お産婆さんが帰り、入れ替わりに医者が来た。私と姉はコタツにあたり、心配と何が起こっているのかわからない不安に身を硬くしていた。やがて医者も頭を下げてうな垂れて部屋を出て行った。父親が私と姉の手を引いて母親の横たわる部屋に連れて行った。青い顔の、唇が紫色のかあちゃんがいた。姉ちゃんは泣いていたが私は泣けなかった。死ぬ、ということがどういうことなのか知らなかった。
それから3日ぐらいは何だか大勢の人が家に出入りして、私はずっとひとりぼっちでいた。火葬場でかあちゃんが真っ黒に焼かれて、それから薄汚れた灰色のような茶色のようなカスカスのものになり、壷に入れられた。人が話しているのを聞いていると、やたらと産婆が、産婆が、と言っていた。どうもお産婆さんが、かあちゃんに何かして、かあちゃんをこんなにしてしまったらしい。4歳の私に、産婆への消えぬ怨恨だけが、いつまでも残った。
縁あって産婦人科の医師である妻と結婚した。母の死んだ時の話をすると、現在でも弛緩出血は出産時の妊婦死亡原因の第一位であるという。お産婆さんに取り上げてもらわないで、あの時母が病院で出産していれば、母は死ななかったかもしれない、という私の考えは間違っていた。いかに出産が危険なことであるか、多くの人は理解していないと妻はこぼす。
人の生と死は人智の及ばないことがある。もし~だったら、といつまでも考えるのではなく、何事も慎重に最善をつくして生きていくしかない。女性が子供を産む機械などという男が、自分で妻に子供を産んでもらっている事実が哀しい。機械に弛緩出血などという故障はない。
精一杯母の命を、妹の命を助けようとしてくれたお産婆さんにできることなら謝りたい。