジネスの年です。うんと働いて稼いで、もっとたくさんの人を助けます。あなたが私を助けてくれたから、そのお返しを私は他の人にします。ありがとう」ぽちゃぽちゃした手で締め付けられえるように強く握手され、肩を抱かれた。

 その晩ホテルのベッドの中で、テープに録音したなまなましい友人の苦難の期間と私自身の期間を重ね、なぞった。心のヒダにこびり付いていた過去の自分嫌悪や後悔や恨みつらみが洗われる気がした。私は今日まで生きてきてよかった、と感謝の気持ちで眠りについた。


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日本車が消える

2012年01月20日 | Weblog

1月26日(木)投稿分

 

 
 去年の暮れ、週刊誌『東洋経済』の電車の中吊りに「超円高襲来!空洞化の瀬戸際、日本車が消える」とあった。週刊誌、スポーツ新聞、夕刊紙の大げさでいかにも売らんかなのオトリ見出しには慣れている。それでもハワイから帰国したばかりの私をドキっとさせるに十分だった。というのもハワイでタクシーの運転手から日本車に関する話を聞いたばかりだったのが理由だ。

 ハワイの人口で一番多いのが20.1%を占める日系人である。だからと云ってすべての日系人が日本に対して好感を持っているわけではない。第二次世界大戦は日本軍の真珠湾の奇襲から始まった。そのためにハワイ在住やアメリカ本土在住の日系人がどれほどの苦渋と屈辱を受けたことかは想像をはるかに超える。それでもハワイにおける日本製の製品はアメリカ本土以上に浸透していた。私も今回ハワイに来るにあたって、ハワイでの日本製品の動向を観察調査してみようと決めていた。日本車は道路を走っている車をみていれば、その売れ行きはわかる。家庭電気製品は、地元住民が集るショッピングセンターの家電専門店に行けばその様子がわかる。現地に住む人々に聞き取り調査も役に立つ。

 車はまだ日本製が圧倒的に多い。しかし日本製の車に乗務するタクシーの日系4世だという運転手の話は、聞くに値する興味深いものだった。彼の話では、多くのハワイの人々が日本車に飽きてきているという。飽きてきたのは、車だけでなく家電品でも日本のソニー、パナソニック、サンヨーなどに飽きてきているという。トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、三菱、スズキ。新し物好きは、世界中の消費者に共通する性向だ。安くて高品質の製品を求めるのも同じである。ハワイの日系人に日本本国に住む人々にある韓国製品であろうがどこの国の製品に対しても偏見や先入観はほとんどないと言い切った。

どの日本の会社も同じようなデザインと同じ規格の車を売っている。最近の韓国製の車、特に現代(ヒュンディ)の車に人気が集っているそうだ。ヒュンディの車はとにかくサイズがでかく、デザインが斬新だそうだ。最上級車は、トヨタのレクサス以上にハワイの人々の憧れの的になっていて注文しても長期間待たされるという。私も数台見たが、ベンツかと見間違えるほどよくベンツに似た大型車だった。

タクシーの日系人運転手は「いくら日系だといっても、ハワイは人種が交じり合っている。人種差別問題も少ない。日本の会社も少し考えないと日系人のだれも買わなくなる。とにかく日本の製品でなければ、という理由がどんどんなくなってきている」と言う。「どこの国の人もそうだと思うけれど、下からのし上がろうと賢明に努力している会社や製品を、国籍など関係なく、応援するもんだよ。オリンピックなどのスポーツ競技だって、懸命にがんばっている選手を見て涙ぐんだり、胸が打たれたりして応援するのと同じだよ。日本は傲慢になっちゃたんだね。アメリカも日本の事言えないけれど」とも言った。

家電、携帯やスマートフォンに続いて車にも不穏な雲がかかってきたことは事実だ。ここが踏ん張りどころだ。日本企業が世界の庶民の声なき声に耳を傾け、製品開発に役立てて欲しい。私は今回のベトナム行きでも、注意深く日本製品の動向調査してくるつもりだ。


