団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

セカンドライフ問題 写真

2007年07月31日 | Weblog
 私が撮った写真で一番好きな写真はネパールのノアルコットで撮った一枚である。牛とニワトリが家の奥のすき間からこちらをうかがっている。

 この町は歴史ある古い町で、首都カトマンズから車で4時間ほどの山中にある。道路は未整備で、4輪駆動でなければとても行けるところではなかった。その町は丘の頂にあり、車は丘のふもとにおいていかねばならなかった。ゴルカ族がカトマンズを攻略する前に築いた要塞である。普段はふもとに集結して住んでいたが、敵の襲来があると標高1400メートルの丘の上の城砦に立てこもったといわれている。

 細い道を歩いていくと、道の脇にはマンゴの木がたくさんあり、実をつけていた。初めてマンゴが木になっているのを見た。まるで長いヒモで実を人の手で結わいて、ぶる下げてあるようにスルスルと木の枝から垂れ下がっていた。ジャングルの茂みの中から頂上が見えてきた。

 ぐるっと城壁が取り巻いていてそこの中央に門がある。中は集落である。近代的なものはなにもない。集落は城の周りにあり、真ん中を道が通っている。静かだ。余計な20世紀の音がない。私は夢中でカメラのシャッターを押して写真を撮った。まるでタイムマシーンで古代に戻った気がした。この夢が覚めないうちにと集落の中を歩き回った。何本もフィルムを取り替えた。あの時今使っているデジタル一眼レフがあったならばと思うけれど、とにかくあの地に行けたことを感謝する。

 丘の上の集落があるところは、けっして広くはない。家が建っている端は、鋭く谷底に落ち込む急斜面である。一軒の家の入り口のドアが開いていた。そこから見えた光景は、まさに写真に撮ったその場面であった。ディズニーの映画のように、牛もニワトリも人間の言葉を話すかのようであった。そして「どうぞ中にお入りなさい。すこし話していきませんか」と言っているようだった。あのニワトリが立つ枠の向こうは、断崖絶壁が鋭く谷底に落ち込んでいる。その空間があまりに俗界と神の世界の境界線に私には見えた。ヒンズー教では牛は神聖な動物といわれている。牛をあんなにきれいで神々しいと思ったことはない。この写真のタイトルは『いにしえへのいざない』とした。

 写真はだれでも撮れます。デジタルカメラの登場でフイルムのこと失敗のことを心配せずに撮れる。何かジャンルを決めて撮ったらおもしろい。今私は“窓”に焦点を絞っている。散歩にカメラが欠かせない今日この頃である。

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辞世問題 花火

2007年07月30日 | Weblog
 2001年1月に狭心症でバイパス手術を受けた。手術室の改修ということで結局手術が大幅に遅れ、3箇月待ち1月に手術を受けた。

 手術を受ける直前12月20日のエビス講の夜、病院前の河川敷で花火大会が開かれた。長野赤十字病院の看護師はとても親切で優秀だった。私はすでに医者の横柄でつっけんどんな応対に匙を投げていたが、看護師のいうことだけは素直に聞いていた。看護師学校の校舎の一番良く花火を見物できる教室を入院患者のために開放し、看護師学校の生徒達が重症の患者やお年寄りをエスコートしてくれた。私は病室でベッドが隣同士の竹内さんを介護して看護学校の5階の会場へ向かった。教室の窓側に勉強机を並べ替えて花火を見やすいようにセッティングしてあった。 
 
 場所が場所である。みな何らかの病気を持っている。末期の癌患者、これから大手術を受ける患者、人工透析を受けている患者、交通事故で両足を切断した患者さまざまである。私と竹内さんの隣に80歳は超えている老婆の患者に付き添いの家族老婆の娘とその娘夫婦であろう二人、同じテーブルに合計6人。老婆は車椅子に座り、あとは教室のイスに座っていた。看護学校の生徒達が編集印刷した花火のプログラムが配られた。

