団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

今年を振り返って

2019年12月31日 | Weblog

①     土日祭日を除いて、隔週で月、水、金と火、木の順でブログを一回も休むことなく継続できた。子どもの頃は、三日坊主で長い休みの日記、宿題を最後の最後に間に合わせた。中学の定期試験では、学習予定は立てたが、常に「明日からやろう。今日は最後の遊ぶ日」と逃げ、前日には「今回は諦めるが、次回こそ」とうそぶいた。そんな私がブログを始めて4607日、投稿総数1530を数える。なんとか三日坊主の汚名を返上できそうである。

②     今年も今日の夜日記を書けば、365日書き続けることができそうである。日記には毎日の天気、手紙メール電話の受信発信、体重、万歩計の数値、体重、実行できた運動などを書き込んでいる。日記といえば、父も日記を書いていた。私が日記をつけるようになったのは、再婚した妻が私より一回り若いからである。おそらく私の方が早く死ぬ。妻は健康で長生きの家系なので私が死んだ後、私の日記が少しでも彼女に私との生活を思い出させてくれるという願いで書いている。

③     私は自分に“三日ルール”を課している。手紙やメールを受信したら判断を下す。これは私にとって大事なものかと。大事なものなら三日以内に返信する。これも今年、守れた。だんだん三日以内に返信する相手が減ってきたが、それでも連絡を保ちたい人や友がまだいてくれる。

④     終活も進んでいる。一番厄介な何千枚という写真をスキャナーでパソコンに取り込んだ。これを残すか処分するかは、まるで写っている人たちを裁判にかけているようで気が引ける。しかしこの写真を私がいなくなった後、誰が見るのかを考えれば答えは出る。家の中に溢れる不用品は、メルカリやヤフオクで処分できるようになった。長い間、やろうと思っていたが、中々パソコンでの操作手順ができないでいた。今年の後半、やっと慣れてきて手際よく出品できるようになった。利益を上げなくても、どこかで誰かが使ってくれれば嬉しい。

⑤     病気持ちなので外食を控えている。40歳を過ぎてから、糖尿病の教育入院したおかげで、カロリー計算やどういう食品が良いのかも教えてもらえた。朝食は毎朝5時半から6時の間に摂る。糖尿病には3つの療法がある。薬事療法、運動療法、食事療法。すでに30年以上続けてきた。今年も薬を毎日飲めた。それでも今年の1月に糖尿病の合併症で心臓の狭心症の症状が再発し、また心臓カテーテル手術を受けた。今回はバルーンで血管の狭窄を拡げ、それでも広がらなかった箇所に2本のステントを入れた。体に悪いものは、美味い。医師からは10日に一度は、好きなものを食べてもよいと言われているが、時々10日が待てず、違反を承知で悪のささやきを聞き入れている。

 

今年も多くの友人恩人がこの世から消えた。でも私にはまだ友人恩人が残っている。彼ら彼女たちを大切に生きたい。そしてもし来年も活かされるのであれば、夫婦仲良く、いつもニコニコ、現金払いを目標にしたい。


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振り子時計

2019年12月27日 | Weblog

  1カ月前に振り子時計の振り子が止まってしまった。

 幼い頃、家の時計は、みなネジ巻き式の柱時計かネジ巻き式の目覚まし時計だった。ネジを巻くのが好きだった。ネジを巻かなければ時計が動かないことに納得していた。時計が生き物のように感じた。ネジが時計に命を与えていると受け止めた。だから自分が忘れないでネジを巻くことに責任を感じていた。

  小学生4,5年の頃、あるテレビ番組で日本から中国に渡った人が捕らえられ、人間燭台にされるというドラマを観た。日本から遠く離れた異国へ命がけで海を渡った。その距離は、私にとって想像を絶する宇宙の広がりのような距離に感じた。そして人間燭台という、私には考えもつかない残酷な仕打ち。舌を抜かれ、声を出すこともできない。ある日、日本から来た派遣使がその人間燭台の前を通る。彼は必死に唾液を床に垂らし、つま先を使い日本語で助けを求めた。結果はどうなったか覚えていない。その晩、一睡もできなかった。死ということを考えた。居間の柱時計の「カチカチカチ」と、1時間ごとに鳴る「ボンボ~ンボンボン」時刻の数だけなる音が宇宙の距離、そして時間という不思議に頭が覚醒した。自分が感じる時間の正体は何なのだ、と恐怖を感じた。