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通訳

2012年01月20日 | Weblog

 1月24日(火)投稿分

 

 3・11大震災と福島原発事故が日本通訳ガイド協会にまで深刻な影響を与えている、と新聞で報道された。日本を訪れる外国人が減少したからである。このニュースを耳にして、私が地方都市で“通訳”を副業とした恥ずかしい過去を思い出させた。

 私は通訳を目指したことはない。たまたまカナダで行きがかり上、日本から来る人の通訳をボランティアですることになった。生まれて初めて通訳らしきことをしたのは、日本から来た大学教授のためだった。拙著『ニッポン人!?』(青林堂)の中でも書いた話である。知人のカナダ人大学教授から呼び出されて、私は何も知らずに大学構内の彼の部屋へ出向いた。カナダ人教授は、通訳を伴わずひとりで訪ねてきた日本人教授が英語で何を言っているのか理解できず、困った挙句に私を呼んだ。日本人大学教授は私が高校生だと知り、怒った。そして即刻私に立ち去るように言った。これが私の最初の通訳経験である。

 通訳を英語でinterpreterという。Inter-は仲介する、の意味であり、-pretは渡す、動かすで-erは人を表す。一方、邪魔するひと、妨害者はinterrupterである。Inter-は中に、の意味で、rupt-は破る引き裂くの意味、-erは人を表す。このinterpreterinterrupterは実によく似た言葉である。私は間違いなく多くの場合、interrupterインターラプター(邪魔する人)であったと赤面する。

「嘘つきは通訳の始まり」だとイタリア語同時通訳者の田丸公美子さんは、息子が嘘をつくと叱り戒めるという話を本で読んだ。妨害者と嘘つきに私は親近感を覚える。ベテラン通訳者である田丸公美子さんの話は、私を慰めた。田丸公美子さんのことは、私の好きな故米原万理の本に時々出てくる。

 通訳の報酬は、日本通訳ガイド協会によれば、2011年現在、一日7時間で12万円、アゴアシは別であるという。アゴは食事、アシは交通費である。半日3時間で8万円。これは全て日本通訳ガイド協会公認通訳の報酬である。国家資格をはじめとして資格は、収入を保証する。一見高額報酬に受け取れるが、定期的に通訳の仕事があるわけではない。一年365日毎日仕事があれば大変な収入になるだろうがそうはいかない。それに健康保険や社会保険の自己負担、退職金なしを考慮すれば、決して高額とは思えない。公認通訳の資格のない私の報酬は、この10分の1にも満たないものだった。それでも貴重な経験ができ、そこそこの副収入になった。通訳は、弁護士、医師と異なり、免許資格がなければできないしごとではない。ただ雇い主の要求に答えられる仕事が出来るか否かで結果がでる。

 私は、いくつかの会社に頼まれて協力した程度の“未公認臨時雇いの通訳”だった。それでも通訳の仕事が好きだった。花火の会社の社長に頼まれて社長の妹が結婚したアメリカ海軍の兵隊さんと上司の空母の艦長を温泉の芸者遊びに招待した時の通訳、自分の長男を壁に打ちつけて殺したフィリピン人女性の裁判の通訳、交通事故を起こしたイスラエル人夫婦の事故処理の通訳、インド人技術者の絹糸工場での研修の通訳、自動車ブレーキ製造会社の工場見学に来る外国人のための案内通訳、プラスチック射出成型機製造会社の外国人のための研修所の通訳、医療器具製造会社(現在この会社製の放射能測定器が大活躍)の技術者講習の通訳などを経験した。

