波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

ちむどんどん

2021-05-23 20:52:39 | Weblog
2022年度のNHK連続テレビ小説は沖縄が舞台らしい。
沖縄が好きな者としては待ち遠しい。

https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/1000/444194.html
> 2022年度前期 連続テレビ小説
> ちむどんどん
> ◆物語
> 1960年代。まだ沖縄はアメリカ軍の統治下にありました。沖縄本島北部は、「やんばる地方」と呼ばれ、豊かな自然や山林の多い地域。その「やんばる」の、とある ひなびた村に、サトウキビなどの農家を営む比嘉(ひが)家が暮らしていました。

どうやら、舞台は沖縄本島北部のやんばる地方のようだ。
このあたりにはかつて北山(ほくざん)という王国があったが、現在では、南部の人たちからは僻地扱いされたり田舎扱いされることもある。
言葉も南部と異なるので、那覇などに出て行ったときに言葉をからかわれた、という人もいる。
他県の人にとっては「やんばる」という言葉は何もマイナスイメージがないけど、沖縄では引け目を感じる人もいる。
関東で言う「グンマー」とか「チバラキ」、といった言葉に近いものもあるだろうか....

しかし、やんばるはすばらしいところだ。
狭義では国頭郡の山間部のことを言うけど、広義では、恩納村以北がやんばる。
沖縄本島の魅力的なビーチの多くはやんばるにある。
文化的にも南部と異なる独自性がある。ぜひやんばるの魅力を伝えてほしい。

ドラマにおいて、沖縄ことばの指導は藤木勇人さんというタレントさんがされるらしい。
沖縄業界は狭い。この人は知り合いの知り合いだ....

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%A8%E5%8B%87%E4%BA%BA
> 藤木 勇人(ふじき はやと、1961年1月9日 - )は、沖縄県を拠点に日本全国で活動するマルチタレント。
> 米軍占領下の沖縄・コザ(現沖縄市)で生まれ育つ。


コザで生まれ育ったということは、母語はウチナーヤマトグチ(沖縄風日本語)の可能性が高い。
やんばる地方の言葉もわかるのだろうか。

沖縄本島の南部と北部では少し言葉が異なる。
それぞれ沖縄(おきなわ)語と国頭(くにがみ)語という別言語に分けられる時もある。

もしかしたら、東北弁と東京弁ぐらいの差があるかもしれない。
まあ、他地域の人にとっては雰囲気さえあれば細かい言葉遣いなど関心はないのだろうけど、当事者にとってはちょっと気になるのではないだろうか。

せっかく沖縄本島北部、やんばる地方を舞台にするのであれば、現地の言葉を使ってほしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E5%8C%97%E9%83%A8%E6%96%B9%E8%A8%80
>沖縄北部方言(おきなわほくぶほうげん)または国頭方言(くにがみほうげん)とは沖縄県の沖縄本島北部の国頭郡で話される琉球語の方言である。エスノローグにおいては国頭語(くにがみご)(Kunigami language)とされるが、沖永良部島方言・与論島方言をあわせた沖永良部与論沖縄北部諸方言を国頭語(国頭方言)と呼ぶこともある[2]。
沖縄北部方言と沖縄中南部方言との境界は、東シナ海側では恩納村恩納と谷茶の間にあり、太平洋側ではうるま市石川と金武町屋嘉の間にある。


8/2追記
知り合いによると、藤木さんもドラマに出演されるようだ。9月から撮影に入るとか。ぜひ、首里・那覇を中心とした沖縄中心主義で覆い隠さず、やんばるの独自性が見える、やんばるに誇りが持てる言葉遣いにしていただけるとありがたい。


