団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

兄と妹が隣同士のビルで働いている。

2024年04月05日 | Weblog

  4月3日水曜日午後、アメリカからの客人と娘の会社で会うことになった。私は、これまで娘の勤める会社に行ったことはなかった。アメリカからの客人が、娘の勤める会社を見学したいと言ったという。たった2週間の滞在である。はとバスでの東京見物、上野公園の桜、山梨県の新倉山浅間公園(桜と五重塔と富士山で外国人旅行者に有名)、そして関西地方へと日程は、タイトに埋められている。そんな中、半日を娘の会社見学に当てるとは。でもその申し出のお陰で、私も初めて娘の働いている会社に足を踏み入れることができた。

 私は、娘がアメリカのカルフォルニアの大学を卒業した後、てっきり娘は、アメリカで就職すると思っていた。ところが娘は、納豆を毎日でも食べたいという理由で帰国してしまった。時は、まさに就職氷河期だった。特に海外の大学を出た帰国子女の就職は厳しかった。やっと受かったのは、ホテルだった。そのホテルでは、英語ができると言うだけで、酷い苛めに女子社員から受けて、娘は顔にアレルギー反応を起こした。顔一面が赤く腫れ、人前に出られる状態ではなかった。1年でホテルを辞めた。その後は、派遣会社に登録して、働いていた。ドイツの会社で働いていた時、上司から声をかけられてそこの正社員になった。その上司がヘッドハンティングされてアメリカの会社に移った。娘も請われてその会社に移った。その会社で一緒に働いていた人が、やはりヘッドハンティングされて別のアメリカの会社に行き、娘を推薦してくれて、同じ会社に入った。その後は、ずっとその会社に勤めている。

 会社の近くのスターバックスで娘の会議が終える2時半まで待った。アメリカの客人も合流して会社に向かった。入り口に厳重なゲートがあった。娘がひとりひとりに入場許可証を渡した。それを読み取り機にかざして入った。オフィスといってもまるで美術館の展示場のようだった。ビルの2フロアーを借りている。ワンフロア―が広い。あちこちに喫茶店のようなスペースに飲み物やスナックが置かれていた。以前テレビでアメリカのアマゾンやフェイスブックなどの会社の内部を紹介する番組で観た光景だった。就業時間内だったので、廊下にも喫茶コーナーにもあまり人はいなかった。それでも何人かの社員に会った。そのたびに娘が「My father」と紹介した。いろいろな人種の社員がいた。

 娘の人生を決定づけたのは、娘がアメリカでの12年間に渡る生活であることは間違いない。馬鹿な親の離婚で、幼い娘も息子も理解不能な暗闇に落とされた。アメリカで家族の一員として育ててくれたシアトルの家族がいたからこそ、今の娘がある。そのアメリカの家族の一人が今回娘の働く日本支社を見たいと訪ねてくれた。

 娘もいろいろな苦難を乗り越えた。今は男女の賃金にも役職にも差別のない職場で働いて、毎年会社への貢献度によって、毎月自社株の配分まで受けられる。

 見学を終えて許可証を読み取り機に当て、外に出た。隣の大きなビルを見上げると、そこはなんと長男が勤める会社の本社ビルだった。娘にそう言うと「あれ、パパ知らなかったの」と言われた。親の離婚によって、日本とアメリカに分かれた兄と妹が、期せずして東京で隣同士のビルで働いている。

 娘が携帯電話で呼んで、料金まで済ませてくれたウーバータクシーで妻と合流する東京駅に向かった。私が生きたのとは明らかに違う、別の世界に息子も娘も行ってしまったと感じた。それでいいのだ。私はやるだけのことはやった。

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