 通訳のコツは、自分の感情を失くすことだ。ただ機械のように右から左に、左から右へ聞いた言葉を訳す。いかなる邪念も、通訳の妨げになる。お節介と感傷は、最大の障害となる。もう私は通訳を金輪際するつもりはない。今は英語を話す外国人との会話の一手段としか考えていない。英語力は、ひどく鈍ってきた。それでも英語を話せば、もう一人の自分に出会える気がする。「新しい言語を習って新しい魂を手に入れろ」(チェコの諺)がある。その通りである。一粒で2度美味しい、ではないけれど、2つの人生を歩めたと思っている。三粒めのフランス語にも果敢に挑戦したが、習得することができなかった。それでも挑戦して自分の才能のなさを知っただけでも収穫だった。英語通訳の失敗や大恥を包み隠しての感想なのだが。

 14歳で難破してアメリカに渡り猛勉強の末、幕末、明治維新の日本で通史として活躍したジョン万次郎のようにはなれなかったが、彼のことを書いた本を読むと、納得同意できる点が多々ある。無謀にも17歳でカナダに渡った私は、ジョン万次郎と同じ体験や経験を本で知ると、感無量になる。日本で一介の漁師手伝いだった万次郎が、別世界のアメリカで努力して、後に日本開国のために貢献した。私もささやかながら、言葉で意思疎通ができない人々の橋渡しをさせてもらえた。私は声を大にして叫びたい。「外国語をひとつ学べ。落ち込むな、日本の若者。日本でダメでも、世界に出ろ。世界の評価は、日本の評価とまったく違う。必ず居心地よく活躍できる場所がある」


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ベトナム

2012年01月20日 | Weblog

 カナダから友人が来た。彼はもともとベトナム出身である。早稲田大学の理工学部を卒業した。私より1歳年下である。日本語、ベトナム語、フランス語、英語、北京語を話す。日本留学から帰国して南ベトナムの通産省に入省した。それからまもなく北ベトナムが南ベトナムを制圧統合した。アメリカが撤退しようとした時、ワシントンポストの記者でサイゴンにいた私の知人にベトナムの友人の脱出を手助けして欲しいと日本から依頼した。しかし友人は記者に脱出を丁寧に断った。彼は、政府官僚だった理由で北ベトナムにより洗脳キャンプに収容された。そこから私に遺書のような彼からの日本語でつづった手紙が届いた。「豚のように扱われています。あまりに苦しく辛いので自殺するつもり」と書いて、暗記していた私の住所と手紙を脱走者に託した。あの時ほど手紙を読んで泣いたことはない。消息がなくなって1年後、収容所から脱出してボートピーポルとしてマレーシアのビドン島の国連難民キャンプにいる、とマレーシアの切手を貼った手紙が届いた。早速私は仕事も家族もさておいて、マレーシアのクアラルンプールへ飛び、トレンガヌーというビドン島に一番近い港町へ行った。このことが元妻の逆鱗に触れ、愛想をつかされ、のちの離婚の一因となった。

トレンガヌーにあった国連難民高等弁務官事務所へ行き、私はこんこんと弁務官に事情を説明した。弁務官は毎日国連の船でビドン島へ渡っていた。何万人という島にいた難民の中から、友人を探し出してもらえた。話を聞いてくれ、親身に対応してくれたヨーロッパ出身の弁務官との出会いは運命的だったとしか言いようがない。私は英語を話せてよかったと心底思った。持参したアメリカドル紙幣全てに手紙を添えて弁務官に託した。3日間滞在した。毎日弁務官は私と友人の手紙を運んでくれた。そしてベトナムの友人がどうしたいのかを聞くことができ、その後の救出活動指針となった。彼は日本に住みたいと言った。私は日本に戻って、彼が日本に難民として入国できるよう努力した。しかし当時、日本はいかなる海外難民を受け入れることはしなかった。結局私のカナダ留学時代の同級生の協力で彼はカナダに移民できた。日本で学んだ技術を活かし、彼はカナダでいくつかの事業で成功した。現在カナダとベトナムを行き来して、ベトナムの若者への援助活動を着実に展開している。

