団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

アメリカの恩人

2024年04月03日 | Weblog

  アメリカワシントン州シアトルに私の娘を7歳から預かってくれた家族がいる。両親と5人の子供の家族に、私の長女が加わった。子供は、一男四女でもう一人女の子が増えた。私の長女の年齢が一番下だった。

 4月2日に一男四女の一男が夫人と来日した。3日水曜日の本日東京で再会する。母親と一男四女の内、二人長女と次女が来日していた。私は娘を我が子我が姉妹として育ててくれたこの家族にどう感謝しても感謝しきれない。恩人の家族である。

 両親は、日系2世と3世である。夫の父親は、滋賀県出身でアメリカの鉄道を敷く工事現場で働いた。妻の祖父は、群馬県出身の農家の五男だった。当時アメリカに移民すると一定の土地が与えられた。群馬にいても、五男だと農地がもらえないので、アメリカに移民した。シアトル郊外で養鶏場を始めた。毎日、馬車に鶏卵を積み込んで、シアトルまで売りに行ったという。双方の親は、子供を苦労して大学に行かせた。

 2世の夫と3世の妻は、州立ワシントン大学で知り合い学生結婚した。その後、カナダのキリスト教の聖書大学に3人の子供を連れて入学した。その学校の高校の部へ私が留学していた。ある日、その夫妻から夕食に招かれた。既婚者向けのアパートだった。日系人なのでご飯と野菜炒め(チョップスウエイ)をだしてくれた。毎日、来る日も来る日も、学校の食堂でオートミールかマッシュポテトの食事だった。白いカルフォルニア米と緑濃いサヤエンドウや醤油味に涙がこぼれた。夫妻と長女次女に長男が一緒だった。その時、長男は、まだ2歳になったかならないくらいだった。その長男が今回日本に来て、今日再会する。

 カナダの学校は、冬はマイナス40℃になるほど寒かった。シアトルは、湾に流れ込む暖流のお陰で、冬でも雨が降るくらいだ。夫は、1年在学してシアトルに戻り、ボーイング社の会計部署で働いた。夏休みやクリスマス休みには、招かれてシアトルに行った。こうして交流が進んだ。

 私は、その後、日本に帰国した。そして結婚して二人の子供に恵まれた。結婚は7年で破局。二人の子供を私が育てることになった。シアトルの夫妻にも相談した。夫妻が預かってくれることになった。私の長男は、全寮制の高校へ、長女は、こうしてアメリカへ渡ることになった。私は、二人への仕送りのために、昼間は、専門学校や予備校、夜は、自分で経営していた塾で、その後は、家庭教師をしていた。

 長女は、最初の頃、英語もわからず、泣いて過ごしていたが、1年もしないうちに家族の一員として家族に溶け込んでいた。日本の小学校で、赤い絵を描くと担任教師が、娘の心の状態を心配してくれた。私は、娘に毎日手紙を書いて出した。息子には、週一回手紙を書いた。

 長男は、自分だけ日本に残って留学できなかったと不満げだったが、大学を卒業して自分の家庭を持った。長女もアメリカの大学を卒業して、日本でアメリカの日本支社で働き結婚して子供が生まれた。私も子育てを終え、再婚して穏やかに暮らしている。アメリカの恩人家族のお陰である。今日は、その思いを伝えたい。

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