団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ふるさと納税と宮崎マンゴー

2016年04月28日 | Weblog

  風邪をひいた。ずっとこの冬何とかウガイと手洗いとマスクをすることで凌いだ。何度か鼻水と喉の痛みがひどくなり、いよいよ寝込むようになるかと思ったが踏みとどまれた。今回もそうすることができればと養生している。まだ塾で教えていた時、私は風邪の流行が去った後に数日風邪で寝込んだ。病は気から、という。大学受験生を多く抱え、来る年も来る年も自分が受験するようにストレスがかかった。そのせいか受験期が終わるとピーンとはったバイオリンの糸が切れるように風邪を引いて寝込んだものだ。今はそんなこともなく気は常時ダラ~ンと垂れた状態にある。

 そんな折、宮崎県綾町からマンゴーが一個送られてきた。妻がふるさと納税したお礼の品である。風邪を早く治すには休養と栄養、特にビタミンが必要と妻が宮崎マンゴーを切って食べようと言ってくれた。私は躊躇した。昨日もスーパーの果物売り場に宮崎マンゴーは一個2千円以上で売られていた。マンゴーは妻の赴任地ネパールやセネガルにたくさん売られていた。マンゴーとパパイヤはほぼ毎日のように食べていた。一個ではなく一キロいくらだった。2千円出せば店のマンゴーを買い占められたであろう。あれだけ食べてもまだマンゴーにあきていない。私のマンゴーに対する思いは、イチゴと同じく果物の最高ランクに君臨している。早速妻の言葉に後押しされて宮崎マンゴーを切り分けた。

  とにかく甘い。ネパールやセネガルのマンゴーとは色も形も違う。ここは日本である。一個一個の果実を丁寧に手間暇かけて育てる。自然栽培でなく温室で温度調整湿度調整日光調整までして商品にする。私が働いて納税していた頃、ふるさと納税なる制度はまだなかった。納税は国民の義務である。しかし真面目に納税を続けても受け取る側から感謝の言葉も労いの言葉も聞いたことがない。納税者の不満はきちんと納税しても、ただ“取られた”という思いが強い。生活保護への税負担は増えるばかりである。必要な人ももちろんいるが、不正受給する人はあとを絶たない。払える者から絞り上げるのが税徴収側のやり方である。妻もその思いを強く持っていた。ふるさと納税の制度ができてから、お礼の品物が送られてくることも喜んでいるが、そのたびに“ありがとう”と言ってもらえることに苦労が報われると言う。

  日本の税務に関わる公務員は封建時代のお上の遺伝子をしっかり受け継いだに違いない。税を取れるところから情け容赦なく取りたてる。感謝や労りなどとんでもない。絶対に下じもの者どもに見せてはならない態度である。生かさず殺さず、税を払わせる。そんな中、誰がどうして思いついたのかふるさと納税が始まった。物も金も人も東京に一極集中している。ふるさと納税は納税者が自分の税金を一定額自分が選んだ地域市町村に納付できる。寄付である。その地域の特産品をお礼という形で贈る。いろいろな意見がある。私は良い制度だと評価する。地方の特産品が日本中に出荷される。各自治体はふるさと納税を多く受けるために努力している。これこそ自助努力となり地方の活性化につながる。

  宮崎マンゴーを口にして、ふと思った。ふるさと納税を進化させて近い将来、納税者自身が応援する発展途上国へ寄付するのも良いかも。私なら迷わずネパール、セネガルを選ぶ。


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オスとメスと子育て

2016年04月26日 | Weblog

  23日土曜日、学会出席のために休日なのに妻は出かけて留守だった。セコイヤの若葉の成長ぶりを見ようと窓辺に立った。ガラス戸の前の植え込みのヘリに一羽の鳥がいた。見たことがない鳥だった。スズメのようだが毛がフワフワすぎる。1メートルぐらい離れたところに白と黒のセグロセキレイが舞い降りた。口に何か咥えていた。セキレイ独特の素早いキレのある動きでズングリモッコリした鳥に近づいた。

 時は春である。子孫を残すための求愛活動があちこちで盛んになる。セグロセキレイが口に咥えていたのは、まだばたつく虫だった。私は思った。「こやつ虫で彼女を口説こうとしているな。人間も鳥も女性に気に入られようとこうしたプレゼント攻勢をするんだ」 私はすっかりこの2羽がオスとメスだと決めつけていた。セグロセキレイは口に咥えていた虫を優しくズングリモッコリなメスの口に押し込むように渡した。メスは当たり前のように一気に飲み込んで「これだけ」のように不満顔をした。セグロセキレイは「わかったよ。もっと虫を獲ってくればいいんだろ。そしたら俺の要求のめよ」と言うがごとく華麗な波を打つような飛び方で、その場を離れた。そしてズングリモッコリさんも飛び立った。

