団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

自然の秩序と横入り

2019年05月31日 | Weblog

  ソメイヨシノの花びらが散ってから2か月が経った。ソメイヨシノの花が散るのを待っていたかのようにソメイヨシノの並木にポツンポツンと植えられた八重桜がつぼみを膨らませ始めた。どんなに気候に変動があってもこのソメイヨシノ、そして八重桜の順番は守られる。

 ロシアのサハリンに暮らした。そこで遡上する魚を見た。そして遡上に順番があることを知った。それぞれの種が決まった順番で遡上して子孫を残す。サハリンは自然が手つかずに残っている。川にダムも堰もないので遡上に障害は、ほとんどない。釣りをした。川のどこでも釣れると思った。遡上する魚を釣るのは河口から数キロだけ。それ以上、上がると魚に傷が増える。実際産卵する上流にたどり着いた魚は、体中ボロボロになっていた。そこまでして産卵場所にたどり着けても、メスの取り合いは壮絶で目的を達っして子孫を残せるのは1匹のメスに対して一匹のオスだけである。釣りに関してもド素人だった私は、釣り名人のリンさんの言うがまま。リンさんは、遡上の順番を知っていた。自分が好きな魚、例えばサクラマスの順番が来ると連日お気に入りの川のふちに陣取った。私は釣りも楽しんだが、遡上する大群の魚を橋の上から見るのが一番好きだった。ある時、山奥深く入ってリンさんと釣りに行った。河口付近が遡上する魚の釣り場と言いながらどうして奥に入るのか疑問に思った。イワナとヤマメである。この2種は遡上をしない。しない代わりに他の魚の遡上を上流で待つ。産卵された卵を狙う。海から始まり、自分たちが生まれた川を遡上して上流で壮絶な争いをして産卵する。その一連の経過は、それ自体が物語となる。そこにチャッカリ待ち伏せして卵を喰う情け知らずのイワナ、ヤマメに好感は持てなかった。しかし遡上した魚の卵をたらふく食べたまるまる太った40センチ以上のイワナ、ヤマメの塩焼きはうまかった。

 ソメイヨシノや八重桜、遡上する魚の順番ばかりではない。私たちの周りには、整然とした秩序の展開が四季折々に見て取れる。それが散歩の楽しみでもある。川の土手、道路の端やのり面、鉄道のり面はまるで舞台のようだ。季節ごとに登場する植物・動物・昆虫、それもほとんどが主役でなくその他大勢として出番を果たす。今私が見る順番は、ずっと太古の昔からあったとは思われない。当然、自然淘汰にさらされ、他に種とのし烈な戦いがあっての結果であろう。人間社会においてもその変化が垣間見られる。私が子供の頃、列があっても横入りする輩が多くいた。道路での車の追い越し、信号のない合流地点では、混乱していた。今ではヨーロッパ並みに整然と一台ずつ交互に進む。時代が変わって、教育が行き届いたせいか、生活にゆとりができたせいか、日本人は列を作って順番を守れるように、車を運転してもヨーロッパ並みに整然と一台ずつ交互に進むことができるようになった。時々まれにまだ横入りする者がいる。決まってそういう輩は年寄りの男性か女性である。アフリカ、アラブ、南西アジアなどの開発途上国で暮らした。社会が未熟で秩序が確立されていない面が多かった。空港や公共交通機関での順番待ちは、カオスだった。車を運転していても我先にと追い越しや割り込みに腹を立て、運転は極度のストレスになった。日本に帰国して、多くの不要なストレスから解放された。秩序が感じられるようになったことが嬉しかった。長い時間かけて作られてきた人間社会の秩序は、見た目にも美しい。

 5月28日に神奈川県川崎市で起きたおぞましい殺傷事件。スクールバスに乗るために、整然と列を作って待っていたカリタス学園の小学生。犯人は、この整然と並んでいた子供たちを2本の包丁で切りつけた。これでは防ぎようがない。私の秩序ある社会への称賛が揺らぐ。

 教育を通し、しつけを受け、自己研鑽して秩序を身につける者がいる一方、それを破壊しようとする者がいる。私は神のような超自然の尊厳にひれ伏すことがあっても、いまだに特定の宗教の神の存在には疑問符を持つ。悪魔の存在は強く感じる。自分の心の片隅にも、それらしきものがいるのを知っている。これを私が死ぬまでどう封じ込めておくかが、私の余生の大仕事である。


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川崎登戸殺傷事件と朝の挨拶

2019年05月29日 | Weblog

 カナダの英語教科書にこんな話があった。

  英国の郵便配達員のエバンスは住む村で嫌われ者だった。理由はだれにも挨拶をしないからだった。近所の子供3人はそんなエバンスの家の塀にわざと寄りかかってエバンスを怒らせ逃げる。普段喋らないエバンスは、この時ばかりは大声で怒鳴る。ある日大雪が降った。3人はエバンスの通り道に雪を固めてエバンスを転ばそうとした。雪を固めガラスのようにツルツルにした。3人はエバンスの家の塀に寄りかかり、エバンスが家から出てくるのを待った。エバンス登場。塀に寄りかかる3人を見つけて怒鳴る。そして走り出す。興奮しているエバンスは、3人が仕掛けたワナに気付かず、スッテンコロリ。バランスを崩し、脚を空中に高く上げ地面に落下。エバンスは骨折した。3人はエバンスを医者に運び込んだ。腕が折れていた。「これでは働けない」とエバンスが言うと、3人は「僕たちが手伝うよ」と言った。こうして3人はエバンスの郵便配達を手伝った。こうして数週間が過ぎた。郵便を4人で配達中、エバンスの骨折を治療してくれた医師と通りで出くわした。医師はエバンスに「その三角帯は何、私はリハビリで腕を使うように言ったはずだが」と尋ねた。エバンスは、白状した。実は配達という仕事にずっと寂しさを感じていたが、こうして3人が手伝ってくれるようになって、それがなくなった。つい甘えて嘘をついていた。3人は郵便配達の手伝いをやめた。同時にエバンスの家の塀に寄りかかるのもやめた。