 やがて教室の照明がおとされて、花火が始まった。冬である。教室の窓は寒冷地のためであろう二重ガラスになっている。もちろん教室もスチーム暖房が入っていた。最初は一発ものの大きく開く花火が続く。花火は見えても音がちゃんと入ってこない。静かに花火の色が教室の観客の顔をも染める。ふと隣の竹内さんの、車椅子の老婆の顔を見る。二人の頬に涙が光る。竹内さんは不整脈で電気ショック療法がうまくいっていない。加えてすこし痴呆があり、夜中にトイレへ行き、病室に戻ると自分のベッドがわからなくなり、私のベッドにも何回かもぐりこんできた。竹内さんは手術を希望しているが医者は年齢的に無理と言っている。以前医者は竹内さんに手術を薦めたが当時竹内さんは逃げていたと私に告白した。死が恐怖だとも言っていた。私は竹内さんが好きでよく一緒に食堂で食事をしていた。

 花火は続く。最後のスターマインと連続打ち上げのころ私は自分自身の人生が走馬灯のように思い出された。最初の花火からずっと自分の人生そのもの、いや一つの花火が自分に思えた。花火師は花火をどういう花火にするか頭の中で考える。火薬を選び、その詰め方を瞬間の花火の姿をイメージしながら決め、工程をすすめ完成させる。打ち上げ当日、雨の降る日もある。打ち上げようとしたら引火部分の不備で点火されないこともある。点火されても思った通りに花火がひらかないこともある。ヒュルヒュルヒュルと天めがけて駆け上がり花を咲かせ、シュワシュワシュワっと消えていく。泣けた。教室の誰もがそれぞれの思いで花火と対面していた。老婆は1月8日に竹内さんは2月2日に亡くなった。 

 7月27日神奈川県逗子の花火大会を友人に招待されて観た。私には長野の冬花火以来の花火だった。長野の二重ガラスのガラス越しと違い、今回はベランダで音もそのままダイレクトに耳に届く。色、音、火薬のニオイ、煙り、全てを全身で受け止め、楽しんだ。私はおかげ様で手術後7年目を迎える。妻の手を力いっぱいギュッと握った。(写真:逗子の花火)

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社会問題 メイド喫茶

2007年07月27日 | Weblog
 メイド喫茶なるものが流行っているそうだ。懐古主義の復活なのか、はたまた人間の本能的な欲求なのかは知らないけれど、自分に対して徹底的につくして欲しい現象に違いない。「ご主人様、お帰りなさいませ」で迎えられ、やさしくされるために、日本全国から多くの男が秋葉原に集まるのだそうだ。

 先日、テレビで新ホームレスの特集が放送された。今までのホームレスは公園、駅近辺、河川敷などに青いビニールシートで小屋を建てたり、ダンボールだけで寝ることができるように作った空間に住み着いた。新ホームレスは、夜はマンガ喫茶なる24時間営業のインターネットを見たりマンガの読める空間で寝る。仕事はフリーターとしていろいろな紹介された職業についてお金を稼ぎ、夜はマンガ喫茶や簡易宿泊所などを転々としている。これだけならあまり関心をそそられなかったが、この若者が毎週末メイド喫茶に行き、貯めたお金をほとんど気前良くメイドに使ってしまうというのだ。これは興味深い現象だと思った。

 ホームレスのことを調査して書かれた本に、多くのホームレスの男性の楽しみはソープランドへ行くことで、稼ぐお金のほとんどをそのような場所で使うと書いてあった。地方の40歳以上の男性の未婚率は40%以上だそうだ。このために地方では、フィリピンパブやロシアンパブ、ルーマニアンパブが大流行だそうだ。長野県のエイズ患者数は日本でもトップクラスという記事を週刊誌で読んだ。未婚問題も深刻だが、金で欲望を処理するのも問題である。

 そして女性客のためにも男性が「お嬢様、お帰りなさい」とか「奥様、お帰りなさい」の商売があるそうだ。いったいどこまで世の中おかしくなるのだろう。自然ではない、虚の世界だ。欲望と欲求不満に世の中ドロドロにされている。全てが虚なのに本気でのめりこんでいく幼稚な行動だ。そんな金のかかるままごとに夢中になれる気が知れない。そう私が友人に言うと、友人は金ですべて決着がつくから彼らは安心して遊べるのだ、と言う。ますます私にはわからなくなった。

