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コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

パリダカ 篠塚建次郎

2024年03月26日 | Weblog

  3月18日に日本人として初めてWBC世界ラリー選手権で総合優勝した篠塚建次郎さんが、長野県諏訪市の病院で亡くなった。75歳だった。

 1997年、私は、医務官の妻の任地であったセネガルのダカールに住んでいた。日本人と中国人の違いも分からない現地の人々に、「シノワ」と呼ばれていた。セネガルの首都ダカールは、当時、世界でもっとも過酷なラリーレース“パリ・ダカールラリー”のゴールだった。日本で1969年に公開された石原裕次郎主演の映画『栄光の5000キロ』、1988年公開の高倉健主演の『海へ See you』を私は観ていた。実際のロケ地は、セネガルではなかったがアフリカの砂漠地帯で撮影された。映画でも十分過酷さが感じられた。日本で映画を観た頃、自分がこの目でパリダカラリーを見られるとは、思ってもみなかった。

 ダカールに住む日本人が急遽、応援団をつくってゴールであるダカール郊外のラック・ローズ(バラ色の湖の意:塩分が濃く特別なプランクトンのせいで水の色がピンク色:この湖は、塩の産地でもある)へ行った。治安が悪いと聞いていたので、私は日本から連れて行ったシェパード犬を同行した。数回襲われそうになったが、犬のお陰で助かった。

 パリダカラリーは、コース途中で参加車が暴漢に襲われ、危険だという事でコースが南アメリカに変えられた時期もあった。治安も問題だったが、砂漠地帯で道なき道を走る難攻不落なコースだった。ラリーでなくても、セネガルの道路は、他のインフラ同様まだまだ整備されていなかった。ダカール市内もそうだったが、郊外に出ると、道路は凸凹で車体にもタイヤにも影響があった。運転も凸凹を避けるので、なかなか真っすぐに進めず、穴に入れると強い衝撃で首が痛くなった。

 人々が生活している都市部でさえ、酷い環境なので、砂漠などの道なき道を1万3千キロにわたって走破するのは、至難のわざである。冒険野郎でなければ、こんな挑戦はしない。篠塚建次郎さんは、冒険野郎である。過酷なラリーを1974年から2007年まで続けたのである。

 篠塚建次郎さんの偉業は、1997年のパリダカで総合優勝を果たしたことである。なんと私が、ダカールに住んでいた時の事だった。日本人の応援団は、歓喜に沸いた。海外に住んでいる日本人にとって、住んでいる国で、日本人が何か偉業を達成することほど、現地の在留日本人を喜ばすことはない。アメリカ大リーグの大谷翔平選手が、どれほどアメリカに住む日本人を鼓舞させていることか。

 1997年、篠塚建次郎さんの偉業達成を祝って、日本の大使公邸で祝賀パーティが開かれた。(写真:伊藤セネガル大使と篠塚さん)私は、自分の目で、篠塚建次郎さんのような凄い人を見たことがなかった。あの砂漠を顔を砂だらけにして、走り切った冒険野郎も、車を離れると気さくで穏やかな人の印象が強かった。

 厳しい国での生活の中で、篠塚建次郎さんの偉業に沸いたダカールでの思い出は、忘れられない。篠塚さん、ありがとうございました。お疲れさまでした。

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