半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

新旧の相乗効果「食と命の教室」

2019年06月30日 | 農的体験・生活

6月は梅雨

今年は梅雨らしい日が続いていますが、今月の「食と命の教室」は午後には雨も止んで、参加者念願の田んぼや畑が出来て良かったです

今回は、キャンセルがあったものの10人の方がご参加

ずっと来て頂いている年間コースの方が5人、新しい方と昨年の振替の方が合わせて5人といつもとは違った雰囲気だったのですが、「初めてなのにすぐに打ち解けて、気持ち良かったです」という人が続出するほど、すぐ仲良くなり、そして相乗効果が出たのかとても充実した回になりました

まず、みんなで自己紹介。

今年は大豊作のミニトマトを枝ごと高柳さんが持ってきてくれて、パクパク食べながら各自のお話を聞きました。

この教室は現代社会では特別な場で、普段の会社などでは話せないことも普通に話せます。

食の問題、環境問題、自給をしたいという方など様々いますが、電磁波過敏症の方も参加していました。

体調不良が続いていたのですが、たまたまマンションの上に電波塔が立つのに反対運動をしている人と知り合い、その方が電磁波障害で、その話を聞いていたら自分と症状が同じだったので、専門のクリニックを紹介してもらったら、自分も電磁波障害だったそうです。

そして庭に鉄の棒を打ち込み、そこから線をひっぱって家の中に鉄の板を敷き、毎日、体の電磁波をアースしているそうです。

私も電磁波の問題は知識で多少は知っていました。

私はLEDと電子レンジは絶対おかしい、と直感的にも自然界に有り得無いおかしな存在として遠ざけています。

またwifiを家の中に飛ばさないで、パソコンを未だに有線でやっているのも、子ども達によくないから、という背景があるからです。

信憑性はともかく、妊婦にwifiが良くない、というフランスかどこかの映像を見たのがきっかけですね。

 

そんな感じで、例えば、電車の中が多くの人のスマフォの電磁波が飛びまくってい、しかも、鉄で囲まれている車内は電磁波ら乱反射して凄い、という事を知識としては知っていました。

その方に、聞いてみたところ、やはり「ひどいですよ」というのを聞いて、やっぱりそうなんだ~という事を確認できましたし、電磁波も化学物質過敏症の一種だと私は思っていますが、蓄積してしまうものなんだな、という事を確認できました。

こういった方に会うと、やっぱりスマフォのやり過ぎは良くないし、また家をオール電化でガスでは無くIHにしているのが良くない、という事が改めてわかります。

 

また、参加者10人中3人のお子さんが登校拒否だったりして、そのお子さんはそれぞれ3人とも畑に触れることで登校出来るようになったというエピソードを聞けました。

高柳さんの「私が師匠に教わった言葉で、人は自然から離れると人間らしくなくなる、というのがあるんだよ。今の人は自然からあまりにも離れすぎていることが問題だと思うんだ」という言葉が響いていました。

そして、「登校拒否をしている子供の方が正しいよ。今の学校や社会の方が間違っているんだよ」という言葉が心に響きました。

 

登校拒否をしている子自身や親が悪い、という目があると思うのですが、高柳さんみたいな人が「君は間違っていない」と本気で思い、本心で発する言葉は響きます。

私が10年ぐらいお付き合いをしてきて、私も中学生の息子に対する親としての立ち位置を模索している時に大きな揺らがない存在として、高柳さんの横にいさせてもらえることがいかに有難いか。

人生の先輩として、師として有難い存在です

 

さて、午前は小雨だったので自己紹介やお話の後、唐箕がけをしました

唐箕を知らない人も多く、やったことがある人は10人中9人だったわけで、みなさん初体験

2週間ほど前に高柳さん達が収穫した菜種をみんなで風選しました。

みんなキャッキャいって楽しんでいましたよ

 

さて、ハウスで一仕事をした後は待望のお昼ご飯

いつも通り、お母さんたちが作る手作り料理はお肉が入っていなくても絶品で、昨年絞った菜種油も出て、先ほどの唐箕のあと、種を絞るとこうなるんだ、という事も確かめながら、お腹いっぱい食べました