 団塊世代は定年退職したら自然に帰り、まず土とかかわり素朴に暮らして欲しい。自然に金は通用しない。枯れゆく自分と真摯に向き合ってくれる。何事にも退け時がある。

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社会問題 サラ金ティッシュ

2007年07月26日 | Weblog
 駅前でよくティッシュを配っているのを見る。世界のどの国でこんな風景をみることができるであろう。タダでものを貰う。「タダほど高いものはない」と私の亡父は良く言った。考えてみれば、ものには必ず原価がある。ティッシュをタダで配るサラ金は、金を貸してその利息で経営が成り立つ。サラ金の利息は、法律で上限29・2%と決まっている。それにしても高利である。この数字の中には当然ティッシュ代も含まれている。 

 私の同級生でパチンコ店を経営しているK君がいる。先日彼を訪ねた時、こんな話を聞いた。最近、サラ金会社の社員が、彼のパチンコ店で商売をしている。パチンコ台を回って、負けている客に声をかける。店の外に行き、サインだけで二万、三万の金を即貸し付けるそうだ。こうして多くの客が、深みに嵌り、ギャンブルのジレンマに陥る。 

 以前中国からの団体旅行客がパチンコ店の前を通った時、旅行客の一人が「ガイドさん、この工場は何を生産しているのですか?」 と質問したそうだ。ガイドは言葉に詰まった。当時中国は賭博を禁止していた。 

 セネガルには物品を歩きながら売る物売り、バナバナという行商人がいる。ダカールの繁華街で「もうかりまっか?」 「ボツボツでんな」 と日本語を上手に使う、サラ金ティッシュのような小さなティッシュパックを売る名物少年がいた。ティッシュだって彼には商品である。日本の駅前で彼の主力商品のティッシュが、無料で配布されているのを彼が知ったら、きっとびっくり仰天するだろう。不可解な国日本である。ティッシュ配りに遭遇するたびにセネガルの彼の日本人向けの向上を思い出す。

 今度ティッシュをもらって言ってあげよう、「もうかりまっか?」 きっとサラ金会社側は、「えらくごっつい儲けですわ」と言うだろう。いつまで駅前ティッシュ配りは存続するのだろうか?サラ金会社が現在ほとんど大手都市銀行の傘下にあることを、サラ金利用者は知っているのだろうか?団塊世代は最後まで、いつもニコニコ現金払いでいたいものである。

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社会問題  心中事件

2007年07月25日 | Weblog
 家族殺しの事件が続いている。家族の心中事件もあちこちである。

 若い頃、友人が妻を病気で亡くした。彼には子供が二人いた。彼は銀行員だった。4,5年して再婚すると嬉しそうに電話をくれた。それからまもなくして彼は一家心中した。二人の子供を殺し、妻になるはずの女性と車の中で睡眠薬を飲み、排気ガスを車内に充満させて自殺した。辛かった。何が辛かったといえば、幼い子供を道連れにしたことが辛かった。どうにも私の心の中では割り切れなかった。遺書には子供を残していくのは不憫と書いてあった。違う。彼は自分が生きた人生において、社会の不条理、目に見えない非合理に負けたのだ。その観点から世の中を見れば、子供を残せないと真剣に思ったであろう。ところが彼は子供の側から何も見ていない。父親が自殺したとなれば、残された子供の心にトラウマは残るであろう。しかし子供の心には子供の自我がある。この自我の芽は逆境をエネルギーにして伸びるのである。

 私は彼の二人の子供が可愛くて仕方がなかった。私は自分の子供を離婚によってどれほど苦しめたか判らない。彼の二人の子供は母親の死に耐え、健気に父親にずっと寄り添っていた。彼の子供に自分の子供を投影していたこともある。私は息子を県外の全寮制高校へ行かせ、娘はアメリカの友人夫婦に預けていた。寂しかった。だから彼の子供を可愛がった。力になろうとしていた。

 けれど彼の再婚するはずだった女性の両親は猛烈に娘の結婚に反対した。友人と彼女は死を選んだ。子供二人を道連れにしていった。私は狂人のごとく怒り、荒れた。許せなかった。これは家族殺人である。友人に子供を殺す権利はない。断じてない。