 今では彼もカナダのパスポートで母国ベトナムに自由に行き来できる。今回彼はベトナムへ旧正月を親戚と祝うためにサイゴンから300キロ離れた村へ里帰りする途中、成田を経由地として私を訪ねてくれる。そこで私は彼に一緒にベトナムへ行きたいとメールで頼んでみた。彼は喜んで同行を許してくれた。

 彼が生まれ育った地に立ってみたかった。ベトナムの地で彼がどのようにして収容所で暮らし、どうやってボートピーポルになったかの足跡をなぞる。私に残された時間の中で、私が関わった人が歩んできた道を戻り、その時その時に直面した私の選択の事実の背景を探っていくつもりだ。彼も私も、もう心のヒダに包み込んで封印した過去を明かしてもいい歳である。長野県で初めて、彼の研修先の会社で研修生と通訳の関係で出会って40年以上が過ぎた。二人の人生はまさしく“事実は小説よりも奇なり”の波乱万丈であった。暑いベトナムの海岸で、椰子の木の下に陣取り、互いの思いの丈を語って最終章への突入を祝ってくる。


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ギャラクシィ

2012年01月18日 | Weblog

 17日、カナダから友が訪ねてきた。朝、妻を駅に送り、そのまま車で成田に向かった。12時55分に第一ターミナル到着予定だった。成田での海外からの客人の出迎えは、数年ぶりだ。高速道路は空いていて、思いのほか早く到着した。

 成田空港は閑散としていた。おそらく羽田空港にも国際便が発着できるようになった影響であろう。もちろん現在の不景気、3.11大震災、東京電力福島原子力発電所事故などによる観光客やビジネス関係者の入国減少も暗い影を落としている。

 第一ターミナルで友が知らせてきた便の乗客がどこの出口か歩いて下検分した。南ウイングの乗客の出口は2ヶ所あった。中央に立てば、両出口を見渡せる。これなら友を見失うことがないと安堵した。その時、両出口の看板が気になった。片方が「WELL COME TO OUR GALAXY この星の想いをつなぐ」 もうひとつはよく見えなかった。 訳のわからない看板だな、ギャラクシィって、もしかしたら韓国のサムスン社の携帯か、と思った。そんなことあるわけがない、と昼食をとるレストラン偵察に向かった。それでもなお、2時間も時間があったので、第二ターミナルへの連絡バスに乗り、第二ターミナルへも行ってあちこち見学して時間をつぶした。

 友が乗った飛行機は、12時35分と予定より20分早く到着した。遅れるよりはましだと出口前のベンチでレストランをあきらめて、売店で買ったムスビを食べた。目の先にNTTドコモのギャラクシィの機種の写真入りの看板があった。やはりサムスンの携帯電話の広告だった。友が出てきたのは1時30分を過ぎていた。たくさんの荷物をカートに乗せて出てきた。荷物を車に積み、家路についた。やっと車の中で落ち着いて話すことが出来た。友は開口一番日本語で「どうして日本の国際的な玄関である成田空港に韓国のサムスンの宣伝があるの?」と私に尋ねた。私と同じことに気がついていて驚いた。友は早稲田大学理工学部に留学して卒業した技術者である。私よりはるかに産業界に明るい。「日本どうなっちゃたの?バンクーバーでも家電、テレビ、携帯電話は全部サムスンかLG。車はヒュンディが日本車より人気がある。私は悲しいよ」 日本人である私も悲しい。しかし今やどこのメーカーも生き残りをかけた熾烈な国際競争にさらされている。浮き沈みがあって当然である。かつて日本だってアメリカ、ドイツなどの工業先進国のメーカーを震撼させたのである。

