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団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ブドウと高齢化

2016年10月31日 | Weblog

  いつもの宅急便のお兄さんが「長野県からブドウが届きました。ここにハンコお願いします」と言った。毎年ブドウの最終出荷が終わるころの定期便となった。小包の箱を開けるとブドウが6房1房1房白いクッション材のお包みに入れられていた。ブドウの上にあいさつ状が置かれている。「秋も深まって山々の紅葉が美しい頃になりました。今年もたくさんのぶどうをおつかいいただきましたありがとうございました。天気もよくぶじに収穫を終えることができました。母は今年83才になり、立ってぶどうの袋をとめたりすることがたいへんになってきましたが、片手をぶどう棚につかまりながら、大すきなぶどうづくりを続けています。最後にとれたすこしばかりのぶどうですが、召し上がっていただけたらうれしいです。ありがとうございました。こばやしぶどう園一同」

 目に浮かぶ。83歳の小林すみいさんが“片手をぶどう棚につかまりながら”作業する姿。私は自分をなさけない人間だと思う。69歳で“もう終わりだ”“限界だ”と口にする。

 私がどうしようもない人だとダメ押しするテレビ番組が2つあった。一つはテレビ東京『世界ニッポン行きたい人応援団』の10月27日放送の“しいたけ”をアメリカで栽培する男性が大分県豊後大野市のしいたけ栽培農家を訪ねたもの。農林水産大臣賞を17回受賞した名人小野九洲男さん80歳である。もう一つは10月28日金曜日のやはりテレビ東京の『ニホンのミカタ』だった。“仕入れ”をテーマに松茸採りの名人長野県伊那市の藤原儀兵衛さん78歳が紹介された。

 小林さん、小野さん、藤原さんに共通しているのは、みな高齢者であることと、それぞれがブドウ、シイタケ、マツタケが好きだということだ。好きだから苦労な作業もただ黙々とする。ブドウとマツタケは年間で収穫期は1ヵ月ほどである。その1ヵ月のために11ヵ月の過酷な労働が必要となる。番組は普段私たちが目にできない重労働の詳細を見せた。シイタケは人工栽培なので収穫期は年数回あるらしい。だが重労働に変わりはない。ブドウもシイタケもマツタケも放っておけば採れるのではない。収穫は誰にとっても喜びの時である。それもつかの間、来年はもっと良いものをと思い準備に取り掛かる。その連続が生産者を生かす原動力のようだ。ぶどう棚に手をつきながら作業する小林さんの姿を思い浮かべて胸が締め付けられる。

 私にできることは何だろうかと考えた。肉体的に現場へ行って手伝うことは不可能である。私は友人知人に毎年ブドウを小林ぶどう園から送ってもらうことにした。海外に住んでいる時も妻の妹さんに頼んで友人知人に巨峰を贈ることを始めた。すでに20年続けてきた。今年も多くの人たちから喜ばれた。私ができることはこれだけだ。生産者採取者は収穫して販売して利益を上げなければならない。購入することも応援になる。そう思って私は自分を正当化する。

 妻も毎日仕事から相当なストレスを受けている。私にそれを癒すすべがない。帰宅して夕食後、見事なシャインマスカットをテーブルに出し、小林さんがどのようにこれを育てたかを話した。妻は一粒のシャインマスカットを手に取って、じっと見つめた。まるでそこに小林さんがいるように。


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日本シリーズ・素行不良・トランプ候補

2016年10月27日 | Weblog

  日本シリーズ広島カープ対日本ハムは第四戦で1対1の攻防戦を日本ハムのレアードのツーランホームランで3対1となり勝利した。

  普段、野球は高校野球しか観ない。ラジオニッポン放送の『高島ひでたけの朝ラジ』の中に「スポーツ人間模様」というコーナーがある。その時々のスポーツ選手を取り上げて高島さんが解説する。26日の朝は日本ハムの大谷選手だった。「日本ハムの大谷と中田が好対照で観ていて面白い。中田はジャラジャラ体にいろいろ付けている。財布の中にはいつも百万円は入っている。一方大谷はごく普通の若者で飾りつけない。毎月母親から10万円の小遣いをもらうがそれも余る」 私は中田選手がどれほどジャラジャラなのか大谷選手は何もつけていないのか確かめてみたくなった。それが第四戦を少し観るきっかけだった。