 私は腑に落ちなかった。確かセキレイってオスメス区別がつけにくい鳥だと聞いた。えっ、もしかしたら異種どうしのカップル。早速図鑑で調べてみることにした。残念ながら図鑑に私が知りたいことは出ていなかった。ただオスとメスは区別がつけにくい、とは書いてあった。すると私が見てメスと決めつけたズングリモッコリは子だったのだ。パソコンでネット検索した。『ウィキペディア』に求める説明と写真があった。つまり私が窓から見た光景は、親のセグロセキレイが巣立ち直前のやっと飛べるようになって外に出て来た子に餌を与えていたのである。異種どうしの春ではなかった。胸をなでおろす。私は自分の早トチリに苦笑した。

 翌日曜日の夜、NHKの欠かさず観る番組『ダーウィンが来た』でブラジルに生息する“変顔鳥”タチヨタカの特集を観た。題名にあるようなタチヨタカが変顔だとは思わなかった。ただ親が子をひたすらに育てる姿に感動した。前日にセグロセキレイの親子の餌の受け渡し場面を偶然見た。テレビで完成された画像を観るのも良いが実際に自分の目で見るのとは違う。自分の運の良さを喜んだ。番組を観ながら「この番組を放送するために撮影すること編集することにどれだけの時間と苦労があるのだろう」と考えた。観る側は危険も時間も経費もかけず長旅や過酷な現場に滞在することもない。

 テレビの動物番組が好きだ。ありのままに暮す動物を見ていると学ぶことが多い。人間も動物なのだが、どうも最近の人間は、奢り高ぶるわりには劣化しているように思えてならない。親が我が子を虐待する。殺してしまう親さえいる。多くの動物の子育てと逆をいく。人間の親の多くが自己犠牲を放棄してしまっている。子育ては親が片手間にできるような仕事ではない。それなりの覚悟と犠牲なくしてできることではない。人口減少を国家問題だと言いながら政府は、子育て支援を怠っている。自己犠牲しながらも懸命に子育てする親を応援するのが政府のやらなければならない大きな役目である。動物たちがごく当然のように自然に子育てしているのに、人間はまず生きるために働かなければならない。働いて生活費を稼ぐ。一生懸命働けば働くほど子育ての時間は、削られる。人間の子が自立するまでの長い期間も重荷になっている。親は子を持った以上果たさなければならない責任がある。真面目に責任を果たそうとする親を助けなければならない。それなのに、やっと保育園がつくられそうになったら、騒音を理由に反対される。この国では“子供は国の宝”と言いながら、多くの年配者は自分の生活のことだけを考え権利を主張するだけで、子供たちの教育や子育てする親の思いを考えようともしない。子供を持つ大人も、持たない大人も考えて欲しい。今の自分がどれほど多くの人々に支えられて、この歳まで生きて来たのかを。年配者がその恩に報いるためにも、我慢するところは我慢して、親と同じ目線で宝である子供を大切して暖かく応援して欲しい。老兵は去りゆくのみではない。老兵は去る前に、自分が受けた社会からの恩恵を子供たちへの愛情と共に渡すことができる。セグロセキレイの親が子を生かすために餌を運んで確実に子の口に入れてあげたように。

 


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三菱自動車

2016年04月22日 | Weblog

  海外で暮らしていた時、食事に招いたある商社の駐在員が、こんなことを言っていた。「三菱自動車が韓国の自動車メーカーを世界的なメーカーにしてしまった」

 私は三菱の車を何台か乗り継いだ。デイアマンテ、デリカ、エクリプス。再婚して妻の海外赴任に同行してネパールで暮らした。車は運転手付きで三菱のパジェロを前任者から引き継いだ。道路事情が悪い山岳地帯でパジェロは、私たちの生活になくてはならない車だった。事故で大破したパジェロをネパールの車修理工場で半年かけて再生させた。ネパールの次に赴任したアフリカのセネガルではパリ・ダカールラリーで三菱の篠塚選手のパジェロが優勝した。その祝賀会にも参加できた。2001年チュニジアに住んでいた私は糖尿病の合併症である狭心症であることが分かった。日本に一時帰国して心臓バイパス手術を受けるために半年以上滞在した。ちょうどその頃、長女が懸賞で三菱ekワゴンをもらった。東京に住む長女は駐車場もなく私が引き受けた。手術後、体調が回復するまでekワゴンは、私の日常になくてはならない車になった。命が助かった喜びをきびきびあちこちと私を運んでくれたekワゴンと分かち合っていた気分だった。三菱の車は私を充分に満足させる車であった。