  終の住処と決めた家にネジ巻き式の大きな置き時計を買った。72年生きてくるといろいろな恐怖や不思議が、薄らいでくる。子供の頃の柱時計は恐いモノだったが、ヨーロッパの街で聞いた教会の鐘の音に似た時報の鐘の音に魅せられた。客が泊まる時は、時計の時報の鐘を鳴らないようにセットする。普段は、1時とか2時という時間に約20秒間「ボ~ン」が時間の数だけまず鳴る。その後にまるで教会の鐘のようなキレイな音が、しばらくでる。15分30分45分は1時2時の丁度の時間の時報はなく、ただ鐘の音が約10秒間続く。夜中にふと目を覚ました時、時計の鐘の音が聞こえると安心する。心地よい音だ。

  1カ月ほど前、妻が「あっ、時計が止まってる」と叫んだ。またか、時計の前扉を開け、振り子を優しく揺らす。いつもは、その動作で時計は生き返る。ところが今回は違った。妻は「続けてれば、いつかまた動くよ」と楽観的。妻が気づけば、妻が振り子を揺らす。ほとんど家にいる私は、1日に何十回と揺らす。すぐ止まる。子供の頃遊んだ“ダルマさんが転んだ”のように目を開けると時計はピッタと止まっていた。扉を開けるのが面倒なので、開けたままにした。そうこうしているうちに1週間、2週間と時間が過ぎた。私はもうこの時計ダメかもとあきらめかけていた。妻は「諦めない」と振り子を強く揺する。

  12月25日妻が「今、時計の鐘鳴ったよね」と言い、時計の様子を見に行った。「動いてる!」と大きな声。すでに止まってから1カ月以上。前日にダメ元で私は振り子の裏のバランスの調節ネジを回して下に数ミリ下げた。それが功を奏したのか、我慢比べで時計が負けたのか。いずれにせよ、25日、26日と止まらず動いている。今朝も振り子は静かに動いている。時報は、元気に大きな音を発している。時計が止まれば不吉に物事を捕えてしまう。時計と自分の命を同調させてしまうのだ。愚かなことであろう。時計のネジを巻いた。巻きながら思った。自分は人間燭台にされることもなく、自由にここまで生きてこられた。何という幸せ。


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安積仰也先生を偲ぶ

2019年12月25日 | Weblog

  明日26日、三鷹の国際基督教大学の教会で安積仰也元教授の葬儀が行われる。

  23日の夜、普段留守番電話になっている固定電話が鳴った。私は書斎にいた。妻が電話の受話器を取った。私に電話だという。電話嫌いの私は、できるだけゆっくり電話機のある所へ行った。入れ歯が入っていないのでうまくしゃべれない。気が滅入る。電話の内容は更に私を落ち込ませた。

  安積仰也先生の奥さんからだった。「主人が19日に亡くなりました。1カ月前に施設の部屋に一人でいる時、倒れて床で頭を強打して救急搬送され手術を受けました。1カ月の間意識がほとんど戻りませんでした。私が声をかけると笑ってくれましたが、言葉は発しませんでした」

  安積仰也先生は1930年生まれなので享年87歳だった。詩人でもあった父親*安積得也が仰也先生の誕生が詩になっている。題『坊や』 「坊や  善人となれ  人をふみつけて成功者になるよりは  貧しくとも清き善人となれ  坊や  お前は強くなるのだぞ  人間様を愛し  この世を美しくするために  獅子のように強くなるんだぞ  坊や  お前の好きなものになれ  しかしお前は  人間様の小使さんになるんだぞ  正直で働きもので  海のように愛の深い  小使さんになるんだぞ そして人間様のために 戦って戦って戦いぬくのだぞ  初冬の朝ぼらけだ  それ見ろ  富士が真白にそびえている」 父の詩の願いのように仰也先生は、生きた。安積仰也先生の著作『夢をよじ登る』の帯にこう書いてある。「小、中学校を通して転校七回、数々のいじめに遭遇。広い世界に出たく、1950年アメリカに留学した。庭仕事から八百屋、獅子舞……アルバイトと英語漬けの日々。大学教授への道は巨大な岩をのぼるようだったが、懸命に生きていたから、楽しかった」

  私が仰也先生と知り合ったのは、カルチャーセンターの『エッセイ教室』だった。今から12,3年くらい前のことだった。毎回講師は生徒が書いてきたエッセイを読み、講評した。その後生徒がそのエッセイに対する意見を述べた。仰也先生のエッセイは、アメリカでの生活の事が多かった。後に仰也先生は、国際基督教大学の教授を定年退職した人で、その前はアメリカの大学で9年間教えていたことを知った。そんな人がエッセイ教室にいることが不自然だった。しかし父親安積得也の詩『坊や』で願われた通りに謙虚で柔和な人で、誰もがまさか大学教授だった人と受け止められなかった。ごく自然に一人の生徒として受講していた。その振る舞いが私の心をとらえた。