  試合では日本ハムのレアード選手も広島カープのエルドレッド選手も活躍している。二人の姿を観ていて、あるニュース記事を思い出した。それは巨人のクルーズ選手が素行不良を理由に登録抹消されたというものだった。

  私は“素行不良”という文字に反応した。私が10代後半にカナダの高校へ転校した時、キリスト教の厳格な私立高校だったがクラスのほとんどの生徒が素行不良だと感じた。日本で通っていた県立高校の生徒がみな石部金吉の子ども版に思えた。教える側には楽かもしれないが、個性は損なわれる。カナダ人の生徒に聞いた話では、公立の学校はこんなものではないと言われた。だから彼の親はキリスト教の厳格な私立高校に彼を入学させたそうだ。

  素行不良といえば、アメリカ大統領選挙でクリントン候補と争っているトランプ候補を日本のマスコミはあたかも“素行不良”な候補のように扱っているのが気にかかる。アメリカ人のごく平均的なおじさんだと私は思う。

  日本と外国の文化の違いと言えばそれまでだが、私は異なる意見を持つ。自分のカナダでの生活を通してカナダ人やアメリカ人の多くは、人間のホルモン時計に忠実に従っていて、そのことを悪いこととは思っていない。思春期になれば、異性に関心を持ち、恋をする。動物の多くは発情期になれば、子孫を残す営みを持つ。生まれてある年齢に達すれば、自然にその行動をとる。宗教によってその行動を制約しようとするが、抑えになっているかは疑問である。社会でもある程度こういう人間の行動を認知しているように思えた。

  日本など東南アジアでは道徳が重んじられる。道徳そのものはけっして悪いとは言わないが、バランスが重要だ。日本の若者の晩婚化や結婚しない傾向は、社会全体の道徳重視の風潮も影響していると思われる。家庭での世間体や体面を気にしすぎた躾や指導が、今日の少子化につながってしまったのかもしれない。

  私の娘を8歳から預かり育ててくれたアメリカ人夫婦は16歳までと期限を付けた。理由は女性が16歳になれば、実の親でも一緒にいるのが難しくなる、だった。5人の実の子どもを育てた夫婦の言葉に実感がこもっていた。

  日本にも多くの外国人選手が来る。また日本人選手も多く海外で活躍するようになった。巨人軍のクルーズ選手のような“素行不良”問題はこれからも発生するに違いない。受け入れる側は、ただ自分のチームが強くなればいいでは済まされない。契約する以前に個人調査も必要だろうが、一番必要なのは、“素行不良”の定義の深掘りと異文化理解ではないだろうか。

 アメリカの作家ヘンリー・ディビット・ソローは「あまり道徳的になるな。自分を欺いて人生を台なしにしてしまう」と言った。真面目すぎる日本人への良きアドバイスではないだろうか。ただし税金を喰いものにする政治屋ごとき議員や責任をとれない官僚たちにはあてはまらない。彼らには「できる限り道徳的になれ。国民を欺いて日本を台なしにするな」と言いたい。


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正義感と良いか悪いか

2016年10月25日 | Weblog

  ある新聞の『人生案内』という欄にこんな相談が載った。「60代前半の会社員男性。自分の『偏狭な正義感』をもてあましています。~~昨年、宴会帰りに電車に乗ったら、混雑した車内で学生が数人、足を投げ出して座っていました。普段は言葉でやんわり注意するのですが、酒が入り、つい蹴とばしてしまいました。すると学生たちに羽交い絞めにされ、殴られました。~家族に『警察官じゃないんだから、そんな人たちはほっておいて』と泣かれました。私が子どもの頃は、悪いことをしたら大人に叱られるのが当たり前でしたが今は、注意した方が危ない目に遭う時代です。私も聖人君子のような生活をしているわけではありませんが、悲憤に堪えません。心の持ちようを教えてください。(東京・S男)」

  これを読んでまず父を思い出した。身長こそ小さかったが、父は誰にも言いたいことを誰にもどこでも言える人だった。何より父は“偏狭な正義感をもてあましている”という自覚はなかった。良いか悪いかで動いていた。小心者の私はそんな父にあこがれたが自分ではそうすることはなかった。

  再婚後、義父も私の父と同じタイプの人だった。日帰り温泉に行って、一緒に風呂に入った。突然大きな声で「開けたらちゃんと閉めなさい」と言った。風呂の中は音がよく響く。頭を洗っていた私は目をふさいでいて事の成り行きがわからなかった。私はあまりにドスのきいた大声に洗い椅子から飛び上がって落ちそうになった。冬だった。若者が入り口の戸を開けたまま露天風呂へ入ろうとしたのだ。この時ばかりでなかった。一緒にいてハラハラするぐらい他人に頻繁に注意をした。