  5月28日神奈川県川崎市登戸で19人が殺傷されるという悲惨な事件が起きた。犯人の岩崎隆一(51歳)に犯行当日の朝すれ違った近隣住民がこう証言した。「朝7時頃、ゴミ捨てに出たときに向こうから挨拶されました。黒のジーンズに黒のポロシャツ、黒のリュックと全身黒ずくめの服装で、駅の方向に走りながら、何食わぬ顔で『おはようございます!』と声を掛けてきたので、こちらも挨拶をしました。表情は普通に見えました。会ったのはこれが2回目です」

 この証言を聞いた時、私は昔のエバンスの話をなぜか思い出した。「おはようございます」と挨拶できる岩崎という51歳の男がなぜあのような惨い事件を起こしたのか。「おはよう」でなく、なぜ「おはようございます」と…ございます、をつけた丁寧な表現だったのか。犯人の胸の内の忌まわしい計画的な犯行を隠すためだったのか。犯人が自殺してしまった今、知る由もない。

  私の父は、4人の子供に挨拶をいつも元気にだれにでもすること、嘘をつかないこと、「ありがとう」という魔法の言葉を出来るだけ使うこと、人に迷惑をかけないことを厳しくしつけた。私は挨拶と「ありがとう」がどれほど人の関係を良くするか多くの国々で知ることができた。ただ嘘をつくな、人に迷惑をかけるな、には全く自信がない。

  今回の事件の犠牲者小山智史さん(39歳)は外務省の省員ということで驚いた。妻が外務省で働いていた時、任地で多くの若い外務省の省員と知り合った。小山さんと知り合いではないが、どうしても小山さんと同じくらいの年齢の省員や家族を思い出してしまう。特にイラクで殉死したチュニジアで一緒だった井ノ上正盛さん(当時30歳)を思い出す。現在の小山さんの住所には私たちも日本帰国時に2回住んでいた。ミャンマー語の専門家だった小山さんの無念さを痛く思う。残された家族の悲しみは、いかばかりか。

  5月5日に私は調理中、包丁で左人差し指の爪を切ってしまった。大した傷ではなかったが、糖尿病と狭心症で血液をサラサラにする薬を服用している影響で止血ができなかった。2日目の朝、ベッドが血だらけになっていた。あのくらいの血の汚れで青くなった私。今回の事件現場のテレビ画面に映し出された広範囲に残された血痕に、ただただ戦慄を覚えた。

  こんな悲しい事件は、どうすればなくせるのか。私には考えもつかない。ただ、知らない人にでも声を出して挨拶は続けようと思う。


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相撲の仕切りとゴリラのドラミングディスプレイ

2019年05月27日 | Weblog

  今年裏庭の竹林に例年に見られない程、太く立派なタケノコが出た。その成長の早いこと。タケノコが2メートルくらいになった、ある夕方、そこに何か生き物がいるかのようでギョっとした。茶色のタケノコの皮が剥けて拡がり、まるでたたずむゴリラに見えた。

 4月12日妻の学会参加に便乗して名古屋へ行った。予てから行きたかった犬山の日本モンキーセンターを訪ねた。46歳になるタロウに会うためだ。名古屋の東山動物園には今女性に大人気のイケメンゴリラ、シャバーニがいる。シャバーニはまだ22歳、私は46歳になるタロウにより親近感を持つ。しかし電車とバスを乗り継いで犬山の日本モンキーセンターへ初めて行ってみて驚いた。園内に人がほとんどいなかった。園内で飼育されている猿類の数の方がずっと多かった。ホエザルのけたたましい吠え声が、園内いたるところで聞けた。あまりに客が少ないので、園内がだんだんアフリカのジャングルの中にいるような感じに思えた。私もホエザルのように吠えたい衝動さえ持った。東山動物園のシャバーニの檻の前は、常に人だかりだというのに。タロウの檻の前にいたのは私ひとり。でもその分、私はタロウと直接向き合い20分ほど過ごせた。その間、タロウは微動だにせず、ずっと同じ姿勢で座っていた。私は妻とホテルのロビーで会う約束の時間に間に合うように、タロウの檻の前から離れようとした。タロウの目が動いた。タロウの目が私を追った。タロウが私を気にしていたのだ。悲しさもあったが、貴重な体験ができた喜びがまさった。

 次の日の朝、妻が学会へ出かけた後、日本モンキーセンターへタロウに会いに行こうかと思った。私の悪い性向。出過ぎ、やりすぎ、しゃべりすぎ、のめりこみすぎ。気持ちを抑えた。駅で一日フリー切符を購入。地下鉄に乗った。駅名に東山動物園があった。降りてみる。地上に出た。ゾロゾロと親子連れが動物園の入り口の方へ歩いていた。昨日出会ったタロウを思い出す。シャバーニに会いに行くなんてできない。私は来た道を戻り、今度はバスで市内へ戻った。

 家の裏の竹林でタケノコをゴリラに似ていると咄嗟に思ったのは、名古屋でタロウを近くでじっくり観察したせいであろう。すでにそのタケノコも10メートル近くにまで成長した。「去る者は日日に疎し」 だんだんタロウの事も、ゴリラに似ていると思ったタケノコも私の頭の中から消えかけていた。

