団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

サッカーワールドカップブラジル大会

2014年06月30日 | Weblog

 サッカーワールドカップC組でベスト16目指したザックジャパンの予選3試合が終わった。私は3戦ともテレビの前で応援した。結果は日本1-2コートジボアール、0-0ギリシャ、1-4コロンビアで敗退したがアッパレだったと私は思う。試合前試合後、スポーツ評論家やサッカー評論家やもどきがいろいろ騒いだが私は耳を貸さない。テレビの中継でもアナウンサーと解説者の喋りが邪魔だ。サッカーは、競技場でプレイする選手たちとスタンドから試合を観る応援団だけが臨場してこそ楽しめるスポーツの一つである。直接観戦できなければ、ラジオやテレビに頼るしかない。ラジオやテレビが視聴者のためにしなければならないことは、実況だけである。

 私は熱狂的ファンではないが、4年に一度のサッカーワールドカップの観戦が好きだ。4年に一度の開催を誰がどう決めたのかは知らないが、絶妙な間合いだ。長いようで短い。短いようで長い。しかしこれが毎年続くとなると今ほどの熱は入らない。オリンピックも4年に一度だが競技数が多すぎる。興味のない競技もある。その点サッカーのワールドカップはサッカー一種目だけだ。迷うことがない。

 サッカーの魅力は3つある。
①サッカーは国家の代理戦争と言われる。本当の戦争よりサッカーのほうがずっと良い。まず90分と戦う時間が制限されている。審判によりルールに則って即断即決される。今地球上には国際紛争がある。国際裁判所にさえ提訴できず、たとえ提訴してもダラダラと判決には気が遠くなるくらい時間がかかる。それら不合理不条理をサッカーの試合ではあっという間に判定される。そして両チームは審判に従わなければならない。違反すればレッドカードで一発退場である。このスピード判定と解決は快感である。

②ゴールキーパー以外手が使えず、足だけでボールを扱うことにある。人間は手をたくみに使える。足も脚も手のようには、思い通りに動かせない。歯がゆさがつのる。たった一個のボールを敵味方乱れる中、味方を見極め足だけでパスして繋げ、最後はゴールキーパーが立ちはだかるゴールの網の枠の中にシュートする。

③11人キーパー以外皆実によく走る。平均一試合でひとりの選手が約10キロ走るそうだ。黒人、白人、黄色人種あらゆる人種が走る。背の高い背の低い筋肉質の痩せ形の体型もいろいろ。信じる宗教も違う。十字を切る選手、イスラム教式に祈る選手。人種背景、宗教背景、文化背景が違う選手が蹴る。ぶつかる。走る。選手たちのスタミナに感心する。動き回ってチャンスを作り、待つ。選手のテクニック、才能、連携の巧みさに酔う。90分間の耐久レースは見どころ満載である。

 今回のワールドカップで初登場のフリーキックの時、ボールの位置と防御ラインを白色のスプレーを使って記すようになった。これによって試合の運びがさらに円滑になった。進歩である。またPKエリアで反則を取られぬように手を後ろに組んで胸で相手にぶつかる形が多く見られる。ベスト16が決まった。世界最高のサッカーを毎日楽しめる。

 サッカーワールドカップは世界のあり方のひとつの理想かもしれない。鹿児島で最終キャンプをした時、日本チームが乗っていたのは韓国のヒュンダイのバスだった。もちろんブラジルではどこの国のチームもヒュンダイのバスに乗っている。ヒュンダイは公式スポンサーでバスを提供している。負けて日本チームが帰国した時、空港の出口の看板はすべてサムソンの「お帰りなさい ギャラクシー」のものだった。日本が負けて唯一ベスト16へのチャンスがあったアジアからのチーム韓国対ベルギー戦で、日本のテレビはアナウンサーも解説者も本気で韓国を応援していた。

 スポーツはルールによって支配される。敗者は勝者を讃える。勝者は敗者を労い気遣う。試合後ユニフォームを交換する姿に野蛮さも恨みも憎しみもない。ルールに従い審判に服従した死闘があったからこその清々しさが漂う。闘争心と競争心に溢れる人間の本性の究極の姿に思える。日本のサムライブルーチームは正々堂々と闘い終えた。今回の結果は良くなかった。再度立ち上がればいいことだ。日本はあらゆる分野で成熟してきていると感じる。