 それでも、かねてからNTTドコモの方針には納得できない。世界のどこの国でも、サムスンの携帯電話には大きくサムスンのロゴマークが入っている。去年行ったハワイでも人々が持つ携帯電話のメーカーをさぐると圧倒的にサムスンとLGが多かった。ところがNTTドコモはテレビの宣伝でも新聞広告でも駅のポスターでもギャラクシィとは宣伝してもサムスンのメーカー名は出さない。OEM、納入先商標によるサムスンの受託製造なのかもしれない。最近サムスンと小さくテレビ画面の左上に時刻表示に隠れる位置に出す。こんな状態になるまで落ちぶれた日本の携帯電話メーカーを不甲斐なく思うと同時に、NTTドコモの小賢しい魂胆に嫌悪感を持つ。サムスンの携帯電話が日本製より優秀だと認めるなら堂々とそれを公表すればよい。意図的に隠すことはない。サムスンの携帯電話を販売することで仕入れコストが低くなり利益が増えるのであれば、そう発表すればいい。正々堂々としていることこそ、日本のとるべき道である。そこから必ず再生するチャンスは産まれる、と私は信じる。


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サトイモ

2012年01月16日 | Weblog

 去年の暮れ、静岡県の丹那へ野菜を買いにドライブがてら行った。熱海から三島市へ抜ける国道に野菜の直売店がある。そこのおじさんはぶっきらぼうだけど、何を尋ねても経験と知識が豊富で適格にまるで怒っているような口調で教えてくれる。以前、皮を剥いて水にさらされた竹の子を買おうとしたことがある。おじさんは私に尋ねた。「家までどのくらい。一時間おきに水を取替えられなかったら、皮付きを買って行って自分で下処理をしなさい。食べ物は手間をかけなきゃ、旨くない」私はそれ以来、おじさんの人柄にほれた。そんな愛嬌がなく商売っ気もないおじさんに会いたくてはるばる野菜を買いにゆく。富士山の南東のすそ野に拡がるこの地帯は豊かな農地となっている。

 サトイモといえば、子どものころ、近所のスズキ八百屋でサトイモを洗っているのをよく見た。それはまるで映画『夕日の3丁目』そのままのような昭和の風景だった。大きな桶にサトイモを入れる。水をサトイモが隠れるぐらいまで注ぐ。高さ1メートル50センチほどの直径5センチぐらいの2本の棒を真ん中へんで交差させたかき混ぜ用の道具を棒の上部をしっかり握ってゴロゴロ ゴロゴロと力いっぱい180度まわしては戻す。それをある時は八百屋のおじさんが、ある時はおばさんが、時々気の優しい八百屋の夫婦が雇っていた軽度の知的障害を持つマサエちゃんが繰り返し繰り返しゴロゴロ回している。大勢の子どもの羨望に囲まれ、恥ずかしいけどちょっと得意そうだった。簡単なようでなかなか難しい。力を入れすぎれば、イモが傷つき、力が足りなければ、洗い棒がまわらない。イモとイモが摩擦して泥を落とし、皮をむく。サトイモはだんだん白くなってくる。水は濁る。八百屋のおじさんは、接客時間の合い間を見計らって、この作業をする。ねじりハチマキをして紺の帆布製の商人前掛けをして、ゴッシゴッシと洗い棒をまわしていた。

 丹那の野菜直売所のサトイモは泥がついたまま売られていた。店主はサトイモの隣で大根菜を並べていた。サトイモに皮がちょっと赤く見えるものとそうでないものがあった。「赤いサトイモとそうでないサトイモはどう違うんですか」と私はおじさんに声をかけた。「赤いのはホクホク、白いのはネットリヌルヌル」 手を休めることなくおじさんは言い放った。そして曲げていた腰を伸ばして息を吐いて、「どっちも美味いよ」と言った。

 帰宅してさっそくサトイモを調理した。サトイモの泥を桶の中で道具を使って処理はできないが、赤いのと白いサトイモを包丁で皮を剥いた。赤、白を別々に煮てみた。どちらも旨かった。私は白いネットリヌルヌルなサトイモのほうが気に入った。それは私が幼い頃、大好きだったサトイモの煮付けのヌルヌルの残り汁を温かいご飯にかけて食べた思い出につながった。