 大相撲5月場所が5月12日から始まった。相撲取り、特に栃ノ心、高安、貴景勝などを見ているとゴリラのようだ。体が大きく鍛えられた筋肉。シルバーバック並みに背中にまで毛が生えている。場所の途中、書店である本を見つけた。『ゴリラの森、言葉の海』 山極寿一 小川洋子 著 新潮社 1500円(税別)。久しぶりに一気読み。何というタイミング。38ページに「山極 うん。僕も相撲を見たときに『これだ!』と思いました。例えば相撲の『仕切り』はゴリラのドラミングディスプレイにそっくりです。はじめに塩をつかんでなげるじゃないですか。そして座って柏手を打つ。ゴリラはまず草をほうり投げる。そして胸を打つ。それに蹲踞の姿勢のあと、拳を土俵につけるじゃないですか。あれはまさにゴリラのナックルウォーキングです」とあった。このページだけではない。本の中のあちこちに、彼でなければ語れないゴリラに関する知識の結晶が散らばる。この本を読んで以降、相撲がさらに面白くなった。山極寿一は現京都大学学長にして霊長類学者である。

 私がゴリラに興味を持ったのは、シガ二―・ウィーバー主演の映画『愛は霧のかなたに』を観て以来である。それ以前はカバが好きだった。猿の類は好きではなかった。自分の祖先に繋がるという学説への抵抗感と猿のチャラチャラしている落ち着きのなさが好きになれなかった。ゴリラは違う。ゴリラは私を黙らせ、留め置く。

 大相撲5月場所の千秋楽、トランプアメリカ大統領が国技館で大相撲を観戦。あのような喧騒の中、黙々と闘う力士。ローマ時代のコロセウムでの見世物のようだったが、土俵の上だけ神聖な静寂があった。

 人間が言葉を得て失ったものを、ゴリラは言葉を持たないけれど失っていない。遅いかもしれないが、相撲を楽しみながら、ゴリラからも学びたい。タロウと山極さんのおかげで相撲がさらに好きになった。


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東京ハートセンター

2019年05月23日 | Weblog

  私は今年の1月22日に東京品川区の大崎にある東京ハートセンターで心臓カテーテル手術を受けた。私の最初の心臓バイパス手術の致命的な失敗を神奈川県の葉山ハートセンターの須磨医師と細川医師の連携でバイパスの修復手術を受けて救われた、私が53歳、妻の任地ロシアのサハリンから一人で日本に戻り葉山ハートセンターに入院した。無事修復手術が終わった。あれから18年が過ぎた。今年になってから心臓に異変が感じられた。妻が東京ハートセンターの副院長になっている細川医師の予約を取ってくれた。妻の紹介状を持って、諸検査と細川医師の診察を1月18日に受けた。結果はすぐに狭窄をカテーテル手術しなければと22日の入院と施術が決まった。大嫌いなカテーテルで2か所のバルーンによる血管の拡張修復と4.5センチと2センチの2本のステントを入れた。夕食後、遠藤真弘理事長が一人で各病室へ患者に様子を尋ねるために来てくれた。珍しい理事長だと感心した。

 術後経過もよく、だんだん落ち込んだ気持ちも回復してきた。喉元過ぎれば熱さを忘れる。あの嫌なカテーテルを入れる時の恐ろしさ、血管の中を長い針金状のモノがうごめく感触、MRIの不気味な閉鎖された中に響き渡る音さえ消えてきた。ある日妻が唐突に「東京ハートセンターの経営が悪化しているんだって」と言った。教えてもらったネットのデイリー新潮の記事を読んだ。理事長の妻で常務理事が5億円近い金を私的流用して病院の経営が悪化しているという。記事によれば、病院の職員への給料の遅配、病院へ機材備品を納入する業者への支払いにも支障が出ているらしい。まさに私が1月2月入院通医院していた時と重なる。そのような兆候は、感じなかった。理事長自ら患者を病室にひとりで回るような病院である。ましてや私が信頼する名医の細川医師を始め、葉山ハートセンターで院長を勤めた磯村医師さえ在籍する病院である。

 ちょうどこの記事が週刊新潮に載った頃、テレビの番組でデビ夫人がフィリピンのイメルダ夫人について語った。語られた内容は、とにかくイメルダは、夫の大統領の権力を笠に着て、やりたい放題の贅を尽くしたというものだった。加えて実際に映像でこれでもかという服、靴、宝石を見せた。語るデビ夫人はどうだったか思った。きっとイメルダ夫人の贅沢三昧はデビ夫人どころのものではなかったらしい。

 イメルダ夫人に関して私にも関連したことがあった。以前赤坂の東急ホテルの中にソニーの直販店があった。そこは海外へ持ち出せるソニー商品を販売していた。国によって110Vだったり200Vだったりするので、日本の製品を持ち込んでも変圧器を通さないと使えない。その店では各国で使えるソニー商品を買えた。私のアメリカの友人に頼まれてソニーのビデオカメラを買いに赤坂の東急ホテルへ行った。店に入ると店員が「申し訳ございません。ここにある商品すべて売約済みです。入荷にはしばらく時間がかかります」と言った。ちょうどその頃、フィリピンから大統領が公式訪問していた。もちろんイメルダ夫人も来ていた。大統領に何かあったらという理由で大統領とは別の特別機に乗っての来日だった。私は店員に尋ねた。「まさかイメルダ夫人では?」 店員は首を縦に振った。