  もう一人去年亡くなってしまった親友のNがいた。六大学の野球部で活躍したNは体格がいい。電車の中だろうとどこであろうと誰にもNが悪いと思えば正面に立ちはだかって意見した。一緒にいて気持ちいいほどだった。

  高校からカナダへ渡ったが、カナダでは父や義父、Nのような男性ばかりだった。知人であろうがなかろうが、人々は言いたいことを言っていた。ごくたまに喧嘩になることもあったが、大方はそれでおさまっていた。言い慣れている。言われ慣れているが原因だ。まず家族内でWhy(ナゼ)?とBecause(どうしてかというと)の応酬による社会への順応教育が始まり、学校では質疑応答、討論、議論でもまれる。

  私が日本からカナダの学校に移って一番面食らったのは、日本の優等生は決してカナダの優等生ではないということだった。カナダの優等生は暗記力以上に自己表現を文章でも口頭でもでき、要約力が優れている。日本では学校で最も先生に嫌われる生徒たちだった。

  『人生案内』のS男さんへの回答者の案内は「直接行動に出るのはどうかと思いますが、お気持ちはよくわかります。~~~自分の命を懸けてでもやらなければならないこと、というものが、自分の中にあるのか。それは自分や世間や世界や人類にとって何なのか・・・。人はそれぞれ自分なりに悩むしかないと思います」

 私は感情的にならずに、言いたいこと言い、聞きたくないことも聞けるようになる訓練が日本人に必要だと思う。それには家庭、学校での訓練が必要だ。英語を小学校から習うより、ずっと役に立つと思うのだが。


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孤独死

2016年10月21日 | Weblog

 Sさんの訃報が同僚の方から届いた。「電話がつながらないことに不安をおぼえながら土曜日に自宅を訪問いたしましたら、居間のソファーに座ったまま、眠るように吐血して息を引き取っていました」

 Sさんは67歳だった。私より2歳若い。

 孤独死。たった一人で誰もいない部屋のソファー。

 私の2度目の結婚式に一家4人でわざわざ東京から来て出席してくれた。その一家も離婚によって彼はひとりになった。彼は再婚しなかった。私は再婚した。

 孤独死は私がかつて覚悟した死に方である。死にたいと思ったことは幾度もある。死ぬことは決して容易なことではない。人間の生は思いの他しぶとい。死にたいと思って死ねるようなやわなことでは決してない。

 私は臨死体験が2度ある。それは一日のうちに起こった。2002年1月に私は心臓バイパス手術を受けた。手術室に入る前に何かの注射を受けた。すると血圧が急に下がり始めた。周りが騒がしかった。私の気が遠のいていく。「血圧50 危険です」の声が聞こえた。この原因は知らされていない。手術室の改装工事のために半年延期された手術だった。当時チュニジアに勤務していた妻は休暇をとって帰国してくれていた。二人の子どもも病院へ来てくれていた。手術室に向かう前、3人が私を見送ってくれた。その時私はこのまま死んでもいいと思った。なぜなら私はずっとひとりで死んでいくと思っていた。二人の子どもを大学まで行かせ、自立させるまでが最大目標だった。その二人が立派に自立していた。最愛の妻とは結婚後10年しか経っていなかったが、仲良く海外で暮らしてきていた。後悔なし。懺悔なし。その3人が手術室に運ばれる私の周りを取り囲んでくれた。横たわる私の頭上に3人の顔があった。手を代わる代わる握ってくれた。まさに私の想像通りの最後のシーンだった。

 手術は長時間にわたった。人工心肺が作動して私の心臓は動きを止めた。心臓が止まれば死を意味する。人工心肺が私を生かせ続けたと言ってもやはり私の本物の心臓は止まっていた。私は手術を受けている間、チュニジアの誰もいないオリーブ畑を浮遊していた。オリーブ畑の下は黄色い花が一面に咲いていた。おそらく麻酔によって幻覚を見ていたのかもしれない。それがどういう現象であれ私は決して恐怖、後悔、苦渋、恨みつらみの中にはいなかった。

