団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

甘平、八朔、伊予柑のパサパサ

2019年03月29日 | Weblog

 今、店にはイチゴやミカンが溢れるように並べられている。イチゴだと、あまおう、とちおとめ、あかねっ娘、紅ほっぺ、女峰…。ミカンなら、甘平、八朔、伊予柑、せとか、清見、デコポン、…。あまりの名前の多さに戸惑う。毎年次から次へと新しい名が増える。

 私がチュニジアに暮らしていた時、トムソンという美味しいオレンジがあった。市場の果物屋でいくら「トムソン」と言っても外国人の私がトムソンを買うことはできなかった。オレンジは外見だけで見分けることができない。イチゲン(一見)の客でしかない私のような客は良いカモである。売る側は客の私がトムソンを求めれば、トムソンだと言い、サムソンだと言えばサムソンだと言って売りつけようとする。向こうは必死である。かくして私は住む国住む国の市場で売り手に騙され続けた。私は自分が売るのは下手だが、買う側としては騙されやすい良い客だと自負している。セネガルには実に美味いパパイアがあった。パパイア・ソロという。果肉がサーモンピンク色だった。しかし絶対に外見で区別がつかなかった。買ったパパイアの三分の二はパパイア・ソロではなかった。どんなに騙されても私はパパイア・ソロにこだわった。それほど美味かった。私は諦めて、どうしても欲しい特定の果物は現地の友人に頼んで買ってもらっていた。こだわりこそ、ご馳走の醍醐味である。ご馳走は狩りのようなものと捉えて、日々どこの国でも市場を夢中になって駆け回った。

 人の嗜好はそれぞれだ。だからこそこれだけ色々な種類が市場に出回る。私はミカンでは甘平と八朔と伊予柑を好む。そのわけは、この3種類端の一部にパサパサのところがある。なぜか子供の頃からミカンのパサパサが好きだった。そのパサパサも全体だとダメなのだ。適度に端にパサパサが配置されていれば、最高である。その割合が重要なのである。それを叶えてくれるミカンが甘平、八朔、伊予柑である。文旦もパサパサが多くていいのだが、手に入りにくい。甘平は比較的新しい品種だと思う。ポンカンと西之香の掛けあわせだそうだ。八朔は甘くもなく苦みも適度に入っていてよい。パサパサにも満足。伊予柑は味やパサパサだけでなく、名前に魅かれた。私が4歳の時亡くなった母親の名前が「いよ」。幼い頃から「いよ」という響きに敏感だった。消えた母への恋慕は、留まることなく拡大するばかり。伊予柑というミカンを知った時は衝撃的だった。名前だけで胸がいっぱいになった。私も大人になり、「いよ」の響きに反応が薄れてきた。伊予柑が普及して手に入りやすくなった。伊予柑はただフルーツとして受け入れられるようになった。美味いミカンだ。

 綺麗で明るく、衛生的で設備も整った日本のスーパーマーケット、デパート、専門店での買い物は、信用でき便利である。甘平か、あまおうかと問うても騙されることもない。種類別に区分けされていて、選ぶことで間違えることもない。きちんと表記もされていて、値段も付いている。でも物足りない。私は特別扱いされたり、チヤホヤされたりするのが好き。お得意さんになって顔見知りになっていろいろな情報をもらうのが好き。おしゃべりが好き。特に市場や店で顔なじみになった人たちに会うのが好き。騙されても騙されても、信頼できる売り手の人に出会うまでの紆余曲折が好き。そうやって自分のこだわりを押し通して手に入れたモノを口にするのが好き。

 今まで住んだところで知ってしまった美味に未練はある。でもこうして日本へ帰国して、日本の美味しいモノにこだわりを持って探し求めるのも、また乙な暇つぶしである。歳をとり、足腰が弱くなって、遠出ができなくなってきた。ネットでの買い物が多くなってきた。どこからでも探しているを見つけ、注文すれば配達日、時間指定で届けられる。便利であるが、そうすればするほど、過去に出会ったゴミゴミして不衛生でだまされながら泥だらけになって狩りをするように市場を歩き回った日々を思い出す。無いものねだりな罰当たりなことかもしれない。そう思いながら、このブログを書きながら、今年最後になるであろう一つ残った甘平を食べきった。美味い。


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貴乃花と手刀

2019年03月27日 | Weblog

  先日、駅のトイレに入った。出てくる時、狭い通路で図体の大きな中年男性がノッシノッシとこちらに向かって来た。体を触れさせないで通り過ぎるのは不可能に見えた。私は少し広い場所で立ち止まって待つことにした。男性には私にそうさせるほどの威圧感があった。男性が私の前に来た時、「すみません」と言って、大相撲の力士が見せる手刀を切った。珍しい。まだこんなことをする日本人がいたのだ。何だか私は嬉しくなった。

 カナダ留学中、10代後半の私は、グレイハウンドバスで旅行した。バスは数時間に一回休憩するためにバスターミナルに停まる。ある時、真夜中の午前1時頃、ターミナルのトイレに入った。有料トイレだった。子供が二人いた。身構えた。バスターミナルにはホームレスや不良がよくいた。子供の一人はインディアンだった。彼は私を見て、微笑んだ。そして有料トイレのドアの下にリンボーダンスの姿勢で潜り込んだ。そして中からドアを開けた。「ブラザー、プリーズ」と言って、手のひらを上にしてうやうやしく腕を高級レストランの給仕のように促した。あっけにとられた私は、礼も言わずに中に入って鍵をした。私は白人の国で自分が白人でなく、インディアンと同じ有色人種であることを痛感した。しかし決して卑屈に感じなかった。むしろ太古からのつながりを強く感じた。