 

午後は待望の田んぼです

実は雨が止むかわからなかったので、プログラムの優先順位をつけるために「雨が止んだら一番やりたいことは?」と午前に聞いたら一番人気が田んぼだったのです

初めて素足で田んぼに入ってリフレッシュした方も多く、「最初は抵抗があったのですが、草取りに夢中になっていたらだんだん気持ちよくなってきたんです」とか「私はカエルは本当は嫌いなのですが、あのニュルっとした感じがだんだん気持ちよくなってきて、カエルも目の前を沢山跳んでいたのですが、気にならなかったのが不思議です」とか様々なコメントが寄せられました。

 

いずれにしろ「リフレッシュして気持ち良かったです」と、みなさん泥遊びをしていた頃のように、童心に帰ったような顔になっていました

 

その後も雨がやんでいたので、キタアカリを収穫。

今年はどこも豊作のようですが、高柳さんのところも大玉で、たっくさん収獲しました

 

さらにミニトマトの収獲も。

まあ、こんなにミニトマトを収穫したのは初めてですが、お土産もたっぷりでて、みんなホクホクの笑顔でした

 

外での田畑仕事が終わった後、改めてみなさんに感想やご意見を話してもらいました。

みなさんの反応が良いと高柳さんのトークも熱を帯びます。

今回もとても充実した時間になりましたが、それにしても都会暮らしや人生に根がまだ無い方に、高柳さんやその暮らしに触れて頂くことが、今の時代にとても価値がある、という事を7年目になってもずっと感じます

 

私が心の師でもある「あなたと健康」の東城百合子さんの言葉で「あっちでウロウロする人はこっちでもウロウロする」という言葉があります。

会社をやめて「みんなの農村ネットワーク」を設立し、個人事業主となり、成田に根を下ろすと覚悟を決め、高柳さんを師と仰ぎ10年ぐらいやってきましたが、未だに学ぶことが多々あります。

今の世の中は「根無し草」の人が多いです。

そういう私も「根無し草」だったのですが、病気で成田に帰ってきて、根を下ろすと決めたから、今のような生活が出来ています。

 

この教室に来る人の一部もそうですが、オーガニック系や自然派系の人達のなかで、やたら色々なワークショップに行く人がいます。

しかし、結局は「あっちでウロウロ、こっちでウロウロ」する人が多いのも事実です。

これは今の世相を表した生き方でもあるのですが、根無し草は刈れる、んですよ。

根付かないとものにならない、と思います。

だから、地に足つけて、自分が骨を埋める場所と仕事を決めた人は、そうでない人と比べて人生の深さが違ってきますし積み上がるものが違います。

 

そう思って私も生きてきましたが、高柳さんを師として生きていける事を改めて有難いな、と感じました。

そして、私も引き続き勉強させてもらって、自分が起こした教室ではありますが、この「食と命の教室」は有難い教室だな、と改めて思った1日でした

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虚体質と実体質

2019年06月22日 | 自分の時間

私が関心があることは色々ありますが、例えば、漢方なども好きです。

普通の人より勉強をしているつもりですが、今年はこの1カ月で5冊ぐらい読みました。

以前も勉強したことがあるのですが、今回は何冊か読むことで多少なりとも頭に入ってきました

 

まあ、今の人にはマクロビの陰陽説の方が広まっているのでしょうが、その内、もっと奥が深い漢方、もっといえば東洋医学のブーム的なものが、今のマクロビのように来るんだろうな~とは思っています

 

さて、そんなことはさておき、漢方の考え方には、みなさん、何となく聞いた事があると思うのですが、気・血・水の3要素とか五臓六腑という専門用語があります。

 

そういったものの中で、「虚証」と「実証」というのがあります。

簡単に言えば、「虚証」というのは、気や血が不足していて、一般的に弱っている病的な状態です。

一方で「実証」というのは、逆に気や血が充実し過ぎてバランスを崩している状態、例えば、のぼせとか、イライラとかですね。

 