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女性都議塩村文夏さんへの進言

2014年06月26日 | Weblog

  6月18日開催中の都議会において質問中の“みんなの党”所属女性議員塩村文夏さんへのヤジがセクハラだと塩村さんのツイッターが発端となって問題が広まった。5日後の23日突然ヤジの発言者が名乗り出た。自民党所属議員の大田区選出の鈴木章浩さん(51歳)であった。鈴木さんがセクハラ・ヤジを発したのは、言語道断である。下品でさえある。私も家でテレビを観ている時は実に品のない罵詈雑言を画面の嫌いな出演者や自分と違う意見を主張する者に浴びせる。私にも機会を与えられれば、鈴木さんと同じことを仕出かす要素は十分ある。そうしたら私は人間失格だと自分をいさめている。自己管理こそ人間の教養の果実である。妻にも私と同じ危険がある。男も女も関係ない。口はいかようにも利ける。家の外では決して言えないことを口にするのは、自分の家の中で他の人に聴かれないなら、ストレス解消になる。家の中、夫婦の間でのみ許されることだ。議場という政治の場での塩村さんへの礼を欠くセクハラ・ヤジは許せない。私生活と公の区別がつけられない議員に政治は任せられない。

  なぜ塩村さんは、ヤジを受けた時、ずっと原稿を読むために下を向いていたのに、一瞬ヤジが来た方向に目をやりジャパニーズスマイルを顔に浮かべ、再び原稿に目を落としたのか。彼女は議場の演壇に立っていた。オーケストラの指揮者のように議員席を見渡せる位置である。ヤジが誰から発せられたものか見分け聞き分けられる場所に彼女はいた。それにもかかわらず、彼女は一瞬そのヤジの方向を一瞥しただけだった。

  あのヤジが耳に入った時、「自分は自分に票を投じてくれた人々、とりわけ結婚に踏み切れない、出産を躊躇せざるを得ない女性の代表として演壇に立ち質問をしているのだ」という意識が、塩村議員を支配していたなら、ジャパニーズスマイルも、目を伏せはにかみの表情も出番はなかった。議員としての適性と意気込みと選挙で選ばれた代議員としての義務感が何より優先していれば、彼女はあそこで、しかとヤジを発した男を睨み付け特定することができたはずだ。今ではあまり見られなくなった日本女性のたしなみを議会の演壇で披露できたが、彼女の奥ゆかしさは弱さとなってしまった。ヤジを発した者を特定する初動がまったくなされなかった。

  嫌な事は、起こった時に即、対処することが解決の鍵であると私は自分の人生で学んだ。あの時点でヤジの発言者が特定されていたら、このセクハラ・ヤジ問題はまた別の進展をみせたであろう。その後この手の犯人探しが大好きなマスコミの加勢を得て世論が動き出した。外国人記者クラブは塩村さんを招いて記者会見を開いた。日本がいまだに男尊女卑の遅れた国である証拠だと言わんばかりのニュースが世界に伝わった。悪いことではない。私たちには反省して直していかなければならないことがたくさんある。ここで塩村さんが英語で質疑応答できていたらと私は残念に思った。議員たちは下品なヤジを飛ばしている時間があったら学ぶべきことはいくらでもある。語学、スピーチ、礼儀マナー、などなど。

  私は塩村都議に進言したい。もっと演壇でのスピーチを学むべきだ。発声、立ち振る舞い、表情、姿勢、視線、リズム、内容。NHK教育テレビの水曜日午後10時から放送される『スーパープレゼン』は良い教材になる。議員は良き熱血弁士でなければならない。顔を上げて話す時間を多くすれば、議場の他の議員の動向を把握しやすくなる。視力、聴力をよくする。必要ならメガネや補聴器を使う。まだまだオヤジたちの偏見に満ちた口撃は続く。目力、耳力を鍛え、肝っ玉を据えて政治の場に巣くう輩をモグラ叩きのごとくに懲らしめて欲しい。そして何より女性が結婚をしても良い、共に生活して幸せになりたい,女性自身の自由を犠牲にしたとしてもそれ以上の価値があると思える男性が増え、安心して出産して子育てができる環境を早急に築く活動を推し進めていただきたい。

 


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『大人の休日』と新幹線の隣の席にウサギ?

2014年06月24日 | Weblog

  東日本大震災以降、購入しなかった『大人の休日』(4日間乗り放題 JR東日本全線+JR西日本北陸エリア 17000円)を今年4年ぶりに買った。

 妻と一緒なら3箇所で宿泊してあちこち行けるのだが、妻はまだ働いている。条件がちと厳しい。毎日妻が勤めから帰宅する午後6時27分までに戻らねばならない。4日間日帰りである。歳を重ねるたびに長時間電車のシートに座っているのがつらくなった。面の皮は厚いのに尻の肉は薄いせいだ。特に心臓バイパス手術などで半年くらい入院してから長く座っていられなくなった。それでも新幹線に乗るのは、好きだ。空中を飛ぶ飛行機、水に浮かび航行する船、道路を走る自動車。鉄道は2本のレールの上を走る。飛行機や船や自動車の進行には、大きな自由がある。鉄道である新幹線はレールの上を走るしかない。その不自由さをものともせず、ただひたすらに力強く走る姿が好きだ。