 日本にもどこの国にも習慣やしきたりがある。ともすれば日本では自虐的に日本の古い文化をけなすことがある。手刀もその一つだそうだ。多くの欧米人に「すみません」や「失礼させていただきます」の気持ちで手刀を切ると、不審に思われるという。そのせいかどうか、近頃めっきり手刀なんて見かけなくなった。手刀もカナダのインディアンの少年の誘導する手の仕草も、根底にある人の優しさ謙虚さを感じ取れれば、異文化への理解も深まると私は信じる。

 時あたかも大相撲春場所の13日目だった。今場所も白熱した相撲が多かった。以前貴乃花が現役時代「相撲道は神聖なもの、一日一番、全霊を尽くす」と言った。言葉通りに貴乃花は、相撲道を頑なに貫き通した。貴乃花が育てた貴景勝が見事な押し相撲で10勝を上げ、いよいよ大関昇進を手に入れられそうである。貴景勝を見ていると、彼個人の性格もあるだろうが、貴乃花へのあこがれから相撲界に入っただけあって、貴乃花の相撲への一途な傾倒を受け継いでいると思う。

 子供の頃、ラジオで大相撲の実況を父親が仕事をしている傍らで聴いていた。ラジオは耳に入る音だけで自分の中で映像化する。立ち合いまでの3回の仕切りは、アナウンサーや解説者の話であっという間に過ぎた。ラジオからテレビになった。画があまりにもあらゆる情報を瞬時に伝えて来るので最初は戸惑った。でも慣れた。慣れると文句が多くなる。一番気になったのが、相撲の前の仕切りの長さである。日本人はせっかちと言われる。そのせっかちな日本のスポーツで3回も時間をかけて仕切るのは不思議なことである。せっかちだからこそ、あの時間をかけて、関取は、邪念を払い、この勝負に集中するのであろう。貴乃花は、取り組みが終わった後、取材記者に言葉が少ない、と批判された。貴乃花本人にすれば「全霊を尽くした」相撲の後、精も根も尽き果てていたに違いない。今場所、貴景勝の取材される姿を見ていて、師匠である貴乃花とよく似ていると感じた。

 私の妻は大相撲が好きである。帰宅すると相撲中継は終わっている。だから私が録画して、妻の帰宅後、一緒に観る。おそらく大きな体、真っ向勝負の醍醐味に魅了されているのだろう。女性の多くは、大きくて強くて優しい男性に魅力を感じる。相撲を妻と観ていると、テレビのアナウンサーや北の湖以外の解説者のおしゃべりを聴いているより面白い。相撲など取ったこともない妻が、「また引いた。引いたらダメだってば」「そうそう押せ、押せ、そこだ押せ」

 相撲ほど変わった格闘技はない。まわし、髷、土俵、行司、呼び出し、懸賞。礼に始まり、礼で終わる。たとえ一部の外国の心ない人に「なに、これ」と言われようが、このままの相撲が見られますように。

  駅のトイレで手刀を切ってくれた男性のおかげで、カナダのあのインディアンの少年の今を想った。


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ガラスの貯金瓶と500円玉貯金本

2019年03月25日 | Weblog

 卒業式の季節である。3月、私は病院通いで幾度となく東京へ行った。電車の中で卒業式から帰宅する学生たちに遭った。着物に袴の女子学生も見かけた。制服姿の高校生をも見た。若さがまぶしかった。彼らの前途を祝さずにはいられなかった。

 卒業式といえば忘れられない思い出がある。カナダでのことである。私が留学した学校は、男女交際が禁止されていた。交際が発覚して退学になる学生がいた。だから日本からやってきた私に男女交際の機会などあるはずがなかった。同じ学年と言っても総勢46名一クラスだった。男女同じ教室での授業でも入り口が別々だった。学校側はキリスト教に基づく教えを厳しく生徒に守らせようとした。その厳しさを両親が求めて自分の子供を近くの公立学校に通わせずにわざわざ全寮制の高校に送り出していた。

 卒業間近のある日、寮長が私に面会者が来ていると呼びに来た。面会室へ行くと大学部の音楽学部部長のスナイダー教授がにこやかに待っていた。私は謎に包まれた。音楽的な才能がない私、第一、スナイダー教授との接点がまったくなかった。教授は手にビンを抱えていた。「これをあなたに渡してくれと娘に頼まれました。受け取ってあげてください」 娘とは同じクラスにいたメアリー・スナイダー。えッ。一度も話したこともない人。ビンは1ガロンの牛乳を入れてスーパーマーケットで売られていたガラス製のものだった。その中に小銭が詰まっていた。1セント5セント10セント25セント。重かった。クラスの英語の時間にスピーチのクラスがあった。私は貧しい日本の両親が苦労して留学する費用を出してくれ感謝しているとスピーチで話したことがある。メアリーはおそらく学校の中でいろいろな作業をして学費を軽減していた私を見かけたのかもしれない。彼女の気持ちはわからない。学校の職員である父親を介して小銭が詰まった牛乳瓶を私に届けてくれた。結局直接会って礼をすることはかなわなかった。

