団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

外貨預金

2019年07月30日 | Weblog

  取引銀行から『親展』と記された封書を妻が受け取った。私はどうせ妻より先にいなくなるので、銀行を始めとして世帯主から保険証など後々手続きが面倒な事を失くそうとしている。

 先日テレビの番組で第22代文化庁長官にして第9代東京芸術大学学長の宮田亮平氏の特集を観た。宮田氏は私より2歳年上だ。才能、経歴などどれをとっても私とは比べ者にならない。そんな宮田氏がテレビ番組の中で「私はヒモでした」と言った。「ヒモ」私も同じくそう呼ばれた。「40代後半まで私は妻に食べさせてもらっていたので、何でも私の名前は妻の次でした。世帯主も妻。保険証も私は被保険者でした」を聞くと私の宮田氏への関心は、いやがおうでも高まった。寄ってたかっていじめられていたいじめられっ子を大鵬のような大きくて心優しい相撲取りが救いに現れたようなものだ。普段卑屈に物事を捉えている私を少し元気にしてくれた。

 『親展』の中身は「2019年7月吉日 お客さま各位 株式会社 〇〇銀行 外貨預金口座からの外貨現金金のご出金に関するお知らせ 平素は弊行をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。弊行は、マネーロンダリングへの厳格な対応を求められるなか、外貨預金口座のお取引につきまして、下記の取扱いとさせていただきます。(①外貨預金によるご入金:既に取り扱いを終了しております。②外貨現金によるご出金:2019年8月30日(金)をもって終了させていただきます。) 詳しくはお取引店までお問い合わせください。 以上」

 私は『親展』とある手紙の最後の“以上”にカチンときた。手紙文の内容も一方的で実に銀行らしい文章である。完璧な上から目線。私の知る範囲で文末の「以上」は、よほどの親しい中でしか使ってはならないと受け止めている。銀行と私たち夫婦はけして親しい関係にない。銀行に電話で問い合わせた妻から私にメールが入った。「〇〇銀行に電話しました。相変わらずの意味不明な、上から目線の銀行員。手紙の内容がよくわからないから電話したのに、外貨の責任者が出るのに3人も人が変わった。代わった人は典型的ないやな銀行員。問い合わせの客の質問にわかるように答えることもできない。外貨の取り扱いをやめるということらしい。入金も出金も外貨をやめるということで、〇〇銀行本体が決めたので利用者はそれに従えみたいなものです。入金はすでに今年4月にやめている、出金も9月にやめたいということで外貨口座持っている人に手紙出した。外貨口座持っている人すべてに手紙を出しました。マネーロンダリングと関係ない私に来た手紙にも文面はすべて同じなので悪しからずみたい。外貨預金を外貨で引き出したいときは8月いっぱいまで。手続きは銀行に行き手続して3営業日かかる。手数料は1ドル1.5円、つまり1000ドル出すと1500円、10000ドルで15000円、100000ドルだと150000円。ドルを自分の円建て口座に移すときは1ドル1円の手数料。外貨を外貨のまま他の金融機関に送金することは可能。ドルのキャッシュを銀行窓口で扱わないということらしい。現在行っているドルの定額積み立て預金は引き続き継続可能で問題ないが、ドル現金の引き出しは9月以降できないということでした。手堅い銀行だから〇〇銀行使っているけど、なんだかがっかり。もっと安心して利用できる銀行はないものかね。以前の〇〇銀行もひどかった。皆がタンス預金に走る気持ちもわからないわけではないね。こんなんでよくで続けているよね。」

 私はかつて自分で仕事をしていた時、銀行との関りで良い思いをしたことがない。知人の保証人になっていて、知人が倒産夜逃げして、彼の借金を代理弁済した。あの時の銀行の私に対する非情な犯罪者に対するような態度は、忘れない。妻は事業で銀行と関わったことはない。そんな妻でさえ銀行に対する見方は厳しい。かつての銀行の悪いところを、いまだに引きずっている。今やどんな事業でもネットで簡単に人と関わることなく、済ませる時代になった。海外の銀行からも虎視眈々と日本参入を狙っている。異業種異形態の銀行業務への参入もある。銀行の業績は、回復が見られない。無理もない。日本の銀行が復活できるなら、その時は、『親展』の封書の文末は「まずは、書中をもって、お詫びかたがたご連絡いたします」になっているであろう。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土用丑の日 打算のうな丼