 あれから15年がたつ。数年前体調を崩し、脳こうそくの危険にあった。妻が出勤中ひとりベッドにいた私は、このまま死んでしまうのではないかと何度も思った。脳こうそくの場合、発作が起きてから数時間が勝負という。同じ集合住宅に住む友人夫妻に事情を話して携帯で連絡をすぐとれる体制になっていた。その危機も乗り越えた。

 Sさんがどんな気持ちで死を迎えたのかは想像もつかない。私にとって彼が自らの命を絶つのでなく、病気で亡くなったことが救いである。最近電通の新入女性社員の過労が原因の自殺、青森県の12歳の女子中学生のいじめが原因の自殺に心痛める。生きてほしい、どんなことがあっても。人が生きることはしぶといことだと感じて自分の命を生が尽きるまで生に託してほしい。若者よ自ら死に生を渡してはならない。


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つかぬ事を・・・

2016年10月19日 | Weblog

  この地域を管轄する駐在所に電話した。最初女性が電話口に出たので私は電話番号を間違えたと思った。でも女性は「○○駐在です」と確か言った。婦警さん!話を進める。概略を話し終えると女性は「少々お待ちください」と言って電話を離れた。

 男性が電話口に出た。「どうしましたか?」私「つかぬ事をお伺いしますが・・・」と始めた。駐在さんには以前遭っている。駐在さんはマウンテンバイクにまたがりピンと姿勢を正して川沿いの道を巡回している。その時挨拶して日頃気になっていることを尋ねた。駐在さんは丁寧に説明してくれた。最後にこう言った。「どんなことでも気軽に相談してください」と。

 土曜日の夜、同じ集合住宅に住む3組の夫婦が友人宅に集まって夕食を共にした。その友人がゴルフコンペで南アフリカの蟹をたくさん賞としてもらったので蟹パーティしようと集まった。御呼ばれは私に至福の時を与える。ワインを飲み、みな口を閉ざして蟹を食した。南アフリカと聞いただけで、私の好奇心は味覚神経をしばらく抑え込んだが、その美味さが雑念を制した。ご馳走になったご主人厳選のイタリアワインも蟹と仲良く胃に落ち着いた。一皿の蟹が殻だけになった。酔いもまわり、沈黙が饒舌に変わった。

 集合住宅の前を通る道路の話になった。最近どうもこの近くで交通事故があり誰か亡くなったのではないかという。道端に直径20センチくらいの石に生花の束があって、ミネラルウォーターのボトルが置かれている。私も見た。でも話を聞く。私は散歩途中で気になり、写真を撮っておいた。でもそのことは言わなかった。もし事故で人が亡くなったのなら、写真を撮るなんて不謹慎だ。

  私が住む集合住宅から100メートルくらい離れた坂の途中にその現場がある。散歩でその前を通るたびに、花が新しくなっている。悪い頭をフル回転させてミステリー解明に挑む。①交通事故で誰かが亡くなった。交通事故の現場にはよく花が捧げられている。死者の霊を弔う家族などが故人を偲んで供養するのだろう。しかし場所が場所である。確かに道が狭く、舗装も傷んでいて、歩行者には危険である。裏道なので車もけっこうスピードを出す。②ペットを葬った。とにかく犬を連れて歩く人が多い。③いたずら。他人が「なんだろう?これって何」と思わせそれを楽しむ。私は②だと思った。

  さて駐在さんは私の説明をさえぎることもなく聴いてくれた。そしておもむろに言った。「交通事故ではありません。もしそうなら私が事故処理しています。あの道路ではこの5年間一度も事故はありませんから」 “一度も”に力がこもっていた。駐在さんの誇りなのだろう。私は何だか肩から力が抜けた。人の生死に関わることが、こんな近くで起こっていたらいい気分はしない。駐在さんにお礼を言った。「また何かありましたら気軽に聞いてください」

  人が亡くなったのではない。誰が何を目的になぜこんなことをしたのかわからない。駐在さんまで巻き込んで騒いでしまった。でもわからないことがあったらしかるべき人や機関に相談することは役に立つとあらためて思った。友人たちにも早速報告したい。つかぬ事のミステリーはともかく一着である。


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WASABIからKARANERIへ

2016年10月17日 | Weblog

 WASABI原材料名:西洋わさび、本わさび、水飴、植物油、食塩、酸味料、香料、クチナシ色素、香辛料抽出物(ある会社の成分表)写真:左から 合成わさび‐合成わさび(チューブ)‐西洋わさび(ホースラディッシュ)‐サメ皮おろしと生わさび

 大阪の寿司屋で外国人にわさびを平常より多く使って握った寿司を提供したという。それが『外国人差別』ではないかとその店で寿司を食べた外国人がネットで訴えた。

 まずもって日本の寿司屋で使われているわさびのほとんどが合成わさびであって本物ではない。本物でないのにニュースではどこの新聞テレビでも『わさび』の表記を用いる。私はまずそれがこのような問題を発生させると考える。

 以前テレビ東京の『世界!ニッポン行きたい人応援団』(毎週木曜日午後7時57分~)でスペインのわさび好きの青年ルベンさんが日本のわさび農家を訪ねた。この番組に選ばれて日本に招待される人は、日本人でもあれだけの“通”はいないと思われるほど,その道を研究熟知した人々である。わさびを詳しく知る外国人はまだまだ少ない。寿司だってここまで世界に知れ渡るのに長い時間がかかった。私がカナダの高校へ転校した50年以上前、日本人は魚を生で食べる野蛮な人種だと言われた。アメリカのハーバード大学の学食で寿司が供されるようになってからゆっくりと受け入れられ始めた。寿司が世界に受け入れられたことによって、わさびも当たり前のように寿司の一部のように知れ渡った。残念なことに海外ではわさびは粉わさびを練って使う。粉わさびもピンからキリまであり、多くは合成であって純正なわさびではない。純正のわさびは高価であり、日持ちがしない。日本の寿司屋でも生のわさびを使う店は当然値段がはる。私は合成わさびでもかまわない。なぜなら生わさびを使うような高級店には行くことができないのだから。ただそれを“わさび”と呼ぶのをやめてほしい。何か新しい名前を考えてほしいものだ。カラネリなどはどうだろう。

 インド人の友人を寿司屋に招待したことがある。その店は生のわさびをサメの皮のおろし器で擂っていた。インドといえばカレーで辛さに人々は慣れていると思う。しかしその友人は寿司を口にして涙を流した。「辛い!」と頭のてっぺんを押さえた。辛さにもいろいろなる。彼は私に訴えた。「なぜ、食べる前にわさびをきちんと説明してくれなかったのか」と。私は反省した。ここに文化の違いがある。このインド人の友人はアメリカの大学で学んだ。カナダやアメリカは説明の文化だと私は思っている。家庭でも学校でも職場でも、いたるところで毎日「なぜ?」と「なぜならば」の応酬が展開される。日本人がもっとも不得意とすることだ。日本の国際化は日本が誇る文化ならば日本人でない人々にも説明できるようになることではないか。

 「言わなくてもわかる」「理屈をこねるな」「技は盗め」「お上に間違いはない」このような環境にすっかりならされてしまった。福島の原発事故問題、豊洲市場問題、2重国籍問題どの問題においても当事者は適切に説明しない。他人は責めても、自身は保身に徹底する。カナダの学校での教師と生徒の明快でテンポよく弾む受け答えがなつかしい。

 夫婦生活も同じ。私は妻に説明できないことしないよう心掛けている。秘密も嘘もあるができるだけ減らそうと努力する。新鮮で美味しい魚が手に入れられる地に暮らす。私たち夫婦の贅沢は、小さな生わさび(1本300円~700円)をサメ皮ですりおろして刺身をいただくことである。時々鼻から脳へ突き抜けるツーンの単純明快な刺激が何とも言えない。日本国中に充満する説明不足の犯罪的怠慢欺瞞を一掃するツーンはないものか。


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散歩再開

2016年10月13日 | Weblog

  今日こそは散歩に出るぞ、と思い始めてすでにひと月が過ぎた。とうとう昨日、第一歩を踏み出せた。猛暑を理由に夏の間ずっと家にこもった。こもると億劫グセが影響力を増殖して私の意思決定を支配した。散歩を拒む理由はいくらでもあげられる。「暑いから」「体調がよくないから」「宅急便が届くから」「ノート作りが遅れているから」 言い訳の名人、苦労回避の達人となった。

 10月10日は体育の日だった。スポーツ庁が「体力・運動能力調査」なるものを発表した。それによると60代後半の女性、70代後半の男女は合計点が過去最高になったという。テレビのニュースでもこれでもかと老人が活躍する陸上競技の模様を映し出す。50メートル走を何秒で走るとか元気な年寄りがたくさん映った。ご同慶のいたりである。健康でいることは素晴らしい。私は身の程を知っている。無理はしない。できる運動は歩くことぐらいである。走るなんてとんでもない。学校を出てから運動とは縁がなかった。もともと運動神経が悪く父や他の姉妹たちとは違った。父も姉妹も足が速く、運動神経も良かった。