 平成元年9月5日、父がすい臓がんで逝った。葬式が終わって遺品の整理をした。父親は最後まで貧しかった。貧しい中、私をカナダ留学させてくれた。私にとって父からの最大の遺産である。動産不動産の相続はなかった。私と姉妹3人、それぞれが父の思い出の遺品を分け合った。私は大きなガラス瓶を選んだ。カナダでメアリー・スナイダーが贈った牛乳瓶と同じ大きさにみえた。父のガラス瓶の中に1円玉5円玉10円玉50円玉100円玉500円玉が入っていた。母親が言った。「お金が足りなくなると、よくビンを逆さまにして小銭をだしていた」 私はその晩、ガラス瓶を抱きしめた。

 私は3人の孫に500円玉の貯金本を産まれた時に贈った。誕生日に年齢の同じ数の500円玉を渡す。お年玉も同様。一番年上の孫は今年18歳になる。18×500円=9千円。18年間続けてきている。昔、とんち話を聞いた。殿様から褒美をもらえるようになった彦一という子が、コメを将棋盤の81のマス目に端から一粒、次のマス目に2粒というように倍々に増やしていき81マス全てを埋めたコメを所望した。甘く見た殿様は、自分の石高を上回る量になると知ったとさ。ちなみに1円を毎日、倍に1年365日増やしていくと68、620円になる。私の場合、毎日というわけにはいかない。だから、せめて誕生日と正月だけに500円玉を奮発している。これがなかなか良い結果を生んでいる。これに気を良くした私は友人に子供や孫が生まれると迷わず500円玉貯金本を贈ることにした。押しつけがましいとは思うが、そうすることを私のカナダでのできごとや父親の気持ちが後押ししている。

  チリも努力も金も、積もれば山となり結果を産む。人は一人では生きられない。どこで暮らしても、気にかけて助けてくれる人もいる。コツコツ地道に真面目に生きていれば、誰かがきっと見ていてくれる。メアリー・スナイダーと父のガラス瓶には、私の心を揺さぶる人の生き様が詰まっていた。


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笑い声

2019年03月19日 | Weblog

  私は自分の最初の結婚の失敗で教訓を得た。それは生活の中に笑いがなかったことである。それを踏まえて、引き取って育てた二人の子供に言い続けた。結婚するなら「面白い人がいいよ。毎日、一緒にいて3回くらい声をだして笑える、そんな人を探せるといいね」と。私は子供達に結婚するならお笑い芸人が良いと言ったのではない。私が言いたかったのは普通に周りを笑いに包める人をさす。息子を全寮制の高校へ進学させ、娘をアメリカの先輩家族に預かってもらったのは、私と一緒にいたら、また笑いのない家庭になってしまうと恐れたからである。二人とも結婚して家庭を持った。実際にそうしたかどうかはわからない。しかし、いろいろな試練はあるが、私の子供二人は家族と仲良く暮らしている。

 私は妻の笑い声が好きだ。豪快な「アッハッハ」を聞くのは私の至福。一日に何回か聞かないと気が済まない。妻は、職業柄、毎日緊張の連続。私には測りかねるストレスにさらされている。私ができることは、美味しい食事を作ってあげることか笑わせること。ただ黙っていても妻は声を出して笑わない。私は顔の筋肉を動かす変顔、パントマイム的動作、方言を駆使する。間の取り方、笑わせる時を見計らうことに一番気を遣う。

  テレビや映画を観ていても、泣くことの方が笑うより多い。最近のテレビはお笑い芸人に乗っ取られた感がある。どこの局にもお笑い芸人でいっぱい。ニュースキャスターみたいなことをしたり、スポーツ解説者ごときを真似たり。あらゆる分野に進出してきて、もともとそこにいたプロの領域を奪っている。そのもともとの人々の能力や術のなさにも問題がある。残されたお笑い芸人未進出のNHKテレビの大相撲中継のアナウンサーに酷いのが多い。解説者もただ以前相撲取りだったというだけの話が下手でつまらない。大相撲そのものは白熱の闘いが続いている。せっかく土俵上で熱戦が続くのに行司、アナウンサー、解説者が台無しにしてしまう。相撲テレビ中継は、消音にして関取の闘いだけを観るに限る。

 最近面白い本を読んだ。高田文夫の『ご笑納ください』新潮文庫630円(税別)。その296ページに「笑いなんてなぁ“間”ひとつである。芸とは間であって、魔に通ずるとは昔からよく言われる言葉。落語・噺も活き活き楽しくさせるのは、実は言葉でなくて間。間を与えるとそこに空想が生まれる」NHKの相撲中継をしているYアナウンサーに聞かせてやりたい。Yさん、間の取り方が下手で聞いているとイライラする。お笑い芸人が漫才やコントから離れるとつまらなくなる。芸人は出すぎ。昔のようにお笑いは正月だけでも良いのでは。観たければDVDがある。有料テレビもある。いまのテレビ番組の多くがお笑い芸人たちのつまらない芸能界の仲間の話か自分のことの暴露に終始している。テレビ画面のこっちにいる視聴者には、ちっとも面白くない。