2019年07月26日 | Weblog

 私が子供の頃、近所はもちろん、生まれ育った市内にウナギの専門店があることさえ知らなかった。魚とりが好きな叔父が千曲川で獲ったという話は聞いたが、私に食べる機会はなかった。高校に入学した時、市内に『うな藤(うなとう』という料亭があることと駅前に『若菜』というウナギ専門の食堂があることを級友に教わった。しかしそこで食べる機会はなかった。鮨屋の鮨やうなぎ屋のウナギは別世界の食べ物だった。生まれて初めてのウナギは、アメリカ人英語教師ネルソン先生の家族と長野市の丸善デパートの食堂で食べた。ネルソン先生が一年間の滞在を終え、世界一周の船旅に出る1週間前、長野市方面へのドライブに連れて行ってもらった。ネルソン先生の夫や娘のキャロルさんもウナギが大好きだった。私は食べたこともないのに、好きかと聞かれ、首を大きく縦に振った。初めてのウナギは、美味かった。キャロルさんがうな重のご飯だけ美味しいと言って食べ、上のウナギはほとんど私のご飯に移してくれた。こうしてネルソンさん一家のおかげで、日本を出発する前に一度だけウナギを口にすることができた。東京に出ることもなく、地方からいきなりカナダへ留学してしまった。もちろんカナダでウナギを食べたことはない。

 カナダから日本に帰国して英語塾を始めた。自分で働くようになって、やっと鮨やウナギを食べたい時に食べられるようになった。もちろん時代が子供の頃と違って、経済的に豊かになって、町の鮨屋やうなぎ屋が増えたこともある。土用丑の日も他のバレンタインデーとか母の日、父の日、敬老の日と同様に商業的な売り上げ増を狙った策であったと思われる。

 妻の夏休みの最終日、以前から妻が行きたいと話していた、伊豆の熱川バナナワニ園へ行くことになった。私は以前テレビで芸能人が熱川バナナワニ園へ行った旅番組を観た。芸能人がバナナワニ園から出てきた観光客に感想を聞いた。観光客が「金を払って見るところではない」と言った。芸能人はそれを聞いて中に入らなかった。私も観光客の言ったことを鵜呑みにした。だから機会はあったが行ったことがない。妻は職場で看護師に熱川バナナワニ園が良いらしいので行ってみたいと聞いてきた。妻もネットでいろいろ調べ、私が好きな蓮やスイレンがあると知った。オオオニバスも見頃は6月から7月なので丁度良いとわかった。でも私は妻にあんなところわざわざ行くとこじゃない、と言ってしまった。また聞き、受け売りは、やめようと私は日頃思っている。エエカッコシイは、どんな場合でも自分を優位に立たせようと小細工してしまう。妻の夏休み、このままで終わったらただ家のレモンオイルを塗っただけになってしまう。なんとか有終の美で終わらせたい。それには妻が行きたいところへ行くのが一番良いと決めた。決めたのは、その帰りにもしかしたら熱海の長浜の『館(やかた)』で一足早いうな丼が…の打算もあった。

 熱川ワニバナナ園は想像よりはるかに良かった。特に植物園が良かった。スイレンとオオオニバスは、まさに開花期で美しい花が咲いていた。オオオニバスも手入れが良く、それこそ子供なら乗っても大丈夫なくらいしっかりした葉を拡げていた。妻に謝った。そして熱川バナナワニ園へ来ることができて良かったと伝えた。

 帰路、妻は熱海の『わんたんや』でラーメンを食べたいと言った。私は妥協した。道路はそれほど混んでいなかった。時刻は11時50分頃『館』に近づいた。天気予報が外れて強い日差しがあり、温度も高かった。妻が言った。「『わんたんや』の前で並ぶの危険なくらい暑いね。今度にしよう。『館』でウナギ食べよう」 私は嬉しさをかみ殺して、「駐車場空いていたらそうしよう。ダメだったら、並んでも食べたいワンタンメンを食べよう」と言った。駐車場は1台分空いていた。

 土用丑の日の3日前だったが、こうして今年もうな丼を食べることができた。うな丼のウナギの下、タレの色がついたご飯を見て、キャロルさんを思い出した。あれから55年が過ぎた。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カビとの闘い

2019年07月24日 | Weblog

 今住む集合住宅に入居して15年が経つ。集合住宅は緑に囲まれ、北側には川が流れている。内部は壁、床、天井に木材が多く使われている。私の72年間の生涯で一番気に入った住居である。気に入ってはいるが、手入れも大変である。今年は特に梅雨が長く湿気が高いので、あちこちにカビを見る。カビ対策に私たちは、“蜜ロウ”とレモンオイルを塗っている。