わかりやすい例で「葛根湯」は風邪の初期症状に効くと言われます。

私も、「ゾクっと来たら、葛根湯」みたいな感じです

ただ、もうちょっと深堀すると、葛根湯は「実証」に用いるもので、体の気が充実しているので、病気と体が戦う力があり、だからこそ筋肉痛や頭痛や悪寒や発熱を伴う時に効果的とされています。

1つの例でいえば、汗をかいていない状態。

 

一方で、頭痛や微熱、汗がじんわり出ている、比較的、証が穏やかな場合は気が不足して十分に病気と闘えない「虚証」の時は、葛根湯よりは気や脾胃を補う生薬が入っている「桂枝湯」を用いるのが効果的とされています。

 

気孔も漢方も東洋の思想は「バランス」です。

「宇宙の真理は良いも悪いも無く、陰陽、実虚、表裏、すべてがバランスが取れている」ということ、もっといえば「秩序」というものです。

 

それを当てはめて、人間もバランスを崩すと「実」と「虚」に傾くという考えですね。

 

子ども達、大人にも「実」のタイプと「虚」のタイプに結構偏っている人が多いです。

そのバランスをとるのが、未病を防ぐ大事だと思います。

 

うちの子は長男は虚タイプで次男は実タイプと、明らかに体質、性質、正確が違います。

これは性格の問題ではなく、生まれ持っての性質ですね。

 

これは子育ての方針にもなるかもしれません。

 

画一的な考え方ではなく、その子のタイプにあわせて、その子の気が昇りすぎているようなら散らしてあげた方が良いし、その子が停滞していたり足りない場合は、補うような接し方が必要ですよね。

 

最近、そんなことを思いました。

 

ちなみに大人もそうですね。

どちらかというと頭がはげていて、赤ら顔で、脂ぎっていて、声も大きく、お腹が固い、というタイプは実タイプ。

元気はつらつだけど、脳溢血でプツンといく傾向がある。

気合が入り過ぎたり元気があり過ぎる時は注意が必要です。

 

一方で、青白顔で、顔が長く、はりやつやが無く、お腹も柔らかいタイプは虚タイプ。

病弱になる事も多いですが、養生すれば細く、長く、という感じです。

常に補いながらという事が大事です。

 

自然療法の元祖の「赤本」にも出ていますね。 

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ハードな2日間「田んぼと畑の耕育教室」

2019年06月16日 | 農的体験・生活

この(土)(日)は子ども連れの家族向けの「田んぼと畑の耕育教室」

6月は1年で最もプログラムが充実しているのですが、梅雨の時期でもあり、なかなか天気を読むのが難しい月です。

しかし、雨天中止は過去無く、今回も開催したのですが、いや~、それにしても本当にハードだった

 

まずは土曜日。

天気予報がなかなか好転せず、日中も雨で「厳しいかな~」とも思いましたが、天気予報を詳細に分析したところ、午前中に1mm~2mm雨量になる事を確認。

 

ちなみに1mmぐらいがコンビニに傘をささずに小走りで行けるレベル、2mmがちょっと傘がないとコンビニに行くのがつらいレベルです。

 

雨の時にどういった主催者がとるかで、参加者のテンションも変わってしまうので、過去、1~2mmなら決行していたので、今回も開催することにし、決めたからには「楽しくやりましょう」と呼びかけ。

 

もちろん、小さなお子様や体調が悪い方はキャンセルを促したのですが、大体3~4割ぐらいがキャンセルするかな、と思っていたら、なんとキャンセルがたった4家族でびっくり

 

結果、70人もの家族が雨風の中、ザリガニ釣りやジャガイモ堀りを楽しんでくれました

ザリガニ釣りのスポットにつくと風が強かったのですが、それでも1家族5匹以上は釣れていて、入れ食いだったので、みんなレインコートを着ながらもズボンはびしょぬれになりながら、楽しんでくれましたよ

 

また、ジャガイモ堀りは「希望者だけでいいですよ」と声をかけつつ、過半数のご家族が参加してくれて、泥がぐちょぐちょの畑に入り、1家族7~8kgぐらいは平均で分け合うほどの大豊作でした