  交友が始まった。奥さんが病気で緊急入院された時、泣いて電話をかけてきた。その後引っ越しすることになり、ほとんど毎日家の片づけに3カ月間通った。東京に移っても時々家に招いてくれた。仰也先生との共通点はアメリカとカナダでの二人の留学体験だった。話しても話しても尽きなかった。

  仰也先生がアメリカの大学教授の職を投げうって日本へ帰国したのは、両親の介護のためだった。父親安積得也が亡くなった時、仰也先生が「あれだけの知識と教養が詰め込まれた父の脳が消えてしまうのがつらい」と思ったと言った。

 今、私は同じことを思う。そして目を細めて静かに笑う顔が好きだった。

 

*安積得也:1900~1994 東京帝国大学英法科卒 内務省勤務 栃木、岡山県知事を勤めた。社会評論家 詩人


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M-1グランプリと新しもの好き

2019年12月23日 | Weblog

  22日の夜M-1グランプリでミルクボーイが第15代王者に輝いた。お笑いの世界も浮き沈みが激しい。出てきたと思ったらいつの間にか消えてしまう。反面、いつまでも何でこの人がこの人たちが、と私が思う芸人もいる。確かに才能があり、実力が認められる芸人もいる。そういう芸人は少ない。今回優勝したミルクボーイは、今年初めてのテレビ出演とのこと。見飽きた芸人が多い中、新顔登場は嬉しい。新しもの好きの私を喜ばせた。

 私は子供の頃から「新しもの好き」と母親に言われた。これにはオマケが付く。「父ちゃんに似て」である。どうやら新しもの好きは、父から私に受け継がれたようだ。新しもの好きは、飽きやすい。母は本当は新しもの好きと言うより、飽きっぽいと言いたかったに違いない。母は小学校も満足に通えなかった。兄妹が多かった。9人いた。下に男の子が4人いたので、学校へ行かずに弟たちの子守をしたそうだ。その後は、紡績工場で女工として働き貧しい大家族の家計を助けた。ずっと同じ場所にいた。一方父は、10歳で丁稚になり、宇都宮、長野、東京で働いた。徴兵されて中国へ行き、捕虜になりシベリアへ送られる途中、脱走して帰国した。東京の住宅は、戦勝国民に奪われていた。母が疎開していた上田市で一からやり直した。私の実母は、27歳で第5子を出産時に赤子と共に亡くなってしまった。実母の妹が後妻として、私たち姉弟4人を育ててくれた。

 一か所にしか暮らしたことのない母と、あちこちで暮らしたことがある父。特に父親は、野球好きで映画を観、芸能雑誌を読むが、母はそのどれにも興味がなかった。興味がないというより、母にそんな余裕がなかった。父のやることなすこと言うこと全てが母の理解できないことだった。それが「新しもの好き」と父が言われる原因だった。父は子供に甘かった。母には厳しかった。夫婦喧嘩が絶えなかった。そんな環境の中で私の「新しもの好き」の種は、芽を出し、育っていった。育ちすぎてとうとうカナダへ留学することにまでなった。

 父の新しもの好きは、新製品、特に電化製品に対して向けられた。人好きで話好きでもあった。たくさんの人を家に招いて話をしていた。時には酒やお茶を飲みながら。1年に一度回ってくる富山の毒っけし売り(薬売り)のおじさんを家に泊めてまで話を聞きたがった。父と家に来た大人たちの話を私は階段の途中に座り込んで聞き入った。これは小学校で転校生がいると即応用された。周りからは、「新しもの好き」と批判の声も上がったが、それだけでなく見ず知らずの人にも親切にしてあげるという一面もあったと思う。母の「父ちゃんに似て、新しもの好き」がしっかりと私の中で血となり肉となっていった。

 新しもの好きは、好奇心が強いと言い直せる。適度な好奇心は、長所となる。度が過ぎると欠点となる。好奇心は、未知の世界への誘いとなる。海外への憧れもその表れであろう。小田実の『何でも見てやろう』は、大いにカナダ留学への後押しとなった。再婚した妻の仕事の関係で海外生活することになった。2,3年で任地が変わった。これなどまさに私のような新しもの好きにはたまらない刺激となった。

 最初の結婚は失敗に終わった。「女房と畳は新しいほうがよい」と落語の世界のような言い回しがあるが、すでに再婚して27年経つ。再再婚なんてまっぴらごめんこうむりたい。今は「女房と味噌は古いほどよい」がしっくり身に染みる。


