団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

イチ静岡県民として

2024年04月11日 | Weblog

  私が住む静岡県の知事が辞職した。知事は1日の新規採用職員への訓示で「野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものをつくったりとかと違って、基本的に皆さま方は頭脳、知性の高い方たち」と発言。報道には、言葉狩りの傾向がある。ある人が言った内容の一部を、記事を発信する人が、その部分だけを取り出していいように加工してしまう。しかし今回の知事の発言は、明らかに差別的である。

 私がまだ中学生だった時、高校受験を前にして受験校を選ばなければならなかった。三者懇談といって、親・生徒・担任教師がどの高校を受験するか話し合った。当時、成績によって普通校、工業校、商業校、農業校という暗黙のランク分けがあった。普通校の中にも県立・私立の区分が存在した。私は、江戸時代の士農工商の制度がこんな形で色濃く残っていると感じた。今回の静岡県知事の頭の中も、まだ江戸時代の士農工商から脱却できていないのではと思った。

 私は、日本の高校からカナダの高校の最終学年へ移った。小さな全寮制の高校だったが、日本のいわゆる総合高校のようだった。選択できる科目が多かった。途中変更も可能だった。私は数学を選択した。最初3人生徒がいた。2学期制だったが、1学期終了した時点で2人が他の科目へ移って私ひとりが残った。日本の高校では、数学はビリで追試の常連だった。しかしカナダの高校3年生の数学は、二次方程式が主だった。教科書に三角関数もあったが、教師が「三角関数は、大学で」と言って省いてしまった。日本の高校で私を教えた教師が、私のカナダでの数学の成績を知ったら、気絶するであろう。所変われば…の実例である。カナダのその高校の選択科目の中には、自動車運転免許、農業、タイプ、料理などがあった。

 私は、日本の衰退の原因の一つに、教育制度があると思っている。辞職した静岡県知事は、もと早稲田大学の教授だった。英国のオックスフォード大学の大学院へ留学もしている。彼が言う「…頭脳、知性の高い」は、自分の事を指しているのであろう。彼の中では、江戸時代の士農工商や私が中学生で高校受験の際の学校選択基準が残っているのかもしれない。私は、鎌倉円覚寺で見た「本当の教養とは、気配り・目配り・手配りである」を思い出す。“頭脳・知性”を教養に置き換えれば、静岡県知事に本当の教養はないと思わざるを得ない。  日本では括り(くくり)が重要な意味を持つ。家柄、出身大学、職業などなど。括り(くくり)は、便利であるが、危険でもある。日本の教育は、括り(くくり)の制度になってしまっている。一度その括り(くくり)に入ってしまうと蟻地獄のように、そこから抜け出すことが難しい。

 私は、終の棲家と決めた地が、たまたま静岡県だった。この前の県知事選挙でも投票している。私が投票した候補者は、当選しなかった。静岡県民は、辞職した知事を選んだ。彼に選択の権限を与えたのである。リニアを延期させようが、県庁をシンクタンク扱いしようが、野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものを作ったりする人の頭脳知能が低いと言おうが、選挙で彼に権限を与えたのだから、文句は言えない。毒を食らわば皿まで、になってしまう。

 日本社会に括り(くくり)が歴然と存在する限り、次の選挙でも括り(くくり)の中の候補者が当選する。日本が再び発展の途に就くには、相当な括り(くくり)の除去が必要だ。面倒くさいこと満載だが、きっとできる日が来る。

 

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