 高田は274ページに「テレビをつければ群れている。……『雑魚は群れたがる』」 同感である。昔の正月番組ではあるまいし、ただひな壇にあの芸人もこのタレントもそっちの歌手もと並べているだけのこと。そしてもう一つ、「永六輔は書いた。『テレビにはありとあらゆる情報が詰まっているというけれど、無いものといえば品格と知恵かなぁ』名言。言い得て妙。286ページにも「その昔、テレビに出るようになった永六輔、一つだけ決めた事は、カメラの前でモノは食べない。……それがたしなみというもの。近頃のグルメなんたらの恥ずかしいこと…。」 偉い。現在のテレビの隆盛を築いた功労者である永六輔や高田文夫がいうのである。テレビ業界になんの関係もない私が思うことを彼らがはっきり指摘している。

 私の父は浪花節が好きでよくラジオで聞いていた。家の風呂に入って一人で浪花節を唸っていた。父が落語を好きであったならと思う。私は落語が大人になって、それも離婚してから好きになった。子供の頃から好きになっていたら、あの頃は名人がたくさんいたのにと残念に思う。以前『笑点』を観ていたが、林家三平が出るようになりつまらなくて観なくなった。落語も名人のだけ聞きたい。高田文夫が言うように笑いは間である。名人はそれができる。その間に自分勝手な空想が生まれ、普段味わえない違う世界に身を置ける。

 今朝も駅に妻を送る車中で笑いをとれた。妻がアッハッハッハと笑ってくれた。今日も幸先が良い。私の“間”の研究追及が続く。


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親に自分の健康を感謝している

2019年03月15日 | Weblog

  近くに住む友人夫妻を我が家に招いた。二人は健脚であり健啖家である。私は友人に尋ねた。「ほんと、元気で健脚だね。何かトレーニングしているの」「別に。でも親に自分の健康を感謝している」

 宮沢賢治は『雨ニモマケズ』に書いている。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ 丈夫ナカラダヲモチ……」私は小学生になった頃から時々病気で学校をひんぱんに休むようになった。小学校の図書館で借りた宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を読んで悲しかった。同じ歳の生徒がみな雨ニモマケズに書いてあるような元気さを持っているとしょげていた。小学校低学年では、食後に胃痙攣を起こして痛みで転げまわった。中学3年の高校受験間近の12月、黄疸で手足が動かなくなり入院した。高校になんとか合格したものの、入院したまま病院から学校へ通った。40歳の頃糖尿病だと診断された。50歳で狭心症になり心臓バイパス手術を受けた。71歳で再び心臓の動脈に狭窄が見つかりステント治療を受けた。

 先日、高校の同窓生の集まりがあり出席した。30名くらいが集まった。恒例の出席者一人ひとりの近況報告があった。毎日4キロ走っている。年50回ゴルフするのを目標にしている。今年の5月2回目のネパール旅行に行く。中山道を歩いている(このグループはすでに東海道を歩ききっている)。私はただ首を垂れ、酒も飲まずに時間が過ぎるのを待った。心の中で「他人を羨んではいけない。自分は自分」と唱えながら。

 ラジオの人生相談で60歳を過ぎた女性が相談していた。彼女は5人兄妹で他の4人がみな金銭的に恵まれ幸せなのに、自分だけが不幸せだと訴えた。回答者の幼児教育研究家の大原敬子さんが言った。「あなたの良いところを10見つけて書き出してみてください」 相談していた女性は、それを聞いてもまだ自分がいかに他の人からいろいろ言われているかを訴えた。大原さんが「他の人はもういいの。あなた自身の事を考えて。自分の良いところ、難しく考えないで自分の好きな食べ物でもいいから10書き出して」 私は自分と相談していた女性を重ねていた。

 私は自分の良いところ10書くことに挑戦してみた。難しい。悪いところならいくらでもでてくるが、自分の良いところが見つからない。そうだ宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を参考に探してみよう。①“一日ニ玄米4合…”玄米を食べている。健康に良いものを積極的に受け入れる②“ヨクミキキシワカリ(よく見聞きし解り)”聞き上手③“東ニ病気ノコドモアレバ…” 子供、孫を可愛がる虐待なんてとんでもない④“ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ” 同情心があり涙もろいが柳のように耐える⑤“ホメラレモセズ” 他人にほめられなくても、妻にほめられたくて行動⑥“ソウイウモノニワタシハナリタイ” 研究心と好奇心旺盛 :ここからは自分の思い込み⑦線や列を守る(駐車場枠、車線、駅ホームの乗車列など)⑧日課の順守(早寝早起き、日記、運動、時計のネジ巻き、薬やサプリメント服用など)⑨時間厳守 (せっかちでもある)⑩料理は労を惜しまず、手間ひまかけられる。

 恥ずかしい。でもこれも自分。たとえ病気のデパートであって、老化も他の人たちより先進していてもクニモセズ生きたい。

 明日は高校の同級生夫妻を我が家に招いて桜の会を開く。このためにこの2週間ご馳走のためにまさに“馳走”に徹した。私の料理は、腕、才能、技術、年季、美的感覚でなく、いかに自分が納得できる食材を集めるかである。良い食材が手に入れば、あとはその組み合わせに私の手を加えるだけである。だからレシピは作る手順を参考にするが分量や調理温度は自分流に徹する。