 つい数日前、友人の訃報が届いた。去年は親友を癌で亡くした。二人とも私と同じ年である。元気な年寄りもいるが、70歳古希目前にしてこの世を去った。散歩は運動というより、亡くした友との思い出を掘り起こす時となる。山を見て、川の音を聴いて、空の雲を追い、海で寄せては引く波のリズムに身を任せる。久しぶりの散歩は私を鎮めてくれる。嫌なニュースが多く、その一つひとつに腹を立てたり怒ったり毒づいたり。家の中にいると感情にいいように振り回されてしまう。そういうことから逃れることができるのは、散歩しかない。これからまた散歩を続けようと思った。

 9日日曜日に友人たちを招いた。大切な友人である。一緒にいると穏やかな気持ちになれる人たちである。毎日一緒ならこうもいかないだろう。それぞれが違った人生を歩んだ。専門分野も違う。参考になる話がてんこ盛りである。無料で講義を受けているように感じることも多々ある。酒が入り話はさらに広がる。私は彼らのために精一杯の手料理をふるまう。皆に来てもらえるように食材をそろえて入念な準備をする。声をかけて気持ち良く集まってくれることが嬉しい。だからそれに応えるために料理に気持ちを込める。

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。散歩はそういう楽しい時間、友のこと友が言ったことを反芻できる。そして今度はこういう食材であの料理を作って出してみようという創作活動にもなる。

 散歩は睡眠中の夢と違い、嫌なことを思い出さないで済む。この歳になってもまだ高校の試験で落第点を取って追試を受け、担当教師に馬鹿にされる夢をみる。寝汗をかくことも多い。散歩は心地よい汗をかくことはあっても脂汗ではない。

 昨日の再開した散歩では、最後のほうで脚がもつれた。筋肉痛もある。でも続けていればそれもなくなると期待する。最近今までなかった肩こりがひどい。友人が言った。肩こりは散歩が一番効いたと。パソコンの前にいる時間を減らして、散歩の時間を増やそうと考えている。


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銀婚式

2016年10月11日 | Weblog

  平成3年(1991年)の10月10日私は再婚でき結婚式を挙げた。あれから25年が経った。感慨無量。

 最近友人の女性が悩みを打ち明けた。「崖っぷちにいる」との文言にただならぬ気配を感じたので、妻と一緒に会って話を聞くことにした。娘さんが現在離婚調停をしているという。私は離婚も離婚調停も経験している。私は二人の子供を引き取り育てた。その女性も離婚して、女手一つで二人の子供を育てた。離婚や調停のことは、思い出すのも嫌である。しかし経験があることは、他人のことであっても分析しやすい。相談してきた女性は、母と娘が同じことを繰り返すのが母にとっての苦しみであるようだ。人はえてして責任が自分であるととらえがちである。ないとは言えないが、決して自分ひとりのものではない。と言ってもこれが私の娘のことになれば、この女性と同じように私は自分を責めるであろう。しかし今回は違う。私は自分の経験を基に客観的に持論を述べることができた。

 結論は直ちに離婚に持ち込むことである。調停は何の役にも立たない。ただ相手から自分がいかにダメな配偶者であるかを調停委員の前で繰り返し繰り返し聞かされる。自己嫌悪に陥る。そうでなくとも自分のダメさ加減には日頃から気が付いている。ここはスクラップ アンド ビルド、一旦結婚生活を解消して、まず自分の改造からやり直す。子供を育てながらとなると、更にハードルは高くなる。高くなればなるほど修行としては、効果大となる。

 離婚直後、私は3つの誓いを立てた。①子供二人大学を卒業させるまで面倒をみる。②二度と結婚はしない。③自分を叩き直して改造する。離婚後15年間3つの誓いに集中した。紆余曲折があった。①はできた。②は誓いを破ったが、後悔していない。③は未達成。③の努力と時間の経過が人生を変えた。③があったので②の誓いは破られることになった。

 ノーベル賞の医学生理学賞の大隈良典東京工業大学栄誉教授夫妻の受賞記者会見のコメントが私の関心を誘った。夫妻の出会いと結婚の経緯を質問され「・・・運命の出会いとしか言いようがない。・・・」と答えた。科学的な研究に没頭してきたノーベル賞をとるような学者が“運命的な”という言葉を使ったのが印象に残った。私は天才大隈教授とは比較にならない凡人だが、再婚した妻との出会いは、まさに“運命的な”であった。大隈夫妻をテレビで観ていて、こんな夫婦っていいなと感じた。

  最近テレビのコマーシャルで「半径30㎝のハピネス」というP&Gの洗剤の宣伝が流れる。とても観ていて好感できる。たしか流通ジャーナリストとして活躍して41歳の時、肺カルチノイドで亡くなった故金子哲雄さんが著書の中で書いていたことと重なる。金子さんはなくなる前に奥さんのために自分亡き後、どうすればよいかを細かく書き残した。それは奥さんが後に本にした。壮絶だが参考にしたいと私は思った。

  結婚の極意がここにある。結婚生活において30㎝以内に入れるのは、配偶者だけなのである。相談してきた友人の娘の旦那は、他の女性と不倫をしていた。一人だけではなかった。30㎝以内に妻以外の女性を入れてしまった。

  配偶者に理想や冒険を求めても無駄。自分を改造して相手に相応しくするしか道はない。銀婚式が金婚式になる日までに別人28号を完成させたいものだが・・・。


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美味しい赤い魚 ヒメジ

2016年10月07日 | Weblog

  行きつけの魚屋は2店ある。一店は大きな魚屋でもう一店は小さい。小さい魚屋でヒメジを見つけた。

 ヒメジを初めて食べたのは、アフリカのセネガルだった。セネガルは旧フランス植民地でフランスの影響が色濃く残っている。言語は公用語がフランス語、レストランではフランス料理が主流だった。海岸沿いのレストランで初めてヒメジを食べた。レストランでは“Rouget”(フランス語で“赤”の意味)と呼ばれていた。15センチから25センチ小さな魚だった。グリルしただけのシンプルな料理だった。体の赤い色に対抗するように身は真っ白でフワァとしていた。

  私は海のない長野県の生まれなので、子供の頃、海の魚といえば、サバ、サンマ、サケぐらいしか知らなかった。タイは結婚式に親が行ってもらってくる高級魚で年に数回食べられたかどうか。当然知っている魚の数も限られている。ただ年鑑図鑑が大好きだった。それが尾を引いて妻の海外赴任地へも昆虫図鑑、植物図鑑、食材図鑑、魚類図鑑などを持ち歩いた。セネガルでも魚類図鑑は役に立った。漁船が砂浜の市場に魚を卸す場所へ図鑑片手に買い出しに行った。市場で働く、また買い出しに来ている客たちが図鑑を見て驚いていた。「マグロはあるか?」と漁船の漁師に図鑑を見せながら尋ねると、「こんな小さな魚はいねえ」と言われた。冗談だったのか本気だったのか。

  大好きなイタリアのベネチアのレストラン『トスカーナ』で食べたヒメジも美味しかった。イタリア語でヒメジを“Triglia”(トゥリィリャ)という。私はヒメジをフランス式に調理するよりイタリア式のほうが数倍好きだ。ヒメジは私のお気に入りの魚になった。

  日本でヒメジを魚屋で見ることはなかった。築地でもデパートの地下の魚専門店でも見たことがない。それがよりによって行きつけの小さな魚屋で見つけるとは夢にも思わなかった。その小さな魚屋は市場でその日に仕入れた魚しか並べない。魚、それも鮮魚以外売っていない。3メートル幅ぐらいの低い棚に発泡スチロールの箱を並べ、氷と魚を入れてある。まだ生きている魚は大きめなプラスチック製の箱に酸素をブクブクとパイプから出しながら入れてある。

  この店は祖父、父、息子の3代でやっている。父が社長らしい。社長が一番魚に詳しい。私はできるだけ社長がいる時、魚を買うようにしている。祖父は無口で店の中の狭い流しで黙々と魚を捌いている。小さな魚をも丁寧に処理して刺身にしてパックに入れ店に並べる。しかし社長が留守で祖父しか店にいないと事は面倒になる。以前ヒメジを買おうとして祖父に伝えると「これは売らない。あとで寿司にして売るから」と言われ、結局買うことができなかった。手に入らないとなると、私は、どうしても手に入れようとする。障害があればあるほど燃える。