 妻が私の誕生日に合わせて取った夏休みも終わろうとしている。結局今年もどこかへ旅行やゴルフに出かけることもないようだ。誕生日当日、妻がプレゼントと言って譲らない、歯医者へ一緒に行くという、聞いたこともない奇妙なプレゼントを頂いた。歯医者の予約時間は11時だったが、遠方からの電車の乗り継ぎでの通院なので、時間調整が難しく予約時間より1時間も早く到着。妻は本を読み、私は漢字パズルを解く。私が先に呼ばれた。私の診療は10分で終わった。一部欠けた奥歯を次回から神経を抜いて、かぶせモノをするためにグニャグニャのガムのようなもので型を取った。一方少し遅れて妻が診察室に入ったようだ。私は待合室に戻った。漢字パズルを再び始めた。妻は待てど暮らせど診察室から出てこない。妻は歯の治療で何回も緊急事態に遭っている。何かあったのかと心配して待った。私より遅れること40分。待たされ不満が爆発しそうになっている私の前に平気な顔で現れた。会計を済ませて駅まで急ぎ、友人夫妻と12時に会おうと約束したそこから2駅の場所に向かった。10分遅れて到着。私の誕生日を天ぷら屋で一緒に祝ってもらった。

 妻の夏休み2日目。妻は、老健施設に入居している田舎の母親に片道4時間かけて日帰りで面会に行った。

3日目。私たちは“蜜ロウ”塗りを始めた。まずダイニングテーブルの脚と裏板にあるカビを退治した。乾いた雑巾で乾拭きして、洗剤入りの水で絞った雑巾で拭く。乾くのを待って、そこへ“蜜ロウ”を塗布した。テーブルの下に潜り込むのは、結構体が硬い老人には大仕事。私より一回り若い妻は、動きが良い。サッサと屈んでは、私のように立ったり屈んだりするたびに「ヨイショ」「ドッコイショ」の掛け声も発せずキビキビと動く。元気な妻は、部屋の模様替えも提案。結局居間のソファを動かすことになった。何でも動かすとそこに隠れていた汚れやカビが現れる。こうして次から次へと仕事が増える。一日目が終わった。家の中はレモンオイルのニオイでいっぱいになった。

 カビ退治と模様替えの2日目。前日の無理な体勢を取り過ぎたせいで、私の体はあちこちゴチゴチ。特に悪くしている右脚が痛かった。私は、楽をしようとする知恵だけはよく出る。クイックルワイパーに雑巾を取り付け、レモンオイルを含ませ塗る。これだと腰が楽である。こうして予定の3倍くらいの場所にレモンオイルを塗布できた。体は悲鳴を上げたが、かび臭かった部屋が、レモンオイルの柑橘系の良いニオイに満たされた。あちこちのシミのような灰緑色のカビの痕跡が無くなった。レモンオイルのテカリが木目を浮き立たせ、まるで新築の家の中のようだ。

 妻の夏休み中、晴れたのは一日だけだった。京都アニメーションのスタジオで起きた凄惨な放火事件、日韓関係のゴタゴタ、よしもと興業の騒動。梅雨の不快さを助長するような事件が続く中、妻と共に作業をして体を酷使することで、そんな嫌なことから少し離れることができた。そのご褒美のように22日の夜には友人宅で総勢11人の飲み会にも招かれた。楽しい時間を持てた。

 カビもこまめな手入れでしか防げない。人間関係も国家関係も日頃の小さな積み重ねである。何があっても、私はまず自分の家、家庭を健康で安全な場所と関係に保ちたい。私は、きちんとした食事を摂り、住む場所を整理整頓して清潔に暮らすことが人間の基本だと思う。そのための腰痛や脚や筋肉の痛みには耐えようと思う。継続は力なり。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガソリン携行缶

2019年07月22日 | Weblog

  妻がアフリカのセネガルから旧ユーゴスラビアへ転任したのは、1997年5月だった。旧ユーゴスラビアは内戦状態だった。国連の経済封鎖を受け、国内の経済は疲弊していた。それでも国民が生活できたのは、農業が盛んで食べ物に不自由しなかったからだ。経済封鎖で一番苦労したのは、ガソリンだった。私たち外国人は、ハンガリーやすでに旧ユーゴスラビアから離脱していたクロアチアへガソリンを買うために国境を超えることができた。私たち夫婦も、週末にハンガリーの国境を超えた町へ食料とガソリンを買いに行った。ガソリンは車のタンクを満タンにしてその上、携行缶3から4缶一杯にしてベオグラードへ持ち帰った。気の小さい私は、もし事故にでも巻き込まれたら、積んであるガソリンに引火して車もろとも吹き飛ばされる妄想に苦しめられた。車の後部トランクから車内にガソリンのニオイがして妄想を掻き立てられた。それでもガソリンは必需品なので、しばらく国境を超えて調達することを続けた。その後、NATOの空爆が始まる前日、最後の商業フライトでオーストリアのウイーンへ避難した。結果的には、日本へユーゴスラビア在籍のまま一時帰国することになった。

 7月18日に京都の伏見の京都アニメーション第一スタジオで起こった34人の方々が犠牲になり、34人が重軽症を負うガソリン放火事件が起こった。犯人の青葉真司は、犯行現場近くのガソリンスタンドで2個のガソリン携行缶にガソリンを買って犯行に及んだ。