 

お昼ご飯を食べたら、天気予報通り雨が強くなり、今日はこれで終了。

最後に残ったお友達とコンテナで遊んだり、なにやかんやで遊びましたが、いや~、本当に体力を消耗しました

 

やはり、雨なので皆さんのテンションを上げないといけないので、私が一番元気いっぱいで開催をし、気遣いもしながらの神経を使いながらの運営で、さらに雨風の中で体がずぶ濡れになりながらだったので、終了後はもうヘトヘト

帰宅後12時間ぐらい久々にこんこんと眠りました。

寝ても寝ても寝足りない、というのは本当に久々、というぐらい精魂使った1日でした。

それでも参加者のみなさんから「楽しかったです」といったお礼メールを頂いて、ほっとしています

 

そして日曜日は、うってかわっての夏日。

最高気温30℃ぐらいの1日でしたが、その暑さより大変なのが、駐車場でした。

日曜日はキャンセルが1家族しかいなく、90人を超す家族で「昨日を思えば、ベストコンディションだな~」と思いきや、なんと土曜日の雨で駐車場がドロドロで、スリップして動けない車が出て受付時から大混乱

 

駐車場整備やプログラムの急きょ変更などで、私は走り回り、もう、頭に血が昇ったまま右往左往しながら90人に対する運営をしていたので、午前中に毛細血管がいくつかブチ切れたと思うぐらいでした

 

それでも、ザリガニ釣りが始まった頃には、ようやく落ち着いた感じで、青空の下、昨日同様に入れ食いで、み~んな夢中になってザリガニを釣っていました

 

また、ジャガイモ堀や、昨日出来なかった丹波黒大豆の種まき、そして午後は先月田植えをした田んぼで草取り(泥遊び?)をし、充実した1日を過ごして頂けました

 

雨天決行は恒例の事で、この時期は仕方が無いのですが、まあ、何はともあれ事故もケガも無く2日間乗り切れて良かった良かった

 

しかし、ただでさえ参加人数が増えて1人で90人ぐらいを相手にしなければいけない体力&精神力勝負のイベント業。

そこに、雨天や駐車場問題など、イレギュラーがあると、それにプロ対応できる人が他にいないので、神経も体力も本当に使い果たしますね

 

とはいえ、子ども達の笑顔や参加者からのお礼メールに癒され、また来月も楽しい時間を過ごして頂けるよう、心身共に整えて参りたいと思います

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再:「目的が明確にある悩みは良い」

2019年06月10日 | 仕事の中で

自分の「みんなの農村ネットワーク」のホームページのブログが2~3年更新されておらず、このブログの内、「みんなの農村ネットワーク」の活動をコピペをずっとしているのですが、その中で、「お~」と思ったものがあったので、再度載せます。

 

「目的が明確にある悩みは良い」

というタイトルです。

 

「夜と霧」は世界的な名著で、ナチスにより収容所に入れられた体験を持つのヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神科の医師が、収容所での体験を、精神科医の視点で描いた本「夜と霧」は有名ですよね。

そのヴィクトール・フランクの事を書いているのですが、我ながら良い文章だな~と。

 

人や誰かの役のために生まれてきた。

しかし、世の中には様々な社会問題がある。

そして、大人はそういった社会問題を子ども達のために解決するよう生きるべき。

何故なら、社会問題はほとんどが大人が創ったものだから。

だから、「子どもも学べる場と同時に大人も学べる寺子屋のような学校を作りたい」。

これがこの10年来の私の理想です。

 

それを考えながら「どういった形にしたら良いのだろうか?」と、この春からずっと考えてきているのですが、そういったところに、過去の自分の文章を見直す言葉が載っていて、「お~」と思ったのです。

 

「目的が明確にある悩みは良い」

 