  妻は新幹線通勤を9年2箇月続けている。私は新幹線で通勤する妻が羨ましくてたまらない。ところが妻はほぼ毎日新幹線に乗れることを少しも喜んでいない。長距離通勤に疲れている。世の中思うようにはいかない。新幹線に興味も愛着もない妻が日常的に乗車できて、新幹線が好きでたまらない私が年に数回しか乗れない。だからたとえ4日間であっても、乗り放題は私にとって見逃すことのできない機会なのである。期間は18日(水)から21日(土)に決めた。ワールドカップブラジル大会が始まっているので乗客は少ないと読んだ。

  1日目は山形県の米沢、2日目は朝4時に起きて富山へ、3日目は仙台へ、4日目は下田が目的地だった。

  3日目の仙台からの帰りのことだった。福島から新幹線『やまびこ』号の自由席車両に十数人の黒いスーツの男女のグループが乗り込んできた。皆一様にキャスター付きで二段重ねの旅行ビジネスバッグを持っていた。空席はたくさんまだあった。私は2席シートの窓側に座っていた。30歳代後半の男性が私のシートの通路側に座った。せわしなく立ったり座ったりしてバッグを荷物棚に3回に分けて上げた。私はスティーヴン・ハンターの『極大射程』の(下)のまさにクライマックスといえる部分を読んでいた。『やまびこ』のなめらかな300キロ近い速度と推進力に身を任せ、本の世界に没頭していた。福島から乗った隣の客は、私の集中力をチリチリバラバラに乱した。座ったと思った男性は次にスーツの上着を脱ぎ、折りたたんで棚に上げた。座ったかと思うとまた立ち上がって、今度はバッグからパソコンを出した。パソコンを座席の前のテーブルにセットした。また立ち上がって丸い筒と“お~いお茶”のペットボトルを出した。

  もう落ち着くだろうと私は『極大射程』の福島到着手前で涙したページに戻ろうとした。「crunch,kuranch」「カッカッカリカリ、カッカッカツ、パリパリ」 私は耳を疑った。見てはいけないと思いながら隣の乗客を見た。男性は円形でカウボーイハットのヘリのように反り上がったポテトチップを両手で押さえ、ウサギやリスのように前歯で超高速でポテトチップを粉砕し、両手で口の中に送り込んだ。一枚食べてはそのままの手でパソコンを操作した。新幹線の座席テーブルは小さい。脇に置かれたポテトチップの丸い高さ14センチ程の容器が新幹線のわずかな振動で転がる。男性がまた立ち上がってポケットからキーホルダーを出してポテトチップの容器の歯止めにした。両手を擦り合わせてからパソコン操作。そしてポテトチップ、パソコン、ポテトチップと繰り返される。窓から景色を見るふりをして笑いを噛み殺していた。宇都宮でウサギさんはポテトチップを食べ終わった。大宮で男性は仲間とどやどやと降りて行った。

 『大人の休日』のお蔭で新幹線乗車を堪能できた。尻も痛いを通り越していた。疲れた。妻の新幹線通勤の苦労を身を持って体験できた。妻は時々隣り合わせに座る乗客の話をいろいろ面白おかしくしてくれる。今度は私の番だ。ウサギのようなポテトチップの食べ方をした落ち着きのない男性の話は、きっと妻を笑わせるだろう。


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119と110

2014年06月20日 | Weblog

17日、大吉と大凶が続けざまに私を訪れた。

  大吉:午後1時少し前にパソコン119番がわずか10数分で私のパソコンを復帰させ使用可能にしてくれた。私は自分の運の良さに有頂天だった。以前メーカーに送って修理してもらうのに手間と時間がかかった。パソコンは衰えゆく私の脳を補ってあまりある。日用必需品である。パソコンなくして私の記憶も創造も平常、正常を保つことなどできない。それが直って元通りになった喜びは大きかった。

 大凶:パソコン修理が終わり、私は早速18日のブログの続きを書き始めた。普段は朝起きてから書く。何しろ明日からは“大人の休日 4日間乗り放題”に6時51分発の普通電車から私の休日が始まる。几帳面といえば、聞こえが良いが、ただの自分で決めた約束事を破れない小心者なのだ。融通が利かない。偏屈オヤジの典型である。鳴るはずもない携帯電話がどこかで振動し始めた。普通私があちこち探し回っているうちに携帯電話は事切れる。今回はいつまでも切れない。カバンのポケットに携帯電話があった。「どうやるんだっけ」と独り言。「もしもし」「何かあったの?」長女からだった。いつも長女からの電話は、孫が救急車で運ばれたとか孫に関わる緊急を知らせる電話だ。「はッ?」と私。「警察から私の携帯の留守番に・・」 警察、私と警察。「?」「交番に通帳が届いているので、まず電話して。番号は、・・・・の0110」 私の妄想は果てしなく暴走を始めた。