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記述式問題

2019年12月19日 | Weblog

  17日火曜日、萩生田文部科学大臣は、数学と国語の記述式問題の再来年からの導入を見送ると発表した。理由は、採点者の確保が来年秋から冬になる、採点ミスを完全になくすことが期待できない、採点結果と受験生の自己採点の不一致を改善することが困難だからだと言った。

  私はそもそも国が大学入試にこれだけ介入すること自体理解できない。義務教育は中学卒業で終わる。就職も進学も個人の選択に任されるはずである。高校の入試に国は、ほとんど介入していない。高校は市立、県立、私立が多く、国立は一部の大学付属に限られる。大学にも市立、県立、私立もあるが国立は、どこの県にも配置されている。国立大学は、独立行政法人化された。独立行政法人になったということは、廃止、民営化の可能性もありうる。これでは国立とは名ばかりで、経費削減のための愚策である。高校無償化より国立大学に対する補助を上げるべきだ。やることなすこと将来への展望がなさすぎる。

  採点者の確保に問題があるという。これを理由にあげていること自体、教育者を馬鹿にしているとしか思えない。教師と教授の仕事の一つは、採点である。私は日本とカナダの高等教育を受けることができた。日本の高校からカナダの高校に移って驚いたことがある。日本では試験は、すべてペーパーテストの採点の点数だけしか書かれていなかった。一方カナダの学校では教師の評価・意見・感想・提案が丁寧に長々と書き込まれていた。試験もペーパーテストだけでなく、レポートや口頭尋問的な試験もあった。日本の高校ではペーパー試験の点数ばかりが取り上げられ、学年何番と結果が重視された。カナダの私が学んだ高校では、ペーパーテストの比重は低く、レポートや面接試験もそれ相当に評価された。私はなぜこのような違いがあるのか考えた。一人の教師が担当する生徒数の少なさ、授業日数の少なさ、学習進度の遅さが、カナダのあの高校の密度の高い授業に繋がっていると思う。日本の高校の教師は、担当する生徒数が多く、授業日数が多く、学習内容が多くその上難解。大学入試を変えてばかりいるより、まず小中高の在り方から変えるべきだ。

  政策が先延ばしされたり、事実が隠蔽される時、実に用意周到に面倒なことが敏速に処理される。いつから日本人はこれほどまでに面倒くさがりになってしまったのか。記述式だと採点が面倒!ふざけているのか。他の国で当たり前のようにされている面倒な試験処理がなぜ日本ではできないのか。入試の結果は、受験生の一生を左右する。受験生を惑わせてはならない。

  大学入試は個々の大学が自主的に施行するべきだと私は考える。記述式で選抜したい大学、マークシート式、実技。受験生が自分に合った試験方法で進学する大学を選ぶ。でも何においても順位をつけて評価したい日本人は、今の試験法を維持してしまうであろう。決める側の試験秀才の権益を維持するには、現行の試験方式が最適だからだ。

  先日、歯医者へ行った。途中で駅のトイレに入った。清掃員のおじさんが知り合いらしい男性と話していた。「…桜を見る会だとかなんとか言ってるが、俺に言わせれば、あれは地獄を見る会だよ…やらなければならないことがいくらでもあるのによ。税金使って桜見ていられっか…」 まともなことを言っていると感心した。国会の質疑応答よりずっといい。

  試験で人間性を評価できない。できないことを、ああでもない、こうでもないといじりまわす側もいれば、それを苦々しく見ている側もいる。それでも時間は進む。地球の終末時計はあと2分と言われている。これからはこの2分を戻すことができる人材が必要だ。大学もそういう頼もしい人材を自前の試験で選ぼうとする気概を持って欲しい。大学だけではない。個人の能力や思いにも期待している。


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胃カメラ検査

2019年12月17日 | Weblog

 「胃壁が以前のピロリ菌駆除以来、使った薬の影響で薄くなっていますが、他は十二指腸も胃も食道も異常ありません」 先に終わった検査の録画された胃カメラでとらえた私の胃の内部の映像を確認したB医師が、か細い聞き取りにくい声で言った。私は安堵で全身から力が抜けおちるように大きく息を吐いた。

 今年5月にも胃カメラ検査を受けていた。それは定期的な1年に1度の検査だった。しかし11月初め嘔吐した。私は余程のことがないと嘔吐しない。それがまず前兆だった。胃のあたりが不快ですっきりしない。食欲がない。そんな時必ず私の父のことを思う。父はすい臓がんだった。発見が手をくれで手術さえできず、あちこちに転移した。72歳だった。私は今年その父の年齢になった。