 商社マンの三菱自動車への批判的な物言いに私は不愉快だった。しかしすでにあの当時、韓国のヒュンダイ(現代)、デイウゥ(大宇)はアフリカ、中近東、東ヨーロッパに快進撃していた。道路を車で走っていても、数多くの韓国車を見た。家電のサムスン、LGはどこの国の電化製品売り場でも日本製品を押しのけていた。海外で日本製品が活躍愛用されているのを見るのは、嬉しく誇らしいものである。その日本製品が次から次へと凋落していくのは悲しいものだった。私たちが海外で暮らした12年間は日本製品が世界市場で急速にその地位を失いつつあった時期と重なる。

 2004年にロシアのサハリンを最後の赴任地として日本へ帰国した。12年前の日本とは違う国かと見まがうほど勢いのない停滞ムードが漂っていた。難しいことはわからないがデフレ、円高で日本経済は疲弊していた。日産自動車、ソニー、三菱自動車、シャープ、東芝など日本を引っ張っていた企業の業績が悪化した。盛者必衰と言ってしまえばそれまでだが、そうなったにはそれなりの原因理由があるはずである。

 三菱自動車がなぜ韓国の自動車メーカーを世界的なメーカーにして三菱自動車自身を衰退させてしまったのか。我が家に招いた商社員が言うには、三菱自動車は韓国の自動車メーカーを下請けのように扱った。奢りがあった。まさか自分の会社が後に韓国の自動車メーカーに追い越されるなんて考えなかった。今さえ良ければと言う油断。10年先20年先、いや今の時代1箇月先さえどうなるかわからない。日本はこのパターンで次から次と新興国の会社に追いつき追い抜かれた。御人好しと奢りやすい自信過剰な優越感の相反する混在が現在の日本の産業の停滞を自ら招いてしまった。中国の新幹線、ウォークマン、テレビ、携帯電話、造船、白物家電などなど。

 経営陣に製品は作れない。しかしまだ日本には世界に誇れる職人やエンジニアがいる。当然三菱にも。三菱自動車が今再び職人・エンジニア中心のメーカーになり、かつてのパジェロのような優秀な車を作ってほしい。数字をごまかすより、三菱の車に乗りたいと言う客を喜ばして購入者を増やすことこそやらなければならないのでは。三菱の実際に車を作っている職人・エンジニアの方々、自分の腕、技術に自信を持って、良い車を造り続けてください。シャープや東芝のように外国企業のエジキにならないことを祈る。踏ん張れ従業員。


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ジャスミンの香り

2016年04月20日 | Weblog

  春の息吹を感じる。昨日は散歩日和だった。この数日、妻は通勤に着てゆく洋服を選ぶのに手間取っている。服をたくさん持っているからではない。気温の変動が激しいからである。妻が出勤した後、散歩に出ようと決める。その時、妻の服選びの気持が我がこととなり思わず口元がゆるむ。天気予報もあまりあてにならない。戸を開けてベランダに出る。体で気温を感じる。そして服を決める。服を決めると言っても去年断捨離を実行したので持っている服はごくわずかになった。夏か冬か、薄手か厚手かの選択肢しかない。春と秋は抜けている。

 熊本や大分の地震はまだ続いている。家に居れば、ついついテレビで地震関係の報道番組を観てしまう。気持ちが重く暗くなるばかり。何もできない自分に苛立ちさえ感じる。そんな私でも、テレビの現地からのレポートなどを観ていると腹が立ってくる。地震が頻発する恐怖の中でのレポートがどれほど大変なことなのかは理解できる。しかし、彼ら彼女たちは報道のプロである。的確に視聴者に起こっている事実を伝えなければならない。しどろもどろ、たどたどしい、間の取り方が下手、視線が変、声が人に聴かせる声でない。救援物資が被災者に届かないことも歯がゆい。物資はあるが、届ける人手と手段がないという。観ていられない。テレビを消した。

 テレビに腹を立てていても時間の無駄である。私は散歩に出ることにした。家から外に出てすぐ空を見上げた。青い空が美しい。雲もなく快晴だった。少し視線を下げると山々が緑の色見本のパッチワークのように輝いていた。何を目にしても心の奥で熊本地震の被災地の人々を思ってしまう。左右の手の指を右手は小指から左手は親指から「1,2,3,4,5」と数えながら折り曲げ、元に戻すボケ防止の運動をしながら歩く。日光にあたり早足で歩くと少し汗ばんできた。川の水がキラキラ日光を反射させている。アオサギはじっと魚を狙って体を硬直させて動かない。オシドリや鴨は赤ちゃんを引き連れて頭を水の中に入れ食事中。