 店にある商品をすべて買う。これは欲の権化にしかできないであろう。ここまでできなくても、昨年兵庫県三木市で勤務先の会社の金を横領したとして逮捕された北村緑容疑者のようにブランド品を買い漁ったように次から次へと病的と言えるような買い方をする。東京ハートセンターの理事長夫人も記事によるとシャネルにご執心だったという。さもしい。品がない。ブランドのモノは金で買えるが、品性は買えない。アメリカの大学の卒業式でロバート・スミスさん(56歳投資家)が約400人の学費ローン(総額44億円)を肩代わりして返済すると発表。そして将来あなたたちも私のようにお金を使って欲しいと伝えた。ブランド品の買いあさりとは大きな違いである。

 私は妻が外務省の医務官だった時、勤務地のあちこちで“逆玉”(玉の輿の逆の意)と揶揄された。そんな時はエリザベス女王やサッチャー首相の夫と私は同じ立場なんだぞ、と思いつつ唇を噛んで、良き主夫であろうと努めた。ブランドの爆買いなどしたいと思ったこともない。私にできることは、妻に内緒で“豆大福”を買って隠れ食いをするくらいだ。

 東京ハートセンターに集まった心臓に関する名医と職員の今後を案じる。自分が信頼できて、この医師になら命を託せると思える医師には中々出会えない。夫婦となる出会いもそうだ。夫婦は最後までベターハーフ(相手の方が自分より良い)とずっと思える関係でありたい。


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ネビロ(野蒜=ノビル)

2019年05月21日 | Weblog

  野菜を買っている行きつけの道の駅でネビロを見つけた。私の故郷では野蒜(ノビル)を“ネビロ”と言った。野生のものではなく、農家が農産物として栽培したものだ。エシャロットかと見間違える程立派。早速購入した。珍しい物、新しい物にすぐ飛びつく性格は、衝動買いを抑え込めない。値段は一束税込み249円だった。

 私の父はネビロを晩酌のおつまみにした。ネビロの季節が到来すると母はザルを持って、近くのの田んぼのあぜ道へ行った。私を連れていくこともあった。ネビロを見つけるのは簡単。でもネビロを掘り出すのは大変。母は上手く最後の小さな玉までキレイに掘り出せた。私は途中まで慎重に掘るが、途中であせって玉を地中に残したまま茎だけを引き抜いた。夢中になった。何とか父親に自分も母のように上手くネビロを掘れたと報告しようと思った。あせればあせるほどネビロは採れない。近所の子供と一緒にあぜ道へネビロ採りに行ったこともある。遊びとして誰が一番玉まで完全な姿で付いたネビロを多く採れたか競った。子供でネビロを食べるのが好きだという子はいなかった。何であんなもの大人は好きなのかと疑問を持った。1歳年上の文彦ちゃんは、度の強い眼鏡の中心を鼻に押し戻しながら「大人の味なんだよ」と言った。

 あれから60年以上が過ぎた。中学以降でネビロを採ったり食べたことも見たこともなかった。海外でエシャロットを見てネビロを思い出したことがある。世界中人間の嗜好がある意味共通していると感動した。道の駅でネビロを見つけた時、文彦ちゃんが言った“大人の味”を果たしてコキイチ(71歳)の私は味わえるか試してみようと買ってみた。私が子どもの頃、目にしたネビロと違った。玉が大きい。いかにも畑で育てられた感が強かった。父が晩酌でつまみにしていたように味噌をつけて食べてみた。辛い。食べられたものではない。まだ私は大人になり切れていないのかと落ち込んだ。結局、父のように生のまま食べきることができず、野菜炒めの中に混ぜて油で調理して食べた。次に買うことはない。

 食料の乏しい子供時代を過ごした。金を払って買う食料は我が家には少なかった。そのかわり、季節ごとに無料で手に入った自然の恵みは豊かだった。フキノトウ、タラの芽、ウド、セリ、ワラビ、ギンナン、クリ、キノコ。父は、田んぼの脇を流れる小川へ私を魚取りにも連れて行った。ケイサンを使った。竹でできたかまぼこ型の枠に網を取り付けてあった。私が川の中でケイサンを川幅にスキがないように抑え5,6メートル先から父が、足と手を使って魚をケイサンに追い込む。フナやドジョウがたくさん獲れた。父は魚の処理も上手だった。丁寧にフナやドジョウをさばいた。ドジョウは柳川鍋にしてくれた。大人になって東京浅草の“どぜう 駒形”で柳川鍋を食べた時、父のドジョウ鍋がどれほど凄かったかを知った。ドジョウだけではない。タニシ、シジミ、鯉、ナマズ父と一緒に山菜取りや魚とりに行ったのは楽しい思い出である。徴兵されて満州へ行ったという戦争の話は、まったくしなかった父が、一度だけオタマジャクシを食べた話をした。暗い中、行軍続きでクタクタになっていたが、飯盒で米を炊いた。いつもと違って炊き込みご飯のように美味かった。朝、明るくなって朝飯を食べようと昨夜の残ったご飯を見るとオタマジャクシが入っていた。その味をしめて、オタマジャクシ混ぜご飯は、父所属した部隊班のご馳走になったという。

 人間は遠い昔に狩猟採集生活から農耕牧畜の定住生活になった。今では、金を出せば、何でも手に入る。山菜取りや釣りは、趣味となった。どんなに時代が進んでも、人の中に受け継がれた遺伝子には、獲物を獲ったり、木の実や山菜を見つける喜びが根強く残っている。