 サトイモゴロゴロ洗いの時代を知る仲間を集めて、以前から行ってみたかった北名古屋市歴史民族資料館(北名古屋市熊之庄御榊53番地)へ、今年こそ行ってみたい。そこには昭和の日常がころがっているという。サトイモのゴロゴロ洗いがなにげなくそこに、展示されているといいのだが。


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海外邦人保護統計

2012年01月12日 | Weblog

 以前マレーシアで日本人女性が死刑の判決を受けたと新聞で知った。元看護師の37歳の女性は、ドバイとクアラルンプールを5回往復していた。不審に思った空港係官が彼女の荷物を調べた。覚せい剤が見つかった。女性は、ただ友人に預かっただけで自分は無罪だと主張している。その後女性がどうなったかの報道はない。

日本人の国民性を解き明かすひとつのカギがある。私は海外の刑務所に収監されている日本人が非常に少ないことに注目する。日本人が内向的で、海外にあまり出ていないというのも原因のひとつに間違いない。もちろん現在、日本国内の刑務所は、どこもまんぱいで、民間に刑務所の運営を委託する動きまである。外国人の収監服役者も増加の一途をたどっている。ところが海外で罪を犯し、其の地の警察に逮捕され、その国の法律で裁かれ、刑に服する日本人は、極端に少ない。日本が大いに誇ってよいことである。

日本の在外大使館や領事館の仕事で邦人保護は最も大切な任務だ。もしその国で在留日本人が何らかの罪の容疑をかけられ、その国の法律で裁かれることになれば、大使館は情報収集をして可能な限りの援助をすることになる。外務省は世界中にある公館を通じて、毎年その統計を集計発表している。日本のマスコミは、その発表を分析して記事にすることはほとんどない。残念だ。

去年6月22日に外務省は、2010年海外邦人保護統計を発表した。それによると海外で逮捕され外国の司法当局で裁きを受けた事件の数は、529である。内訳は、「出入国・査証関係犯罪」(102件、110人)、「道路交通法違反」(44件、44人)、「傷害・暴行」(70件、74人)、「麻薬」(64件、75人)、「詐欺・同未遂」(37件、45人)などであった。統計は少し古いが2008年、日本国内で犯罪を犯し逮捕され裁判で有罪になった中国人が2764人(凶悪犯罪42人)ブラジル人818人(56人)韓国人705人(29人)となる。日本一国でこの数字である。他の国々での犯罪統計を加えればその数は、日本人の529人よりずっと多くなる。私がこの統計こそ日本人を特徴づけると分析する理由である。

3.11の大震災の被災者が略奪することもなく整然として助け合い、再生に立ち向かう姿は、世界を仰天させ、多くの国家やマスコミから賞賛された。と言っても決して犯罪がゼロではない。犯罪にはしる者もいるが、その数は非常に低い。この日本人の特性が、海外での犯罪統計にはっきり表れている。国民は、国内外で、これだけの結果をだしている。一方このところのオウム真理教元幹部平田信容疑者の警察署への自首に対する対応、2名の台湾人女子留学生殺人事件の容疑者の台湾人男子留学生の任意同行途中での自殺、広島刑務所からの中国人服役者脱走事件と、警察や刑務所の不手際が目立つ。官憲は、これだけ法を遵守して真面目に生活している日本国民を失望させないよう、不安にさせないようにして欲しい。どんなに望んでも、これほどおとなしく勤勉で納税義務を果たし犯罪に無縁な国民を多く有する国家は、世界中探してもそうはない。にもかかわらず、これだけの国民を有する日本国を導く政治は、現在国民を不安のどん底に放置している。1000兆円を超える累積債務、この期に及んでの増税志向、年金に関わる犯罪的不手際不祥事の連続。これではジェームス・スキナー著『略奪国家 あなたの貯金が盗まれている』(フォレスト出版 1400円)が描く日本は後4年で破綻にまっしぐらである。

日本人の国民性から一番似合う日本国の姿は、借金ゼロの安全で平和な国という称号だと私は思う。個人の犯罪は、裁かれるが、国家が裁かれることはない。なぜなら国家は、我々国民一人ひとりの統合された幻影だからである。凹むな日本。その気になれば、まだまだやり直せる。知恵出し、汗出し、口出そう。