 川の脇道から橋を渡って市街地に入った。どこからともなくジャスミンの香りが風に運ばれてきた。キョロキョロ見回すと小さな白い花をたくさんつけたジャスミンを見つけた。駆け寄った。今年初めて蝶を見た。蝶がジャスミンの蜜を吸っていた。蜂もいた。私もジャスミンの花に顔を近づけた。私はジャスミンの香りを嗅ぐとアラブの国チュニジアに住んだ家を思い出す。大家が階下に住み2階を私たちが借りて住んだ。家の入り口にジャスミンが植えられていた。チュニジアは花の国である。一年中花を楽しめる。ジャスミンのような香りの良い花は特に好まれる。大家一家が暮らす階下からいつも香の匂いが立ち昇って来ていた。ジャスミンの語源がアラブ語だとも教えてもらった。

 ジャスミンの香りが私の怒りを沈めて脳裏の過去の記憶を浮かび上がらせてくれた。匂いには不思議な力が宿っている。人は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感を持つ。五感は信、勤、念、定、慧の五根ともつながる。今の私に信もなければ勤も念も定も慧もない。動物的な視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚だけで生きている。ジャスミンは私の嗅覚を刺激して一時的に邪念を除去してくれた。熊本地震の被災者の方々が今ひとたび春の匂いを深く吸い込むことが一日も早くできるようになりますように。


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地震と外国人観光客

2016年04月18日 | Weblog

  今朝目が覚めるとウグイスの上手になった囀りが聴こえてきた。起きて窓から外を見た。北側。家の前の桜の花は散り、いつもソメイヨシノの後に華々しく八重桜が満開である。セコイヤの新芽が力強く成長して木全体を若草色に変えつつある。南側。明るさを増す木漏れ陽が射し込む。風が竹に映した陰陽のまだら模様を揺り動かす。あそこにもここにもタケノコが顔を出している。春のエンジンがフル回転に入ったようである。

 4月14日から発生して甚大な被害を及ぼしている熊本地震が今日で5日目になっても群発地震は勢いをなくさない。5年前の3.11東日本大震災はまだ私の記憶の中にコールタールのようにへばりついている。そのコールタールを溶かして再び沸騰させるような事態が起こった。被災地の被害者に何もできない自分に苛立つ。ただ祈るばかりである。神社、寺、墓が破壊され崩れ落ちているのを見るとどの神に祈ってよいのかさえ分からない。ただ手を合わせ自分に言い聞かせる。「いつ何時自分の身にもこのような自然災害や事故事件に遭遇するかわからない。生きている限りその日その日を大切にして後悔や反省を繰り返すようなことは避けよう。妻を守り大事にしよう」

 カナダ留学中にアメリカ人同級生と一緒に日本へ一時帰国する話が持ち上がった。当時私のふるさとである長野県は松代地震が長く続いていた。そのニュースを知った同級生の両親は息子の日本行きを強引に取りやめさせた。カナダやアメリカの日本に来たことがない多くの人々の日本の知識といえば、フジヤマ、ゲイシャに始まって、地震くらいのものである。同級生の親は、息子が日本へ行けば、地震で地面が割れ、噴き出す燃え滾るマグマに飲み込まれてしまうのではとでも思ったのであろう。無知と先入観と偏見は、どこまでも真実を捻じ曲げ、恐怖と誤解を助長する。

 そんな日本を訪れる外国人観光客が近年増加している。通勤で東京へ通う妻は、東京駅で見る外国人の数に驚き私に報告する。日本政府は3月30日に訪日外国人観光客の拡大に向けて「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」(議長・安倍晋三首相)を立ち上げた。2020年4000万人、2030年6000万人の目標を掲げたばかりである。5年前の3.11東日本大震災の後、在住外国人の多くが日本を脱出した。外国人観光客の数も激減した。今度の熊本地震も増え始めた外国人観光客の数に影響を与えることは避けられないであろう。

 毎日の熊本地震の報道に接していて外国人の安否報道がほとんどなされていないことに不安を感じる。日本人は親切だと聞く。外国から客人を迎え入れる以上ある責任は果たさなければならない。日本人だけが今回の地震の被害者ではない。東京などの大都市では増加する外国人対策が具体的に進められているのを感じる。看板表記などに英語、中国語、韓国語が多く見受けられる。ところが一歩大都市を出ると相変わらず日本語のみの表記である。政府が「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」を立ち上げたなら、これから改善改革の中に外国語表記を増やすことも考慮するべきであると提案したい。

 もうひとつ提案がある。スマートフォンの普及で個人が情報を得易くなった。ラジコというアプリを使えばスマートフォンでラジオ放送さえ聴ける。ところが日本ではテレビもラジオも日本の放送局による英語などの外国語の放送がなされていない。まず英語のテレビ放送局とラジオ局は早く実現して欲しい。災害が起こった時緊急放送で事態の現状をいち早く知らせる。スマートフォンは英語放送を受信するだけでなく、万が一救助や援助が必要な外国人から発信ができることである。安否確認もできる。日本が地震の多い国であることは知られている事実である。安全対策、災害時の対応能力、救助活動環境の整備を整えて世界に知ってもらうべきである。未だに日本に本格的な英語の放送機関がないことが信じられない。