 子供が親を殺した。親が子供を殺した。ニュースは続く。みんな大人になろう。子供には子供の人生がある。その子供が親であるあなたを殺したいというなら殺されましょう。自分が子供をいつの間にかそういう人間に育ててしまったのだから。潔く殺されましょう。

 しかし子供の命はだれも奪ってはならない。大人には大人の責任がある。それは決して子供を不憫に思うことではない。不憫なことは子供を強くさせる。そう信じて自分だけで死んでほしい。その覚悟が子育てには必要である。友人の子供達が今生きていれば、今年で32歳と30歳である。あの子達が向こうで幸せでいるとはどうしても思えない。今日は彼らの命日である。

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家族問題 子育て

2007年07月24日 | Weblog
 友人に「お前のような、とんでもない親の子供が二人ともまともに結婚できて、俺みたいにまじめに子育てしたのに、一人はフリーター、もう一人はクスリで前科者だ。一体世の中どうなっているのだ」と娘の結婚式のあと、飲みにいってからまれた。本当に彼の言うとおりだ。彼はまじめで子供が小さい時から、よき父親ぶりを存分に発揮していた。彼の子供がまともに育って当たり前なのである。私の子供がぐれてどうしようもない子供になってもだれも不思議に思わないだろう。

 子育ては人間の一大事業である。私の友人と私の違いは、私が離婚して二人の子供を育てるようになっても、早くから子離れしたことだと思う。息子は全寮制の高校へ出し、娘はアメリカの友人の家庭に預けた。一緒に暮らしたら、毎日の精神的重圧に全員が押しつぶされ、お互いにお互いを傷つけ、自滅していたと思う。離れて住むこと、息子は寮生すべて同じ条件で、親元から離れているので、両親そろっていようが、片親だろうが関係ない。女の子はよい家庭でよい母親と暮らせば、必ずよい影響を受けて、彼女の将来によい影響を与えてくれると信じた。離れたけれど、私は毎日二人の手紙を書いた。どんなに短くても書き続けた。それで親子の関係を確認しあった。二人の子供も約束どおりに一週間に一回手紙で近況を知らせてくれた。二人の毎月の仕送りは20万を越した。毎月給料が振り込まれると、まず自分は米を10キロと味噌を買った。あとは一匹60円のアジフライとキャベツの千切りをほとんど毎日食べていた。

 一方友人はもっとも難しい中学生、高校生に成長していく子供を口うるさく執拗に指導した。親子と言う関係は、馴れ合いと血により、お互いどうしても甘えがストレートにでてしまう。それが毎日になると子供の反抗も半端でなくなる。とうとう親父に反抗して二人の息子は家をでた。彼の子供二人ともが父親の友人に「勘当してやる」と言った。いまでも関係は修復されていない。私は何回も彼の二人の息子に会って話し合ったが、「俺達は絶対父親を許さない」を繰り返している。和解の日が来て欲しい。

 私の子供達が私のことをどう思っているかは、わからない。一年に数回しか子供達とは会えない。二人とも結婚しているが、私が彼らの過労死を心配しているほど、残業と休日出勤をこの5,6年続けている。娘は子供も産めない。いそがしくて私をどう思うかと段階は、とうに通り越しているのかもしれない。それでいいのかもしれない。時間が過ぎるばかりである。心配は尽きることがない。親業は、まさしく業である。それを感じつつ、時々手紙だけは書き続けている。
(写真:二人の子供からの手紙)

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社会問題 人種差別

2007年07月23日 | Weblog

 カナダの高校時代、カルガリーへ友人と映画を見に行くことになった。学校所在地からカルガリーまでは、鉄道で三時間。一日に一本しか汽車は走らず、それも貨客列車だった。到着時刻も発車時刻も、あってないようなものだった。聞いた話では、乗客が乗った駅に忘れ物をしたために、その汽車はバックして取りに行ってあげたそうだ。これで二時間遅れたという。

 発車して一時間ぐらいしてから、車掌が私たちの席に来て、私に英語で「日本人?」と尋ねた。「はい」と答えた。「機関手が会いたがっているので、一緒に来てください」と言った。友人達は「ヤバイよ」と目で、私にサインを送った。好奇心の塊と言われる私は、すでに立ち上がっていた。
             