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雪やこんこん

2012年01月10日 | Weblog

 1月2日、里帰りしていた妻が「大雪注意報がでたので、帰れなくなると困るので、早めの新幹線に乗って東京へ戻ります」とメールを送ってきた。

 今の町に住んで8年が経つ。雪が積もったのは数回しかない。妻のメールが私に童謡『雪やこんこん』(正しくは“こんこ”らしいが私はずっと“こんこん”だったので、ここでは“こんこん”を使う)を歌った幼い頃を思い出させた。大野晋学習院大学教授によると、「コンコン」の起源は「来ム来ム」だったそうだ。「ム」は、相手への勧誘を表す。つまり「雪やこんこん」は、「雪さん、来てください、どうぞ来てください」の意味になる。この学説が正しいか否かは、問題ではない。しかし私が子どもの時、「♪雪やこんこん♪」と歌ったのは、親の気持も知らずに「雪よ降れ降れもっと降れ」だった。

 私が生まれ育った所は、豪雪地帯ではなかった。それでも年に数回30センチ以上積もることがあった。夜遅く雪が降り始める。雪が降る夜は、あらゆる音が雪の結晶に吸い取られるのだろう。とにかく静かだった。「しんしん」と音でもない音が耳に響き渡った。あの「しんしんしーん」の世界が好きだった。今では考えられないが、学校が冬休みだった深夜、道路で父とスキーをした。数少ない街灯に照らし出されて、途切れることなく天から降る雪は美しかった。寒いと感じることもなく、汗をかいて平らな道路に積もった雪上にスキー板をスケートのように交互にだして滑った。父が押してくれたり、引いてくれたこともあった。母と姉妹たちも降りしきる雪の中、父と私を見て笑い転げた。働きづくめだった両親、どこかへ遊びに行くとか家族で温泉に行くことは出来なかったが、子どもと同じ目線に時々なってくれていた。

もうスキーにでかけることはない。『雪やこんこん』を「雪よ降れ降れもっと降れ」の気持で歌うこともない。私は雪が降らないことをかえって喜ばしいととらえている。歳をとると物事の受け取り方も変わる。しかし私の体験は大切な思い出である。妻のメールから私はしばし思い出の旅にでることができた。

迎えた平成24年度、日本に「情熱と希望やこんこん、決断できる まともな指導者やこんこん」


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元旦

2012年01月06日 | Weblog

 大晦日、午前5時全裸で体重計に乗った。69.8キロ。遂に70キロを割った。11月17日に体重測定を始めた。節食を断行する。意に反して体重は、減るどころか増えた。8日後の25日には74.5キロの最高体重を記録した。私の体内に蓄積する脂肪が切り崩されるのを必死で食い止めている。そんな風雲急を告げる緊張が、指でつまんだ腹の脂肪からひしひしと伝わってくる。くじけそうな気を引き締めなおし、なお節食を継続する。翌26日100グラムだけだが減少した。それから12月31日まで、体重はゆるやかに右肩下がりに減ってきた。口には出さなかったが、「今年中に70キロを割りたい」は本心だった。年末年始にしか味わえない、「区切り」が切迫感と緊張感を与える。

 元旦の朝、体重計に乗る。69.6キロ。大晦日の70キロ割れは一時的なものではなかった。大いなる達成感。加えて妻から彼女の体重が私の影響で減ってきたことを感謝される。こいつは正月そうそう縁起がいい。大晦日と元旦は、これほど私の気持に強い影響を及ぼす。一年の終わりと一年の初め。時間の流れからは当然であり、一年365日、一日24時間の連続の一端でしかない。目標を立てるのに「一年の計は元旦にあり」という。ダイエットを去年の元旦に始めていればと後悔する。大晦日に一年の反省をして、明けて元旦に新年の計を立てる。まことにけじめとなる。