 残念ながら家の前の桜並木の桜は、まだつぼみ。数か月前に長期天気予報を参考に日にちを決めた。私の桜の開花予想は、見事に外れた。でもクニセズ同級生夫妻と春の足音を感じたい。ウグイスも鳴きだし、虫が飛び、モグラも真新しい土を積み上げ始めた。また春を迎える。


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クレーン車と猿の遊園地

2019年03月13日 | Weblog

  私が住む集合住宅の大規模修繕が始まって3カ月が過ぎた。我が家の南側も北側も足場の鉄骨と黒い網シートで覆われたままである。工事の進行度合いにより工事関係者がいつどこから現れるかわからない。自分では「今は工事中なのだから醜態をさらさないように」と自分に言い聞かせてはいるが、時々それを忘れている。ベランダで物音がしたり、人の気配を感じたりすると、恐怖で固まってしまう。

 先日建物の屋根の防水シート張替えと屋根の葺き替えの資材を屋上に上げるためにクレーン車がやってきた。孫が男の子3人である。我が家に遊びに来ると、必ず彼らはミニカーや電車のオモチャを持ってくる。乗用車もあるが、建設機械のクレーンやブルドーザーなどもある。私が子供の頃、車や電車のブリキでできたおもちゃはあったが、建設機械のモノはなかった。そのはずである。私が子供の頃、多くの建設現場では人が掘ったり、運んでいた。今や人手不足で機械の多いこと。そしてなぜか子供は、その建設機械に親しみや憧れを持っている。

 私が妻の海外赴任に同行して暮らした国々はほとんどが、発展途上国だった。世界の最貧国と言われる国民一人あたりの年収が800ドルくらいという国もあった。荷物を車で運ぶと1000円すると、人が運ぶと5円で済む。とにかくおどろくほど人の賃金が安い。悲しい現実だった。それらの国々で大型の建設機械を、ほとんど見ることがなかった。ミニカーも電車のプラモデルも建設機械のおもちゃもなかった。大型機械を使えば、あの重労働を安い賃金でしなければならない人達をすくうことができるとも思った。しかしすぐに多くの人々の職が失われることが容易に想像できた。日本に有り余る使われなくなったり、中古の建設機械を途上国に持ってきて活用する案も考えた。途上国が途上国である所以は、自国内に確立された権力構造が存在する。何か利権が持ち込まれると、結局それらは、権力側を潤すだけである。ある国では食料不足で緊急に日本から古古米が援助されたが、その米は市場で売られていた。私ごときのよそ者が、口出しして何か変えられるような問題ではなかった。世界は矛盾で満ちている。

 日本では人口減少による深刻な人手不足が、次々に機械や人工知能によって代わられている。人手不足と言えば、オリンピックを来年に控え、人だけでなく資材も高騰して日本国中の工事に支障が生じているという。我が集合住宅の大規模修繕でも毎日玄関ホールの掲示板に張り出される工事工程予定表は変更が多い。その上“春に3日の晴れなし”の通り、天気がコロコロ変わる。屋根の葺き替え、ベランダの防水シート張りは、天気が良い日にしか接着剤が使えない。業者には業者の予定が組まれていても、変更が続く。無理に無理を重ねているように見受ける。

 久々に晴れた日、集合住宅の前に一台のクレーン車がやってきた。資材を運んできた2台のトラックも近くに停まっている。青空がきれいだった。クレーンがグングンその青い空に向かって伸びた。子供でなくてもその動きに感動を覚えた。その道のプロは凄い。クレーンを操作する人は、実に巧みに手際よく資材を6階建ての建物の屋上に運ぶ。トラックの荷台からパレットに積まれた資材をクレーンのフックにかけ、電線を避けてサーっと持ち上げ、屋上に運び上げる。毎日同じことを繰り返すだけの私の生活。そこに突然クレーン車がやってきてショーを始めた。ワクワクした。ドキドキした。

 すべての作業を終えてクレーン車が出て行った。またもとの平凡が戻った。ふと外を見る。人!いや、毛むくらじゃ?猿だ。それも次から次に出てくる大集団。子猿もたくさん。みな嬉しそうに足場の鉄骨を上り下る。猿の遊園地!楽しそう。でも私は二重ガラスの家の中。


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8年前の今日の日記

2019年03月11日 | Weblog

  あの日の私の日記「金曜日 天気 晴れ 気温2℃~12℃ 4214歩:RPBに行き、休んでいると地震。何と3回。御札写真立てなどガラガラくずれ、建物もギシギシ音をたてた。2回目の揺れが凄かった。東北太平洋大地震と名がつきMM8.8.記録を取り始めて最大の地震になった。妻も帰宅できず病院泊まり。娘は日赤。息子に電話繋がらず。日本沈没!」

 RPBとは骨盤体操で私は当時スポーツジムに所属していて、金曜日の午前中その体操を続けていた。妻はあの日、東京が大混乱におちいり、交通網が遮断され、帰宅困難者の一人として職場の病院に留まっていた。長女は出産を控えていて、妊婦検診で夫と共に病院へ行っていた。地震後帰宅できず夫婦で病院に留まり夜を明かした。長男家族とは電話が通ぜず連絡を取り合うことができなかった。次の日、家族全員が無事であったことがわかった。

 あれから8年。あの後7月に生まれた孫は7歳で小学1年生である。7月には8歳になる。その孫に会うたびに3月11日の地震を想う。その成長を目の当たりにすると、地震で突然止まってしまい消えた幼い命を悲しむ。あの日の東日本大震災で亡くなった方々が15897名。未だに行方不明の方々が2533名いる。孫は生まれて育ったが、亡くなった方々の命はあの日に絶たれた。それぞれの方々にそれぞれの人生があった。その個人個人の命が消えた。私も、また家族の誰かがあの犠牲者になっていても不思議はなかった。自分たちだけが無事であったと喜ぶことができない。

 日本は地震をはじめ自然災害の多い国と言われている。それは今に始まったことではない。私が10代後半から留学したカナダでのことだった。長期の休みを利用して、同級生の一人と日本へ来る計画を立てた。ところが彼の親が反対した。理由は「日本は地震が多い国だから心配なので息子をそんな危険な国に行かせられない」だった。計画は中止になった。あの時のことを考えると、現在、これほど多くの外国人観客が日本へ来てくれていることは夢のようである。

 私は自然災害のない場所なんてこの地球上にない、と考えるようにしている。いつ襲ってくるかわからない災害天災への恐怖を和らげるために、宇宙の事を考える。地球だってまだなかった時がある。太陽系ができたのは46億年前、人類の誕生が370万~100万年前と言われている。この数字は私が思う次元をはるかに超えている。宇宙、太陽、地球、人類に想いを馳せれば、恐ろしい渦潮に巻き込まれ、耳の奥が痛くなるような恐怖もわくが、自分の存在自分の苦悩など、いかに小さなことかと考え直せる。

 私も古希を過ぎ、自分の老いを感じる。外出といえば、物見遊山でなく病院通いである。歯、目、糖尿内科、循環器内科と私のメモ帳の予定欄はびっしり病院名で埋まっている。記憶も消えてゆく。物覚えもひどく悪い。数秒前のことが飛び去るようにきれいに消える。88歳のクリントイーストウッドが映画『運び屋』で演じる90歳の主人公に負けない。彼の服装、姿勢、歩き方。演技なのか自然なのかわからない。悲哀を感じた。でも主人公の生き方に励まされた。最後に流れた歌の歌詞が良かった。

 誰もが生まれた以上最後を迎える。自然災害や不慮の事故に巻き込まれ突然命を絶たれることもある。凶悪犯罪や事件で命を奪われることもある。どうあがいても自分に与えられた時間しか生きられない。ならばこの命、この時間ある限り生きよう。71年と少しを生きた。幾度となく命を失くしそうになった。事故で病気で。でも生きている。これから私はできることをする。私にしかできないことは、まず妻を大切にすること愛すこと。それから家族。そして友人。この3つは私にしかできない事であり、私の時間である。それは、まだ終わっていない。


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グリーンブック

2019年03月07日 | Weblog

  3月3日日曜日、久しぶりに映画を観に行った。本年度アカデミー賞の作品賞、助演男優賞、脚本賞の3賞をとった『グリーンブック』を妻と観た。今年に入って私が体調をくずし、妻にずいぶん心配させた。3日はひな祭りということもあって妻を映画に誘った。私は映画館でスクリーンに向かって左側の一番奥の席で観ることにしている。前日にその席を確保しておいた。映画はまずまずのできだった。当時のアメリカで生活体験がある私には少し不満が残った。

 映画は1962年アメリカで起こった実話だという。私がカナダへ留学した数年前のことである。黒人の8言語を話し3つの博士号を持つ天才ピアニストと武骨なイタリア系の運転手が、まだ黒人差別が色濃く残っていた南部を演奏旅行する。アメリカ映画を観て、いつも感心することがある。時代考証を忠実に画面に再現している。この映画では、あの当時の車がこれでもかと数多く出てくる。ちょうど私がカナダにいたころと重なる。その車も懐かしかった。

 私がまず在籍したのは、幼稚園から大学まである学校の高等部だった。キリスト教の学校なので差別とは無縁の学校だと思って入学した。人間と差別は切り離すことができないらしい。教員に黒人は一人もいなかった。二千人以上いた在校生のうち、黒人はわずか5人しかいなかった。他にはインディアン、私を含めたアジア系など数十人がいた。白人以外は少数派だった。

 私は、美人と天才はどこからでも出る、と言っている。加えて差別もどこにでも湧き出ると思っている。キリスト教で“愛”を標榜するカナダで学んだ学校でも差別は根強く存在した。私も何度も「ジャップ」と言われた。二千人が一度に食べられる食堂で順に席をつめて座っていかなければならなかった。私が席に着くと一人の学生が「ジャップと一緒に食えるか」と席を立った。それを見ていた隣のテーブルにいたジャマイカから来ていた黒人学生が席を立った学生に「それはキリスト教徒がすることですか」と言ってくれた。他の白人学生は誰一人口を開かず知らんふりだった。私は彼と仲良くなった。彼はジャマイカでボクシングの元ヘビー級チャンピオンだった人である。それから数週間後彼は自動車事故に遭い、数週間耐えたが結局亡くなった。