  幾多の自然災害を乗り越えてきた日本である。これからも災害は起こる。日本の全滅は有りえない。いま命ある日本人が犠牲者の無念を胸に前に進む。それが供養になると私は信じる。

 


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小さな探検 木蓮を探せ

2016年04月14日 | Weblog

 私は子どもの頃から“道草とよそ見”が好きだった。それは今も変わらない。散歩は糖尿病の運動療法の一環としてやむをえず始めた。一日1万歩以上歩くことを主治医に勧められた。23年間つけ続けている日記には夜8時の万歩計の数字を記録する。過去の歩いた歩数を集計したことはないが相当な距離になるだろう。

 国外に住んでいた時、日本のような商店やスーパーマーケットやデパートでの買い物はできなかった。昔ながらの市場があった。ネパール、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア・サハリンでの市場めぐりは、万歩計の歩数を稼ぐスポーツジムでもあった。好奇心の塊と妻に言われるほどの私である。いったん市場に入れば、いたるところを歩き回る。売られていた商品は日本では見たことも聞いたこともない物があった。市場は私にとって博物館であり運動場であった。

 日本に帰国して住んだ所のどこにも海外で歩き回ったような市場はなかった。もちろん今住む町にもない。あるのはシャッターの降りたままの旧商店街と数件のスーパーと多すぎるコンビニである。市場の魅力は、ゴチャゴチャにある。ゴチャゴチャいる人。ゴチャゴチャに並べられた商品。ゴチャゴチャのニオイ。ゴチャゴチャで迷路のような通り。そんなゴチャゴチャ感を楽しめるのは、東京では築地市場、京都では錦小路市場などである。遠くて毎日行くことはできない。

 私は住む町での散歩の楽しみ方を見つけた。散歩に出る前に「そろそろ木蓮の季節だ。今日は木蓮の花を見つけよう」などと決めて出かける。この歳になって便利なのは、記憶の入れ替えがスピーディで頻繁に実施されることだ。すでに読んだ本を読んでもまるで初めて読むように読める。観た映画でも改めて観ると、まったく記憶にある映画と違うものだったり。木蓮が町のどこで去年咲いていたかも忘れている。先週良く晴れた日に私は木蓮を求めて散歩に出かけた。車と違って歩いているとどんな狭い道でも入って行ける。ついに木蓮発見。

 私は子どもの頃木蓮が怖かった。不気味な花だと思った。まず形が他の花と異なる。変にでかくて花びらが怪しい雰囲気だった。色も白一色のものと外側が紫で内側が白である。子どもの時、この花の名前を“モクレン”と音(おん)だけで認識していた。のちにモクレンが木蓮と漢字表記で知った。蓮はハスを表す。モクレンから木蓮になると気持ちが変わった。恐ろしさが賛美になった。コブシやハナミズキも好きだが、木蓮にはかなわない。

 散歩で木蓮を探すと言う目標が達成された。この達成感は、歩く単調さや億劫さを黙らせる。気持ちは木蓮の花にまっしぐら。見惚れる。途中選挙が近づき宗教政党のポスターばかりが目についた。ニュースは殺人、汚職、不倫、賭博、麻薬、未成年者誘拐監禁などなど。テレビはヘンテコタレントに占領されている。目をつむり、耳を被いたくなるような生理的嫌悪感に押しつぶされる。木蓮は私を別の世界へ、しばしいざなってくれる。やはり木蓮は私が見込んだ花である。見つけることができて良かった。足取りも軽く家路についた。柴木蓮の花言葉は「自然への愛」。 納得。今度「人間への愛」を花言葉に持つ花を探してみようかな。小さな探検散歩は続く。


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我が家は要塞“上田城”!?

2016年04月12日 | Weblog

  9日の土曜日、同じ町に住む友人宅の庭を借りて、私の友人を集めてシャクナゲの花見バーベキューパーティを楽しんだ。真っ赤なシャクナゲの花は満開だった。

 夕方パーティが終わった後友人夫妻が我が家に泊まった。せっかくなので近くの日帰り温泉に行くことになった。妻は酔っていたので留守番することになった。本人はすっかり一緒に行く気になっていた。酔っている者はどんな質問にも反対の返答をする。「酔っているね?」「酔っていない」「だいぶ飲んだね?」「飲んでいない」「歩けるの?」「歩ける」「もう寝た方がいいよ」「眠くない」 そして温泉に行く私たちに「私も行く」と言い張った。私は言った。「温泉の玄関に『泥酔、入墨、オシメの方お断り』の看板があること知っているでしょう。入れてもらえないよ。それに風呂場で転んだら床は石だよ。死ぬよ」 妻はしぶしぶ同行するのを諦めた。

 温泉で友とゆっくり露天風呂に入り、話に花を咲かせた。冷たい飲み物を早く飲みたいと家に戻った。リモコンで駐車場のシャッターを開けた。車を駐車して駐車場から玄関ホールへのドアを私の腰のベルトに付けた伸び縮みするキーホルダーの鍵を使って開ける。ひと風呂浴びてさっぱりした気持ちで階段を昇り家の玄関に来た。再び鍵を使いロックを解除した。ドアを開けた。たった4,5センチしか開かない。内側の錠がそれ以上開かない。いつものことである。用心深い妻は必ず一人でいる時は、この内側の錠をかける。ドアのブザーのボタンを押す。いつもの「は~~い」も内履きのパタパタも聞こえない。時間が過ぎる。

 だんだん不安が増す。もしや賊が押し入り・・・。もしや脳か心臓の血管が・・・。もしや家出・・・。友人夫婦もいろいろ案を出してくれた。「電話してみよう」と携帯で家に置いてある私の携帯にかけた。出ない。次に固定電話。友は何度も何度もかけた。留守番電話にしてあるのですぐ切れる。

 私の頭にあることが浮かんだ。そうだ、そうに違いない。妻は酔って寝てしまっている。妻はある線を超して酔うと意識を失ったように寝てしまう。不眠症なので酒の力を得るとぐっすり朝まで寝る。考えた。でも寝ている妻を起こす方法も、玄関以外から家に入る方法も。友人夫妻にも不安の表情が浮かんでいる。後で聞いた話では、友人は彼の車で一時間半の彼の家に行こうかと思ったが、車の鍵は私の家の中だと気づいて行き詰っていた。

 私に案が浮かんだ。階段の踊り場に外に出られる空間がある。あそこから出て妻が寝ているかどうかまず確かめよう。窓ガラスを叩けば起きるかもしれない。友人夫妻に私の作戦を説明した。玄関ホールからソファーを運び上げた。ソファーを友人夫妻が押さえ私は踊り場の空間から植え込みに出た。

  先々週のNHK大河ドラマ“真田丸”は、徳川軍が上田城を攻めた第一次上田合戦の話だった。私はすっかり上田城を攻める徳川勢の一兵卒に化して本丸に向かった。居間の電燈が一つだけついていた。寝室のドアは開いている。今の灯がベッドの上の人影を浮かび上がらせていた。奥方は深い眠りについていた。ガラスを強く叩くと跳ね上がるように人影は飛び起きた。人影は一目散に玄関ドアに向かった。こうして友人夫妻と私は家に入ることができた。友人夫妻が二人とも心穏やかな優しい人で助かった。油断禁物ではあるが、私の家は上田城並の堅固な要塞だと思った。設計者に感謝。

 以前何かで「結婚する前は両目で相手を見ろ。結婚したら片目で見なさい」というようなことを聞いたことがある。私たち夫婦は典型的な“割れ鍋に綴じ蓋”カップルである。いつもお互いにドジを踏みながら23年間共に生きて来た。今回も私は両目を閉じて何もなかったことのように振る舞おう。心の中は昼間の真っ赤なシャクナゲのように燃えたぎっていたのだが。


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「保育園落ちた」と少子化

2016年04月08日 | Weblog

  6日近くの小学校の前を通った。この歳になるとタケノコのような成長エネルギーの塊である幼い子どもたちが眩しく見える。その日が入学式だったことを知らなかった。礼服や着物姿の母親と異常に大きく見えるランドセルを背負った新1年生が校門から出て来た。団塊世代の私は、保育園、小学校、中学校、高校と大勢の同学年生ともみくちゃされながら育った。この町でも年寄りの人口が多く、子供の数は減少している。校門から出て来た新入生もちらほらしかいない。少子化の影響だろう。私の長男長女も東京で家庭を持った。長男は男の子2人、長女は男の子1人の子供を育てている。長男の妻は専業主婦。長女は共稼ぎ。長女は子供を保育園に預けて働いている。その様子を見たり聞いたりしていると、世間を騒がせた「保育園落ちた。日本死ね」問題も他人ごとではない。

 現在日本は先進国と言われている。私は1960年代に日本の高校からカナダの高校へ移った。日本とカナダには、あらゆる面で雲泥の差があった。その後日本も発展した。妻の海外赴任で同行してネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア(サハリン)で暮らした。理想の国家などなかった。どこの国にも問題はある。2004年に帰国した。外から12年間日本を見ていた。望郷の念は、私の心の中でどんどん日本を美化させた。実際日本に戻って生活し始めるとかつて住んだ国々と意味もなく比較して自分自身を混乱させた。

 日本の人口は減る一方である。選挙のたびに候補者は公約に人口減少を食い止める策を掲げる。少子化だ、人口減少だと騒ぐ割に、効を奏した対策の話は聞かない。3,40年前ロケット博士の糸川秀夫の講演を聴いた。「日本の人口が5千万人くらいになれば、日本は素晴らしい国になる」と博士が言った。カナダ留学時代、日本は人口密度が異常に高く、そのことがまるで未開で野蛮なことのように周りからみられていることにショックを感じていた。だから糸川博士の人口が減れば日本は良い国になるという見解を素直に受け止めることができた。ところが現実は違った。ここまで人口減少に立ち向かうことなく放置してきたのは、もしかして日本人、特に官僚や政治屋たちの心に人口が多いのは先進国に相応しくないという潜在意識があったからではないだろうかと疑う。

 現状はとても夫婦が子供を安心して産み育てられる環境ではない。それは私の長女の家庭を見ているとよくわかる。共稼ぎの夫婦にとって、働いている間、子供の面倒をみてくれる保育園は必要不可欠である。長女は運よく2歳の時から保育園に預けている。保育園から呼び出しを受け、会社を早退して迎えに行かなければならないことも頻繁にある。子供の病気で会社を休むこともある。よくそんな綱渡りのような環境の中、仕事を続けていると感心する。知人の多くが孫の面倒をみていると聞く。私にはそれをしてあげることができない。

 人口ピラミッドの理想の型は三角形だという。日本は逆三角形である。せめて寸胴型にでも戻せないものか。一般国民は後手後手の国に期待も抱かず、その日その日を運に任せて乗り切っている。なるようにしかならないなんとも危うい先進国である。パナマ文書で世界諸国の首脳たちの税金逃れの隠し財産があばかれ始めた。日本の政治屋がその中に含まれていても、だれも不思議に思わない。生理的な嫌悪感を持つ対象だけが日々増える。「保育園落ちた。日本死ね」にその嫌悪感が見て取れる。


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桜・菜の花・外国人観光客

2016年04月06日 | Weblog

  我が家の前の桜並木が満開である。今年は不順な天候で晴れたり曇ったり雨が降ったり。気温も上がったり下がったりしている。桜の花に“さあ、咲こう”と“いや、まだだ”のせめぎ合いがあるのか、桜のぱっと咲く勢いがない。その分いつもより長く桜を楽しめている。

 日曜日の昼下がり、曇り空のもと、夫婦で桜並木を散歩した。桜はもちろん美しい。桜に誘われて出て来ているのは、人ばかりではない。桜の木に多くの鳥も集まっている。スズメ、メジロ、ツグミ、モズ。スズメはチュンチュン嬉しそうに仲間と枝を行き来する。春を待ち望んでいた人、動物、植物がそれぞれの喜びを表現力豊かに具現する。春の交響楽を奏でる。音や色ばかりでない。匂いも漂う。春匂いといえば菜の花だ。その甘い蜂蜜の匂いがたまらない。

 人の観察も楽しい。最近、外国人観光客の数が増えていると報道されている。私が住む町で外国人観光客に出会うことはさほどでもない。東京の上野公園などは桜見物に大勢の外国人が押し寄せているという。先週天気が良い日に散歩した。私の前を外国人の若い夫婦が乳母車を押しながら歩いていた。桜並木の枝がトンネルのようになっている所で突然二人が抱き合った。乳母車は道路の端に放置されたまま。私は「きっと桜にあこがれていたに違いない。あまりの美しさに感動して、その喜びを抱き合うことで共有しているのだ」と相手の心を読んだ気になっていた。二人は少しも嫌らしくなく桜の花に祝福されているかのように辺りと一体化した光景だった。何も分からぬ赤子は乳母車の中でキョトンとしていた。

 その先で一人の男性を見た。70歳後半くらいの男性だった。身なりは地味で、ごく普通の人だった。その一つひとつの動作が私の興味を引きつけた。男性は桜の木の下で動かない。まるで桜に話しかけるように顎を上げて桜を見上げる。そして顔を元に戻す。それを数十秒ごとに繰り返す。表情はない。桜を見上げている時は、桜の華やかさが顔を輝かせる。顔を下げた時は、まるで見たことを咀嚼しているようにみえた。動作とその間の取り方が近づきがたい威厳を醸し出していた。

 桜並木を家の窓から見ることができる。月曜日の朝、いつもはテレビを観ながら朝食を摂るが、窓際のテーブルに陣取った。4月1日にガラス拭きを専門業者に頼んでしたばかり。もちろん桜をキレイなガラス窓を通して見たいと思ったからだ。ところがガラス拭きも車の洗車と同じで洗うと雨が降る。月曜日の朝も雨が降っていた。