 体重を測りグラフをつけるようになってから、気がついたことがある。私が太って内臓脂肪に厚みを増すことと日本の国家予算に占める借金と似ているのではないかということだ。日本政府がどんなに借金を減らそうとしても増えるばかりである。私が体重を減らそうと決心しても、即、体重を減らすことはできなかった。健康、栄養、体力を考慮し、医者などの専門家の指導など、それなりの計画と方法が必要である。人間が最も不得意とするは、己の欲の制御に違いない。

 人間の体が日々必要とするカロリーは、決まっている。過剰なカロリーを摂取すれば、体は脂肪にして蓄積して体重を増やす。国家会計とて個人の体重とて変わりはない。太る原因も借金が増える原因も同じである。刑務所に収監されれば、服役者は太ることはできない。しかし服役者が飢餓で死亡したと聞いたことはない。1000兆円の借金に自覚を持つ必要がある。私たちの多くが国にこうしてくれ、ああしてくれと“物乞い”のような“クレナイ族”に成り果ててはいないだろうか。国はそんな私たちを長年バラマキで手なずけてきた。債務過剰国にとって国債発行という禁じ手が、世界中に蔓延している。ねずみ講方式の経済は必ず破綻する。だれかが最後にババを引く。英語の名詞beggar(=物乞い)は、動詞になると(=ダメにする、破滅させる)の意味になる。このままでは本当に国を破滅させかねない。賢明なる日本人は“物乞い”であってはならない。私たちは、実直なtax payer(納税者)であり選挙権保持者であって、決してbeggarではない。Beggarの蔓延は、国家の過剰脂肪である。そぎ落とすしかない。今年が日本にとっても私個人にとっても正念場であり、再起の元年であることを願う。


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大晦日

2012年01月04日 | Weblog

 静かな大晦日だった。8年前、14年間にわたった海外での暮らしを見切って帰国した。ネパール、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアでの正月休暇に日本に帰国しようと思えばできた。しかし帰国しなかった。日本で正月を過せば、きっと日本に住みたくなる。だからあえて正月の帰国を避けた。どこの国でも衛星テレビを契約受信すれば、日本のNHKの番組を観ることができた。時差は、冷酷である。いくら暮らす地で新年への秒読みをしても、頭の片隅で「まだ日本は○○時だ」「もう日本は○○時だ」が気をそらす。本物というか絶対時間というのか、自分の体に埋め込まれた標準時間は、いつでも日本時間なのである。地球のどこに住んでも、この体内時計が、止まることはなかった。

 もう放浪する生活を止め、日本で骨を埋めると決意した。今、日本にいて、海外で暮らした地が現在何時なのかと気にすることもない。それは体内時計に一致する時間に暮らすからだ。身の程に、身の丈に合っている。私はそのことに満足している。大晦日に「NHK 紅白歌合戦」を観たいと思わなかった。除夜の鐘を聞きたいと思ったわけでもない。二年参りをしたいからでもない。正月のおせち料理を食べたいからでもない。

 流れゆく時間を時差なく、その絶対時間の中に身を任せられる心地良さ、自然さを求めていたのかも知れない。だから大晦日は5年日記の2年目の最後の欄を埋め、早く床に入った。テレビで紅白を観ることもなく、第九を聴くこともない。子どもも孫も訪ねてこない。布団の中で静かにこの一年を振り返る。妻と99%仲よく助け合って暮らせた。日記を欠かさず書いた。ブログも投稿を続けられた。薬を忘れず飲んだ。ねじ巻き時計のネジを巻いて3月11日の地震以外時計を止めることはなかった。ベランダのゼラニウムに水をやり枯らすことなく花を咲かせ続けた。一日とてお金がなくて、食べ物がなくて途方にくれたことがなかった。ひとつずつ指を折って恵みを数えあげる。また今年も生き抜いた、と胸の手術痕に手を置いて、妻の手を握って、いつしか深い眠りについた。


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