妻が土日祭日ではない週日にも飛び石、もしくは連休のように家にいることが多い。会社を定年退職した後も、再就職して長く働いていた友人が言っていた。「通勤も習慣化するのか、本人はさほど苦に思わないものだよ」 妻はその友人の言葉に同意していた。昨日散歩途中に「Nさん通勤は習慣になっているから続けられるって言っていたけれど、本当だと痛感してる。こんな勤務状態が続くと何か遠距離通勤続けられるか自信なくなる気がする」
普段、外に出て働く妻を羨ましく思っている。しかし通勤も習慣化によって継続できるのと同じで、家に残って一人で過ごすのも習慣化できる。土日祭日を妻と過ごすことは、楽しい。その循環が狂ってしまうと、生活のリズムが失われる。この家に二人以外の人の出入りがなくなった。また友人宅に招かれることもなくなった。いかに私たちの生活の中で友人たちとの交遊が大きな要素であったか思い知らされる。加えて同じ集合住宅に住んでいた友人夫妻が、引っ越していった。同じ屋根の下に暮らしているという“遠くの親戚より近くの他人”以上の良い関係だった。恋人と別れたような喪失感と寂しさが消えない。
友人たちとの交遊が無くなって、まず料理時間が極端に減った。食材も二人の好きな物だけになった。友人を招くときは、その友人が、どんな料理を喜んでくれるかを考えてまず献立をつくる。それから食材の調達。ネットで注文したり、築地や横浜のデパートに出かけたりもする。我が家のエンゲル係数は、うなぎ登り。でも私たち夫婦は、これが我が人生と受け入れていた。エンゲル係数はグ~ンと下がった。私たちの幸せ度数も後を追って下がっている。
新型コロナウイルス緊急事態宣言以来、私たちの生活は、13年間にわたった海外での生活に戻ったようだ。妻の赴任地が、発展途上国が多かったのでインフラが悪かった。感染病の恐怖もあった。外出を避けて、家の中にいた。物資、特に日本の食材はほとんど手に入れることができなかった。何でもかんでも一から自分で作らなければならなかった。餃子も皮から作った。和菓子づくりも難しかったが、いろいろ作った。今の状況で海外生活との決定的な違いがある。安定した水と電気の供給と商品の豊富さ。あの海外での不便さを経験したので、今の自粛は、ずっと楽である。感謝なことである。
妻と私は、多くの時間をそれぞれに過ごす。妻は読書。私は漢字パズル。でも一緒に散歩を日課としている。ネットフリックスやアマゾンプライムで映画を観る。そして一緒に料理もする。料理といっても下ごしらえが多い。モヤシの根きりは、二人のお気に入り。二人の性格の違いがもろに出る。妻は大雑把。私はピンセットを使って最後の一本まで拾う。一袋27円のモヤシ2袋で1時間は作業に没頭できる。
昨日、餃子、焼売、雲吞、水餃子を作った。皮は市販のもの。キャベツ、白菜、ニラ、ネギ、生姜、ニンニクを刻んだ。肉餃子、焼売、雲吞、水餃子それぞれに分けた材料と肉を混ぜ、あんこを作った。こうして3時間が過ぎた。夜は水餃子。自分たちで作った物は、たとえそうでなくて、美味いとしか言わない。味がない。味気ない。何か足りない。