 妻が出勤した後、書斎でなく居間の桜が見えるテーブルで孫の英語のノート作りをした。作業をしながら、時々桜に目をむける。子どもの頃から、道草や授業中のよそ見が好きだった。家の前に東京ナンバーのボックス型のタクシーが止まった。5人の外国人と2人の日本人が外に出た。金髪の女性が土手の柵に登り、桜の木に手をかけ写真を撮ってもらっていた。危険だと思ったが、良い光景だとも思った。私が子ども時代を過ごした長野県で、外国人といえばアメリカ兵かキリスト教の宣教師ぐらいで観光客などいなかった。悪口は言われても褒められることなどなかった。観光客は渡航先を自分が選んで自分のお金で日本へ来てくれる。桜も富士山に負けないくらい観光客誘致に貢献している。桜を植え、手入れしてきた先人たちに感謝する。桜は、ありのままで、人間を大人しくさせる力を持っている凄い存在である。


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朝霞誘拐監禁2年の少女の卒業証書

2016年04月04日 | Weblog

  埼玉県朝霞市で誘拐されて2年間自分のアパートに監禁した寺沢樺風容疑者(23歳)が逮捕された。3月ということもあってか、少女の通っていた中学校の校長は、彼女に卒業証書を渡したいと話した。学校長として卒業証書を渡すことより必要な事は、2年間で失った学習機会と学力の回復に寄与することではなかったのか。卒業証書を渡すことで責任から逃れようとしているようにも思える。

 私はもちろん犯人が憎い。少女がどれほど2年という長い時間、恐怖と答えのない苦しみに苛まれたことは想像を絶する。中学2年3年という学年は基礎学力の履修に重要な時期である。その2年間の喪失は彼女にとってあまりにも大きい。命があり脱出に成功したのだから、それだけでも喜ぶべきであろう。命あっての物種である。ならばこの2年間の学習を取り戻させる算段をするのが学校の務めではないだろうか。情に流されずに規定基準の奪回に手を差し伸べてこそ、義務教育機関のなすべきことである。

 今回の事件でかつて私の塾に来ていたMさんのことを思い出した。初め塾にはMさんの弟と妹が通っていた。Mさんが初めて母親と一緒に私を訪ねて来た時、Mさんは20歳を超えていた。Mさんは小学校5年生の時小学校の担任教師から猥褻いたずらをされてから不登校になった。ほとんど家から出ることもなく20歳になっていた。Mさんを奈落の底に落とした教師が他に教え子に対する猥褻事件を起こして逮捕された。その教師の毒牙にかかった女子生徒が大勢いたことをMさんは新聞で知った。自分一人だけがあんな目に遭わされたと沈み込みトラウマに捕まっていたMさんが段々に元気を取り戻してきた。屈託のない明るい弟と妹が喜んで塾に通っているのを見ていて、自分ももう一度学校に行きたいとさえ考えるようになった。私は両親から家庭教師をしてくれないかと頼まれた。

 週に2回英語を教えるようになった。私は英語をすぐに教えなかった。元気になったとはいえ、彼女が男、特に教える立場の者に過度な警戒心があった。私の経験を文章にして渡した。それは私の2015年10月7日に投稿した『猥褻』というブログと同じ内容のことだった。その後から彼女は徐々に私に心を開き始めた。彼女は逮捕された教師の毒牙にかかった他の少女たちに近い想いを持った。同病相憐れむ、のようなものかもしれない。

 その後、彼女は大検を受けるために私の塾の高校生のクラスにも参加するようなった。大検に受かり、絵を描くことが好きで幼い頃からの夢だった美術大学を受験した。不登校になって家にこもってからも絵は描き続けていた。最初の受験には失敗したが、大学に通う妹と同じ東京のアパートに暮らし予備校に通った。翌年Mさんは見事志望校に合格した。28歳になっていた。

 朝霞の誘拐監禁された少女、しばらくは同情と励ましに包まれるであろう。人の口に戸は立てられぬ。これから先、まわりからどんなことを言われるかわからない。マスコミだっていつ豹変するかわからない。私は彼女に転地を勧めたい。できれば私が高校生の時果したように外国の学校への留学が良いと思う。日本語から離れて、別の言葉の世界に身を置く。若い心も体も新しい環境に適応しようとフル回転する。誰も知らない地で心機一転やり直して欲しい。逃げるのではない。再出発である。たとえ時間がかかっても、きっと自分を取り戻せると信じる。

 娘を持つ親として、今回のような事件を知ると、もし自分の娘が被害者だったらと思わずにはいられない。かつて警視庁の刑事だった知人が「犯人はやろうと思えば、どんな手でも使ってくる。犯罪者の悪の芽を摘みとる方法はない」と言いきった。それでも親は子をどうにかして守ろうともがき苦しむ。無病息災を祈って暮らす者と悪との終わりなき戦いは続く。


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