 カーペンターズの『イエスタデイ ワンス モア』を聴くと過去の思い出で胸がいっぱいになる。それと同じようにネビロから、父と一緒に魚獲り山菜取りに行った子供時代、ロシアのサハリンでリンさんと山菜を採り、魚を釣ったことが思い出される。父と違いリンさんと違い、私に戦争の経験がない。それは凄いこと。丸山穂高さん、戦争はなりません。絶対に。


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無賃乗車に背中ピタッ

2019年05月17日 | Weblog

 私が世界で一番好きな都市は、イタリアのベネッツアだ。そのベネッツアで水上バスに乗った。ベネッツアでの移動手段は船しかない。それが大きな魅力である。世界はあらゆるところが、車無しでは暮らしが成り立たない。そんな車社会を忘れられるベネッツアが気に入った。水上バスで無賃乗船している輩を多く見かけた。私に見分けがつくほどいい加減な管理体制に思えた。現地のガイドに尋ねた。ガイドが「大丈夫。時々水上バスの運行会社が無賃乗船を一斉摘発するから。罰金は乗船賃の何十倍もするので」 ベネッツア式の管理に感心した。

 先日、とある駅の改札でのこと。その駅には10台以上の自動改札機がズラッと並んでいる。私はスイカを使うので「ICタッチ」の表示が付いた改札に向かった。スイカをタッチした瞬間私の背中に密着してきた男がいた。3つ向こうの改札には老婆の背後に男が密着して改札を通過した。理由はわからないが私の自動改札機も老婆の自動改札機も赤いランプが点灯して「ピンポンピンポン」とけたたましく鳴った。後ろに密着していた男が持つカードに残高がない。私と密着することによって改札を出る魂胆か。改札を出てすぐ後ろを振り返った。私より身長が低いアジア系の外国人。他の改札から同じ方法で出た仲間と声を掛け合い、私を押すようにダッシュ。言葉は日本語ではなかった。仲間らしいもう一人のアジア系の男と並んで駅構内を走って駆け抜けた。私は追いかけようとしたが、脚がもつれた。悔しい。私は他人にむやみに接触されるのが嫌い。ましてや無賃乗車なぞ許せない。それも老婆にしろ、私にしろ老人に狙いを定めての行為に腹が立った。私は若くない。でも私の動き外見でカモにされたことが気に食わない。

 私は改札口に引き返した。駅員のいる窓口に並んだ。まだ息が上がっていた。心臓もバグバグだった。順番が来て、駅員に事の顛末を説明した。いつの頃からか私はきちんと自分の思いを言葉にするのが苦手になった。塾で教えていた頃は、一日のほとんど話続けていたこの私がである。駅員は、先日の交番の警察官と同じような反応をした。失望。犯罪行為に対して無関心、無頓着なのである。お役人言葉で締めくくる。「気をつけてみていきます」

 家で妻にその悔しい思いを聞いてもらった。妻「スリじゃなかったの。財布とられなかった。大丈夫。パリの地下鉄でスリにやられたよね」 妻は、私の悔しさをわかってくれていない。追い打ちが入った。「追いかけるなんてやめてよ。若いチンピラにかなうはずないから」 確かに。あの時たとえ二人に追いついても、言葉も通じず、二人に袋叩きされていたかもしれない。

 私は心配である。海外から多くの人が日本にやってくる。みな良い人ばかりではない。犯罪目的でやってくる輩もいる。日本人の寛容さというか、犯罪への無防備さに不安をおぼえる。事前に防御策を講じている様子が見られない。グリーン車をよく利用する知人が言っていた。グリーン車には必ずグリーン券を持たないで入り込んでいる者がいる。巧妙に検札を潜り抜ける。たとえ見つかっても「間違えた」とか日本語がわからないふりをする。そんな時でも車掌は、ただ普通車両へ移させるだけだと。日本人は本当に優しいのだろうか。日本人は本当に親切なのだろうか。私には面倒くさがりと、臭いものには蓋をするという逃げにも見える。

 駅の自動改札は確かに便利である。同時に無人であるから、無賃乗車常習者には容易に改札をすり抜けられる。悪いことをする輩は、悪知恵を総動員して摘発を逃れる。卑怯で狡猾。

 大相撲を観戦して思う。武器も持たず、裸に近い姿で己の鍛え上げた肉体だけで礼に始まり礼で終わる格闘技。これほど正々堂々なスポーツがあるだろうか。外出して溜まったうっ憤も消える。好きな真っ向押し相撲の貴景勝の休場が残念。

 常時警戒態勢で犯罪を摘発予防するのもいいが、時々ベネッツアの水上バスのような一斉摘発で悪い奴をギャフンと言わせてやりたい。私も結構、正々堂々とは程遠い、ワルよのう。


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バスでの出来事

2019年05月15日 | Weblog

  指の怪我がだいぶ良くなってきた。包帯がとれた。やっと散歩を再開。朝からはっきりしない天気だった。雨があがった隙に家を出た。駅まで歩いて、電車に乗って4駅先にある駅の中にあるお気に入りのスーパーへ久しぶりに出かけた。リュックを背負っていった。たくさん買い物ができた。

  再び電車に乗って最寄りの駅に戻った。改札を出ると雨がパラパラ降りだした。リュックが重かった。万歩計が11日ぶりに7000歩を超えていた。目標の1日8000歩が達成できそうだ。家に行くバスは2路線ある。停留所から家まで歩く距離が500mほど違う。リュクの重さもあって距離が短い路線のバス乗り場に足を運ばせた。歩く距離が少しある路線は10分ごとにバスが出る。歩く距離が短くて済む路線のバスは1時間に一本。でも時間は決まっていない。乗り場の時刻表を見るしかない。乗り場に向かった。下校途中の女子中学生が4人横に広がって歩いてきた。みな体格が良い。何か運動をしているのだろう。紺と黄色のジャージ。学校指定のものらしい。そのグループから少し離れてもう一人同じ服装の女の子が歩いてきた。先ほどの女子たちより身長が低い。歩き方も少し覇気がない。