 私が高齢者だからなのか、銀行で定期預金を解約したり、まとまった額の振り込みをすると、ATMでまず取引できず、窓口へ回される。その手続きのややこしいこと。まるで私が犯罪者か高齢のためにボケていて解約やオレオレ詐欺で騙されているかのような扱いである。不愉快千万。で思った。銀行であれだけ執拗な対応ができているのに、なぜガソリンスタンドでガソリンの販売に規制がないのかわからない。平和ボケの実例なのか。百歩譲って、ガソリンスタンドの店員が、見知らぬ客が、突然現れて携行缶に二つにガソリンを買う客を不審に思わぬものなのか。あの時点でガソリンスタンドの店員が、銀行の行員のように根掘り葉掘り質問していれば、不審者と来店を警察に通報していたら、34人の犠牲を防げたのではと思ってしまう。

 私は生活の中に科学が必要だと考える。旧ユーゴスラビアで恐かったことがある。国内便の飛行機に乗る時、飛行機のタラップに上がる前までタバコを吸う人が多かった。またガソリンスタンドでガソリンを補給する脇で平然とタバコを吸う。ガソリンや航空燃料の揮発性の高さや引火性の強さを知っていればとても取れる行動ではない。人間が完全無欠な行動を常にとれない事は知っている。だからこそ何重にも防犯防護の策を設けなければならない。最近銀行で預金を降ろした時の銀行のやり方に腹を立てたが、ガソリンスタンドにもあれくらいの執拗さが求められる。

 今回の犠牲者の氏名はいまだに発表されない。遺体の損傷がそれだけ酷いのであろう。犯人は近代の最新医療を受けるためにヘリコプター移送までされる。矛盾、不可解。私は混乱するばかり。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誕生日のプレゼント

2019年07月18日 | Weblog

  今度の誕生日で72歳になった。私は疎開先の親戚の家で生まれた。暑い日だったそうだ。真夏に生まれた子は弱いと言われる通りに高校生まで病気を繰り返した。カナダへ留学してから健康になった。学費を軽減するための学内労働で体が鍛えられた。乳牛の乳しぼり、ニワトリの管理、大工仕事など一日2時間、週末祭日長期休暇では8時間働いた。日曜日は安息日で働けなかった。そのおかげか、健康になり身長も3センチ伸びた。帰国して結婚した。二人の子供の父親になった。29歳で離婚。二人の子供を引き取って育てた。後に糖尿病と診断されるまでは、年一回決まっているように風邪をひき、数日寝込む以外、いたって健康だった。44歳で再婚。妻が外務省の医務官になり、同行して5ヵ国で13年間暮らした。チュニジアにいた時、狭心症の発作を起こし、緊急帰国して心臓バイパス手術を受けた。51歳だった。その後、誕生日のたび思うことは、「また1年生きられた」の感謝である。

 今年も誕生日を迎えることができそうだ。そんな折、妻に「今年の誕生日プレゼントはどうしてもらえるのかな?」とカマをかけてみた。無反応だった。無視されたと勝手に思った。しかし妻は私の誕生日に合わせて、水面下で色々段取りをして夏休みを取っていた。後日、その報告を受けた。私の期待は膨らんだ。旅行にも行けるな。時差ボケが酷いので、できるだけ時差のない国、オーストラリアとかニュージーランド。いや、北海道か九州の五島列島もいいな。海外に行くならパスポートの期限が切れているので、申請しないと。私はすでに去年、海外旅行はしないと決めた。舌の根も乾かないうちに、またぞろ、何もなかったかのように海外へ行こうと考えている。勝手な計画が浮かんでは消えた。

 妻が夏休み中、歯医者に行きたいと言った。予約を取るように頼まれた。歯医者に電話した。予約が取れる日は私の誕生日だった。仕方なく、その日二人分の予約を取った。私も歯の治療中なので妻に合わせた。帰宅した妻に報告。嬉しそうに妻が「いい誕生日プレゼントになるね」と言った。どうして誕生日に歯医者へ一緒に行くことがプレゼントになるのか。海外旅行は、一歩譲って国内旅行はどうなる。妻は休みの日、家にいることを好む。外出も外食も嫌う。私は外出も外食も大好きである。二人が考えることは、水と油。どこまでいっても平行線。私が降参するしかない。

 私の72歳の誕生日のプレゼントは、妻と歯医者に行くことに決定。72回誕生日を繰り返してきたが、こういうプレゼントは初めてである。いまだにこれをプレゼントと言っていいのかも疑問。でも妻のプレゼントを好意と受け止めよう。結婚して27年が過ぎた。だんだん私もモノより気持ちを重視できるようになってきていると自負している。二人だけの誕生日、静かに72歳へ踏み込んだ。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」寿花代