ビビっと来ましたね~。

関心持てる人は、以下、私のように見直してみて下さい。

https://blog.goo.ne.jp/atsu1234/d/20180610

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今は将来の準備期間では無い

2019年06月08日 | 自分の時間
Eテレの「100分de名著」の録画で、「自省録」を見ました。

古代ローマの第16代皇帝、マルクス・アウレリウスという人が、公開を前提にせず、自分に問いかけながら書いた日記のような哲学本です。

アウレリウスという人は本当は哲学者になりたかったそうです。
しかし、皇帝の道を進まざるを得ず、異国民との戦争の最前線で各地を転戦し、また疫病で国民が沢山亡くなったり、部下の裏切りにあったり、地震や洪水などの大災害に会いながら、国をどう導くのか、ひたすら自省していた人だそうです。

アウレリウスという人の考え方の特徴は、「宇宙の秩序に一致して生きる」という考え方です。

宇宙の秩序、これを理とも言いますし、ロゴスと呼びます。

ロゴスはロジックの原語ともいわれていますね。

儒学でも「理に従う」事が説かれていますから、根本的な考え方は東洋も西洋も問わないんですね。


アウレリウスは、「宇宙の秩序」、つまり「自然」に一致して生きる事を掲げています。

人間はそもそもこの宇宙の秩序、自然の理を「分有している」という考えです。

だから、他人が何か過ちを犯しても、それは自然から離れてしまっただけで、同様なことは自分にも起きうる。
本来、みな同じ「理を分有している仲間」なのだから、一時的に怒りや感情でその理から外れた行為を行ったとしても、本来みんな持っている宇宙の秩序に戻れば、同じ仲間だなのだから、許すべき、という思想です。

なので、裏切った部下などもアウレリウスは許すのです。

それでも、自分の想像を超えたこと、例えば、災害や疫病が流行り国民が死んでいく。

こういった大きな困難が毎日のように迫りくる状況で、彼は皇帝として「本来の自然の理と一致して生きるべき」と、自分を諭し、自分の哲学に沿って生きようとしていることが日記のように書かれているので「自省録」なんですね。


例えば、「善悪無記」、つまり、何が良くて何が悪いか、何が自分にとって得で何が自分にとって損か、というものはそもそも存在しない、という考え方も「自省録」には書かれています。

例えば、病気になってもそれが悪い事なのかというと、それをきっかけに本当の生き方を見つけてその後の人生が好転した、という事もあります。

何か起きたことそれ自体に善い悪いは無く、「何が善く何が悪いか、何が自分にとって有益で何が自分にとって有益ではないか、判断できる力」の方が大事という考え方です。

これは「7つの習慣」でいうと「矢印を自分に向ける」と言うのがありますよね。
悪いことはみんな周りが悪い、というのではなく、その事実に対面した時に、どういった態度をとるかは自分で決められる、という第一の習慣に通じます。

こういった話の延長で、自分が直面している困難があまりにも大きくて、今の自分ではどうしようも出来ない時があっても、それが単に悪い事ではなく

「その困難は人間そのものが乗り越えられないのか?というとそうでもない。過去の先人が乗り越えてきたレベルの事である。であるならば、同じ宇宙の理を分有している自分がその困難を受け入れて乗り越える力があるはず」

といった考えを持つよう彼は自省しています。

また、妻や子供や国民が死んでいく中で、死を考える章もあります。
いずれ必ず死ぬ我々は「生と死は一緒だ」と考えるのが自然に一致した生き方であって、であるならば、「今後の人生を余徳として生きる」という発想を持つべきだ、とも説きます。

要するに、過去は変えることは出来ず未来は不確かなものなのだから、「今」を生きることに集中しよう、と。
そして、人は1人では生きていけず、支えられて生きている、色々な人に助けられて今の自分があるのだから、常に人に与える生き方をして生きなさい、と説きます。

こう考えると西洋哲学も東洋哲学も本質は同じですね。

こういったアウレリウスの考えに対し、司会のNHKの女性アナウンサーが「うちの子どもに対して勉強しなさいといってもしないし、ゲームの時間も守らない」という子供の事を話しました。