 貨物車の中を突っ切り、機関車に入った。二畳くらいの運転室に、体格の良いデニムの繋ぎを着た四十歳前後の白人がいた。サングラスをはずして、眩しそうに私を見た。いきなり日本語で、「こんにちは、私はアラン・ハントです。よろしく」と油汚れのついた、大きくごつい手をだした。       

 ハントさんは日本人女性と結婚し、二人の子供とカルガリーに住んでいる。日本食が大好きで、今日の弁当もおむすびだったと言い、残った一つを食べてと私に勧めた。美味しかった。中にタクワンが入っていた。海苔は青かったけれど、奥さんの心を感じた。写真で見た一家は、幸せそうだった。

 ハントさんは天井から吊り下がった紐を引き、汽笛を鳴らした。私にやってみなさい、と言った。カナダの大平原の真只中、日本まで届けとばかりに紐を引いた。子供の時の機関手への夢が、ちょっぴり実現した。もう少しそこに居たかったが、客車の友人達は、パニック状態と思い、ハントさんに礼を言って、車掌と客車に戻った。

 友人達は、一様に目を見開き、安堵して私の生還を受け入れた。1960年代はまだ人種差別があり、インディアン、アジア人、黒人はひどい目にあっていた。そんな中にも大きなやさしい心で受け入れてくれる白人もたくさんいた。

 団塊世代はどこの国の人にも親切、寛大な心で接したい。
(写真:カナダ アルバータ州の大平原)
  


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社会問題 祖先

2007年07月20日 | Weblog
「わたしの生い立ちは、きみも知ってのとおり、てて無し子だ。物心ついてそのことを知り、わたしは苦しんだ。出生の秘密を隠そうと嘘をついた。しかし嘘をつけばつくで、その嘘がばれることに怯えた。しかし嘘はいつかはばれるものだ。これは単純なことだ。嘘がばれて絶望的な屈辱に身を震わせたこともある。そして決心したんだよ。もう嘘はつくまい。誠実に生きよう。てて無し子だと卑しめられてもいい。嘘をつくよりはるかに気楽だし強くもなれる。むしろわたしは人間の苦しみをあげつらう奴を軽蔑した」春江一也著 『ベルリンの秋・上』 集英社インターナショナル 

 人は十世代で二千四十六人の祖先を持つ。二十世代になると二百九万七千百五十二人となる。各世代平均三十年の年齢差として十代で三百年、二十代で六百年である。三百年前の日本の人口は推定千二百万人、六百年前で五百五十万人。キリスト誕生時世界の人口は一億人~二億人。日本は八十万人~百二十万人。理論上過去を遡ればアダムとイブに辿り着く。 

 『ロンドンの裏町』と言う本に、千五百年代のロンドンに売春婦が人口の二割いたとある。当時ロンドンの人口は二十万人。四万人が売春婦だった計算になる。もし私が英国人だったとして、私の祖先に売春婦がいたとしても、なんの不思議もない。かつて西ドイツ首相ブラントが、自分は私生児で母親は売春婦だった、と告白した。十代で二千四十六人の祖先の観点で見ればたいした問題でない。

 人の不幸は蜜の味、という。いまだに他人を誹謗中傷することは、人間の快楽らしい。他人の弱みを見つけ出すのを無上の喜びと感じている輩も多い。よく見かけるタイプにやたら自分の家系の自慢をする人がいる。偉人、有名だけをたどれば、自慢する気持ちはわかるが、この計算方法で歴史をさかのぼれば、自慢できる人間だけではないはずだ。

 日本人は家系、血筋、家柄に執着している。天皇家がその頂点である。天皇家の凄さは、上澄みである歴代天皇の系列が八十一代、連綿と明記証明されている事に在る。そして何事に対しても、儀礼作法を持ち、一般民衆の追随を遮断している。だからこそ国の象徴としての意義がある。アメリカ人は合衆国であるアメリカに欠けているものは、この象徴的存在であるという。人は無いものねだりだ。

 物事は考えようである。寛容に歴史を認め、祖先に自分の生命を感謝して生きられるなら、全ての祖先の供養にもなる。自分ひとりで今に至ったのではない。善人も悪人も普通のひとも祖先にはいる。その全ての流れの結果が今自分の形をつくる。盆である。(写真:盆を迎えた墓地)

