波打ち際の考察

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波屋山人

受け流す技術

2022-02-22 22:44:33 | Weblog
以前、同僚と話の流れで、「私は損をしてもいい」というような話をした記憶がある。
同僚の驚いた顔が意外だった。そんなに損をしたくない人が多いのだろうか。

私は少しぐらい自分が損をしてもいい。バカにされたっていい。見下されてもいい。誤解されて咎められても仕方がない。
人はそれぞれ考え方や感じ方が異なるから、その中で自分が困難な立ち位置に追いやられることもあるだろう。
殴られたり蹴られたり盗まれたりといった物理的な被害を受けることは避けたいが、見下し、否定、差別などといった拒絶反応は、受け止める側の姿勢によってダメージを変えることができる。

バカにされようが、見下されようが、嘲笑されようが、プライドの高くない人にはあまり響かない。
自己肯定感の低い私などは、「まあ、しょうがないよね」といった感じで、心理的無抵抗状態というか流されるまま状態。
たまに、バカにされて「悔しい、恥ずかしい」などといった感情を覚えることもあるが、そういった感情を持つ自分に未熟さを感じる。

一般的に、自分を否定されたり価値のないものとして扱われたりすると、生命の維持を脅かすことにつながりかねないので、本能的に反発するのは当然だろう。
だから、世界中で多くの人が見下しや差別や不公平に対して怒りや悲しみを見せている。
(物理や化学、数学といった世界の構造を解明する分野では、「差別は絶対にダメだ」ということを証明することはできない。あくまで、人間が社会の維持存続のために不都合が生じるから「差別は絶対にダメだ」と仮定しているだけである、ということを意識しておかないと、世の中の多くの人権活動家や反差別運動家のように論理を誤ってしまう。「差別はダメだ」「戦争はダメだ」「神様は絶対だ」などと言う人たちは、「地球は動かない」と言う天動説信奉者のようなものかもしれない。それはそれでいいんだけどね。そういう認識の人がいるのも当然だから)

ただ、世の中には、自分の利益どころか、自分や所属する家族・民族の生命の維持を最重視していない人だっている。
自分の利益を求めず、自分の命を削ってまで他人のために献身的にはたらいている人も少なくない。

自分の身を守ることを重視する思考から解放されることで、見えてくる世界も広いのではないかと思う。

鬱病になる人はまじめな人が多いと聞く。私の周囲でも、勉強熱心でアイデアの多い人や誠実で穏やかな人、情報量が多く起業経験のある人など、仕事のできる人が鬱病になったり再発したりしている。

彼らがもし、「私はバカでクズでノロマで臭くてブサイクで仕事できなくて素っ頓狂だから、拒絶されても見下されてもしょうがないね」と認識していれば、何も守ろうとせずストレスを受け流し、鬱にならなくてすんだかもしれない。

他人の価値観に合わせて、他人の視線を気にして行動するのは疲れてしまう。他人が価値がないとして扱うものを、自分もそのように扱う必要はない。
他人が価値を見出さないものに自分なりの価値を見出せれば、視野は広がる。

バカにされても、価値のわからない人をスルーできるようになれば、心は平穏を保てるのではないだろうか。

世の中には、さまざまな価値観にとらわれて、さまざまなものを否定しないでいられない人は多い。
もっとも、何かを肯定する場合は同時に何かを否定せざるを得ないので、人間が何かを感じたり判断をする時点で、否定や見下しとは無縁ではいられないのかもしれない。
だけど、そのことを自覚して、人間は否定や見下し・差別といった意識を切り離してしまうことができない存在だ、ということを意識してこそ、世の中を冷静に分析することが可能になる。

バカにされて強烈な反発を感じる人は、バカにしている人と同レベルの思考レベルにあるのかもしれない。

差別されることに不満を感じる人の多くは、自分が無意識のうちに他者を差別してしまっていることに鈍感だ。
自分に向けられる差別さえ解消されればいい、と思っている人は、差別をする人と同じような人であるともいえる。
バカにされることに強烈な不満を感じる人は、誰かのことを同時に強烈にバカにしているのかもしれない。

低身長だ、肥満だ、知識が少ない、そう言ってバカにされることに怒りを覚える人は、同時に低身長で肥満で知識が少ない人をバカにしてしまっていないだろうか。

別に、低身長で肥満で知識が少なくてもいいじゃないか。
私の身近には、低身長で肥満で知識が少ないが、実に自己肯定感が強い人がいる。
明るくて、独自の視点があり、何より私のようなめんどくさい人間に対しても分け隔てなく忍耐強く明るくつきあってもらえるのはありがたい。

差別だ! と人々を咎め、否定することは、汚い言葉を使う人を口汚く罵るようなものではないだろうか。
乱暴な人を捕まえて暴力を奮うようなものではないだろうか。

そういう人もいるだろうけど、私はそのような世界からは離れて、ストレス少なく日々をすごしたい。

幸いなことに、損してもいい、バカにされてもいい、見下されてもいい、などと思っていると、意外にも損はしないし、バカにもされないし、人のことを悪く言わないすてきな人と出会うことが少なくない。

人をバカにするような人に囲まれて辛い思いをしている人は、いっそのこと、開き直ってしまえばどうだろうか。
自分を守ろうとせず、自分が損をしても、見下されても受け入れる。相手に反発せず、攻撃しない。
するとどうでしょう、周囲の環境がみるみる改善されて快適な日々をすごすことができるようになりました、ということになるかもしれない。


追記
私は自己肯定感がとても低いのは確かだ。学生時代に、友人が「私は結局自分のことがかわいい」と言っているのを聞いて、その感覚が理解できなかったことを覚えている。自分の容姿も残念に思っている。人とせめぎ合うことが苦手で、スポーツも苦手だった。
だけど、自分のことを無価値だと思っているわけではない。学校の成績はわるかったけど、本はたくさん読んでいたから「学校の勉強はできないけど、授業にない科目の知識はある」と感じていたことを覚えている。特に英語の成績がわるく、ろくに英語が話せないのにどこか心の中で「自分は英語ぐらい話せて当然だ」という意識はあったので、下手な英語でコミュニケーションをとるのは平気だった。なぜ自分が自由に話せないのか不思議で、少しずつ英会話は改善されてきたような気がする。もし、最初から私が「勉強が苦手で英語なんてとんでもない」と認識していたら、まったく英会話力を向上させることもなかっただろうし、外国人の友人をつくることもできなかっただろう。自分に自信がなくてもいいけど、あきらめてしまわなければ、扉を閉ざさずにいれば、いつか世界は広がる。


コメント (8)
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