 私の糖尿病主治医に相談した。再び胃カメラ検査を受けることにした。1月には心臓のカテーテル手術で新たな心臓の冠動脈にステントを入れた。胃カメラも抵抗はあるが、心臓カテーテルに比較したら、ずっと楽である。

 とは言っても初期の胃カメラ検査は、苦痛以外の何物でもなかった。あのこぶし大に見えたカメラ、それに繋がる黒光りする太い管。見ただけで吐き気をもよおした。実際、検査が始まり、胃カメラの先端が喉から食道を通過する時、嗚咽、涙、鼻水、よだれが駄々洩れ。声は出ない。何故なら声帯は、胃カメラ軍に制圧され、その機能は無力化されていた。私は口の中が特に敏感というか、何か押し込まれると吐き気が襲う。癌は恐ろしいが、こんな苦しい検査を受けるくらいなら、見つけてもらわなくても結構とさえ思った。

 今はカメラも管も目を見張る進歩を遂げた。それだけではない。以前は頼んでも中々、全身麻酔しての検査は受け入れられなかったが、今では患者が望めば、鎮静剤を使ってくれる。これが私にはよく効く。普段からボアーンとしているところがあるので、薬で更にボアーン度が上昇する。テレビを観ながら、ソファに持たれていると、瞼が下がり始める。その下がろうとする瞼とテレビを観なければという制御して瞼を押し上げようとする。指揮官を失い双方が迷走状態になる。拮抗状態。意識もうろう。これが気持ちがいい。痛みも不快さもない。目の前のモニターに胃の中に入ったカメラからの映像が写っている。カメラの先端にはライトがある。ライトが私の胃を照らす。

 思えば胃って凄い。私は辛い物が好き。タバスコ、善光寺の七味唐辛子、胡椒。甘いものが胃に悪いとは、思わない。しかし辛いものは、悪そう。酒だって飲む。日本酒、焼酎、ビール、ジントニックそれにワインも飲む。アチッチと手で茶碗を持てない熱いお茶、キーンと頭を突き抜ける冷たいかき氷、苦いコーヒー、ショッパイ鮭、ありとあらゆる食べ物飲み物を受け入れる。そればかりではない。私はたくさんの薬を服用している。朝4錠、夜3錠。その他にも4種類のサプリメント。薬も過ぎれば毒になる、という。毎日胃は黙って全て私の口から入った物を受け入れてくれる。72年間。それなのに私の胃は、きれいなピンク色をしていた。

 自分の体の内部まで一患者の私でさえ覗き見ることができるエライ時代に生きる有難さ。終わりの日が来るまでお世話になる体をもう少し労わって大切にしたいと思う。


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一般男性・一般女性

2019年12月13日 | Weblog

  最近「一般男性」とか「一般女性」という言葉を見聞きすることが多い。私はこの表現に違和感を持つ。やれ女優のだれだれが一般男性と結婚した。アナウンサーのだれだれさんが一般女性と結婚した。いったい“一般”とはどういう定義なのだろう。

 妻が外務省の医務官として勤めていた頃、ある大使館の次席に「外務省では君たちのような逆(※注:妻が館員で夫が配偶者)と両方(※注:夫と妻の両方が外務省職員)に迷惑している」と言われた。この時点で彼を尊敬することはないだろうと思った。このような旧態依然な考えの上司を持つ妻が不憫だった。更に彼は大使館以外の日本人を「民間」と呼んだ。この「民間」という言葉と「一般」は、似ている気がする。その言い方、使い方は、どう聞いても官尊民卑に他ならない。江戸時代の侍やお代官様や役人ではあるまいし、今の時代に通用しない。しかし残念だが、まだまだこういう古い考えは根強く残っているようだ。

 人間は、誰でも優越感と劣等感のはざまを行ったり来たりして揺れ動いている。自分が相手より優位な立場にいれば、威張る。自分が相手より弱い立場なら引き下がったふりをする。人は自分に優しく他人に厳しい。

 一般と一般でない違いは、どこにあるのか。日本という国で、政治屋と官僚役人と芸能人は、自称上級国民だと私は思っている。だからこそ、そうでない人を「一般男性、女性」と呼ぶのだろう。辞書をひいてみた。「①広く認められ成り立つこと。ごく当たり前であること。反対語→特殊。②普遍。③普通。④一様であること。同様。」③の普通、が一般男性一般女性に当てはまる。普通の男性、普通の女性。「普通」は辞書に「①ひろく一般に通ずること。②どこにでも見受けられるようなものであること。なみ。反対語→特別・専門」 私は「なみ。」の説明に納得する。私は自分が“なみ”でいられるようにと努めて生きてきた。反対語の“特殊”と“特別”それに“専門”が私には引っかかる。“一般男性”や“一般女性”でない人は、“特殊、特別、専門”なのか?