コメント (2)
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オックスフォード

2021-05-05 11:33:17 | Weblog
学生時代の同級生が、長年オックスフォード大で教員をしている。
イギリスに来るときは声をかけてくれと言われたが、以前、オックスフォードを訪れた時には会わなかった。
オックスフォードでは小さなパブを訪れ、ここは皇太子(当時)の来られた店なのかな、天井が低いな、などと感じた記憶がある。
数年前には、ある表彰式の場で皇太子(当時)の姿を目にしたことがある。
小柄なのだろうけど、姿勢がよくて意外に胸板や肩幅はしっかりとされているので、落ち着きを感じた。

そんなこともあり、今上天皇がかつてオックスフォード大学に留学されていた時の体験記を読んでみた。

路上に大量の小銭を落としてしまったり、寮の洗濯場所を泡だらけにしてしまったり、図書館で傘を盗まれてしまったり、ジーンズでディスコに行って入店拒否されたり、指導教官との約束を忘れてボート競技を見に行ってしまったり。
率直にさまざまな失敗談が語られ、多くのことを知り、学んで成長されたことがうかがえる。
天皇家の人がどのような教育を受けられているのかほとんど知らないが、人を咎めたり非難したり憎んだり恨んだり怒ったり、といった意識を見せないのは興味深い。

ちょっと目についたところをメモ。


『テムズとともに 英国の二年間』徳仁親王著、学習院教養新書、平成5年

はじめに
私がオックスフォードに滞在したのは、一九八三年の六月末から八五年の十月初旬にいたる二年四カ月間であった。(略)私がオックスフォードを離れてからすでに七年を経過した今も、それらは常に青春の貴重な思い出として、時間、空間を超えて鮮やかによみがえってくる。その多くが今日の私の生き方にどれだけプラスになっているかは、いうまでもない。(略)
一九九二年 冬

P45
(略)オックスフォードという地名の起こりは、浅瀬(ford)があり、牛(ox)が渡れたことに由来するという。英国内にいくつもあるストラットフォード(Stratford)やブラッドフォード(Bradford)といったフォードのつく地名は、必ずこの「浅瀬」と関係がある。

P80
 ところで買い物とは直接関係はないが、私はオックスフォードで初めて銀行に行く経験をした。(略)最初で最後の経験かもしれない。また、カードの通用する店ではクレジット・カードでの買物をしていたが、これも今後はまず縁のないことであろう。

P81-82
(略)自分用の風呂があることには感謝すべきであるが、浴槽に約半分ほど給湯すると湯がなくなってしまい、およそ温まるという状況には程遠い有様である。ことにシャワーがついていなかったため、髪を洗う時には浴槽は三分の一ほどの湯で我慢し、残り湯を蛇口から洗面器に取って湯ですすぐようにした。

P92
(略)要は洗濯物を機械の中に入れ、適量の洗剤を注ぎ、お金を入れるだけのことであったが、慣れない私には興味津々であった。
 初めてここを使用した時に大失敗をしでかした。私は手順どおりに機械の中に洗濯物を入れ、洗剤を注ぎ、お金を入れた。四十分ほどで出来上がると聞いていたので、四十分後に再び地下のローンドリーに行ってみた。すると、あたりは泡だらけである。よく見ると泡は明らかに私が使用した洗濯機から流出している。そばにはあきれ顔の一人の学生がいた。「これは、君のか。泡があふれているよ」と彼は言った。洗濯物の詰めすぎであった。彼に詫びを言ってその場はどうにかしのげたが、今でも笑ってしまう。

P93
(略)私がオックスフォードに滞在した二年間、私の身辺警護にはロンドン警視庁から二人の警察官が選ばれて当たってくれた。一人はロジャー・ベーコンといい、表現するのは難しいがいかにもイギリス人らしい人、もう一人はブルース・エアーといって、スコットランドなまりがあるが聞きやすい英語を話し、愛敬のあるなんとも対照的な二人である。彼らが一週間交替で私の隣の部屋で日夜警護に当たってくれた。