  時刻表を見た。現時間は2時40分。2時台のバスは…。2時35分。出たばかりだ。少し歩く方の路線の乗り場に行った。ちょうどバスが入ってきた。私が一番早くバスに乗り込んだ。出発までに7,8分ある。リュックのポケットから漢字パズルを取り出して解き始めた。「もっと大きな声で言ってくれる。聞こえない」の大きな声に顔を上げる。声は大きいが優しさが感じられた。バスの入り口の下にさっきの一人で歩いていた背の低い女子中学生。運転手に何か尋ねている。運転手は60歳くらいか。そろそろ私のように耳が遠くなっているのか。女子中学生を見ると確かに何か言っている。私にも何を言っているのか聞き取れない。運転手が運転席を出て、バスの乗車口まで行った。これはなかなかできることではない。横柄な人ならどこにでもいる。耳に手のひらを置いた。「おじさんの耳に向かってもう一度話してくれる」 女子中学生話す。「…理想郷…」 私にも聞き取れた。理想郷という停留所は私が降りるところから3つ目だ。運転手「停まるよ。乗ってください」 女子中学生の後ろに中年女性がバスに乗ろうと待っていた。女子中学生は、ゆっくり両手でバスの縁をつかんで乗り込んだ。胸に下げていた電子カードを読み取り機に置いた。私は女子中学生がバスに乗れてよかったなと安心して、漢字パズルに戻った。しばらくすると誰かが私に向かって話しかけている気配を感じた。女子中学生は私の席の真向かいにいた。そこだけ横掛けシートで彼女は私の方をむいて座っていた。小さな声。私は最近耳がすっかり遠くなった。いつも妻が言っているように、都合が悪いことは、特にまったく聞こえない。私は漢字パズルをリュックにしまった。身を乗り出して女子中学生の声に集中した。「…理想郷…」 私は「このバスは理想郷で止まるから大丈夫だよ」と言った。

  不思議に思った。もし持っていた電子カードが定期なら、彼女は毎日この路線を利用しているのではないのか。毎日バスに乗っているなら、このバスが理想郷で停まるとわかるんじゃないか。とにかく彼女は、不安がっている。何らかの問題を抱えているらしい。読み取りにくいほど表情に変化がない。でも真剣さは十分に伝わっている。私が降りる停留所にバスが停まった。私は彼女に向かって「このバスは理想郷で停まるからね。大丈夫だよ。心配ないよ。さようなら」と言ってバスを降りた。彼女は何も言わない。にこりともしない。バスを降りる時、運転手が頭を下げてくれた。降りて動き出したバスを見送った。

  人はそれぞれ問題を抱えている。それは決して外見だけでは判断つかない。お互いを出来る範囲で助け合うことは、人間社会の美点である。最近は外に出るたびに、人々の勝手な言動や行動に嫌な思いをさせられる。ややもすれば自分だけ良ければという風潮が強まる中、バスの運転手がとった何気ない行動に清々しさを感じた。女子中学生は、老化に飲み込まれそうになっている私にさえ、風貌みてくれにためらうことなく、尋ねて声をかけてくれた。私が彼女の役に立てたかはわからない。でもこの私でも誰かの役に立てそうな気がした。コキイチの私にできることは少ないが、気配り・目配り・手配りを怠らぬよう努力しよう。今回も女子中学生から大切な生き方を教えてもらえた。外に出ることは悪いことばかりではない。

  私はこれまでどれだけ多くの人々に助けられたことか。恩返しは私の最後のお勤めだと自分に言い聞かせる。


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大津の保育園児の交通事故とドライブレコーダー

2019年05月13日 | Weblog

  5月7日の朝、いつものように車を運転して妻を駅に送った。左手の包帯グルグル巻きの人差し指でハンドルに触れないように気をつけて運転した。駅で妻を降ろし、家に向かった。T字路の交差点の信号でのことだった。私の前に1台、信号が赤で停まっていた。信号が青になった。見通しは良い。注意深い運転手なのだろう。右左に首を振って安全を確かめていた。T字路の左側の車線に車が停止していた。その時だった。一台の白い車が停止している車を反対車線に出て追い越しT字路交差点に入ってきた。私の前の車はゆっくり動き出していた。とっさに急ブレーキを踏んで停まった。その違反車はエンジンをふかして更にスピードを上げて走り去った。前の車も私も寸前のところで事故を回避した。(この画像はドライブレコーダーの映像を撮ったもの。信号は青。私の前の車はすでに停止線を超えて交差点に入ろうとしていた)

 家に戻っても釈然としなかった。私の車にドライブレコーダーが付いている。そうだ、その録画を調べて、記録が鮮明に残っていたら、交番へ持っていって、あの無謀運転の車の運転手を告発しようと決めた。いまだかつて一度も自分の車につけたドライブレコーダーを再生して見たことがない。良い機会だ。10時過ぎに私はまず車を買った販売店へ行った。店の人から再生の方法を教えてもらった。家のパソコンで5月7日の録画を再生した。このドライブレコーダーは、車のエンジンがかかっている間稼働する。驚いた。私と妻の7日の駅へ行く会話がばっちり入っていた。妻が私のクダラナイ冗談に「ハッハッハ」と笑う。恥ずかしい。いよいよ駅から家に戻る画像。例のT字路に来る。すべて写っていた。

 私は交番へ行った。警察官の格好をした男性に話し始めた。彼が言う。「警察官に話してください」 私はこの人警察官じゃないの。交番の奥へ部屋からガタイのしっかりした如何にも警官という人が出てきた。私は7日の朝交差点で見た無謀運転の話をした。警察官の答えは、映像証拠があっても一般人がその人を告訴することはできない。それができるのは警察官が実際にその現場に居合わせて告発するしかない。最後に「私たちもその運転手に気をつけておきます」とありきたりの言葉で締めくくった。

 その次の日、5月8日、滋賀県大津市で琵琶湖湖畔へ日課の散歩に出かける途中だった保育園児の集団に車が突っ込んだ。2人の園児が亡くなり、一人がいまだに意識不明の重体である。むごい。まだ2歳である。5月5日の子供の日が終わったばかり。5日に餃子パーティをやった。その中に2歳の男がいた。可愛い盛り。言葉もまだ赤ちゃん言葉。私も童心に帰り一緒に遊んだ。自分の子供がまだ2歳の頃を思い出しながら、相手した。2歳。私は71歳。私が今日まで経験してきた、良いこと悪いこと悲しいこと楽しいこと不味いもの美味しいもの叱られたこと褒められたこと、2歳の犠牲になった子供は経験することなく事故で殺されてしまった。このような悲劇が起こると「二度と……」という記事が出る。この考えが私を更に落ち込ませ鬱々させる。

 日本は少子化で国家の存亡の危機にある。それなのに毎日というように年寄りが引き起こす事件事故に巻き込まれて幼い命が失われる。少子化の中、生まれた命を守ってあげられない。私には理解できないが、すべては偶然の重なりのように思える。あの時間にあの場所にあの人があの車があの信号が。人間は完全ではない。間違いを犯す。人間はいろいろな法律や規則を作って自分たちの間違いを減らそうとする。現代社会は自分たちが作った規則規制にがんじがらめにされ、身動きが取れなくなっている。

 ドライブレコーダーという最新機器を使いながら、画像に残された不正や無謀が野放しにされている。医学に予防医学がある。その目的は「病気になってしまってからそれを治すことより、病気になりにくい心身を作る。病気を予防し、健康を維持する」 これを「事故や事件が起こってしまってからそれをなくそうとするより、事故や事件が起こりにくい社会を作る。事故や事件を予知して、安全を維持する」に変えてみた。 ドライブレコーダーは、予防のひとつになる。

 私は何もできない。それがつらい。亡くなった伊藤雅宮ちゃん、原田優衣ちゃんを想い、線香をあげて手を合わせる。そして意識不明で重体の園児の回復を祈る。


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すい臓検査と胃カメラ

2019年05月09日 | Weblog

  8日朝、妻の通勤に同行した。私は病院でMRCP(磁気共鳴胆管膵管造影検査)によるすい臓検査と胃カメラによる胃の検査を受ける予約をしていた。

  5日に不注意で左手人差し指を切った。10連休明けの7日まで病院へ行けなかった。6日の夜、寝ている間に出血して、床、シーツ、布団を汚した。7日にやっと近くの病院の形成外科で治療を受けられた。患者に寄り添うことができる珍しい丁寧な人当たりの良い専門医の適切な治療によって不安が取り除かれた。その後出血は止まった。妻は8日の検査の予約を取り消すことを勧めたが、通勤する妻と一緒に東京へ行けば、何かあっても安心なので受診することにした。7日の夜8時以降何も食べないように指示されていた。

 8日の朝、特別にタクシーで駅まで行った。妻は倹約家なのでタクシーは贅沢だと思っている。私が大好きな新幹線に乗ったが、空腹と検査結果と左手の人差し指にグルグルに巻かれた白い包帯が気分を落ち込ませた。片手で解く漢字パズルにも集中できず、ほとんどのマスを埋めることができなかった。

 そもそもすい臓のMRCPの検査を受けるのは、私の父親がすい臓がんでなくなったからである。遺伝する可能性が高いので、数年に一度の検査を医師に勧められている。胃カメラは、親戚家族に胃がんが多いので、一年に一度検査を受けている。

 MRCP検査は、細く狭いトンネル状の中で行う。上向けになってヘッドフォンから聞こえる検査技師の指示に従って、息を吸い、吐いて、止める、を繰り返す。MRCPの中で考えた。私もすでに父親がすい臓がんで亡くなった年齢と同じである。妄想かもしれないが、すい臓がんが見つかるかもしれない。何でこんな恐ろしい検査を受けたのだろう。妄想が膨らむ。棺桶の中に入ったみたいだな、今のこの状況。私が先に死んだら、妻は一人で生きていけるのだろうか。いっそ……。やめよう。恐ろしいことを考えるのは。「カンカンカン グッルチョ グルッチョ ガンガンガン ハイ息を吸って ハイ吐いて、そのまま息を止めて グルッチョ カンカンカン」 20分の間、日常生活の中では、考えることから逃げていた問題に直面していた。

 半崎美子の『母』の歌詞を思い出す。「♪誰よりも早く朝一番に起き……毎晩寝ているか確かめにきて 布団をなおして明かりを消した……自分ばかりでまわりが見えない ……♪」作詞作曲歌 半崎美子 妻はまるで母のようだ。私が指の血で汚した布団カバー、シーツ、枕カバーを朝から洗濯して干す。まるでおねしょしたみたいだな。水仕事、力仕事。風呂に入れないのでタオルをお湯で絞って体を拭いてくれる。洗髪、髭剃り。夜中に何度も起きて指の出血があるか見て、布団をなおす。よく私のような短気で自分勝手な頑固じじいを助けてくれる。反省するばかり。

 MRCPが終わると次は胃カメラ検査を受けた。いつもの医師でなく違う医師だった。取っつきにくい医師だった。口をきかない。前の医師は、カメラを移動させながら懇切丁寧に説明してくれた。「食道に入ります。異常ありません。胃に入ります。丁寧に観ます。胃壁に触ります。痛かったら言ってください。大丈夫ですよ。異常ありません。はい終わりました。お疲れさまでした」 今回は無言。無言は妄想をもたらす。何か悪い重大なことが見つかったのか。「はい、終わります」 あっけない。結果は。

 医師にもいろいろな人がいる。形成外科の優しい先生のすぐ後だったので、物足りない。患者の心に寄り添うなんてことができる医師は少数派なのだろう。医学はどんどん進歩する。すい臓の検査など以前は内視鏡を膵管にまで入れた。これが大変な検査だったが、いまではMRCPを使えば、簡単にできる。胃カメラの進化も著しい。最初の頃の太くごっつい管も今では細く不快感もない。医療機器がどんなに進歩しても、それを使うのは人間である。

 その人間に「気配り、目配り、手配り」が備われば、患者の不安は和らぐ。母も妻もそれができる。凄いことだ。母の日がすぐに来る。


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ローストビーフ切っても、指切るな

2019年05月07日 | Weblog

  それは一瞬の出来事だった。最後まで出すのを引き延ばしていたローストビーフを切っている時だった。ちょっとよそ見をした。左手の人差し指の先端を切ってしまった。すぐに流しの中に手を入れ、蛇口から水を出した。幅5ミリ縦3ミリくらいの大きさ爪が流しに落ちた。するとそこから血が出始めた。指先の爪の周りを赤く染めながら拡がり、ついにポタポタと流しに落ちた。妻を呼んだ。すでに妻はワインをだいぶ飲んでいた。それでも冷静に応急処置をしてくれた。

  心臓バイパス手術を受けて以来ずっと血をサラサラにする目的でバイアスピリンを飲んでいる。加えて今年の1月に心臓カテーテル手術でバルーン治療とステント治療を受けた。施術してくれた医師からクロピドグレルという血液の流れをよくする薬の服用をし始めた。バイアスピリンとクロピドグレルの併用は、出血すると血が止まらなくなる可能性があるので、気をつけるよう薬剤師に念を押されていた。加えて妻も普段からそのことを口やかましく注意していた。

  私は小心者である。血を見ると気を失いそうになる。普段から冷静でないが、血を見ると我を忘れる。妄想が押し寄せる。こんなに血が出たら、出血多量で死んでしまう。「ドクンドクン」と心臓が指の先に移ったのではないかと思われるように鼓動が左腕を上がってきた。

  私は包丁を大切にしている。妻の海外勤務時代、10本以上の包丁を持って任地国を回った。海外で仲良くなった日本人に二人包丁研ぎの達人がいた。私は有り余る時間を活用して彼らから包丁研ぎを学んだ。日本に帰国してからも海外で使っていた包丁を持ち帰り、大事に使っている。包丁を研ぐのも好きである。研ぐときはいつも武士の刀を想う。人を殺せる武器にもなる刃物。ニュースでナイフを研ぐこともできないであろう犯人が、その辺の店で買った安い刃物で人を殺める。腹が立つ。刃物の恐さを知るには、研ぐのが一番だと私の研ぎの師匠は言った。私はそれを信じる。今回私のキレッキレの包丁は私の指先を傷つけた。妻でも客人でもなくて本当に良かった。

  5月5日の子供の日、友人を招いて餃子パーティを開いていた。大人8人子供3人。子供3人は友人の孫だ。子供の日にちなんで、子供たちを喜ばせるために計画した会である。私が指を切ったことで客をしらけさせてしまったが、無事餃子のパーティは終わった。みな満足してくれた。二人の奥さんが洗い物をすべてしてくれた。子供たちも子供の日を私が望んだように楽しんでくれた。

  6日月曜日から妻は病院勤務に戻った。出勤前に包帯を外して、傷を診てくれた。私は一日中家にいて静かに休んでいた。痛みもなく、妻が渡してくれた痛み止めの薬も使わなかった。長い一日のほとんどを“漢字パズル”をして妻の帰宅を待った。夕飯の用意も簡単に済ませた。傷を濡らさないように洗い物もそのままにしておいた。妻が帰宅して夕飯の支度から洗い物まですべてをやってくれた。傷からの出血もなく、すでに快方に向かっていると思っていた。

  7日の朝、目をさますとベッドの下の床が血で汚れていた。シーツも枕カバーも。おまけに私の顏にも血がこびりついていた。どおりで顔がこわばっていた。妻が言った。「今日医者に行って」 独り言のように「しかし薬の効果や風呂の効果は凄いな」と。

  始めかかりつけの皮膚科へ行った。10連休明けで混んでいた。医師が診るとすぐに「私でなくすぐに形成外科にいきなさい」と病院を教えてくれた。急いで私は教えてもらった病院へ行った。ここでも1時間ほどで形成外科の医師が診てくれた。優しい男性医師だった。気遣いできる医師だった。手際よく治療が進んだ。痛かったが、このような医師に治療をしてもらえた喜びは、痛みを半減させた。専門医は凄い。治療が終わった途端、私は安堵のため息をついてしまった。看護士がにっこり笑って「良かったですね。心配だったんですね」

  支払いを済ませ、急な坂道を転がるように下ってバス停に出た。バスを待つおばあさんが私に会釈した。


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