  テレビのニュース番組で「〇〇がご専門の〇〇さんに聞いてみましょう」などと言って専門家が解説することがあるが、私に理解できるような解説をしてくれる専門家はまずいない。テレビ局の人選に問題がある。私が感心敬服する専門家はいる。しかしそのような人々はまず世間に顔をあまり出さない。もし政治屋や官僚役人や芸能人が自分たちは、特殊で特別で専門であると思っているならば、思い違いもはなはだしい。

  勘違いしている本人たちもいけないが、それを助長するように報道するマスコミにも責任がある。とにかく私は「一般男性」とか「一般女性」という表現が嫌いだ。英語に,この表現があるか調べてみた。適当な英語表現を見つけることができなかった。他の言語に日本のこのような表現があるか知りたいものである。日本語は、多くの言語から言葉を取り入れてきた。そのこと自体、悪いことではない。ただ意味を変えてはならない。マンションやセレブなどは、英語本来の意味と違う使い方をしている。日本語の中でも、本当の意味を取り違えて、別の意味にしてしまう傾向が進んでいるようだ。

  アフガニスタンで凶弾に倒れ、命を奪われた中村哲さんは「照一隅」の精神で活動された。100の診療所より1本の用水路を唱え、一つ一つの灌漑事業を実現させ荒地を農地に替えた。中村さんの活動は、ある程度知られてはいたが、日本人の誰でも知っている人ではなかった。それこそ有名になりたいなどと思ったこともない人であったと思う。自分の身の回りにある自分ができることを一生懸命やりぬく。名もなく貧しく美しく生きる。中村さんは、自分の命を犠牲にして、たくさんのことを私たちに教えてくれた。だからこそ中村さんは、亡くなられた後ではあるが、真の特別な人、専門家と称えられるべき人となったのである。ただただ残念無念。


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中村哲医師とアフガニスタンの水の利権

2019年12月11日 | Weblog

  アメリカのゴルフ用具の会社Callawayは、カリフォルニア州にワイン会社を持っている。そのワインの宣伝に使われているのがCallaway Fly(ワイン会社のキャッチコピー)の『Water separates the people of the world, wine unifies them.』である。私はこれを「水は世界の人々を引き裂くが、ワインは人々を結びつける」と訳す。確かに水をめぐる争いは、世界中に存在する。Callawayの着眼点は、卓越している。

 アフガニスタンの現地時間12月4日午前8時すぎ、用水施設の工事現場に向かっていた中村医師が武装グループに襲われて射殺された。享年73歳。私と1歳違い。

 11月28日はイラクで武装集団に襲われた井ノ上正盛さんの16回目の命日だった。享年30歳。11月29日に私は『井ノ上正盛さんの命日』と題してブログを投稿した。それから1週間もたたずに今度は中村医師が銃弾に倒れた。井ノ上さんも中村さんも武器を持たずに危険な任地で活動していた。武器を持っていても危険を回避できるものでもない。ネパールで一緒だった大使館員がアフガニスタンに2年勤めたことがあった。休暇で日本に帰って来た時、我が家を訪れてくれた。彼は重度の不眠症に陥っていて、我が家でも一晩中眠れずにいた。彼の話を聞いても、事情をほとんど理解することはできなかった。しかし、不眠症になり、日本に帰国してもそれが改善されなかった。どれほど精神的に参っていたかは見て取れた。

 以前中村医師の活動の特別番組を観た。中村さんは、医師の活動だけでなく、灌漑事業にも尽力した。荒涼とした乾燥地帯に水を引き、次々に農地にしていった。彼は語っていた。「人がどうやって餓死するかというと、まず、食べ物がまったくないわけではなく、足りなくて栄養失調状態になる。そして飢えを紛らわすために不衛生な水をたくさん飲む。その結果、赤痢などの感染症に罹り、脱水症状になる。そして死ぬ。これがアフガニスタンでの餓死の典型」

 私はアフリカのセネガルにかつて2年間暮らした。セネガルの首都ダカールの水道は、遠くセネガル川から太いパイプで送水されてきていた。セネガル人の友人が、ダカールを攻め落とすなら、その送水管を爆破すれば済むと物騒なことを言った。水道料は高く、貸家を借りていた外国人が水道料を滞納したまま帰国してしまい、後に入った人に日本円で何十万円もの水道料を請求されたと聞いたこともある。私たちは官舎に入っていたが、条件があった。庭の芝生を枯らさぬように散水を怠らないですることだった。これが中々の負担だった。加えて雇っていたお手伝いさんと運転手や警備員が帰宅する前に必ずシャワーを浴びて行った。水は貴重だった。