2019年07月16日 | Weblog

  俳優の高島忠夫さんが88歳で老衰のために亡くなった。

 一見、88歳と聞けば、米寿まで生き、長生きしたと思われる。私は高島さんの活躍していた頃、日本に暮らしていなかった。私が高島さんの事を知ったのは、2013年6月に彼の病気との闘いが『独占密着!真実の高島ファミリー「死ぬまで一緒やで」~寿花代・献身愛で闘う夫の病~』というフジテレビで放送されたからである。

 現在男性の平均寿命は、81歳である。誰もが81歳まで健康のままで生きているわけではない。平成22年の統計によると男性の平均寿命が79.55歳なのに対して健康寿命は70.48歳である。9.13歳は不健康な期間とみなされる。

 高島さんは、私と同じ糖尿病をまず発症した。糖尿病は、なったが最後、一生完治することはない。運動療法、食事療法、薬療法を並行させながら付き合うしかない病気である。高島さんは、糖尿病の他にも不眠症、アルコール依存症、うつ病、パーキンソン病、不整脈によるペースメーカーを取り付けた。88歳の生涯だったが不健康期間は、途中仕事復帰があったにせよ20年以上にわたった。

 私は糖尿病である。同じ糖尿病でありながら、高島さんが88歳まで生きられたことに驚いている。本人の病気と闘う意志の強さも尊敬に値するが、家族の大きな支えがあったからこそであろう。特に妻の寿花代さんの「死ぬまで一緒やで」を貫いた生き様がすごい。

 高島さんは、フリオ・イグレシアスの熱烈なファンだったそうだ。死の床で家族は、フリオ・イグレシアスの歌を流していたという。その家族の配慮に高島さんへの思いがみてとれる。フリオ・イグレシアスと言えば、私たち夫婦が旧ユーゴスラビアのベオグラードに住んでいた時、ベオグラードで一番大きな劇場でコンサートを開いた。劇場は満員。旧ユーゴスラビアが民族紛争で内戦を経て分裂する中、経済封鎖を受けて、荒んだ人々の心を甘い独特の歌声で包んだ。あのコンサートをベオグラードで経験していたので、高島さんが最後にフリオ・イグレシアスの歌を聴いていた様子が目に浮かぶ。

 先日、我が家で友人たちと夕食を共にした時、それぞれ自分の葬式にどんな曲をかけてもらいたいかの話になった。ジャズ、クラシックなどいろいろな意見があった。私も尋ねられたが、決めていないので答えられなかった。ただ今言えることは、葬式でなくて、まだ息をしているうちに高島さんの家族がした様に曲を聞かしてもらえたらいいな、と思う。ピンピンコロリで急死ならそれが一番だが。意見を聞いていて、結構みんな葬式の事まで考えているのかと感心した。

 ある日妻がどうしても彼女が読んでいる本の一節を聞いて欲しいと言った。妻の朗読を聞くのが好きだ。『信長の原理』   (角川書店 垣根涼介著  1800円 税別)434ページ「人が生きていく上で、最もやりきれなく、そして始末に負えないことは、その生が、本来は無意味なものだと言うことに、皆どこかで気づいていることだ。物心がついたことからすでに気づき始めており、更に大人になって、その影をはっきりと意識するようになる。そして死ぬまで、その漠然とした虚無感を引き摺っていく。つまりはその無意味さのみが、生きることのあかしだ。」 一度読んでもらっても、私は意味がよく解らなかった。妻になぜ私にこの節を読んでくれたのか説明してもらった。妻は私が時々「私が生きていても無意味だ」と愚痴るのを聞いている。妻は、この節を読んだ時、どうしても私にこの節を聞かせたかったそうだ。「あなただけではない。多くの人々がそう思っている。でも口に出さないで、その日その日を生きている。私はあなたと一緒にそう生きている」と妻は私に伝えたかったのだと受け止めた。

  フリオ・イグレシアスの歌も役に立ったかもしれない。どんな素晴らしい歌や曲があっても、高島さんが最後に一番聞きたかったのは寿花代さんの「忠夫さん、死ぬまで一緒だったで」の声だったのではないだろうか。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと嬉しくなった3つの光景

2019年07月12日 | Weblog

 不順な天候が続いている。梅雨になってから、なかなか散歩にでる機会がなく、ウォーキングマシンを連日使った。天気予報で夕方まで曇っているが雨は降らないと聞いたので久しぶりに散歩することにした。

①       信号を守る女子中学生:明らかに急いでいる中学生らしい女の子が信号を渡ろうとしていた。信号が赤に変わった。さっと彼女は止まり、数歩後ろに下がった。女子学生は、足踏みしながら信号を見上げながら待つ。横断歩道がある道路の幅は、4メートルくらい。でも待つ姿に迷いはない。信号が赤なら渡らないという彼女の線引きが見て取れた。コキイチの私は、最近若い人を見ると美しいと思う。若さを失って初めて若さが持つ美しさを認められるようになった。チャラチャラしていようが、ぐれていようが、若さが後光を放つ。自分もかつては若い時があった。女子学生は、信号が青に変わると頬を緩めて渡って行った。

②       前も横の乗客も本を読み誰も携帯電話を見ていない:こんなこともあるのだ。同じ車両に乗り合わせた10数人の誰もが携帯電話を見ていない。車内は空いていた。みなバラバラに座っている。向かい合うベンチシートに4人、私の側に3人。私を含めて7人全員が本を読んでいた。と言っても私の横、一人分離れてシートの一番端の女性は、本を膝の上に広げたまま居眠りをしていた。これはただの偶然の出来事であろう。携帯電話がなかった頃に戻ったようだった。携帯電話は便利なモノだ。しかし人類がまるで携帯電話に征服されてしまったかのような現状をこころよく思っていない。私は携帯電話が一つも目に入らない光景にしばし魅せられた。

③       接客マニュアルを守り、客に優しいアルバイト女性店員:成城石井で老婆が大きな声で「私は1万円札さっきあなたに渡しました。間違いありません」と騒ぎ始めた。私は昔フィリピンで同じような経験をした。フィリピンの土産物を売る露店でのことだった。うかつにも私は、品物を受け取る前に5ドル紙幣を女性店員に渡してしまった。女性店員は、代金を受け取ってないと言い張った。私は払ったと訴えた。店の奥からいかつい男が出てきた。危険を感じたので、その場から立ち去った。フィリピン人の友人に話すとよくあることだと言った。日本の成城石井で同じ事が? アルバイト店員は老婆に「私たちは5千札1万円札を受け取ると『5千円とか1万円入ります』と声を出すようになっています。もし私が受け取れば、声を出して言います。何かの間違いかもしれません。もう一度財布を調べていただけますか」 1万円を受け取ったか否かは、店にとってもアルバイト店員にとっても客にとっても重大な問題である。3列のレジの一つがこの騒動でとまった。私は他の列に並び直して、事の顛末を見守った。並んでいた8人の客もそうしていた。老婆は、財布を拡げ、中の札を数えた。動きが遅い。アルバイト店員は、優しくその動作を見ていた。老婆が「もういいわ。仕方がないからまた払う」と言って、1万円札を出した。私の後ろの二人連れの中年女性の一人が「あのおばあさん、またここでもやってるわ」と小声で言った。どうやらこの老婆、常習犯らしい。アルバイト女性がそれを知っているのかはわからない。にこやかにお釣りを老婆の手に握らせて「ありがとうございました」と頭を下げた。老婆は、レジの端に立ち続けてブツクサ言っていった。年齢のせいなのか、騙す手口なのかは知らない。普段、気になっていた「1万円入ります」「5千円入ります」が、こうした「渡した」「渡されていない」問題の解決法に効果があると知った。私もお釣りを受け取らなかったり、買った品物を受けとらないでレジを離れてしまうことがある。クワバラクワバラ。

 レジが3列、普段通りに動き出した。アルバイト女性店員の顔が、張りと艶で輝いていた。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんまにおいしいみずなすや

2019年07月10日 | Weblog

 “「ほんまにおいしいみずなすや」「大阪・泉州地方の豊かな風土が育んだ新鮮な『みずなす』は果皮・果肉とも柔らかく、みずみずしさと自然な甘みが特徴です。爽やかな口あたりに仕上げています。太陽の恵みがたっぷり詰まった旬の味覚をお楽しみください。」「よく冷やした後、大きく縦に切ってから、お召し上がりください。」堺共同漬物株式会社”

  大阪の友人が『みずなす』を送ってくれた。ナスは嫌いではないが、なくてもどうしても必要な食べ物ではなかった。食べ物を選べる今のような時代に育たなかった。海のない県で育った。魚や肉が好きでも、なかなか口にすることができなかった。海の生の魚といえば、サバやサンマだった。安ければ幾日も同じ魚が食卓にのぼった。正月の鮭は夢のようなご馳走だった。その分野菜は豊富だった。家の敷地に小さな畑を母がつくりナスやキュウリやカボチャを育てた。でも野菜は貧しいから食べなければならない代用食品と捉えていた。偏見は舌を鈍らせる。ジャガイモの天ぷら以外、私を唸らせる野菜はなかった。

  ナスは蒸かしナスによくされた。ただ蒸かしたナスに醤油をつけて食べる。両親はカラシをつけて美味しそうに食べていたが、私には痩せ我慢にしか思えなかった。「こんなもののどこがうまいのかい」と蒸かしナスが出るたびに思った。でもナスのオヤキは、秘密の好物だった。母親に私がなすを好きだと思われたくなかった。眉間にしわを寄せて「またナス」と声を発し、舌・歯・喉で「うまい」をなぞった。

  最初の海外生活を十代後半からカナダで暮らした。全寮制の自給自足の学校だった。そこの食堂で出された野菜は、学校の畑で採れたジャガイモ、ニンジンが主だった。ナスは一度も出たことがない。生野菜をサラダでたくさん食べると勝手に思っていたが、サラダが出たこともない。野菜も果物も缶詰がほとんどだった。帰国して日本の生野菜、生の果物をありがたいと思った。

  妻の海外勤務に同行して6か国で暮らした。どこの国にもナスはあった。私はナスの皮が苦手。皮をよく剥いて中身だけを食べた。どういう調理をしても、あのグチャフニャ感が好き。麻婆茄子、しぎ焼き、天ぷら。焼いても煮ても蒸かしても揚げてもよい。子供の頃嫌いだったものの多くは、私の偏見が原因だった。コキイチになり、紆余曲折を経てやっと物事をあるがままに受け入れられるようになった。あっさりした素材そのものを感謝の心と共に食せるようになった。

  大阪の友人が毎年贈ってくれるみずなす。包装に書いてある通り、「果皮・果肉とも柔らかく、みずみずしく…自然な甘み…」である。嫌いな皮がまったく気にならない。喉を通過した後、口に拡がるほのかな甘みが、心に渦巻きよどむ,最近のやるせない、割り切れない気持ちを打ち壊す。みずなすにいざなわれてしばし無我の境地を浮遊する。

 「ほんまにおいしいみずなすや」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葉書

2019年07月08日 | Weblog

 「紫陽花が終わり朝顔の季節になりました。おかわりございませんか?ご無沙汰しております。私、下記のところに入居いたしました、今後贈り物などは失礼させていただくことになると思います。今までの暖かいお心遣いに感謝いたします。ありがとうございました。どうぞお大切にお過ごしください」

 一枚の葉書が雨の激しく降る日に届いた。湿度100%だった。マンションの1階の玄関ホールの床は、石材なので石と空気の温度差によって水分が生じる。エレベーターの前と階段を降りきった部分が特にビショビショだ。以前滑って転んだことがあるので慎重に一歩一歩進む。そんな日の夕方、郵便受けに一枚の葉書が横たわっていた。

 Nさんからの葉書だった。Nさんの夫は現在85歳。すでに施設に入っている。Nさんはずっと一人で集合住宅に暮らしていて、夫が入院する施設を行ったり来たりしていた。Nさんもすでに80歳を超えている。夫が元気だった60代にくも膜下出血で倒れた。夫は私に電話をくれた。「〇子が死んじゃう」と泣きじゃくっていた。しかし救急搬送された大学病院で長時間にわたる手術で命を取り留めた。あれから20年近く、Nさんはすっかり元気に暮らしていた。そのNさんが施設に入る。一人暮らしの力が尽きたのか。それにしてもこのような葉書をしたためて送るとは礼を知る人だ。

 私たち夫婦が結婚できたのは、妻の高校の担任だったI教師の仲立ちがあったからである。私がブログを始められたのもパソコンに精通していたI先生のおかげだった。日本へ帰国休暇で戻った時、パソコンの購入からブログの投稿の仕方を教わった。まだ海外に私たちが暮らしていた頃、ネパールと旧ユーゴスラビアへわざわざ私たちを訪ねて来てもくれた。現在私たちが住む家にも訪ねてくれた。鉄道の旅が好きで『青春18切符』を使って一人で全国を周った。山菜採りの名人で山野を駆け巡った。それらをブログにこまめに載せた。I先生のブログを読むのが楽しみだった。妻が外務省を辞めて勤務医になっても交流は続いていた。ある年、年賀状をその年から失礼するという葉書が届いた。それから間もなくブログが前触れなくとまった。I先生の決意表明だと受け止めた。

 さてNさんもI先生も礼をもって付き合いに終止符をうたれた。果たして私にそれができるだろうか。51歳の時、心臓の狭心症で心臓バイパス手術を受けた。友人から『辞世帖』の作成を勧められた。それを進言された時、私は特にお世話になった人々に手紙を書いた。辞世帖を大学ノート1冊に書き上げた。あれから20年以上が過ぎた。今でも辞世帖は大切に保管してある。その辞世帖と恩人への礼状を終えた後、何か大仕事を成し遂げた充実感が湧き出た。その充実感は、ある病気に良く効く薬を手に入れ、ずっと飲み続けている効果を実感できているように思える。手術後の人生は“おまけ”だと思っている。

 Nさんの葉書、悲しいけれど、朝顔の花のような清涼感もある。辞世帖のあとにも新しい付き合いが数多くうまれた。いつかNさんと同じようなI先生と同じような葉書を出す日が来る。その日が“いつ”か私に見極められることを祈るばかりである。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界で活躍する日本人 リサ・サワヤマ

2019年07月04日 | Weblog

  私はテレビ番組を録画で観る。観るのは毎朝、妻を駅へ送った後、家に戻って約1時間である。我が家のテレビは選択された6局の番組を指定された時間内で録画する機能を持っている。便利だ。民放ならCMは、再生速度を上げれば観ないですむ。メモを取りたい時、繰り返し観て書きとれる。何かを確認したい時、録画を停止させられる。

  日本テレビの『沸騰ワード10』で“タケノコ王”と“ガイドブックに載っていない沸騰島”が特集されると録画で観る。“タケノコ王”は妻も好きなので夜一緒に観る。以前タケノコ王こと静岡県富士宮市在住のタケノコ栽培と販売を手がける風岡直弘さんが番組の中で夢はいつか『情熱大陸』(毎日放送制作でTBSでも放映)に出ることだと言った。私はその番組を観たことがなかった。先日録画された番組表を画面に出して、どれを観るか探していた。『情熱大陸 リサ・サワヤマ』という表示が目に留まった。“サワヤマ”、まさかあのサワヤマの娘か!サワヤマは私が塾を経営していた時、大学で卒業単位が1単位足りなくて、一年間塾で教えた。サワヤマの娘かどうか知りたくて、初めてタケノコ王が言っていた“情熱大陸”を観た。

  リサ・サワヤマは新潟県出身だとわかった。私の知るサワヤマとは関係ないと判明。それでも情熱大陸を最後まで観た。内容が良かった。4歳の時、親が英国ロンドンへ渡り、それから25年英国に住んでいる。ケンブリッジ大学で社会学と心理学を専攻して優秀な成績で卒業した。現在歌手、作曲家、作詞家、モデルなどでロンドンを中心に活動している。SNSを駆使して全世界へも発信して人気があるという。ケンブリッジ大学はオックスフォード大学と並ぶ英国の名門大学である。そんな凄い大学を卒業して何故歌手に。腕にイレズミ。不思議な女性だ。番組は私の疑問に次から次へと説明をする形で進む。

  リサ・サワヤマが言う。「ロンドンはイギリスではない」「ロンドンでは差別を受けなかったが、ケンブリッジ大学はイギリスだった」「エリート階級であるケンブリッジ大学では上から目線で外国人に接するのが当たり前」「歌や音楽に差別はない、だから自分の歌や曲で自分は世界に訴えることにした」「英語でなら日本語で言えないことも歌って訴えることができる」「両親は離婚した。母親は私の戦友」「母親は日本に住む。時々帰国する。でもイレズミしてるから銭湯に入れない。もう10年も入ってない」

  リサ・サワヤマに共感することが多い。イレズミには驚いた。腕に山口百恵の最後のステージで歌う姿のイレズミ。日本の演歌も好きで山口百恵の歌をよく歌うと言った。ケンブリッジ大学を卒業して歌手。それにイレズミまで何か所にも入れている。社会の不条理を嫌というほど経験した人だからこその抵抗にも思える。番組を観終わってリサ・サワヤマがこれからもっと世界に彼女の世界観を強烈に訴えて欲しいと思った。

  最近、世界で活躍する日本人が多い。両親ともが日本人。親の片方が日本人。バスケットの八村塁、100m200mのサニブラウン、テニスの大坂ナオミ。日本にも差別がある。現在活躍する国際結婚で生まれた人たちも子供の頃、ずいぶん差別に苦しめられたという。テレビも新聞も勝てば官軍と言わんばかりに世界一位になった、NBAのドラフトで一巡目の指名を受けたとか、10秒を破る記録を出したと騒ぐ。あまりにも失礼で調子づいていないだろうか。あからさまに都合を使い分ける態度に腹が立つ。世界は差別であふれてる。差別は、ある人々にとっては蜜の味なのだ。私も学生の時、カナダで差別を経験した。妻もオーストラリアと英国で酷い差別を受けた。場所は違っても共通した経験は、私たちを強く結びつけている。社会にリサ・サワヤマがのように訴えることはできないが、応援することはできる。    

  妻と暮らした国々で多くの国際結婚した人たちの子供達に出会った。私が日本人補習校で教えた生徒にも将来性のある子がいた。両親の国の言葉はもちろん5か国語を話す子さえいた。『情熱大陸』でリサ・サワヤマの活躍を観て思った。海外でたくましく生きる日本人ニッポン人が大勢いる。素晴らしい宝である。G20やG7ではとてもできないことを将来成し遂げてくれると信じる。今は草の根であっても、しいては森になる日が来ることを夢見る。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする