ソメイヨシノの花びらが散ってから2か月が経った。ソメイヨシノの花が散るのを待っていたかのようにソメイヨシノの並木にポツンポツンと植えられた八重桜がつぼみを膨らませ始めた。どんなに気候に変動があってもこのソメイヨシノ、そして八重桜の順番は守られる。
ロシアのサハリンに暮らした。そこで遡上する魚を見た。そして遡上に順番があることを知った。それぞれの種が決まった順番で遡上して子孫を残す。サハリンは自然が手つかずに残っている。川にダムも堰もないので遡上に障害は、ほとんどない。釣りをした。川のどこでも釣れると思った。遡上する魚を釣るのは河口から数キロだけ。それ以上、上がると魚に傷が増える。実際産卵する上流にたどり着いた魚は、体中ボロボロになっていた。そこまでして産卵場所にたどり着けても、メスの取り合いは壮絶で目的を達っして子孫を残せるのは1匹のメスに対して一匹のオスだけである。釣りに関してもド素人だった私は、釣り名人のリンさんの言うがまま。リンさんは、遡上の順番を知っていた。自分が好きな魚、例えばサクラマスの順番が来ると連日お気に入りの川のふちに陣取った。私は釣りも楽しんだが、遡上する大群の魚を橋の上から見るのが一番好きだった。ある時、山奥深く入ってリンさんと釣りに行った。河口付近が遡上する魚の釣り場と言いながらどうして奥に入るのか疑問に思った。イワナとヤマメである。この2種は遡上をしない。しない代わりに他の魚の遡上を上流で待つ。産卵された卵を狙う。海から始まり、自分たちが生まれた川を遡上して上流で壮絶な争いをして産卵する。その一連の経過は、それ自体が物語となる。そこにチャッカリ待ち伏せして卵を喰う情け知らずのイワナ、ヤマメに好感は持てなかった。しかし遡上した魚の卵をたらふく食べたまるまる太った40センチ以上のイワナ、ヤマメの塩焼きはうまかった。
ソメイヨシノや八重桜、遡上する魚の順番ばかりではない。私たちの周りには、整然とした秩序の展開が四季折々に見て取れる。それが散歩の楽しみでもある。川の土手、道路の端やのり面、鉄道のり面はまるで舞台のようだ。季節ごとに登場する植物・動物・昆虫、それもほとんどが主役でなくその他大勢として出番を果たす。今私が見る順番は、ずっと太古の昔からあったとは思われない。当然、自然淘汰にさらされ、他に種とのし烈な戦いがあっての結果であろう。人間社会においてもその変化が垣間見られる。私が子供の頃、列があっても横入りする輩が多くいた。道路での車の追い越し、信号のない合流地点では、混乱していた。今ではヨーロッパ並みに整然と一台ずつ交互に進む。時代が変わって、教育が行き届いたせいか、生活にゆとりができたせいか、日本人は列を作って順番を守れるように、車を運転してもヨーロッパ並みに整然と一台ずつ交互に進むことができるようになった。時々まれにまだ横入りする者がいる。決まってそういう輩は年寄りの男性か女性である。アフリカ、アラブ、南西アジアなどの開発途上国で暮らした。社会が未熟で秩序が確立されていない面が多かった。空港や公共交通機関での順番待ちは、カオスだった。車を運転していても我先にと追い越しや割り込みに腹を立て、運転は極度のストレスになった。日本に帰国して、多くの不要なストレスから解放された。秩序が感じられるようになったことが嬉しかった。長い時間かけて作られてきた人間社会の秩序は、見た目にも美しい。
5月28日に神奈川県川崎市で起きたおぞましい殺傷事件。スクールバスに乗るために、整然と列を作って待っていたカリタス学園の小学生。犯人は、この整然と並んでいた子供たちを2本の包丁で切りつけた。これでは防ぎようがない。私の秩序ある社会への称賛が揺らぐ。
教育を通し、しつけを受け、自己研鑽して秩序を身につける者がいる一方、それを破壊しようとする者がいる。私は神のような超自然の尊厳にひれ伏すことがあっても、いまだに特定の宗教の神の存在には疑問符を持つ。悪魔の存在は強く感じる。自分の心の片隅にも、それらしきものがいるのを知っている。これを私が死ぬまでどう封じ込めておくかが、私の余生の大仕事である。