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孫問題 デジタルカメラ

2007年07月19日 | Weblog
 カメラを操作して一瞬を一枚の写真にする。なかなか脳の運動になる。まず自分の目で見たものと、ファインダーを通してみたものはずいぶんと異なっている。ファインダーをのぞきこみ、うつる被写体の動きを見て、どの場面が欲しいか即座に判断する。目で見たものに判断を下し、手にシャッターを押す命令をだす。写真の最もむずかしいところである。

 孫を見ていて孫はよく写真を撮ってもらう。孫に写真を撮らせたら、きっと脳によいトレーニングになると思った。最初は使い捨てのカメラを持たせて一緒に散歩に行った。ちゃんと使い方を説明すると結構上手に一人前にカメラを構えた。家の近くを走る新幹線に夢中でカメラをむける。しかし時速200キロで通り過ぎる被写体である。孫は何度挑戦してもうまくいかない。

 フイルムもこうなると高くつく。そこで今度はデジタルカメラを持たせた。便利なカメラである。撮ってきてすぐ孫と一緒に大画面のテレビに映して見る。よい写真は記録して、ダメなモノは消していく。経費は以前の使い捨てよりかからない。大画面でいつもきれいな画を見ている孫は自分で撮った写真の質の悪さに納得がいかなくなる。ここが狙い目である。この意欲が進歩のエネルギーとなる。

 たった5歳の孫が夢中になる。デジタルは何度でも取り直しができる。外に出てはあれもこれもとカメラを向ける。くもの巣、鴨の親子、道端の花、空の雲、竹の子、スミレ、猿、ウグイの群れ、カラス、アゲハチョウ。家にもどるとテレビに映る自分が撮った写真の説明を両親にする。ゲームやテレビに夢中になるよりよほど教育になる。危険のないところで、孫との撮影会はいかがだろう。孫の別の面を見られるかもしれない。

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社会問題 地震

2007年07月18日 | Weblog
 また大きな地震が新潟県で起こった。つい数日前は台風、そして今度は台風である。大きな災害のたびに日本の弱点があからさまになる。
1. 老人問題
2. ライフライン問題
 今回の台風でも地震でも死者のほとんどが老人の方々である。九州の過疎の村でひとりもしくは夫婦で暮らしていて、災害の犠牲になられた。地震のあった新潟でも家の下敷きになり老人が亡くなられた。

 ライフラインとは和製英語で電気、水道、ガス、下水、電話をさすらしいが、普段あまりにも問題なく運営されているこれらライフラインが一旦停止すると、日本人の日常生活は大混乱となる。いかに日本人がお上を頼りに生活しているかの証拠である。お上は惰性と馴れ合いに強いが、緊急時の機転と指導制に弱い。

 ライフライン依存の生活において必要なのは、それが無くなったときの対応能力である。そのためにはせめて月1回、訓練を重ねることだ。ある月の2日間電気を止めて住民は、電気がないときの生活を体験し自分なりに対策を講じて試行錯誤してみる。ある月は水道を止めてみる。そこで水が出ない時、水洗便所はどうなるか、風呂は、調理用の水は、と体験する。これらの避難訓練、擬似災害訓練は必ずや住民の災害に対処する意識を高め、予め備える知恵も与える。

 私は不自由、不便で、かつ治安の悪い国々に暮らして、いろいろな体験ができた。災害にも事件にも巻き込まれた。そこから学んだ教訓は、“自分たちで自分たちを守る”である。そしてどんな時にも飲料水が決めてである。

 地震の多い日本に帰国して、私は居間が広い家を探し、その居間に頑丈で大きなテーブルを置いた。テーブルはシェルターになる。そして飲料水を10日分常に確保している。キャンプ用のテント、炭と火鉢、寝袋、オマル、緊急用現金も用意した。災害に襲われたその時はだれも頼れない。生きて、自分たちをまず守る。そのあとに必ず助かる手段はやってくると信じている。

 北朝鮮のミサイルだって日本全土を壊滅できない。原爆だって数発では無理。空から大隕石が落ちてきたり、地球自体が暴発するならともかく、地域的な災害は、それなりの防衛方法がきっとあるはずだ。備えましょう!

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