  まだ断定されていないが、中村さんが襲撃されたのは、水の利権に絡んだことだったらしい。水、生活するうえで水は、なくてはならないものだ。私が生まれ育った日本の農村地帯では、昔から田んぼに引き込む水の争いが絶えなかったと聞く。殺人事件さえ起こったという。何も収穫できないアフガニスタンの荒地が豊かな緑の農地に変わるのを見て、その利権を手に入れようとする勢力がいた。いつの時代にも自分で苦労せず、他人が汗水流して築いた事業を横取りする悪がいる。

  イラクで命を奪われた井ノ上さんもアフガニスタンの中村さんも現地の人々を愛していた。何より彼らを讃えたいのは、武器を持たずに現地に溶け込もうとしたことである。彼らだからこそとれた行動だった。軍隊を持ち、何かあれば武力行使で自国民を守ろうとする国の人から見たら、理解できない行動である。ここに多くの日本人の先の戦争で学んだ反省と平和への祈りが込められている。

  Callawayが唱えるワインが人々を結び付けるは、アラブのイスラム教徒には通じない。なぜなら彼らは酒を飲まない。もちろんワインも飲まない。水の争いはある。アラブの紛争で人々を結ぶのは、井ノ上さんや中村さんのような武器を持たない、どこまでも優しい真の勇者だ。あまりにも大きな損失だった。


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撤退

2019年12月09日 | Weblog

  高校の同窓生O君からメールが来た。恒例のミカン狩りのお誘いである。「ミカン畑は6年間続けましたが、イノシシの被害や害虫で20本位枯らしてしまいました。新たに植えた苗木も20本くらいありますが、獲れるようになるまではまだまだです。今般、体力の衰えとイノシシ被害に背中を押され、みかん栽培から撤退することを決断しました。思う存分収穫を楽しんでいただければ幸甚です。」

  去年、私たち夫婦は、ミカン狩りを辞退した。代わりにミカン狩りに夫婦で参加した同窓生で友人N君がO君からと言ってたくさんのミカンと野菜を届けてくれた。今年は年初からカテーテル手術などで体調が良くなかった。O君は、気を遣って私に誘いのメールを送ってこなかった。

  正直、メールが来たとしてもとても参加できる状態ではなかった。ミカン狩りは8日の日曜日。9日の月曜日には、東京の大学病院で末梢血管外科の検査日で東京へ行く。私はこの受診日がずっと気がかりだった。何故なら前回の診察で処方された薬を服用して1週間でやめてしまったからである。この薬を飲むと、心臓がパクパクドキドキした。脚の血管の血液の通りを良くする薬と聞いていた。薬をやめると心臓は、元通りになった。だが医師によっては、患者が処方された薬を無断で服用をやめると怒る。以前私はそういう経験をした。だから9日の再診日が来るのを恐れていた。

  O君のメールを見て、気持ちが変わった。文中の「撤退」の2文字で、8日のミカン狩りに参加することを決めた。O君にも仲介してくれたN君にも、メールで参加する旨を伝えた。7日土曜日は気温が上がらず寒かった。こんなに寒ければ、私の脚ではとてもあのミカン畑の急坂を登れないであろう。まわりの人々に迷惑をかける。しかし天気予報で8日は晴れて気温も上がるという。7日の夜、妻の誕生日を友人が祝ってくれて招待されていた。帰宅するとN君が留守電に朝9時半に彼の車で迎えに来てくれる旨が録音されていた。

  8日の朝、空は青空、陽の光がたっぷり。O君が待つミカン畑にN君夫婦と4人で向かった。O君が道路端で待っていてくれた。ずっと続くと思っていてミカン狩りが今年最後になると思うとO君の姿を見ただけでジーンときた。何事にも終わりが来る事は知っている。いざその場面に対峙すると駄々っ子のように現実を拒もうとする。O君が「お互い大変だ」と言った。(写真:ミカン狩りの作業着に着替えるよう、O君が作った洋服掛けとO君と太平洋)

  急な坂道を登った。私は、これが最後のO君のミカン畑訪問になると呪文のように唱えながら、一歩一歩登った。ある思い出が蘇った。私の父親が亡くなる4年前、当時父は68歳だったが、「太郎山に登りたい」と言った。脚が悪く、杖なしでは歩けなかった。標高1164メートルある上田市民に愛される山である。普通1時間半くらいで頂上に行ける。父親と私は、4時間かけて少し登っては休むを繰り返して、登り続けた。頂上から上田市を父親は黙って見ていた。