  次は社長がいる時を見計らって行った。問題なく買うことができた。社長からいろいろな魚の知識を学ぶことができる。それがまた楽しみなことである。同じ家族でも3人3様なのが可笑しい。ヒメジはその地その地でいろいろな名前で呼ばれる。この辺では“赤ギス、姫小鯛”と呼ぶと社長が教えてくれた。

 やっと手に入れたヒメジは、料理する前から気分を高揚させる。小さな魚で骨が多くウロコもびっしりで下ごしらえが大変だ。だからこそ調理して妻と冷えた白ワインでいただくとまた格別である。至福。


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メガネが妻の尻の下

2016年10月05日 | Weblog

  私はメガネなしには生活できない。近視と乱視用、老眼用、サングラス、パソコン専用と使い分ける。運転免許証もメガネ着用が義務付けられている。

 最近では2年に1回、近視と乱視用のメガネを特売期間に新調する。メガネは私の取り外し可能な目となった。毎日の生活の中で、メガネの取り換えが頻繁に行われている。テレビを観るときは近視用。本や細かい字を読むときや手紙を書くときは、老眼用。パソコンを使うときは、パソコン用。佐渡旅行でもバスの中で外の景色は近視用、ツアー会社が配布した地図や観光案内書を見るときは老眼とメガネの交換がテニスや卓球のラリー並みに続いた。

 そんな大事なメガネがある晩、こともあろうに妻の尻の下敷きになった。妻が私のリクライニングチェアの足乗せオットマンに座った。そこに私のメガネが置いてあった。妻は腰をおろしただけではなかった。異常を感じて立ち上がるとき、ヨイショと言うように反動をつけるために尻をオットマンに押し付けた。メガネはグニャッとひしゃいだ。片方のレンズは枠からとび出し外れた。その光景は自動車解体工場のプレス機であの自動車がつぶされる状況のように私にはスローモーションで映った。妻は言った。「大丈夫よ。メガネ屋へ持っていけば直してくれる」 私は心の中でつぶやく。「それを言う前に言うことあるだろうが」メガネを手に取る。レンズが片方外れ、ひしゃいだメガネフレーム。私はいくらメガネ屋でも直せないだろうと思った。私がメガネ屋なら「お客さん、これほどまでになると修理できません」とまず言って、これを機会に新しいメガネを買わせる算段をはかる。妻はいつものように通勤の途についた。

 私は以前使っていた古い近視用のメガネをかけてメガネ屋へ行った。メガネ屋のおじさんはメガネを手に取り「これはひどい」とまず言った。私は思わず「妻がメガネの上に座ってしまったんですよ」と言いそうになったが、こらえた。「やってみますが、たぶんこの部分が折れてしまうかもしれません」と言いながら、レンズの枠と耳かけの接合部分を指さした。「いつ取りに来ればいいですか」「4時過ぎに来てみてください」

 家に戻り、老眼鏡でノートづくりをした。4時少し前に家を出てメガネ屋に行った。おじさんは店にいなかった。嫌な予感。留守番していたのは娘さんらしい。それとも息子の嫁さんか。どちらでもいい。メガネが直っていればそれでいい。「今朝、つぶれたメガネ持ってきたものですができましたでしょうか」「ああ、あれですね」 修理の終わったメガネがいくつか入った箱の中から袋を一つ取り出した。「父がここ、折れるかもしれないけれど、まだ使えると言っていました」 手渡されたメガネを私はじっと見た。まるで何もなかったようだった。かけてみる。やはり今はこのメガネが一番よく近視の状況に合っている。安堵。まるで新しい眼球を得た気分である。

 「おいくらですか」の問いに「結構ですよ」と女性は答えた。メガネは特売セールの時、この店で買ったものだった。それでもあのひしゃげてしまったメガネを再生させてもらったのだから、タダというわけにはいかない。「それは困ります」と言うと「お得意様ですから」と返した。夕方勤めを終えて帰宅した妻に報告。妻「ほら、直ったでしょう」 憎めないどこまでもポジティブさに脱帽。

 私はこの歳になっても他人から言いがかりや文句をつけられやすい。どうも顔に問題があるらしい。他人に覚えてもらえやすい顔なのだと思うことにした。おかげでメガネも無料で直った。幸いにも、どんなメガネをかけても自分の顔は見ることができない。メガネ屋のおじさんは私の顔をちゃんと覚えていてくれた。こんな顔でも役に立つこともある。ありがたいことだ。


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