 通帳と聞いて私は茫然自失。気を失ったように全身から力が抜けた。

  実はパソコン119番が午後1時に来るというので、妻から頼まれていた年払いの保険金が妻の預金口座から引き落とされているか確認に電車で隣の駅前にあるその銀行のATMへ出かけた。ATMで記帳して、ついでにカードで他銀行へ振込みもした。通帳から振り込みはできない。記帳の終わった妻の通帳を他の私の通帳など計5冊の通帳をケースに入れ、機械の脇の隙間に置いて、カードを入れた。振り込みを、番号を復唱しながら終えた。カードでの作業は緊張する。「カードを取り出したか?きちんと財布にしまったか?現金は?」不安と緊張と恐怖でパニック状態になる。この時点で脇に置いた通帳のことは完全にきれいさっぱり忘れていた。外にはおばさんが「早くして」の顔で待っている。一応目で機械まわりを点検してが、通帳を入れているケースは周りの塗装と同系色だったため、見えなくなっていた。重いドアを開けて外に出た。「これで帰ればちょうどパソコン119番に間に合うな」と電車に乗って帰宅した。パソコン119番の対応に間に合い、無事パソコンが直った。

  長女から聞いた電話番号に電話した。本署だった。駅前交番へ電話するように言われた。女性警察官が親切に対応してくれた。身分証明書と印鑑を持って取りに来てくださいと言われた。私はすぐ出かけた。バス停まで歩き、バスを10分待って駅へ。電車を17分待って隣駅に着いた。朝とは違い重苦しい自分を責める気持ちで両肩が下がり、猫背になっていた。20歳くらい老けた。交番で手続きをして通帳が手元に戻った。

  妻にではなく長女に連絡がいったのは、ケースの中に長女への振込カードが入っていて、そこに長女の携帯の電話番号があったからとわかった。届けてくれたのは20歳代の若い女性で氏名住所も言わず、「お礼も受け取る気はない」と立ち去ったという。やはり日本では落とし物や忘れ物が戻るというのは本当だった。私はただ運が良かったのかもしれない。

 それにしても通帳を届けてくれた若い女性に直接「ありがとう」と言いたかった。大吉から大凶へ、そして何とか大凶も彼女と警察のお蔭で吉で終わることができた。119と110の両方に助けられた1日だった。疲れたが18日からの“大人の休日”には出かけられそうだ。感謝。


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ワイヤレスはストレスフル

2014年06月18日 | Weblog

  私がブログなどの書き物に使っているパソコン、ソニーのVAIOが壊れた。ワイヤレスのキーボードとワイヤレスのマウスを操作する。モニターに初期画面は出現する。中央付近にマウスに連動する矢印の⇧はある。あるけれどマウスを縦に動かして横に滑らせても丸を描いても微動だにしない。どうして良いのか途方にくれた。18日(木)からJR東日本の“大人の休日 4日間乗り放題  新幹線を含む”に出かける。18日の朝載せるブログを書かねばならない。

  このVAIOを買う時、販売店の担当者は親切で面倒見の良い人だった。パソコンに精通していて、購入後の立ち上げも自分の休みの日に私の家に来て無料でやってくれた。ワイヤレスのキーボードとマウスが気に入らず、「無線より有線のほうが、私のようなパソコン初級者は安心だ」と言った。彼は「大丈夫ですよ。何かあったら私がすぐ来て対応します。それにワイヤレスは故障しません。ほとんどが電池切れです。ハ、ハ、ハ」と豪快に笑った。(この人ならすぐ駆けつけてくれるだろう)と了解した。5年間の保証延長も有料で契約した。

  VAIOを購入してから1年3箇月経った。その間一度も問題は起こらなかった。販売店の担当者は県外の店に転勤した。パソコンの画面に頻繁にSONYからの「ユーザー登録はお済ですか?」のお知らせが出てくる。その度に私は「後で登録」をクリックする。

  今回パソコンが使えなって最初に試みたのは、ワイヤレスなのだから有線に戻せばよいのだと、以前使っていたパソコンのキーボードとマウスを探した。物置を引っ掻き回して発見。妻の「捨てて」に抵抗して、捨てなくてよかった。マウスを接続。矢印が動いた。歓喜の雄叫びをあげる。やはり実際に線で結びつくのが一番だ。つながりこそ絆だ。続いてキーボード。しかし古いキーボードの有線差し込みの受け入れ口がデスクトップパソコンのすべての口に一致しない。がっかり。

  SONYに電話で相談することだった。購入時、梱包の中に入っていた使用ガイドブックや説明書を調べた。お客様デスクの電話番号を見つけた。虫眼鏡で拡大して電話番号の下の文を読んだ。「お問い合わせにはユーザー登録番号が必要です」 私には登録番号はない。更にその下に「インターネットでのお問い合わせにも登録番号が必要です」とある。インターネットは使いたくても私のパソコンでは文字や数字を打ち込むことができない。道はふさがれた。