その上で、「でも、今の子どもは中、高とも大学のための準備、目当てばかりで、今を生きるという感じでは無いのですが、何なのですかね?」とつぶやきました。

ちょうど、教育事業を立ち上げようと考えている私の関心事とぴったりの質問でした。

すると解説者の哲学者、岸見一郎さんが言った言葉がなかなかのものでした。

私はこの岸見さんが好きで、この番組のおかげで「こういった人がいるんだ」という出会いと言うか、日本の現在の哲学者の1人を知ることが出来ました。

アドラーなど色々な過去の哲学を紹介している方なのですが、その岸見さんが言った言葉がこうです。

「未来のために今があるんじゃないんですね。先の事を備えて、今、大切なことを見失っているかもしれない」
「今は将来のための準備期間ではない。今が本番であって、将来のリハーサルじゃない」
「今、勉強を頑張って大学に行ったからといって、幸福とは限らない」
「勉強は受験のためではなく、本来は知らないことを学ぶ喜びを得れるはずなんです」

やっぱりそうなんだな、と。

「今は将来の準備期間ではない」

これは本質だと思うのです。

いや、確かにきちんとした人生設計をもって「将来に向けて今、準備をしていく」という生き方もあるのは間違い無いのだと思います。

ただ、何に向かっていく準備なのか?何のための準備なのか?が明確になっていないまま、今は「勉強=進学」を前提に子供を塾に行かせている家が多い気がします。

「進学」は明治から昭和までは大きな柱だったのでしょう。
そして平成から令和にかけても、もちろん本筋だと思います。

が、少なくとも「勉強することの意味、楽しさ、力」を育てるための時間なのか、「良い点数をとるだめだけ」なのかで、その本質は大きく違うと思います。

どうも、「厳しい世の中だからこそ、良い大学に行くことが当たり前」というように、世の中の雰囲気が私の時代より強くなっている気がします。

もっといえば「格差社会」と言うのが、より肌に感じる時代になった気がします。

その「格差」の下に行かないよう、昔以上に「やれる範囲で上に行きなさい」という風潮を感じます。

大人がこれを上手にマネージメントするならわかりますが、これをストレートに子ども達に伝えて良いのでしょうか?

私は違うな、と思います。

これじゃあ、まだ世の中を知らない子ども達の「行き場」を最初から消してしまっています。
大人のずるさ、と思います。

小学生のうちから良くわからないまま、塾に行っている子ども達を見ていて、「自分で独学する力がつかないよう育ててしまっていんじゃないか?」と感じる事が多いです。

座学の勉強に向いている子と、そうでない子がいます。

1人で勉強することが出来る子と、そうでない子がいます。

でも、結局は勉強とは自分でやるものです。

1人で、わからないことがあったら勉強して、困難を乗り越える力をつけるためのものです。

力というのは他人ではなく自分で頑張ったものでないと、身につきません。


「今は将来の準備期間ではない」という言葉を正確に言うならば、「今は将来の準備期間のためだけにあるのではない」ですね。

英語で「seize the day」という言葉があります。

また、児童文学者の石井ももこさんの言葉もあります。
「今を精いっぱい生きた時間が、大人になって役に立つ」

これが本質なのでしょう。
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夕方からの畑

2019年06月07日 | 農的体験・生活
暑い日が続きます

という事で、日中はオフィスワークを中心に、夕方4時過ぎから2時間ばかり、畑仕事をしました。

しかし、暑いと気力が続かないというか、外で仕事をした後、家でデスクワークをする気がなかなか起きないんですよね~。

ただ、今回、カメラをたまたま仕事で持っていたので、久々に畑の写真をば。

今は絶好調なのがスナップエンドウです。
スナップエンドウは11月頭頃に蒔くのですが、今年は霜で全滅したため、春蒔きしました。
春蒔きにすると、根張りが11月蒔きに比べて少ないので、どうしても収獲期間が短くなり、味も少し落ちる気がします。

ただ、一般的に11月蒔きのものがもう木が枯れ上がって終わっているのですが、春蒔きなのであと1週間ぐらいは大丈夫そうです
ということで、全部で800gぐらい収獲できました


続いて今、最も熱いのがパクチーです
パクチーは「別に無くても良い野菜」だったのですが、何となくこれで3年目。
というのも、昨年、「オリーブオイル&ニンニク&塩&唐辛子」を混ぜたら、まあサラダのようにモリモリ食べれる美味しい野菜に早変わりしたのです

というか、普通に食べれば全く美味しいと思わないのは継続中です
ラーメンとかスープに入れて食べている映像がテレビで良く映りますが、何が美味しいんでしょうね~
でも、このオリーブオイル&ニンニク&塩&唐辛子で混ぜ混ぜすると、すんごい美味いんです
家族みんなで「パクチーの匂い、臭い」と騒いでいたのですが、なんとうちの息子が昨日、初めて「ん、これ美味いね~」とパクチーを食べたのです

ただ、野菜としては私は育て方がイマイチまだわからないのです。
どうしても路地栽培のせいか大きくならず、こんな感じでとう立ちする頃ようやく大きくなる感じで、まあこれはこれで良いのですが、誰かパクチーの育て方教えてくれませんかね~。


こちらはカボチャ。順調です
今年は摘芯して子ツルを伸ばすのと、そのまま放置で何もしないのを1株置きに。
どちらがどうい実なりになるか?


ミニトマトはまだ赤くなりません。あと2週間かな~。


そして、今年最も大量豊作なのがニラ
まあ、収穫しても食べきれず、本当に貴重な食糧になっています
養生をすると、ニラはこんなにも穫れるものなんだと、つくづく感心しています。
有難いですね~。


その他、ジャンボ落花生のおおまさり、サツマイモの紅はるか、ゴーヤ、オクラなども頑張って生育しています。

空心菜はネズミや根切り虫の大被害にあっているので2度蒔きしましたが、さてさてどうなることやら?

あとは白瓜の苗が出来たら移植して、夏野菜は完成です。

その後は、ひたすら草取りです
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生活が根っこ

2019年06月02日 | 自分の時間
先週の「食と命の教室」では、高柳家の伝統療法などの紹介をしました。

その前ふりで「赤本」の説明や、「あなたと健康」の話をしました。

私も高柳さんの話を聞くまではイメージがつかなかったのですが、「無医村」と言うのは日本全国当たり前で、お医者さんが来る前は、みんな「自分で治していた」んですね。

私が通う成田の大栄地区には「診療所」と言われる場所があります。

これは「国立」なんです。

成田の中心部に住んでいる私は、こんなこと、10年前は全く知らなかったのですが、要するに無医村が全国にあって、そういった農村に「国」が「診療所」を作ったんですね。

だから、大栄地区の人は「診療所」の先生とは懇意で、長年つきあってきたんです。

もちろん、今は普通の開業医も沢山ありますが、昔からのつきあいの人は、診療所にまずは行きます。

高柳さんのお父さんが3年ほど前に亡くなった際に、診療所の先生と「高柳さん、死亡原因は何にしようか?」「先生、そりゃ老衰でしょ」「そうか、じゃあ老衰にしておきますね」みたいな会話でご自宅で亡くなった際の死亡診断書を書いた、といったエピソードがあるんですが、そんな人間関係なんです。

あるいは、高柳さんのお父さんが、戦後、朝鮮地域から歩いて帰国しようとしていた時に脊椎カリエス(白血病の一種)にかかり、病院に収容されたが、ただ寝かされているだけだったので「このままでは死んでしまう」と、病院を抜け出し、自分で「赤本」などを見て治した。そのまま病院に残った同じ病状の仲間はみんな死んでしまった。なんて話を聞くと、「自分で自分の体を養生する」というのはとても大切だという事が、わかります。


しかし、本として「赤本」や「あなたと健康」を読むと、どうしても「病気を治すため」の「情報」を得ようとする意識になってしまいます。

私の周りのいわゆるorganic系のママさんは、大概「自然療法」の本を持っていますが、「実践」している人はいません。

つまり、アロマやヨガと同じといったら違うのかもしれませんが、「自然系が良い」という感覚で「自然療法」の本を持っています。

ところが、これが今風で言えば読みにくい書き方なんですね

私も全く同じで、最初にうちの奥さんが買ってきたのに目を通した時は「へ~」と思っただけで、あとは放っておいた感じです。

ところが、ちょうど私が体を壊して困っていた頃、「あたなと健康」でお手当などを学んでご自身でお料理教室を実践している人が「食と命の教室」に参加してくれて、その出会いをきっかけに、私もきちんと月刊誌「あなたと健康」を読むようになったのですが、それ以来、この「あなたと健康」や「自然療法」の「書いてあること」が身に染みるのです。

今月号の「あたなと健康」に、主宰の東城百合子さんが書いていることがわかりやすいのでそのまま転記しますと。

「最初は病気を治しのためだったり、健康にいいからと始めたことが、自然に生きることに気づき、多くの方が心楽しく明るく生きる事をみつけ、実践努力の人がいつの間にか元気になられる」

これは実体験した人でないと「その通り」とはならないと思います。

どんなことでもそうですが、「本当に分かった」と言うのは、「意識」が変わりますし、「生活」が変わります。

例えば、「お腹が痛いから、腹痛のページを読んで、その対処療法としてゲンノショウコを煎じて飲む」とか「玄米が体に良いと聞いたから玄米を炊いて食べてみる」というのが初期段階。

いわば、まあ私はこの時期を4~5年ぶらぶらしていたわけです。

ぶらぶらしている、つまり根っこが無いから途中で挫折してしまう。

ところが、「人には自然の治癒力があり、心臓も自然に動いている。これは自分の意志とは関係ない、自然の力で生かされている事」という事に「はっ」と気づくと、「有難いな~」という気持ちが湧いてきます。

そうすると、毎朝、体調が悪く、1日きちんと動けるか不安な日々を2~3年続けていた私にとって、「今日も元気に動けることは有難いな~」と、「感謝」の気持ちが沸くのです。

私はこの段階までなのですが、さらに「実践努力」している人は、「薬草や旬の食べ物といった自然の力を有難く頂戴することで、自分が健康に生きられる。そういった恵みをくれる自然に感謝」しているんです。

私は玄米は食べなくなってしまったのですが、例えば玄米を食べたり、お手当を日常的にしている人は、「自然の力で救われた」という思いがある人が多いんですね。

ガンや糖尿病など西洋医学で治らなかった方が、自然療法で救われた。

そこに「感謝」し、「生活」を改めたわけです。

私も10年前、農村の生活に出会った時に衝撃を受けたのが「生きることは生活することなんだ」という気づきでした。

これが私の農村と関わる生き方のすべての原点です。

「生きる」というのは何なのかよくわからない。

だから、自分探しとか、インドに行ったりしちゃうわけです

それが10年前、私は気づいてしまった。

「生活すること、つまり自分で食べ物を作り、料理し、食べて、家を直し、なるべく自分の生活を自分で自給する。大手メーカーから与えられた選択肢の中から選ぶのではない生活」という、昔なら当たり前の「生活すること」を知らなかったから、根無し草になってしまったんだ、と。

例えば、毎年ヨモギ餅を食べるとか、梅干しをつけるとか、味噌を作るというのは、私の生活になっています。

これは「〇〇が良いから」ではなく、根付いているからなんです。

箸の持ち方もそう、椅子の出し入れもそう、「おはよう」や「いただきます」の挨拶もそう。

そういったことが「生活」に根付いている事が、すべての根っこだと思うのです。

そんな当たり前のことを言う大人が少なくなってしまったから、農村にまだ残る生活文化や、「あなたと健康」の90歳を超す東城先生の言葉が価値があるんだな~、と。

農村の生活が「なんかよい」とレジャーの一部と思っている人は、体験して終わりなのですが、その体験で何か心の奥底に種が蒔かれ、今の生活がおかしいと気づいた人は、さらに一歩進んで「生活を改める」んですよね。

根っこを張ると、生きる事が安定してきます。

生活という根っこが大事な時代、と思います。

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