  (写真:日向ぼっこしていた私の近くでミカンを背伸びしながら採る妻)ミカン狩りを終えて1輪車にミカンでいっぱいになった段ボール箱を車がある場所まで妻や友人が下ろしてくれた。私は海を見下ろし、もう見ることがないであろう景色に手を合わせた。68歳だった父を72歳になった私は、とても近く感じた。

 帰宅して、O君が6年間の急坂を上り下りして愛情を注いで育てたミカンがいっぱい入った段ボール箱を運び上げた。その重さは、O君の汗と努力と試行錯誤のようだった。O君ご苦労さまでした。そしてありがとう。


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オリンピック2020尻が痛い

2019年12月05日 | Weblog

  いつの頃からか、妻と私のいくつかの感覚が入れ替わっている。以前冬のベッドの布団の中の湯たんぽ代わりを務められたほど足が温かかった。今では私の足は一日中冷える。足裏に最初はスポンジを貼り付けられた感じがあった。今ではアルミ箔を貼ってあるように感じる。どんな中敷きを入れても、足は冷たい。加えてアルミ箔感は冷たい氷の上を歩いているようだ。

 睡眠にも変化が現れている。バタンキューと布団に入れば、即寝つけた私は、今では妻の後塵を拝する。妻はいつ寝るのかと疑るほど睡眠をとらなくても生きていられる人だった。今では逆転。妻のイビキに睡眠を邪魔されないように一刻も妻より早く寝ようと焦る。焦れば焦るほど遅れを取る。やっと寝つく。午前1時半から2時の間に目が覚める。隣の妻はスヤスヤ。ここからまた眠りを求める苦難が始まる。居間の時計の15分おきになる鐘の音が数分間隔のように短じかく感じる。なんとか寝つけたと思うと5時にラジオが続いてけたたましい目覚まし時計が鳴り始める。

 変わらないこともある。妻は寝ていても声をかけると何時であろうとスッと目を開け、答えてくれる。どんなに疲れていても前の日に深酒しても5時にパッと気持ちいい程パシッとベッドから出てゆく。私は朝が相変わらず弱い。

 電車で一緒に出かける時も以前と変わらないことがある。発車してすぐ私は尻が痛くなる。妻はまったくそういうそぶりを見せない。聞くと「痛くない」と言う。私は心臓の手術を受けてから長く座っていられなくなった。だからパソコンを使う時は、バランスボールがイス代わり。車にはテンピュールの運転席用パット、テレビを観る時はテンピュールの座布団を使う。家では何とかそうやって尻が痛くなるのを防げる。以前電車に乗る時に安いクッションを持参したが、すでに3個置き忘れてきた。だから使わないでいる。

 来年2020年。いよいよオリンピックが開催される。国立競技場も完成した。そして有明体操競技場も完成。ところがこの競技場観客席は木製である。私の薄い尻にとって木のベンチは天敵なのだ。私は3分と座っていられない。ベオグラードやロンドンの公園で一日中、固い木や鋳物でできたベンチで過ごす老人を数多く見かけた。私も歳を取ったらあのような老後を過ごすのかなと思った。現実ではとても無理。あの老人たちの尻は、いったいどういう尻なのだろうか。鋳物のベンチなど1分も座っていられない。電車のシートは、スプリング式で緩衝材も入って厚手の布で覆われている。それでも私の尻は、拒否反応を起こす。私だけではなさそうだ。お披露目された有明体操競技場で木製の座席に座った記者や関係者の多くが、見た目の良さと裏腹に座るとお尻が痛いと訴えた。見たところ会場に座っていた関係者とやらは、皆さんお若い。若者のお尻が痛いと言うのだから、相当に固い座席なのだろう。私は到底会場で観戦など不可能である。

  東京五輪・パラリンピックは、環境に優しいオリンピックにしようとしている。国立競技場も木を多用した。見た目は好評かもしれないが、尻には決して優しくないようだ。私はいち早く会場での観戦は諦めた。代わりに妻にねだって、大型の4kテレビを買ってもらった。家で外に忘れてくる心配のないテンピュールの座布団に薄い尻を任せ観戦予定である。すでにラグビーワールドカップで尻の快適さと画面の臨場感は、実証済みである。

  観客の尻の心配ばかりではない。今年のような猛暑だったら参加する選手に影響はないのだろうか。マラソンと競歩が札幌に会場を変更された。その変更の過程をみていると、オリンピック開催の裏には、尻の皮より面の皮が厚い有象無象が暗躍しているように思えて仕方がない。


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