  購入した店にも行ってみたが、あの親切な店員に代わるような対応はなかった。私のパソコンの現状説明が下手なのか「パソコンをお持ちいただいてメーカーへ送っての修理になります」とも言われた。今日中に直して明日のブログに間に合わせたい。車に戻った。

  車をスタートさせると「そうだこの間見たパソコン119番へ電話してみよう」とひらめいた。家に戻って電話案内で番号を尋ねた。“パソコン119番”と言っただけで番号を教えてもらえた。電話すると「今日は忙しいので午後1時になりますがよろしいですか?」との返事。口ごもってどう説明しようかと迷っていると「お伺いして見せていただければ対処できます」との頼りがいのある答え。

  12時45分到着。髪の毛が薄い黒縁メガネの40歳くらいの男性がアタッシュケースとキーボードを脇に挟んで早速パソコンに向き合った。運動不足解消と腰痛防止に私はバランスボールを椅子代わりに使っている。119番の男性はボールをそっと動かして立ったまま仕事にかかった。10分後「直りました。接触が悪くて電波が同調できなかったようです」 パソコンは私にとって永遠にブラックボックスである。いとも簡単に修理して私のパソコンを復活させて使えるようにしてくれた。4000円が安く感じた。

  今日は良いことがあるかもしれないと有頂天になった。しかしすでにこの時点でとんでもない老化による震撼する出来事に気が付いていなかった。続く。


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サッカー移民選手と家事手伝い

2014年06月16日 | Weblog

  50年後日本の人口は8674万人に、そして100年後4286万人になるとの予測が発表された。そのころ私が生きているはずがない。この数年さえわからないのだから。だからと言って知らんふりもできない。人口減少を人為的にどうこうしようと躍起になること自体、政府の無為無策の証拠である。ここへきて移民という策を持ち出した。厄介なことに日本は単一民族国家で排他的である。「オ・モ・テ・ナ・シ」などと表では言うが、裏に回れば問題山積みだ。政府は移民などと容易く口にするが、日本という国は移民を受け入れられる素地がないと私は思う。

 提案がある。書生制度を復活させる。書生とは広辞苑の電子辞書版によると“(明治・大正頃の用法)他人の家に世話になり、家事を手伝いながら学問する者”とある。学ぶ機会がない世界の若者を招聘して、篤志家の家に住み込み家事を手伝ってもらう。篤志家は渡航費と生活費、学費、小遣いを負担する。篤志家の選定は一定の基準を設ける。税金を完納しているか、書生を受け入れる住居環境、受け入れ書生との言語疎通レベル、犯罪歴の有無など。手始めに書生制度の原点である国会議員が一人の書生を受け入れる。どこの国からでも議員が選んだ国から書生を迎える。期間は1年間から5年間くらいを目安とする。2,3年間でも議員が書生を迎え入れれば、実体験を通して移民という難問に対処する知恵を得るであろう。衆参両院で717名の国会議員がいる。経費は自己負担が理想である。国会議員のことだ、この案件が実現すれば、お手盛りで経費以上の予算を分捕るだろう。私はそれでもこの経費は日本国の将来に大きな希望を与えてくれると信じる。

  最初から移民とか家事手伝いなどとことを性急に進めるべきではない。まずは外国からの留学生を書生として受け入れる。書生は学門する者なのだから、必ず学校に所属する。年代でいえば15歳以上20歳未満で中学、高校、大学、専門学校、職業訓練校が候補となる。家事手伝いだけの専業だと家庭という閉鎖的な空間に押し込められてしまう。どんな制度でも必ず悪用する者がいる。犯罪につながる可能性もある。過度な労働の強制、性的犯罪の心配もある。もし万が一、書生が何か違法な扱いを受けた場合、学校に所属していれば、学校を通じて訴え出ることができるようにする。

 私はネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジアで家事手伝いを雇った経験がある。日本人の多くは西洋人、特に英国人、フランス人と比べ家事手伝いを使うことになじめない。西洋人のように主人と使用人の分別を徹底できない。私はそれを悪いこととは思わない。だからこそ書生としての外国人の受け入れを提案するのである。家事手伝い専業者を受け入れるよりは、日本で学問や技術を学ぶ若者を援助するための見返りとして家事を手伝ってもらう。日本人にはそのほうが合っている。

 戦後ずっと人口の減少問題に対策を講じてこなかった結果がじわじわと日本の未来を脅かし始めてきた。15日日曜日のブラジルでのサッカーワールドカップ、日本対コートジボワール戦その他の試合を観ていても、日本以外のナショナルチームの多くが移民の選手を抱えている。そんな日本でも監督はお雇い外国人である。少しずつではあるが変化してきている。いつか日本のサッカーナショナルチームにも書生制度で日本に留学し帰化した選手が活躍する日が来るかもしれない。日本という小さな島の国の単一民族である国民が一番恐れているのは、他国、他民族、他宗教、他文化に凌駕されてしまうのでという妄想ではないだろうか。この小さな島国を、貧しく産業も発達していなかった国を、ここまで発展させた自信を持とう。書生が近い将来SHOSEIと世界に通用する新たな日本語に仲間入りすることを夢みる。


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USJ光のパレードを観る少女

2014年06月12日 | Weblog

  幻想の世界か?イヤ現実だ。私は妻と並んで光のパレードを観ていた。

  パレードを観るのが目的だったのではない。妻が所属する学会の懇親会の会場を探していた。やっと妻がパーティガイドに載せられた地図を見ながら「あそこだ」と通りの真向いの建物を指差した。たった2,30メートル。渡れない。パレード中は渡れないらしい。妻が一度出し物と出し物の間隔を縫って横切ろうと私の手を取り引っ張った。アルバイトの警備員が両手を広げて私たちをブロックした。仕方なく最後尾の出し物が通過し終わるまで待つことにした。

  体が大音響に同調して震える。小さな耳の穴から入りきれない音波が脳の機能を低下させる。目は点滅する無数のLED電球の光を浴びてチッカチカ。もう9時近い。腹はペコペコ。一人修学旅行を気取って日中歩き回って脚の筋肉はパンパン。ここへ来るまでに3人の作り笑顔がぎこちない配置された制服に身を固めた女性にパーティ会場『E』を尋ねた。3人それぞれの案内に従ったが『E』にたどり着かなかった。怒り心頭。「東京ディズニーランドと全然違うではないか。ダサイんだよ」と拗ねた。私たちのすぐ前には20代の二人の太めの女性が大音響の音楽に合わせて上半身だけで踊っていた。「チェッ」と舌打ちして斜め前の少女に目が行った。パレードの出し物はちょうどシンデレラだった。

 3メートルくらいの光り輝く台の上に本物の人間、金髪の白人女性がすその長いドレスを着て立っていた。満面に笑みを浮かべている。その数段下の台には背が高い見映えのよい白人男性扮する王子さまが。「子供騙し」だとひねくれた。ふと横の少女が気になった。一人でパレードを観ていたからである。親は?と探したが周りにそれらしき大人はいなかった。女の子は7、8歳に見えた。少女はシンデレラにくぎ付けである。男の子が車や電車に夢中になるように、少女はシンデレラの世界に100%入り込んでいる。ユニバーサルスタジオで観たどのキャラクターより私の心を捉えた。純真、無垢な姿だと感心した瞬間、私は吉田有希ちゃんを思い浮かべていた。このパレードのシンデレラを見入る少女と同じくセックスと一切つながる事のない清純な世界に生きていた吉田有希ちゃんが、犯人の性欲の餌食になり、あげく殺されてしまった。有希ちゃんは東京ディズニーランド、大阪ユニバーサルスタジオで光のパレードを観たことがあったのだろうかと。

 私は自分に怒りを持った。罰当たりジジイと罵った。66歳までダラダラ生きて、これは面白いの、あれはツマラナイと文句ばかり。感謝しらずの典型である。横の少女が吉田有希ちゃんに見えてきた。胸がいっぱいになり目頭が熱くなった。隣の妻も少女に負けないくらいシンデレラに想いを馳せていた。妻の7,8歳の姿を想像した。

  両親が離婚して途方にくれていた私の二人の子供を連れて東京ディズニーランドへ行ったことを思い出した。12歳だった男の子は何もかも忘れてジェットコースターなどの乗り物に夢中になった。8歳の女の子は白雪姫、シンデレラになり切っていた。二人は成人して家庭を持ち子育てに追われている。これ以上何を望むというのか。

  ユニバーサルスタジオへ行けたお蔭で、ゴウツク爺さんの不純な心が一人の少女の姿に洗われた。申し訳なく吉田有希ちゃんの死を悼む。


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50年遅れのひとり修学旅行

2014年06月10日 | Weblog

 奈良の法隆寺の山門近くに私はいた。続々と駐車場にバスが入る。修学旅行の学生たちである。旅行社の添乗員か教師か、旗を掲げて先導する。制服を着た男女生徒がペチャクチャ賑やかに、はしゃぎ、ふざけ、私の目の前を通過する。私は立っていられなかった.

  おおよそ50年という歳月を遡った。私は高校の修学旅行に参加できなかった。その修学旅行は関西方面だった。元気溌剌ピチピチと弾けるような若さが私に迫った。通り過ぎる生徒を50名の私の同級生に当てはめた。順番にアイウエオ順に。7名が鬼籍に入った。思い出すひとり一人の顔は高校の入学式の記念写真の時の顔である。ジーンと目頭が熱くなった。

   当時同級生も私も若かった。その後1年で大学受験や就職という転機を迎えた。長野県の一地方都市の県立高校から全国に散らばった。私は日本から飛び出してカナダにいた。皆、夢と希望でいっぱいだった。難関大学に進学した優秀な者も多かった。できる生徒も私のようにできなかった生徒も、それぞれがそれぞれの人生を歩んだ。あれから50年経ってしまったのである。

  ガヤガヤと法隆寺の五重の塔へ向かう生徒に同級生の名前をかぶせて数え終えた。それでも尚、列は続いた。旗に「横須賀」の文字を見つけた。生徒たちはこれから私や私の同級生と同じく世の中へ出てゆく。それぞれにそれぞれの人生が待ち受ける。50年前の私と私の同級生と同じように。

  私はぞろぞろ続く修学旅行の生徒の列とは逆に歩き始めた。路線バスに乗って駅に戻り、奈良駅に向かった。生徒たちのお蔭で50年前に戻れた。修学旅行に皆と一緒に来ることができなかった。カナダへ渡ることを選んだ。同級生とは違う変わった道を歩んだ。高校ですでに才能や学力を限られた時間内に見事に発揮できた同級生からはるか後方から追いかけた。学力、健康で遅れをとった私も時間はかかったが英語で生計を立てるまでになった。結婚して二人の子供に恵まれ、そして離婚した。二人の子供を引き取り育てた。再婚して妻と海外で暮らした。糖尿病の合併症で狭心症になり、心臓バイパス手術を受けた。近代医学によって救われた。今はオマケの人生を穏やかに機嫌良く生きようと妻と話し合って決め、日本に帰国した。

   日本に帰ってきて湘南の地に終の棲家を得た。10年が過ぎた。同級会に出るたびに、同級生たちと会うたびに私は懇願していたことがある。「私が皆と行けなかった修学旅行と同じ日数とコースで私を関西に連れて行ってくれ」何人かが賛同してくれた。期待して待った。時間は過ぎる。結局、何も起こらなかった。

   遂にひとり修学旅行を今回妻の大阪での学会に同行して実現できた。法隆寺の後、東大寺、若草山、春日神社を巡り、次の日、京都、姫路にも行った。観光名所、史跡が目当てではなかった。私の年表の中に抜け落ちていた項目があった。パズルを完成させる最終段階にどうしても埋められなかったピースがパチンと納まった。何ごとに於いても遅れをとっていた私だが、遅まきながらやっと追いつけた気がする。私の終活に弾みがついてきた。

 

 


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初夏の魚群とアオサギ

2014年06月06日 | Weblog

 散歩の楽しみのひとつが川を覗き込んで魚を探すことである。散歩コースは川に沿っている。散歩の途中に魚が群れになって泳ぐのを観察できる場所が2箇所ある。

  1箇所は排水溝から川に排水が1.5メートルの高さから流れ込む場所である。流れ落ちる水の力で滝つぼのように深い。そこは川の本流ではない。約20メートル下流で本流と合流する。下水道の普及で排水溝の水もずいぶんきれいになってきた。そこの深みにたくさんの小魚がいる。

  もう1箇所は海まであと100メートルぐらいの場所に架けられた幅20メートルの歩道橋の上である。川と海に面する近くの下水処理場から処理された水が勢いよく川に流れ込んでいる。そこにも魚が群れをなしている。下水処理場といえばニオイが懸念されるが最近の技術は進んでいるらしく鼻が良い私でもほとんど嗅ぎ取れない。

  毎年5月初旬から6月にかけてアオサギが子育てをする。今年は7つがいがそれぞれの巣に数個ずつ卵を産んだらしい。卵の数は確認できていない。親鳥はせっせと私の散歩道に沿って流れる川で餌の魚を捕まえている。私はアオサギの親鳥が魚を捕まえるのを見るのが好きで、じっと立ち止まって観察する。アオサギは臆病なのか警戒心が強く私が10メートルぐらい近寄ってもすぐに飛び立って移動してしまう。それでも木の陰や建造物の物陰にうまく隠れると結構近くから魚の捕獲の一部始終を観察できる。

  アオサギにも魚を上手に捕まえられるのと下手なのがいる。アオサギは顔に表情がない。眼も冷たい感じである。捕獲に成功しても失敗しても一喜一憂したりしない。私はアオサギが見事に魚を捕えた時は「ヤッター」とか「ドンナモンダイ」のような素振り身振り表情を期待してしまう。ダメだった時は「チェッ」とか「シマッタ」の反応を期待している。結局いつも見学する側の私がアオサギの代りに大げさに一喜一憂を顔と動作で表す。

  感心するほど、どの親鳥も辛抱強い。流れの中に佇んで微動だにせず、長い時間立ち尽くす。獲物の魚を発見すると首と頭と嘴を電光石火、水中に突っ込む。魚を横掴みして首を起こして空高く上げる。横になっている魚を器用に縦にして、長い首の中にしまい込む。おそらく鵜のように獲った魚を数匹胃に入れ溜め、巣に戻ってヒナたちに吐き戻して与えるのだろう。こうして一日中ヒナのために魚を捕まえて巣と川を往復する。

  この川は6月8日に鮎が解禁となる。毎年解禁日の数週間前に養魚場から運ばれた鮎の稚魚が放流される。新聞にどこかの川で放流された鮎の稚魚がカラスの絶好の獲物になっていると写真入りで記事になっていた。まさにアオサギの子育てを支援するかのように鮎が放流される。ヒナたちはだいぶ成長して巣の中で立ち上がると親鳥と同じくらいになっている。あとは産毛が生え変わり、飛ぶことを会得し、川でエサの魚の捕獲を習えば、晴れて独立して新しい縄張りを求めてこの地を離れる。

  毎年繰り返されるアオサギの生態の一環を今年も観察することができた。若い頃はこんな風にじっくり観察できなかった。私は離婚後ひとりで子育てしたが、その前にアオサギや動物の子育てを観察していたなら、私の子育てに大いに参考になり励みになったと思う。皮肉にも順番が逆さまになってしまった。人間が自然から学べることはたくさんある。


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吉田有希ちゃんの笑顔

2014年06月04日 | Weblog

 袴田死刑囚の再審が認められ、袴田さんは即日釈放された。死刑判決が言い渡されて48年が経つ。48年という年月は私の人生でいえば、3生分に当たる。最初の結婚の9年間、離婚して独身に戻った13年間、再婚して今日までの23年間。それでもあと3年間余る。私が自分の人生を遡っても、その膨大な時間に圧倒される。その48年間をたった2畳の狭い、しかもトイレと洗面が一緒の空間に閉じ込められた生活を想像することさえ私にはできない。私の人生を波乱万丈であったなどと言うことはなんともおこがましい。

 冤罪であったならば真犯人は今どこにいるのか。この事件では4人が殺され犠牲になった。完全犯罪なんていうものが存在するのか。私は日頃、巡り合わせというか偶然の重なり合いに言い知れぬ不可抗力を感じる。私はもちろんのこと、多くの人は日常生活において「もし間違って犯人にされたなら」などと警戒して暮らしていない。本人は何気なく無防備で取った行動、例えばパチンコ屋に行ったから、ポルノのDVDを借りたから、防犯カメラに自分が所有する同じ色で車種が映っていたからと逮捕の決め手にされてしまうことも有る。法治国家といえども、司法が嘘と真実を水と油のように分離させることは難しい。嘘は真実を融解し闇に葬ろうと悪魔と化す。人が人を裁くことはできないのかと私は弱気になる。

 ちょうど『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(清水潔著 新潮社 1600円税別)を読んでいる最中に袴田さんの再審決定と釈放のニュースが飛び込んできた。このニュースに後押しされるように一気に『殺人犯はそこにいる』を読み上げた。清水潔さんの自分の足で歩いて情報を集める地道な記者魂に感服する。清水さんのような記者がいることに元気づけられた。間違いなく力作だ。

  私は殺人事件でも子供を殺す犯罪に強い嫌悪感と殺意に近い怒りを持つ。死後の世界を信じられない私だからこそ、犯人の身勝手で非人間的な欲望の犠牲になった幼い命を“甚大なる無駄な死”と地団駄を踏む。特に幼児性愛者による女の子の殺人には我慢がならない。おそらく自分にも娘がいるせいだ。もし我が娘が、と妄想して自分を見失う。

  栃木県今市市(現日光市)で平成17年12月当時7歳だった吉田有希(ゆき)ちゃんが下校途中に行方不明になり茨城県の山の中で刺殺体となって見つかった。事件から8年半が経過している。先日も妻とテレビでニュースを観ていて「栃木の小学生の女の子を殺したとほのめかしたという別件で逮捕された男について、その後何も報道がないね。どうしていつもこう尻切れトンボで視聴者や読者を置いてきぼりにするんだろう」と話したばかりだった。本人が犯行をほのめかしても物的証拠がなければ、逮捕立件できない。冤罪判決が続出する中で警察も慎重に捜査を続けているに違いない。昨日6月4日、数か月前に報道された別件逮捕された32歳の男が逮捕された。物的証拠がないという。真犯人なのか疑問が残る。まだ真犯人に有利で被害者側に不利な構図は払しょくできない。

  犯罪から幼子たちや女性を遠ざけるには、それなりの自覚と計らいが社会全体に必要だ。家族に限っても、自分以外に妻や子供や孫たちまでを野放し状態の犯罪者から守ることなど私には難しい。油断も隙もあったものではない。今まで海外でも日本でも最も有効だったのは、幼い子供でも女性でも、絶対に一人にさせないことである。自分本人にも当てはまる。それには金がかかることもある。安全は金で買えることが多いということも体験を通して学んだ。私たちは常に犯罪との闘いを強いられている。知恵比べ、根気比べである。

  テレビに映し出される吉田有希ちゃんの笑顔が切ない。


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