  教師さえ授業中にあきらかに黒人やユダヤ人を差別する言動も幾度のなくあったが、生徒の誰一人何も言わなかった。いつもならどんなくだらないことでも質問する生徒たちが。寮の隣部屋で親しくしていたシカゴから来ていた生徒はポーランド系だった。ある日彼は血だらけになって部屋に戻って来た。ポーランド系ということで「ポーラック」とワルたちにさげすまされ絡まれて喧嘩になったという。あれだけ厳しいキリスト教の学校で根強い差別があるのだから、宗教的抑えが効かない学校外なら何があってもおかしくない。グリーンブックで映し出される差別、一つ一つが身につまされた。

 1990年から再婚した妻についてゆく形で海外に十数年間暮らした。宗教でいうとヒンズー教、イスラム教、キリスト教の国々で、人種では、白、黒、黄。どこでも差別はあった。この宗教は違うと感心させられた国も人種もいなかった。私自身の中にも差別意識がある。私はその感情を抑え込もうと努力する。しかし負けることもある。そんな自分の愚かさに失望する。差別を防ぐのは教養しかない。鎌倉の円覚寺にこんな言葉が掲げられていた。「本当の教養とは、気配り目配り手配り」 誰にでも弱点がある。それを抑え込めるのは、それぞれの気配り目配り手配りであると『グリーンブック』があらためて教えてくれた。

 この映画の脚本が素晴らしかった。アカデミー賞脚本賞をとった『グリーンブック』の共同執筆者3人の中にニック・バレロンガがいる。なんと彼は映画で天才ピアニストの運転手だったトニー・リップ(バレロンガ)の実の息子である。真実味があるわけだ。


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面白そうですね

2019年03月05日 | Weblog

  10万円の保険適用外で入れられるはずだったセラミックの周りと同じ色に着色された差し歯が、1430円の光り輝く銀歯になった。歯医者から嫌味を言われるのを覚悟していたが、いつもの通りだった。ちょっと動作が心持ち荒い気がした。でも気にしない。なにしろ10万円が1430円になった。これは私自身の大きな変化である。

  歯医者の帰り道、私は電車の中でパズルの本を開いて解き始めた。「文字とマスが大きな」が表紙に謳われている。字だけでなく本体もでかい。以前は車窓から景色を観ていたが、最近臀部の肉がげっそり落ちて、電車のシートに座ることさえ苦痛である。それを忘れさせてくれるのがパズルなのだ。認知症を防ぐとか言われるが、私は信じない。確実にその方向へ向かっているのは、本人が一番知っている。

  縦のキー第18番「二輪車の前輪を浮かせて後輪だけで走行」。4つの枠のうち1番目に「ウ」3番目に「リ」がすでに入れられている。出ない。言葉が浮かばない。天を仰ぐ。2番目4番目にアから順番に入れる。言葉が繋がらない。

  電車は空いていた。4人掛けのベンチシート進行方向右側に私一人。向かい側に女性が一人。下を向いて考える。ふと見上げると女性が目の前に立っていた。歳の頃80歳。上品な感じ。スタイルが良く痩せている。黒っぽいセンスの良い服。髪の毛はショートでしっかり自然なグレイ。口紅がついているのかいないのかわからないが、光沢ある唇が開いた。「面白そうですね」と笑顔で言った。私はうなずいた。「お店で買えるのですか」と問われた。「ハイ、本屋で買えます」と私。「ありがとうございました」と女性。 そう言って、女性は一旦シートに戻った。電車が駅に止まった。「御機嫌よう」の言葉を残して女性は降りた。

  幼い頃から町で出会う、それも微笑みかけてくれたり声をかけてくれる見ず知らずの“おばさん”に魅かれた。4歳で産みの母を亡くした。私と同じ年代の子が母親と仲良くしているのを見ると面白くなかった。亡き母の妹が継母として家に来た。姉にきつく命令されて「おばちゃん」と継母を呼んだ。下の妹二人はすぐに「おかあちゃん」と呼んだ。幼児体験がそうさせるのか、町で出会う優しそうなおばちゃんに会うと亡くなった母と重ねてしまう。もし母が生きていたら、こんな感じかなと。

  電車の中でパズルを解いていた見ず知らずの私に、それもどこから見てもただの年老いてくたびれた男に、声をかけてきた女性。10代後半から20代前半に暮らしたカナダでは、たとえ見ず知らずでも挨拶や会話は自然だった。妻の海外赴任で40代から50代半ばまで暮らした国々でも会話や笑顔があった。ところが日本に帰国すると途端に見ず知らずの人との会話は消えた。警戒心だけを感じる。

  私は話好きでもあるが、聞き上手でもあると自負している。だから料理して友人知人を家に招いて会話を楽しむ。皆を驚かせる料理を作れば作るほど、皆饒舌になる。私が知りたいことを話してくれる。だから料理に腕をふるう。勉強も研究もする。電車の中でもできれば、誰かと話したい。でもなかなかできることではない。私の風貌からすれば、話しかければ不審者として見られるであろう。アメリカを飛行機で旅行すると、降りるまでに隣の席の人の履歴と家族のことまでのほとんどを聞けるという。そこまででなくても自然に挨拶を交わしたり、笑顔を投げかけたりするだけでもよい。何か日本中ギスギスしすぎていないだろうか。

  日本はいつのまにかずいぶん物騒で危険あふれる国になってしまった。東京足立区で強盗に殺された加藤邦子さん(80歳)と電車で出会った女性が重なった。ご無事でと願う。いくら自分の身は自分で守ろうと思ってもワルは、その先をゆく。帰宅して固定電話が留守番電話になっているか点検。携帯電話はメールだけ。集合住宅で開け放しのドアは、すべて施錠。駐車場のシャッターの明け放しを降ろす。ネパールで我が家に泥棒が入った時、警察から出向して来ていた領事が言っていた。「泥棒強盗が狙う相手を決めれば、あいつらは悪知恵を総動員して襲う」 妻の診療カバンが蛮刀で真っ二つに切られていた。命を奪われなくてよかったと思った。

 挨拶も会話も笑顔もなければ、あとは猜疑心しか残らない。そんな日本、おら、嫌だ。


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アメリカ大統領専用車「ビースト」

2019年03月01日 | Weblog

  ベトナムの首都ハノイで行われた米朝首脳会談が途中決裂という形で幕を閉じた。内容だって理由だって私にわかるわけがない。それなのにテレビでは、専門家と紹介された人々が、堂々と意見を述べていた。どれも推測に聞こえた。私を唸らせるような発言はなかった。決裂後、トランプアメリカ大統領が単独で記者会見を行った。感心した。トランプ大統領は、一人で約50分続いた記者会見を取り仕切った。日本の首相がこれだけできるだろうか。疑問である。トランプ大統領が指名した記者の顔ぶれにも驚いた。男性はもちろん女性記者の数が多い。質問したのは、アメリカ人記者が多いのは当然としても、中国人記者、韓国人記者なども結構指名されていた。残念ながら日本人記者は一人も指名されなかった。“拉致問題”解決のためにも日本人記者が質問すればと願ったが叶わなかった。記者の質問を聞いていると、英語の上手下手というより、記者魂というか記者の何を知りたいか、何を自国の人々に伝えたいかが前面に出ていた気がする。日本からも多くの記者がハノイに派遣された。彼らが優秀であること、英語や外国語に堪能であろうことは認めるが、日本人のおとなしい国民性が記者としても行動を抑え込んでいるようだった。うがった見方をすれば、あのような記者会見は、裏ですべてが取り決められていて、誰がいつ何を質問するかまでお膳立てされている可能性もある。そうでないことを望むが。

  それにしても相変わらず、このような重大な出来事に対するお祭り騒ぎする日本の報道体制にうんざりである。どの局も多くの派遣員を送り込む。しかし現地からの報告に何一つ視聴者を感心、納得させる報道がない。彼らの話す言葉より、カメラが捉える映像のほうが説得力がある。身長190センチのトランプ大統領とそれほど変わらない身長に見えたキム委員長の実際の身長は167センチである。なぜ、と見ている者は考える。そして極めつけは両首脳が会場に乗り付けた専用車だった。アメリカ大統領は、キャデラック製の通称『ビースト』、一方キム委員長はドイツ製のベンツのリムジン。車列の中で双方の専用車だけのフロントガラスがまるで油が滲んだような紋様をベトナムの陽ざしを受けて浮かび上がらせていた。特別仕様であろう防弾ガラスの不気味さ。さらにキム委員長の専用車の周りには、12人の精鋭護衛集団が付いて車と伴走した。あそこまでしなければ自分の身を守れない権力者に哀れみを私は感じた。

  私はアメリカ大統領専用車『ビースト』をネパールとセネガルでこの目で見た。もちろん一人の野次馬としてである。アメリカ大統領夫人のヒラリー・クリントンがネパールのカトマンズを公式訪問した。妻がネパールからセネガルに転勤になると、まもなくヒラリー・クリントンは、今度はアフリカ歴訪でセネガルにも来た。期せずして2度もアメリカ大統領専用車を見ることができた。そしてベトナムで多くの市民観光客がアメリカと北朝鮮の首脳を見ようと集まっていたのを見て、ネパールやセネガルでの人々の反応と比べていた。

  ネパールのセネガルも世界の最貧国の一つである。外の世界よりその日を生きることに精一杯の人が多い。アメリカ大統領夫人が乗った空輸機で運ばれた1億6千万円の動く“要塞”が場違いに思えた。日々発展する国々、そして一向に貧困から抜け出せない国々。

  ハノイの街角に飾られた英語とハングルの歓迎旗が、数多くはためいていたのを見た。ネット配信されてくるフォーブス誌の記事で世界的な投資家ジム・ロジャースがインタビューに答えて「子どもが15歳なら韓国語を、1歳なら中国語を習わせなさい」と言ったとか。トランプ アメリカ大統領のハノイでの記者会見で質問することがなかった日本人記者をさておいて、中国人記者や韓国人記者の立て続けの質問攻勢を見たばかりだ。さらに日本は2050年には落ちぶれて世界でもっとも治安の悪い国になる、と予想した、とあった。もちろん2050年に私が生きていることは絶対にない。この予想がはずれることを願わずにいられない。出でよ、ニュースの行間から日本の未来を読み解き、良い方向へ舵をとる指導者たちとそれを支持する国民。


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