P97
(略)一九八五年の三月には弟の秋篠宮がオックスフォードを訪ねてくれたので、マートンのチャペルのタワーとクライスト・チャーチ・メドーを中心に案内した。(略)夜は私が時々行く中華料理店に案内した。弟は大学で覚えた中国語で店員と上手に会話をしていた。弟は後年オックスフォードへ留学したが、その時の手助けが少しできたのであればと思っている。二年間の滞在中に家族全員が訪ねてくれ、自分の生活している場所を案内できたことは大きな喜びであった。

P99
 ところで、P君たちとはよくパブにも一緒に行った。音楽の項目で紹介するターフ・タヴァ―ン(Turf Tavern)は、私たちの行きつけのパブである。彼らからパブ・クロール(pub crawl)なる言葉を教わった。パブをはしごする意味だそうだが、彼らによると少なくとも十軒は立ち寄り、一パイントずつ飲むということをいうのだそうだ。事の真偽はともあれ面白いことを教わった。

P101
 私はオックスフォード滞在中は、外出時にはできる限りジーンズなどのラフなスタイルで歩くようにしていた。私と顔を合わせた日本からの観光客も最初は目を疑ったらしい。若い女性から目の前で「ウッソー!」と言われた時は、「ウッソー!」の本義を知らず、どう反応していいか迷った。ディスコの件は一度目は失敗に終わったが、二度目はMCRの女子学生も含む男女混合のメンバーで、平日に前回とは違うディスコへ行った。生まれて初めて入るディスコのこと、内部の騒音は聞きしにまさるものと思った。フロアーは若い人々が中心で、それぞれのステップで踊っている。私もまったく自己流のステップで踊りの仲間入りをし、MCRの女子学生と向かい合って踊ったりしたので、退屈するようなこともなかった。

P141-145
(略)ちなみに英国の最高峰は、スコットランドにある一三四四メートルのベン・ネヴィス(Ben Nevis)である。(略)
 二番目に上ったのは、八五年七月二十七日のウェールズ最高峰スノードン(Snowdon)山(一〇八五メートル)であった。(略)
 ウェールズから、私はレイク・ディストリクトへ向かった。この地は以前訪れているが、今回はイングランド最高峰のスカーフェル・パイク(Scarfell Pike)山(九七八メートル)に登るためである。(略)
 こうして私は、イギリスの三地方の最高峰に登ることができた。天候には恵まれなかったものの、起伏に富む登山道と周囲の景観は、日本でそれまで体験したものとは異なるものがあり、それなりに充分面白味があった。また、標高が低いのにいわゆる高山で味わう雰囲気に浸れるのも英国の山が高緯度にあるゆえの特徴なのかもしれない。

P149∹150
(略)オックスフォードでの私の研究テーマは、一八世紀におけるテムズ川の水運についてであったが、私がどうしてこのテーマに出会い、研究を進めていったかをまず述べてみたい。
 そもそも私は、幼少の頃から交通の媒体となる「道」についてたいへん興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。

P213
 思い返してみると、この二年間は瞬く間に過ぎ去ったように感じるものの、私はその間実に様々なものを学んだように思う。(略)この経験の中には、自分で洗濯をしたりアイロンをかけたりしたことももちろん入るが、英国の内側から英国を眺め、様々な人と会い、その交流を通じて英国社会の多くの側面を学ぶことができたこと、さらには日本の外にあって日本を見つめ直すことができたこと、そのようなことが私にとって何ものにも代えがたい貴重な経験となった。
 十月十日、私は、ホール大佐をはじめ、在留邦人の方々、お世話になった大使館職員の方々に見送っていただき、昼過ぎのヒースロー空港を後にした。ロンドンの風景が遠ざかるのを見ながら、私の中で自分の人生にとって重要な一つの章が終わり、新たなページが開かれる思いがし、しばし心の中に大きな空白ができたような気がした。それとともに、内心熱いものがこみ上げて来る衝動も隠すことはできなかった。私は、ただ、じっと窓の外を見つめていた。



コメント (19)
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