団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

トラウマ問題 誤解

2007年08月31日 | Weblog
 弛緩出血、これが私の母の死因だった。5人目の出産で赤子も母も死んだ。母が横たわっていた部屋は真っ赤な血の海だった。その強烈な赤と血のニオイを覚えている。

 お産婆さんが帰り、入れ替わりに医者が来た。私と姉はコタツにあたり、心配と何が起こっているのかわからない不安に身を硬くしていた。やがて医者も頭を下げてうな垂れて部屋を出て行った。父親が私と姉の手を引いて母親の横たわる部屋に連れて行った。青い顔の、唇が紫色のかあちゃんがいた。姉ちゃんは泣いていたが私は泣けなかった。死ぬ、ということがどういうことなのか知らなかった。

 それから3日ぐらいは何だか大勢の人が家に出入りして、私はずっとひとりぼっちでいた。火葬場でかあちゃんが真っ黒に焼かれて、それから薄汚れた灰色のような茶色のようなカスカスのものになり、壷に入れられた。人が話しているのを聞いていると、やたらと産婆が、産婆が、と言っていた。どうもお産婆さんが、かあちゃんに何かして、かあちゃんをこんなにしてしまったらしい。4歳の私に、産婆への消えぬ怨恨だけが、いつまでも残った。

 縁あって産婦人科の医師である妻と結婚した。母の死んだ時の話をすると、現在でも弛緩出血は出産時の妊婦死亡原因の第一位であるという。お産婆さんに取り上げてもらわないで、あの時母が病院で出産していれば、母は死ななかったかもしれない、という私の考えは間違っていた。いかに出産が危険なことであるか、多くの人は理解していないと妻はこぼす。

 人の生と死は人智の及ばないことがある。もし~だったら、といつまでも考えるのではなく、何事も慎重に最善をつくして生きていくしかない。女性が子供を産む機械などという男が、自分で妻に子供を産んでもらっている事実が哀しい。機械に弛緩出血などという故障はない。

 精一杯母の命を、妹の命を助けようとしてくれたお産婆さんにできることなら謝りたい。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育問題 夏休み

2007年08月30日 | Weblog
 夏休みもそろそろ終わる。どこも元気な子供たちであふれている。日常生活の中で、ほとんど子供たちと接触する機会がないので嬉しい毎日である。いそがしい日常生活から束の間の家族旅行も盛んなようである。

 私が子供のころ、田舎の夏休みは3週間だった。それに春、秋の農繁期に1週間のお手伝い休みがあったために、夏休みは都会より短かった。ある時通っていたキリスト教の日曜学校で、アメリカン人宣教師の子供、年の頃が同じ女の子に「日本人は馬鹿だから、夏休みが短い。アメリカ人はりこうだから夏休みは3箇月もある」と誇らしげに言われた。ショックだった。

 カナダの高校へ留学して、なぜ夏休みが長いのかだんだんわかってきた。ひとつに学校の先生の給料が低く、夏休みに先生が他の仕事をして、寒くて長い冬の生活資金を稼ぐための期間であること。また先生だけでなく生徒も年齢が上がれば上がるほど、自分で学費を稼がねばならないので、夏休みがあること。季節的に夏は生産活動が盛んで、家族も子供の手助けを必要とすること。いろいろな事情がある。アメリカ人宣教師の娘が言った事実はなかった。人々はもっとずっと現実的であった。ただ国民性の違いが夏休みの中身に出ている。

 欧米の学生は夏休み、よほど学業に遅れを持つひと以外、まず勉強することはない。ところが日本は、受験を控える学生は、夏期講習などの抜け駆け行動をとる。欧米の親が、学校だけの勉強で十分で、上の学校への進学も、その子の能力次第と考える。日本では子供本位ではなく、お家の事情が絡む。父親が医者だから息子も医者に、父親が東京大学卒なので東京大学に、母親が弁護士なので、などなどで進路が先に決まっている。合格するためには、抜け駆けさせる財力、学業に専念させる家庭環境が必要である。

 多くの日本の家庭では母親が学生の世話を献身的にする。欧米の子供たちが、夏休みは家族旅行(バカンス)したり、家の農業を手伝ったり、母親から料理を手伝いながら習ったりと、家族のつながりを強化させる期間である。日本のお母さんのがんばりで、子供は家庭のことも自分のことも、ほとんどやることはない。日本の父親の多くは、残業が当たり前の働き中毒状態で、子供に読み語りをしたり、学習の手助けをしてあげる時間はない。どんどん家族がバラバラになる努力をむなしく続けている。

 各国の夏休み事情を知れば、その国の国情が見えてくる。現在の日本の状況は決して良好とは言えない。確かに豊かにはなったけれど、ゆとりとはほど遠い。これから日本の夏休みが、さらに家族の関係がよくなる時間になり、抜け駆けチャンスでなくなるよう願う。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健康問題 肥満

2007年08月29日 | Weblog
 アメリカを旅すると気になることがある。肥満の人が多い。半端な太り方ではない。

 1960年代私はカナダ・アルバータ州からニューヨークまで車で往復した。途中フィラデルフィアの友人を訪ねた。そこで友人の甥夫婦に会った。夫婦は二人とも200キロを超す大変な肥満であった。当時、今ほどはまだ肥満は社会問題化していなかった。留学していた学校は、キリスト教の自立を尊び学ぶ規律の厳しい学校で、食事も質素だったせいか2000人以上いた学生に肥満問題は存在しなかった。とにかく私はフィラデルフィアで会った夫婦のあまりの肥満状態に驚いた。人間がこれほど太れるものかと、自分の目を疑った。

 あれから40年、日本でもメタボリック・シンドロームが騒がれるようになった。朝日新聞社アーサー・ビナード著『日々の非常口』“巨体満足? 久しぶりの帰国は、いつもショックから始まる。到着して空港のコンコースを歩き出せば、すれ違う老若男女のなんという太り方だろう!ズングリとかデップリとか形容できるかわいい次元ではなく、目を疑うような巨体がゆっさゆっさと行き交っているのだ。もちろん頭では分かっている。母国アメリカが有史以来の肥満大国であることは。しかし帰るたびに驚きの目を見張らずにはいられない。”と書いてあった。

 確かにテレビのニュースで、アメリカならどこにでもあるごく普通の町が映し出されても、そこを行き交う人々の多くが肥満である。肥満の人を見ると、私はその肥満の状況は現在の地球の姿そのものだと思えてしかたがない。人口が増え、脂肪に匹敵するゴミ、煤煙、屎尿、化学洗剤、化学肥料は貯まる一方である。肥満を防ぐのは、手順は簡単である。しかし人間の欲望のコントロールは困難である。おそらく地球上に人間が誕生して以来、ずっと個人の人格に存在する最大の難問であろう。私は見方を変えてみた。肥満の脂肪をお金とする。お金を貯めるのは、多くの人々にとってかなり難しいことだ。なぜなら私達はお金を持てばなんだかんだと無駄遣いしてしまう。私もこれなら得意である。肥満に置き換えれば、食べたら使えばいいのである。つまり動き回ってエネルギー消費をするのである。“食べたら、動け”の実践である。脂肪を徹底的に得意の無駄遣いしてしまうのである。

 それでも、ひとつとても心配なことがある。NHK出版 生活新書 エルコ・ロウ著『太ったインディアンの警告』で著者が深刻なアメリカインディアンの肥満を報告している。インディアンの多くは、未だに自治区と呼ばれる居留地に住む。インディアンは日本人と親戚民族になる。インディアンが自由に暮らしていたアメリカを、ヨーロッパからやってきた白人にいつの間にか奪われてしまった。以前は自然の恵みを生かした自給自足の健康的な生活をしていた人々が、その食生活や生き方までアメリカナイズという同化を強いられた。その結果インディアンの肥満率は白人より高く、糖尿病・心臓病にかかりやすいと研究結果が発表された。日本の食文化もアメリカナイズが進行する。世界一の長寿国日本は、独特の食文化に支えられてきた。アメリカインディアンに起こったことは、親戚民族である日本人にも起こりうる。日本の食文化を見直し、守りたい。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夫婦問題 駅弁

2007年08月28日 | Weblog
 信越線の横川駅に、釜飯で有名な“おぎのや”はある。軽井沢―横川間は、アプト式の特別な機関車が使われていた。そのために、軽井沢駅と横川駅では、機関車を増結したり切り離したりするために停車時間が長かった。

 長野から最終電車で、東京に戻った日、横川駅で大好きな『鳥もも弁当』を食べようと夕食を抜いていた。横川駅に到着すると、乗客は我先にと駅弁販売員に殺到した。しかし最終電車のせいか、販売個数が少なくあっという間に売り切れた。わずかに玄米おむすび弁当二つしか買えなかった。早速、私たち二人は遅い夕食を食べ始めようとしていた。

 隣席も男女二人ずれの乗客だった。男性が「売り切れだって、買えなかった」と待っていた女性の横にため息をついて座った。「私お腹ぺこぺこよ」と女性がすねる。私と妻は思わず顔を見合わせた。いままさに開こうとしていた弁当の紐を解くのを止めた。二人は了解の合図に首を縦に一回振った。私は「どうぞこれ召し上がってください。半分ずつにしましょう」と、玄米オムスビ弁当を差し出した。しばらく言葉が返ってこなかった。男性が「すみません」頭を下げて受け取った。「代金払います。おいくらですか?」「480円です」妻が言う。男性が500円玉を財布から出す。妻が小銭入れから20円出して、男性に渡す。

 二人連れは高崎でお辞儀をして降りていった。妻が一言。「あの二人絶対夫婦じゃないわね」私はそんなことより、『鳥もも弁当』を食べられなかったことを悔やんでいた。 

 台湾で台北から高雄へ鉄道の旅をした。列車内でお弁当が販売されていたので、早速買った。なんとアルマイトの弁当箱を使用している。使い捨てではない。日本で昔、ドカ弁と呼ばれた深いゴハンがたくさん入る弁当箱に似ている。たっぷりのゴハン、その上に鶏肉の甘辛煮のスライスが5枚、タクアン2枚がのっていた。それだけの質素な弁当だった。お弁当にはお茶がサービスでついた。女性販売員が大きなヤカンからやはりアルマイト製のカップにお茶を豪快に注いでくれた。まだ台湾新幹線が開通するずっと前の話である。

 世の中どんどん変わる。各駅停車の列車を鈍行=Don’t go(なかなか動かない)といった時代、蒸気機関車の石炭を焚いた煙が開けた窓から入ってくるのを気にしながら、大ご馳走だった駅弁を食べた。エアコンなんてなかった。父のマネをして瀬戸物製のお茶ポットから付属の小さなカップにお茶を入れ、危なっかしく飲んだ。満腹になると父によりかかって寝た。そんな旅を懐かしく思う。
(写真:駅弁屋 品川駅構内)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治問題 麻生太郎

2007年08月27日 | Weblog

 もしも麻生太郎現外務大臣が首相になれば、間違いなくアメリカで史上最高の認知度を記録するだろう。それは彼が吉田茂の孫だからではない。アメリカ人は吉田茂さえ知らない人のほうがずっと多い。麻生の苗字の英語の表示である。Asoとくればアメリカで第二次世界大戦後、流行語大賞をとったに等しい大ヒットをした。昭和天皇は「あっそう」が口癖だったと言う。それを駐留米軍兵士たちは面白おかしく真似をした。アメリカ英語表現に『asshole』という、とても日本語に訳せない汚い表現がある。これがこの表現の根底なのは許せないが、兵士たちは日本国天皇の「あそう」と彼らの汚いことばの発音「アスォウル」をダブらせてはしゃいだのだ。勝てば何でも誰にでも言いたい放題である。彼らはアメリカへ帰国後も、この「アソウ」を次から次へと帰還先で拡げたに違いない。

 私がカナダへ留学したのが1960年代であった。まさにこのころは「Aso!」が大ブレイク中だった。いったいどれくらい挨拶代わりに投げつけられたことだろう。日本人と判ればすぐこの「Aso!」が来る。多くの日本人が経験したことだろう。

 麻生太郎が日本の内閣総理大臣になりアメリカを訪れるその日から、きっと「Aso!」に再び火がつきアメリカ中に知れ渡るであろう。それがよいことなのかどうかは、わからない。

 私には麻生太郎との忘れらない思い出がある。いろいろ批判もあるが、私の直接見た麻生太郎の一面を紹介する。麻生太郎外務大臣は、アルツハイマー発言で世間の顰蹙を買っているが、もともと彼は歯に衣をかぶせぬ型破りのところがある。長所でもあり短所でもある。多いに反省し、出直して欲しい。私は日本青年会議所の『青年の船』で、団長だった彼の秘書として乗り込んだ。彼の祖父吉田茂は、もともとは外交官であった。総領事として香港に赴任した。その香港に青年の船が入港した。

 公式訪問した日本総領事館でこんなことがあった。私たちを外で待たせて、一人で中に入った。受付で彼は女子日本人職員に「総領事にお会いしたい」と言った。受付の女性は、「お約束がおありですか?」と尋ねた。「いいえ、ありません」、と彼。ここでこの女性の態度が急変し、剣もほろろに「総領事はお約束のない方とはお会いできません」と、言った。「わかりました。出直してきます」 帰ろうとして向きを変える前に、「せっかく来たので総領事に私の名刺だけでもお渡しいただけますか?」と言って名刺を出し、受付の女性に渡した。ここで私たちに中に入れと合図した。もちろん青年の船の団長が訪問することは事前に外務省を通じて根回しされていた。その時彼は私たちに、「よくわかっただろう。役人は公僕でなく、組織、団体、社会の上層部のためにあるということを。こんなじゃダメだ。敷居が高すぎる。領事館だって大使館だって、そこにある目的は日本国民を守るためなのだ」 まもなく総領事自らが、階下に降りてきて、揉み手、三顧の礼で迎え、総領事室に案内した。このとき、私は、麻生太郎はなかなかの人だと思った。

 青年の船には、日本全国からと東南アジア諸国から約500名の若者が乗船していた。私の提案で、これら団員すべてと団長とのお茶会をすることになった。20人ずつで25回、直接団長と会い、意見を述べたり質問したり、されたりであっという間に制限時間がすぎる。記念写真を撮り握手して退室していく。裏方の私たちはお茶を入れ、菓子を並べ、片付ける、の連続だった。しかしこのあとから、船の運営全てに変化がおこった。かなり抵抗していた人たちがいたが、とても協力的になり、連帯感がうまれた。天上人ではリーダーになれない。人の中にはいり、直接対話会話して初めて気持ちは通じ始めると実感した。安倍現首相はこの点で人気がない。麻生太郎はそれができる政治家であると実感した。庶民派に徹して欲しい。これからの活躍に期待したい。
(写真:青年の船使用船コーラルプリンセス号)
 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会問題 格差社会

2007年08月24日 | Weblog
 まるで格差社会が悪いかのように、今騒がれている。格差はどうしようもない旧態依然のモノである。日本では金銭にからむ格差ばかりが取りざたされている。だから今の使われ方に私は納得できない。格差を物欲的にでなく、精神的満足度で見れば、世の中違って見えることもある。

 アメリカはだれにもチャンスがある国だと言われる。アメリカは段階的ステップアップのシステムがしっかりしている国だと思う。多くのアメリカ人の友人の生き方をずっと見てきてそう思う。

 私が留学したカナダの高校にはあの当時宗教的理由でアメリカからベトナム徴兵を逃れて多くのアメリカ人が在学していた。だからアメリカ人の同級生が多い。彼らは大学に進学し、就職し、結婚した。最初はトレーラーハウスから出発する新婚夫婦に子供が産まれる。次に小さな一戸建てに移り、月給の上がりぐあいで二人目の子供が産まれるころ、新築のりっぱな家を買う。子育てが終わり、子供が自立して家を出て行くと、今度は逆にだんだん小さな家に移る。シアトルのように冬に雨が多いところで住む人々は、老後を太陽の光あふれるカルフォルニアやアリゾナへ移り住む。

 ところが日本人は違う。動かない。移らない。転校してくる生徒がどこの学校にもいたと思うが、ほとんど自分の生まれたところで育ち動いたことのない生徒は、これら転校生をまるで可哀相な者たちという目で見ていた。転校生をいじめた奴もたくさんいた。

 ここが移民の国アメリカとちがうのである。アメリカはどこでも人の出入りは激しい。常に新天地で自分を位置付けていかねば生きていかれない。会社へ入ってもより自分を高く評価して高収入を提示されれば、簡単に転職する。

 日本もヘッドハンターという言葉をよく聞くようにはなったが、まだまだ年功序列の村社会だ。だんだん変化していくことは確かである。格差は停滞と共存し、段階的ステップアップは躍進する合理性と共存する。

 自由を得た団塊世代から始まれ、ガラガラポン!

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老化問題 繰り返し

2007年08月23日 | Weblog
 最近家を出てから、玄関の鍵を閉めたのか閉めなかったのかどうしても思い出せない。

 そんな話しを大学教授の高校の同級生にした。優秀な学者の彼が自分もそうだと言う。それだけで終わらないのが凄い。彼は鍵をしたら必ず鍵がかかったかどうか確かめるために、ノブをガチャガチャと繰り返し回すのだそうだ。繰り返すことによって家を出て少したってから、自分が鍵をしたのかしてないのかと疑問に思っても、繰り返しのガチャガチャが鮮やかに記憶に残っているというのである。

 早速私も実践した。凄い。効果絶大であった。私は2回でなくて3回バチャガチャを繰り返す。そして「鍵したぞ、鍵したぞ、鍵したぞ」とやはり3回繰り返す。最近この鍵したかしないか恐怖から放たれて、私はずいぶん楽になった。以前のように、駅から家に引き返して確かめることもなくなった。心配は良くない。

 人はいろいろ知恵を持っている。その知恵をお互いに交換しあえば、さらに悩みや心配の解消になる。適材適所、相談すべき良き人脈を持つことは財産である。こんどは銀行ATMでカードをしまったか、引き下ろした現金はどうしたか、問題を解消したいと願っている。 

 ものを書いても、その後声をだして繰り返し読むことは推敲するのに役立つ。私はその上で仕上げにあたり、妻に音読してもらう。最初はなにか恥ずかしい気がしたが、人さまに読んでいただく前にきちんと校正、推敲しておくことは大切だと続けている。

 もともと暗記は得意ではなかったが、何かを覚えようとするときは、覚えたいことを繰り返し声を出して言ってみる。覚えられなくても、何かの拍子に記憶がすっと戻ることがある。 

 生活も単純にして、できるだけ同じ時間に同じことを繰り返すようにしている。英国人のようだと自分に言い聞かせ、悦に入っている。おかげで近頃は考える前に体が行動を起こしてくれる。

 朝起きるのも目覚まし時計より正確になった。起きるとすぐにパソコンの前に座り、ブログの文章を書き始める。書き終えて送信すると5:30になる。顔を洗い歯を磨き、朝食を15分で用意して、朝食をとりながら5:45から12チャンネルで『モーニングサテライト』を見る。ほとんどこんな調子である。夜は8:00を過ぎると自然に眠くなってくる。
 
 実にシンプルな生活を毎日繰り返している。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交際問題 不思議な能力の持ち主との出会い

2007年08月22日 | Weblog

 上原さんは村の鍛冶屋さんだ。まじめで実直な人柄は、村でもよく知られている。多くの村人が上原さんを慕っている。慕っているのは人間だけではない。上原夫妻はそろって動物が大好きである。動物にもそれがわかるらしく上原夫妻に良くなつく。

 上原夫妻はなんと狸を手なずけてしまった。メスの狸が上原さんの家の庭に来るようになった。縁側の廊下から庭にえさを探しに来た狸に、来る日も来る日もふたりは話しかけた。縁側の踏み石の上に少し食べ物を置いた。そしてある日ついに踏み石に来てえさを咥えた。次の日には上原さんの手から直接えさをとって食べるまでになった。全部食べることはなく口に咥えて帰るようになった。そして今度は子だぬきを3頭引き連れてきた。上原さんは喜んだ。狸がわざわざ夫妻に子供を見せにつれてきた。母狸は子どもを育てるために上原夫妻の力を借りた。その子達が大きくなったので上原夫妻に子どもを見せに来た。人間だって最近は恩知らず者が多い。上原さん夫妻のやさしさがなつかしい。 

 世の中には不思議な能力を持つ人がいる。上原夫妻に負けず劣らぬ動物好きの人にセルビアで会った。名はスルジャンといった。この男性は年のころ35歳ぐらいの元水球の選手だったがっちりした人だった。

 アランジェロバッツという古い町の丘の上のレストランに私たち夫婦、スルジャン夫妻、スルジャンのいとこ夫妻と一緒にお昼を食べに行った。このレストランは田舎の農家をそのままレストランにしてある。たくさんの動物がいた。ヤギ、ヒツジ、ニワトリ、豚、牛、ロバ、ポニー、七面鳥、犬。ここで不思議なことが起こった。

 まずお腹に赤ちゃんがいるポニーがスルジャンの後を追う。妊娠中のポニーはとても気が荒い。そしてヤギもヒツジもも牛もロバもスルジャンのあとをつける。スルジャンはときどき動物たちをさすってあげる。他の誰が試してもどの動物も無視している。ただスルジャンのそばにより、満足げである。スルジャンが言うには、スルジャンが子供のときから動物はスルジャンに向こうから近づいてきたそうだ。大きな樫の木の森の中、木洩れ日に浮かぶこの美しい光景に私たちは時がたつのを忘れた。当時時はいつNATO軍が空爆を開始するかという緊迫した情勢だった。そんな緊張の中、いろいろな動物がみな仲良くスルジャンと戯れていた。人間のおろかさばかりを感じた。仲良く生きたい。さがして見てください、あなたのまわりにきっといる不思議な能力の持ち主を。
(写真:上原さん夫婦と狸)


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夫婦問題 免疫力

2007年08月21日 | Weblog
 白血病に苦しむ友がいる。夫の両親の介護に10年以上明け暮れて、今年5月に倒れた。今は無菌室で面会謝絶の状態で病と闘っている。インターネットのおかげで友とメールで繋がっている。

  “ブログ楽しませていただいています。何もかもそれぞれに面白さが詰まっていて飽きません。これをいつか、エッセイ集として出されてはいかがですか?お話はいつも楽しくて主人もよくその話をします。私が忘れてしまったこともよく覚えていて『ほら、そう言ってたじゃねえか。』と言いつつ話し始めることもあります。
 
 私の病状は自分では順調かな、と思っているのですが、この〝急性〟がくせもので、病状がころころ変わるってことらしいのです。今週からやっと三回目の治療に入れました。一回目、二回目とも感染症のせいで一週間先延ばしになってしまったのですが、今回もまったく同じでした。

 今日で三日目ですが二回目よりは吐き気も少なく、過ごしやすいのでありがたいです。連続5日間なので土曜日の朝10時ころには終わる予定です。主治医も三回やって『寛解』を保っていればもういいでしょうとおっしゃっています。

 病室の都合でいつもより早めに明日かあさってには無菌室に入る予定です。三週間くらいいそこにいてから一般に移り白血球、血小板がどんどん自力で上がって、骨髄検査の結果を見て、OKなら退院できると思います。

 検査結果がだめならもう一回やるのでしょうか。そのあたりの話は先生からまったくされていないのです。先生も自信があるのかな?なんて勝手に思っています。

 この病気は完全に治ることはないともいわれました。ずっと『寛解』を保っているか、なかには免疫力で完全に治る人もいます。それは誰にもわからないといわれました。 そういわれて、実は私も安心したのです。安心というより、寛解ということがなぜ完治という言葉になっていかないのかとずっと不思議に思っていましたし、体中をめぐっている血液の中の一粒の白血病細胞も殺せるなんてことは素人の私でも無理じゃないかといううことくらい想像できました。

 しかし、私が言うようなことではありませんが確実に医療は発展していますよね?この次に再発してもきっとなにかもっとよい治療法が待っていると思うのです。私はまだまだやりたいことがあります。ずっと支えてきてくれた主人を悲しませるわけにはいかないのです。・・・これって免疫力につながりますよね?” 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夫婦問題 タオル

2007年08月20日 | Weblog
 私は散歩を日課にしている。駅までの散歩の途中で時々すれ違う老夫婦がいる。たぶん彼らも散歩をしているのだと思う。おそらくは障害があり、リハビリしているのかもしれない。

 おばあさんが先頭に立つ。おじいさんがたどたどしい足取りであとを行く。このおばあさんの表情がなんとも素敵なのだ。歩き方も少し猫背で静かにおじいさんに合わせている姿が可愛らしいのである。テンポがまたほほえましい。時々おじいさんにおくる眼差しが観音さまのように柔和で上品である。

 私がすれ違うときに「おはようございます」「こんにちは」と挨拶するとピョコンと夫婦で頭をさげてふたりとも、とてもよく似た笑顔を返してくれる。夫婦は長い年月を共に暮すと自然に風貌が似てくるという。ふたりがどんな人生を歩んできたのかは、知る由もない。

 いつしか私は散歩の出がけに、今日はあのふたりに会えるかな、と思うまでになった。会えるととても嬉しい。会えないと具合が悪いのかと心配する。広い町ではないが、私たちが会うのは不特定である。時間も決まっていない。いつか許可を得て写真を撮らせてもらおうと思っていた。

 今日、日傘をさしている女性の写真をとろうとカメラを持って外に出た。青山か渋谷に行こうと思ってバスに乗った。バスが信号で止まった。ふと歩道を見るとあの老夫婦が歩いている。思わずシャッターを押した。今日もいつもと変わらずゆっくりと一歩一歩足を地面に擦るように前に出している。温度があがっている。暑い日差しの中いつもと同じように歩いている。

 私は安心する。元気なふたりを見るとほっとする。今日もふたりの間をタオルが結んでいる。きっとタオルがふたりに歩きやすい間隔を与えてくれるのだろう。そのタオルをふたりの思いやり、やさしさ、目配り、気配り、手配りがビンビン流れているに違いない。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする