波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

「伝説の社員」になれ!、は売れているのか?

2007-10-30 19:45:52 | Weblog
アマゾンでカリスマ的なバイヤーだったという土井英司氏の著作が売れているらしい。
2か月で10万部を突破したという。
これはすごい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794215851/businessbookm-22/ref=nosim
「伝説の社員」になれ!
草思社 (2007/4/17)


ただ、紀伊国屋書店での売上げ部数を確認してみると、それほど売上げが多くないという印象。
発売は2007年4月17日(売上げは4/16から記録されている)
2007/04/17~2007/06/16日の紀伊国屋全店での売上は1030冊。

はたして、これで全国で10万部を達成しているのだろうか。
1030部といえば、10万部の約1%。

圧倒的にネットの書店で売れたというのだろうか。
紀伊国屋の販売部数を100倍も上回る部数が全国で売れたという話は聞いたことが無い。


日経流通新聞(日経MJ)によると、2006年度の書店の売上は、紀伊國屋書店が1180億円で5年連続のトップ。
2位の丸善が981億円。
3位の有隣堂は541億円。
ネット書店が全部合わせて600~700億。
ネットとリアルをあわせた書店の市場規模は2兆円弱?

紀伊国屋全店での売上げは、ネットとリアルをあわせた書店の売上げの約6%に達する。
単純に考えると、紀伊国屋での書籍の売上げを約20倍してみると、全国での売上げ部数が推測できる。

11月には200万部を突破するという坂東真理子さんの「女性の品格」(PHP研究所)は2006年9月の発売以来、今月末で延べ約8万部売れている。
20倍というわけにはいかないけど、8万部を25倍すれば200万部になる。

岡田斗司夫の「いつまでもデブと思うなよ」(新潮社)は10月末に発行部数が34万部に伸びているらしい。
実売部数は30万部弱といったところだろうか。
紀伊国屋のデータでは8月の刊行から10月末までで1万2千部程度売れているから、やはり紀伊国屋では売上げ部数の20~25分の1を占めているのだろう。

ちなみに、千原ジュニアの「14歳」(講談社)は2007年1月に発売し、6月末には10万部を達成した。
発売、と言っているだけだから実売部数ではないかもしれないけど。
紀伊国屋のデータでは6月末までに3803部の売上げを記録している。
3800部×25=約9万5千。まあ、いい線をいっている。


この計算式に合わせると、「伝説の社員」になれ!、は1030部×25=約2万5千部。
圧倒的にネットで売れた、と仮定してもせいぜい実売4~5万部が精一杯ではないだろうか。
千原ジュニアが10万部を達成したときに比べ、紀伊国屋での売上げは3分の1以下。


実売ではなくて印刷部数だとしても、いくらなんでも10万部というのは多いのでは。
出版社は在庫を恐れているから、一気に何万部も刷るなんていうことは滅多にない。

「伝説の社員」になれ!、はお盆以降売上げが落ちているので、年内に紀伊国屋での売上げ2千部を達成するのはむずかしい。
(10/30時点でのべ1858部)


出版プロデュースのプロフェッショナルである土井さんが、著書の売上げについて詐称することはないと思うのですが。
どうなっているのだろう、という素朴な疑問。


(2か月で10万部ということは、トータルでは少なくとも15万部は売れる。印税が定価1200円の10%だとすると120円×15万部=1800万円の印税?いい収入ですね。税務署が、税金を狙って来そう)


<参考>
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794215851/businessbookm-22/ref=nosim
「伝説の社員」になれ!
草思社 (2007/4/17)


http://blog.goo.ne.jp/eliesbook/e/08c4c66b7359c518d0faea279d0b934e
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http://plaza.rakuten.co.jp/style39/diary/200706090000/
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人をバカにする楽しさ

2007-10-28 02:36:12 | Weblog
人をバカにしたくなる気持ちもわかる。

他人をバカにすれば、自分を肯定することができる。
自分を肯定できるっていうことは、心地がいいことだ。

ついつい、他人を見下し、自分や自分の所属するものを肯定したくなる。
自分という存在や自分の所属する組織を維持していくためには、自分を肯定することが必要だろう。

隣人や隣国や勤務先のライバル企業など、自分と隣り合っているものは自分の存在を深く意識させるから、自分の存在を守るためには、否定してしまうのが手っ取り早いのかもしれない。

精神衛生上、時には他人をバカにしてもいいのかもしれない。安易な方法だけど。

自分に理解できない人をバカにし、ねたみを感じる相手をバカにし、思うようにならないものをバカにするのありがち。
意外に、中国や韓国などといった隣国のことを否定的なイメージでとらえている人も多い。
ネット上にも他人をバカにする言葉は多い。


隣国の人も、たとえば倭奴(ウェノム→韓国語)とか小日本(シャオリーベン→中国語)などと言って
ことあるごとに日本をバカにするけど、自分のプライドを守りたい人、自分を大きく見せたい人、誇示したい人、自慢したい人は、ついつい他人のことを小さいとかチビだとか、まあ理由はなんでもいいんだろうけど、バカにしたがる。

日本人にとっては、小さなこと、コンパクトなことは別にマイナスイメージを持って語られることではないかもしれないけど。
日本人はバカにされても、こつこつ小さいもの、コンパクトなものを大事にすればいい。
人が価値を見出せないところに価値を見出せるなんて、創造的なことだ。


まあ、世界的に見れば、中国も韓国も日本も、身長なんてどっこいどっこい。
せいぜい平均身長は男性が170センチ前半で、女性が160前後。
たしかに中国北部には背の高い女性が目立つけど、緯度の高い地域では日照時間が短い影響か
生理のはじまる歳が遅い女性が多く、背の高い女性が多いというのはヨーロッパでも同じ。

南東アジアでは下手すれば男性も女性も北東アジアより10センチくらい低い。北欧では逆に
10センチ以上高い。
北東アジアでの差なんてたいしたものではないのに、下手したら中国人も韓国人も半分くらいは
日本の平均的な人より小柄だというのに、チビだなんだのと見下したがる。
べつにチビでもいいのに。

山岳地帯やジャングル地帯では大柄な体はウドの大木じゃないけど、行動に不利。
体が軽く、小柄なほうが行動しやすい。いろんなものをよけやすいし、的にもなりにくい。
だから、ジャングルや山岳地帯に住む人間や動物は、平原に住む人間や動物よりも小柄になる。
理にかなっているからそうなっている。
それを、違う世界の価値観で見下されても、それは的を射ていないと言える。

視野が狭いとどうしても自分たちの価値観でしか物を見れなくなる。
でもそれはそれでしかたがない。
かつてヨーロッパ人は有色人種が劣っていると思っていたし、ほんの100~70年前の日本人だって
アジアの先進国は日本だけで、他のアジア人は無知だと思っていた。
中国や韓国だってなんだかんだ理由をつけてついつい他国の人をバカにする。


だけど、怒ったり暴力を使ったりしなくても社会を変えることが可能なように、
他人をバカにしなくても、自分を肯定することはできる。

他人をバカにしたり見下したりすることを克服することはできる。
それこそ、知的な思考への道。

それをわかっている人が、歴史学の研究や、教科書の編纂にたずさわればいい。

歴史学や教科書を修正しようと試みている人たちは、歴史修正主義者(リビジョニズム)だ、
などと言われてしまうこともある。
だけど、歴史修正主義者(リビジョニズム_revisionism)という語は、人種差別者(レイシスト_racist)
などと同じく、レッテル貼り的な、マイナスイメージを付加した一種の差別用語として使用されている。

真摯に物事の構造を把握しようとしている人は、そのような安易なレッテル貼りをして何かを否定しようとすることは避けるけど、歴史修正主義者や人種差別者という言葉を捨て台詞のように使う人も少なくない。

歴史学が、マルクス主義や社会主義の影響を強く受けてきたのは事実。
日本の歴史学界でも、いまだにマルクス主義的な歴史学を学んだ人たちが主流を占めているから、
歴史認識や差別問題の構造、権力構造の分析などについても、現代科学を反映していないのでは
ないかと思われる論が多々ある。

複雑系の科学の影響を受けた社会学者は多いだろうけど、歴史学者は、ニュートン力学などの時代の
科学を反映しているマルクス主義からどれだけ発展できたのだろう。
社会学者や人類学者、心理学や生物学、免疫学、精神医学、等々のジャンルの人たちは現代科学に関わっているから生命や社会や心理について共に議論できるけど、歴史学や法学の人だけは土俵外というか、哲学思想や知の世界からは程遠いという状態なのだろうか。


沖縄が戦場になり、多くの人の命が失われたのは確かだ。
戦時中に多くの沖縄県民が国家主義者として戦争に協力したのも事実。
狂信的な自警団が思いつめて住民に自決というか自殺を強いたのも状況としてはありえるだろう。
住民を追い詰めた軍人もいただろう。

だけど、渡嘉敷島で赤松大尉が集団自決を命令したというのは、事実ではないのだろう。
http://josaito.cool.ne.jp/togashiki/jiketsu.html

社会主義に近い傾向がある沖縄県のマスコミや歴史学の世界では、日本軍は悪、住民は被害者、と言っていれば資本主義の政府を批判し、自分たちを正当化することにも都合がよかっただろう。

主義主張は何でもいい。所属が何でもいい。
他人を否定しなくても、自分を守ることはできる。
他人を否定しなくても、世の中を変えることはできる。

そのためには、安易に他人や物事を否定しないで、世の中の構造を謙虚に認識してみることが必要。
そこに到達しないと、革新の人も保守の人も、反社会的な人も権力者も、堂々めぐりから脱出できない。


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ambiguous world(あいまいな世界、両義的な世界)

2007-10-26 08:30:04 | Weblog
私は10年以上前から、自分の感性に合った言葉として、ambiguous(アンビギュアス)という語をイメージしている。
べつに、どこかでその言葉の意味を知ったというわけではない。
おそらく、学生時代に「あいまい」とか、「両義的」などといった言葉を辞書で引いたときに、記憶していたのだろう。

大江健三郎氏のノーベル賞授賞式での表題が「Japan,the ambiguous,and myself」だったというのはつい先日知った。
ちょうど、大江氏がambiguousという言葉を使った頃、まったく無関係に学生時代の私はambiguousという言葉に共感していたようだ。

ただ、大江氏と私では、ambiguousについての認識が異なるように思われる。
大江氏も「どっちつかず」「中途半端」「はっきりしない」のvagueと、「両義的」なambiguousを区別しているらしいが、大江氏の言うambiguousは両義的というより、「二重人格」「二兎を追う」というような、複数の方向性に股裂きになりそうな状態のことを言っているのではないか。
(ほとんどスピーチの内容を読んでいないので、まったく勘違いなことを言っていたらすみません)

大江氏の言う「両義的」は、母性的、女性的なイメージのものではないように感じる。
男性的な「両義的」ではないだろうか。
大江氏は男性なのだな、と感じる。(あたりまえか)

例えば、光が光源から出て行くとき、右にも左にも上にも下にも光は飛んでいく。
意識がその光の粒子に乗っかっているなら、あっちにもこっちにも方向が向かっていて股裂き状態になりそうだろう。
だけど、意識が光源のほうにあると、そんな股裂き意識にはならない。

例えば、湖から水が流れて滝になっている場合(中禅寺湖と華厳の滝のイメージ?)、湖から出た水は滝の水となり、岩肌を伝ったり霧となったり大きな水流となったり、いろんな形で流れていく。
意識が滝の水に乗っかっているなら、岩肌や空中や滝壺やいろんなところに向かって股裂き状態を感じるだろう。
だけど、意識が湖水のほうにあると、そんな意識にはならない。

大江氏の文章には母性というか、根源というか、あらゆる方向性を包み込んだ感性というものを感じない。


私は「どちらでもある」「両義的」「いろんな方向性を内包している」などといった意味でambiguousを認識している。

だから、大江氏のノーベル賞授賞式での講演内容には違和感を覚える。


>開国以来、百二十年の近代化に続く現在の日本は、根本的に、あいまいさ(ambiguity)の二極に
>引き裂かれている、と私は観察しています。・・・国家と人間をともに引き裂くほど強く、鋭い
>このあいまいさは、日本と日本人の上に、多様なかたちで表面化しています。日本の近代化は、
>ひたすら西欧にならうという方向づけのものでした。しかし、日本はアジアに位置しており、
>日本人は伝統的な文化を確乎として守り続けもしました。・・・(「あいまいな日本の私」)


「あいまいの日本の私」には上記のような部分がある。
べつに、アジア的であり、欧米的でもあるという肯定的なあり方もありえるのでは?
自己満足し、自己否定する、という中で迷うという姿勢もありえるのでは?

どうして大江氏はambiguousなことについてマイナスイメージをつけるというか、躊躇するような姿勢で語ったりするのだろう。
そういう思考は西欧的であり、何かの主義主張に牽引されているのではないかと感じる。
大江氏は戦後民主主義の人間だ、と自称しているが、戦後民主主義を疑いなく肯定して安心することは、非誠実なことかもしれない。
戦前の自由民権運動や全体主義を疑い、戦後の民主主義や個人主義を疑い、悩むことこそ、世の中をありのままに把握しようとする謙虚な姿勢なのでは。

私はambiguous(両義的)を、誠実な姿勢だと思っている。

私は、一応右利きではあるけど、生まれつきは左利きだったので、今でもハサミや包丁、ノコギリ、消しゴムなどは左手で使うし、ものすごく忙しいときは右手と左手にそれぞれマウスを持って2つのモニターを見て操作する。
たまに気まぐれで左手で箸を使うこともある。

また、一応男ではあるけど、女性の考えていることはわからないや、と思ったことはない。むかし簡易的なテストをやったとき、私の脳は男性だけどやや中性寄り、という結果だった。友人にもやや中性的な男とか、やや中性的な女性が多い気がする。
先日も女性物のチェックのシャツを着ていたし、女性物のセーターやジーンズも着用することがある。

ほんの数年前まで、まったく通りに車がなくても、赤信号であれば渡らないという超まじめな人間だったけど、海外からは、持って帰ってはいけないものをいくつも持って帰ったりしていた。(果物とかビデオとかかわいいものですが)

ひどく内向的だけど、一部の人にはけっこう外交的だと思われているふしもある。

どちらでもないということは、どちらでもあるということでもあって、いろんな方向性を内包していてときどき混乱しそうになるけど、そういったものをありのままに受け入れ、観察するというのも自然の摂理に沿った、誠実な姿勢だと思う。

私は、保守主義者に文句言われる筋合いはないほど、日本の文化や伝統に対しては人並み以上に知っているつもりだし、日本の文化を否定していない。
開明的な伝統主義者もいれば、閉鎖的な伝統主義者がいて当然かと思う。世の中には社交的な人もいれば内向的な人もいて当然だと思っている。

また、革新主義者に文句言われる筋合いはないほど、何かを肯定してそこに安住していたりはしない。むしろ、革新を自称している人たちが実に保守的に見えてしかたがない。だいいち、なぜ、革新の人が自分が日本人であることをあたりまえに思っているのか不思議に思う。

私たちはアメリカ人にでも中国人にでもアフガニスタン人にでもなろうと思えばなれる。日本はどうのこうのと言っている革新の人は外国に行ってもいいのでは。

大江健三郎氏もそうだけど、革新の人も保守の人にあれこれ言えないほど、論理的でない面もあると思う。
戦争反対や侵略反対を主張してもよいと思うが、非論理的な人は、ほんとうは戦争や侵略という構造そのものに対しては反対をしていない。

戦争や侵略をしているある政府、国家(=自分が所属質している日本)に反対しているだけでは。

厳しい家庭で抑圧されて育った人は、家庭の束縛から逃げ出したがり、国家の束縛からも逃げ出したがる傾向がある。
ゲイの世界で伝説的な存在の東郷健さんも育った家庭が嫌で、天皇も嫌になったらしい。天皇の戦争責任を追及している筑波大のC教授も幼少の頃から勉強ばかりさせられて灘高に入ったけど、大学に入ってからは学生運動にあけくれてずいぶん発散したらしい。

ただ、個人的な心の問題を基に問題意識を大きく広げてもいいけど、自分の視点を疑わないでいると、世の中の構造が見えなくなることもある。
個人的な心理問題から解放されてから、国家や世界のことを語ってもいい。

日本の、自称革新とか自称民主主義者の人は、満洲や南洋を日本が侵略したことをとがめ、反省をもとめ、糾弾するけど、侵略や全体主義という構造に反対しているわけではないように見える。大江さんも辻元さんも辺見さんも、中国におけるチベットやウイグルに対する侵略や、スーダンにおけるダルフール紛争は糾弾していないのでは。
また、自分の所属する政府や国家が起こす暴力に反対しても、暴力という構造に反対しているわけではないのでは。他人を否定する攻撃的で暴力的な言論を吐いても暴力に反対する姿勢と矛盾していると思っていないように見える。

アムネスティーインターナショナルは比較的偏りなく、各国の非抑圧者に対して発言を行っているが、日本で中国によるチベット侵略について発言しているのは保守系、右翼系、民族主義系の人ばかり。
日本はかなり非論理的な思考や発言や行動が蔓延している。

でも、非論理的なものと論理的なものの間で、流動的に悩み、試行錯誤するのはとても誠実なことではないかと思うので、私はあまり悲観していない。
私にとって、ambiguousというのは、両義的であり、誠実に迷うこと。

大江氏の言うambiguousとはちょっと違うようなので、誤解されませんよう、お願いいたします。大江氏に影響されてIDを ambiguous world にしたわけではありません。
なお、恐縮ですが私はほとんど大江氏の著書を読んだことはない。

ノーベル賞を受賞されたとき、私は「ほんとうは中上健次氏が有力な候補だったけど早世してしまい、その後釜みたいな位置で大江さんが受賞したと思う。幸運な大江さんは中上健次氏に何か伝えたいと思っただろうか」と思ったことがある。
ほんとうに、中上健次氏が受賞に値すると思っていたから。
その代わりに受賞した、とも言える大江さんには中上健次氏のことを意識してほしかった。

また、大江氏はドナルド・キーン氏にたいして不義理を働いているのでは。以前ドナルド・キーン氏が会おうとしても、なんだかんだ理由をつけて疎遠になっていった。ドナルド・キーン氏はそれをさみしくは思っているだろうけど、決して大江氏を恨んだりはしていない。
大江氏がノーベル賞を受賞した背景には、ドナルド・キーン氏の存在も少し影響しているのではないかと思う。大江氏には、ドナルド・キーン氏のことも、少し意識してほしかった。
大江氏から見れば、中上氏もドナルド・キーン氏も価値観の違う人だったかもしれないけど、無視して遠ざけるっていうのは、ambiguousな姿勢ではない。ambiguousは自分の度量を広げることにもつながるかもしれない。


<参考>
・あいまいな日本の私―Japan,the ambiguous,and myself (ハードカバー)
大江 健三郎 (著)

1994年にノーベル文学賞を受賞。
スウェーデンでの授賞式での記念講演の表題は、川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな(アムビギュアス)日本の私」だった。
1986年から1994年にかけて、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、エストニア、アメリカの各地で行われた大江健三郎の講演の英文版。「北欧で日本文化を語る」「日本の二重のアイデンティティ」などを収める。

講談社インターナショナル (1995/01)
ISBN-10: 4770019807
ISBN-13: 978-4770019806


・Dictionary.comにおけるambiguousの説明
am·big·u·ous
–adjective
1. open to or having several possible meanings or interpretations; equivocal: an ambiguous answer.
2. Linguistics. (of an expression) exhibiting constructional homonymity; having two or more structural descriptions, as the sequence Flying planes can be dangerous.
3. of doubtful or uncertain nature; difficult to comprehend, distinguish, or classify: a rock of ambiguous character.
4. lacking clearness or definiteness; obscure; indistinct: an ambiguous shape; an ambiguous future.


・あいまいな日本の私(抜粋)
開国以後,百二十年の近代化に続く現在の日本は,根本的に,あいまいさの二極に引き裂かれている,と私は観察しています.のみならず,そのあいまいさに傷のような深いしるしをきざまれた小説家として,私自身が生きているのでもあります.
国家と人間をともに引き裂くほど強く,鋭いこのあいまいさは,日本と日本人の上に,多様なかたちで表面化しています.日本の近代化は,ひたすら西欧にならうという方向づけのものでした.しかし,日本はアジアに位置しており,日本人は伝統的な文化を確乎として守り続けもしました.そのあいまいな進み行きは,アジアにおける侵略者の役割にかれ自身を追い込みました.また,西欧に向けて全面的に開かれていたはずの近代の日本文化は,それでいて,西欧側にはいつまでも理解不能の,またはすくなくとも理解を渋滞させる,暗部を残し続けました.さらにアジアにおいて,日本は政治的にのみならず,社会的,文化的にも孤立することになったのでした.

日本近代の文学において,もっとも自覚的で,かつ誠実だった「戦後文学者」,つまりあの大戦直後の,破壊に傷つきつつも,新生への希求を抱いて現れた作家たちの努力は,西欧先進国のみならず,アフリカ,ラテン・アメリカとの深い溝を埋め,アジアにおいて日本の軍隊が犯した非人間的な行為を痛苦とともに償い,その上での和解を,心貧しくもとめることでした.かれらの記憶されるべき表現の姿勢の,最後尾につらなることを,私は志願し続けてきたのです.
ポスト・モダーンの日本の,国家としての,また日本人の現状も,両義性をはらんでいます.日本と日本人は,ほぼ五十年前の敗戦を機に――つまり近代化の歴史の真ん中に,当の近代化のひずみそのものがもたらした太平洋戦争があったのです――,「戦後文学者」が当事者として表現したとおりに,大きい悲惨と苦しみのなかから再出発しました.新生に向かう日本人をささえていたのは,民主主義と不戦の誓いであって,それが新しい日本人の根本のモラルでありました.しかもそのモラルを内包する個人と社会は,イノセントな,無傷のものではなく,アジアヘの侵略者としての経験にしみをつけられていたのでした.また広島,長崎の,人類がこうむった最初の核攻撃の死者たち,放射能障害を背負う生存者と二世たちが――それは日本人にとどまらず,朝鮮語を母国語とする多くの人びとをふくんでいますが――,われわれのモラルを問いかけているのでもありました.

現在,日本という国家が,国連をつうじての軍事的な役割で,世界の平和の維持と恢復のために積極的でないという,国際的な批判があります.それはわれわれの耳に,痛みとともに届いています.しかし日本は,再出発のための憲法の核心に,不戦の誓いをおく必要があったのです.痛苦とともに,日本人は新生へのモラルの基本として,不戦の原理を選んだのです.

それは,良心的徴兵拒否者への寛容において永い伝統を持つ,西欧において,もっともよく理解されうる思想ではないでしょうか? この不戦の誓いを日本国の憲法から取り外せば――それへ向けての策動は国内につねにありましたし,国際的な,いわゆる外圧をそれに利用しようとする試みも,これらの策動にはふくまれてきました――,なによりもまずわれわれは,アジアと広島,長崎の犠牲者たちを裏切ることになるのです.その後へ,どのように酷たらしい新しい裏切りが続きうるかを,私は小説家として想像しないわけにゆきません.

大江健三郎「あいまいな日本の私」(C)ノーベル財団1994

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楳図かずお(うめずかずお)邸の問題について思うこと

2007-10-25 12:08:13 | Weblog
赤白ストライプの楳図かずお邸について、仮処分申請が却下されたと思ったら、こんどは東京地裁に提訴された。
普通は仮処分申請が却下されたのだから提訴しても勝てるはずがないのではと思うけど、提訴した人もよほど意地になっているのだろうか。
でも裁判は「嫌に思う人がいたら有罪」というわけではなく、状況が客観的に分析される。

少数の近隣住民(といってもせめて吉祥寺の南町の住民でなければ、近隣と言えない気もする)が赤白ストライプの家の計画について不快に感じているのは事実だけど、法律に違反していない以上、建設をやめさせることは難しい。


楳図さんは漫画家の枠におさまらない才能の持ち主。ストーリーテラーとしての能力も尋常ではない。
70歳を過ぎてもステージの上で踊りながら自作の曲を歌ったり、ピュアな感性のトークを行ったりしている様子を見ると、何者だろう、という驚きを感じる。内心、水木しげるさんとか楳図かずおさんは、妖怪や怪物やホラーに関わって、一種の怪物になっているのではないかと感じることもある。
そういった特異な人をある程度好きに活動させてあげることも、社会の幅を広げ豊かにすることにつながるのではないだろうか。

岡本太郎氏の「太陽の塔」を奇抜だ、気持ち悪いと言う人もいただろう。
草間弥生氏のぶつぶつした模様のオブジェを見て気分が悪くなる人もいるかもしれない。
奇抜な作品を見ると追い出したがる人もいるだろう。見たことのない芸術作品を目にすると、常識的ではない、インモラルだ、と主張し、平凡な自分たちに合わせることを求める声も出てくるだろう。
それでも、そういった作品を受け容れることは、常識とかモラルとか価値観について深く考えさせてくれることになるのではないだろうか。


今回の楳図かずお邸の問題について、「モラルの問題だ」とか「大人の解決を」、と口にする人が少なからずいらっしゃるみたいだけど、多くの意見は非常に論理があやふやだ。
モラルの問題とはどういうことか、大人の解決とはどういうことか、深く考えずになあなあの状態に棚上げしている印象がある。
安易に「大人の解決を」などと言いたくはない。そこで思考を停止したくない。

「大人の解決」という姿勢は、結局腹芸とか根回しとか大政翼賛とか雰囲気とか情緒に流されがちな流行とか、事なかれ主義とかなあなあ主義というか、非論理的な行動につながるのでは。

日本人は論理的ではないと指摘されることがある。
たしかに、論理で判断せず、論理も把握していないのに納得したり、従ったり、反発したり、住み分けたり、支配されたり、あやふやな感覚で行動している人が多い。


「モラルの問題だ」とか「大人の解決を」と言っても、そもそもモラルって、何なのだろう?
常識って何?そんなに守ることが大事なことなのだろうか。

モラルや常識というものは、時代や地域や業界や世代によって変化する。
時代が変わるときはモラルというか価値観と価値観のぶつかり合いによって争いが起き、おさまるところにおさまって行った。
自分のまわりの価値観と軋轢がないように、自分のまわりの価値観に配慮してもいいが、価値観の異なるものに迎合する必要もない。

自分の趣味と違う音楽が好きな人にわざわざ話を合わせなくてもいいし、自分と考え方の違う人にとっては心地よく聞こえない意見でも、口にしたほうがいい場合もある。

今回の件では、楳図さんはそれなりの判断により、建築することを選んだ。裁判所も仮処分申請を却下した。
残念だけど、仮処分を申請した人は、自分たちの意見が通らないこともあるのだと自覚し、状況を受け容れてもいい。

また、景観のことで言えば、私から見れば東京の住宅街の景観は非常に貧相。
楳図かずお邸の色のことをどうのこうの言う前に、東京の一戸建ては建て方に余裕がなさすぎる。
イギリスでは長屋みたいな家でも、道路とドアの間に緑のスペースがあるし、裏庭のスペースもとってある。
日本でも田舎のほうでは前庭スペースと裏庭(畑)スペースがある家はめずらしくない。
私の田舎のほうでは建売住宅であっても100坪の敷地が普通。

隣家との距離にも余裕が無く、敷地ぎりぎりに家を建てるなんて、お金に困窮している人が見境が無くなってしまい、家を建てる上で最低限の要素すら切り捨ててしまったのかなという印象をうける。
狭い土地を最大限に活用しようとしているのかもしれないけど、自分の領域しか見えていない、モラルの無い状態に見える。
私の育った田舎の感覚では、キャッチボールをするスペースも車を放置するスペースも無い家なんて、それは一戸建てとは言わない。
私の母親など、田舎にはめずらしい20坪程度の住宅の工事現場を見て、公衆トイレを作るのかと思っていたらしい。
小さな家が完成すると、こういう家もありえるのかと驚いていた。


私から見れば、庭の無い東京の住宅街の家々こそがモラルの欠如、モラルの崩壊だけど、私はあまり「東京の住宅街の景観を良くせよ」「東京の一戸建ても前庭のスペースを必ず用意するように条例で定めよ」「庭も無い家など建築する許可を出すな」などとは主張しない。
東京には東京の人なりの価値観やモラルがあるだろうし、そのうち東京の人も庭の必要性を感じるようになるかもしれないし。


大人の解決というあやふやな言葉があるけど、論理ではなくまわりの価値観に合わせて争いを回避するということは高度な思考だと思えない。

櫻井よしこさんや大日向雅美さんや横田早紀江さんのような、穏やかな口調でいて、それでいてしっかりと論理を持ち、主張するときは主張し、譲らないことは譲らないという姿勢は立派なものだと思うけど、穏やかなだけで論理も無くいざこざを避けようという姿勢は、その場しのぎのものでしかない。

私は、芸術家である楳図かずお氏が、多くの人の眉をしかめさせる、低レベルな表現を行うとは思えない。まずは、楳図かずお邸の完成を待ってから、判断してもよいのではないだろうか。



住民側「勝利宣言にカチン」 楳図さん宅訴訟で(共同通信) - goo ニュース
2007年10月24日(水)19:36

 漫画家の楳図かずおさんが建築中の自宅をめぐり、外壁を赤白しま模様にする工事の差し止めを求め提訴した住民側弁護士が24日、「仮処分却下の際の楳図さんの“勝利宣言”に、住民がカチンときた」と提訴理由を話した。訴状では「住民は景観破壊で平穏に暮らせず、騒音被害ならぬ『騒色被害』を受ける危機に直面している」としている。裁判の途中で工事が完成すれば外壁の撤去などを求めていくという。


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アンラッキーな手紙

2007-10-22 19:40:19 | Weblog
たまにある編集者のブログを見る。おもしろい記事があるときもあるし。
だけど、10/02のエントリはいただけない。

これって、不幸の手紙やチェーンメールと同じ理論では。

・チェーンメールについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB


もったいぶって、最後の最後までひっぱっておいてから、
「これを読んでから、1時間以内にブログに貼り付けなさい。そうすれば、あなたの願い事は叶うでしょう。もし、送らなければ、願い事と逆のことが起こるでしょう」
と言うなんて、趣味が良くない。ご注意ください。

「親が健康でありますように」と願った人がこのゲームをブログに貼らなかったら「親が健康を害する」とでも言うのでしょうか。
「いいことがありますように」と願った人がこのゲームをブログに張らなかったら「不幸になる」とでも言うのでしょうか。

望むことと逆のことが起きるよ、って安易に言ってしまう感覚がよくわからん。
編集者であれば、ぐっと踏みとどまるべきでは。

これはバトンというより、不幸の手紙。いったいどうしてしまったのでしょう。
後味がよくない。ひさびさにこういう文面を目にしてしまいました。



このゲームについて少し検索してみただけですが、すでに2年近く前から同じようなものは存在しているようですね。
ともさかりえのブログで紹介されたのをきっかけに、ブレイクしたんですかね。

当初、不幸の手紙的な文言はなかったようですが、2007/04/07のブログで「もし、送らなければ、願い事と逆のことが起こるでしょう」という表現を確認することができました。
ただ、2007/10/05には脅迫バージョンではない温和バージョンの文面も確認できました。下記のような文だけだと、不幸の手紙とは言えません。
「これを読んでから、1時間以内にブログに貼り付けなさい。そうすれば、あなたの願い事は叶うでしょう」

そのうちニュースサイトで取り上げられるかもしれないけど、早々に沈静化することを願いします。


<参考1>似たようなコピペが確認されたブログ(ごく一部)
2005/12/01
http://blog.cforce.co.jp/archives/2005/12/post_9.html
2006/12/31
http://soukaiza.blog60.fc2.com/
2007/01/18
http://sweetthings.blog70.fc2.com/blog-entry-292.html
2007/04/07
http://bbs.kodama.com/bbsbin/default.asp?bbs=adeon09&tno=20
2007/07/16
http://www.casphy.com/bbs/unitedarrows/
2007/09/27
http://aoi223.blog53.fc2.com/?mode=m&no=106
2007/09/30
http://maloon8lagoon.blog51.fc2.com/blog-entry-234.html
2007/09/30
http://ameblo.jp/kaori1212/
2007/09/30
http://yama-nikki.cocolog-nifty.com/
2007/09/30
http://plaza.rakuten.co.jp/miyabisdailynews/diary/200709300000/
2007/10/01
http://greenteadoggiebiscuit.blogspot.com/
2007/10/01
http://yellow.ap.teacup.com/applet/yoerr0708aki/20071001/archive
2007/10/02
http://mocayoubi.exblog.jp/6251810/
2007/10/03
http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/komori_michie
2007/10/04
http://orion-belt.air-nifty.com/blog/2007/10/post_ba28.html
2007/10/04
http://diary.jp.aol.com/bbs/14430709181.htm
2007/10/04
http://yama-nikki.cocolog-nifty.com/
2007/10/05
http://www.mom-n-baby.net/blognplus/index.php?e=112
2007/10/07
http://ballie.air-nifty.com/photo/2007/10/post_978c.html
2007/10/08
http://drtomo.blog121.fc2.com/blog-category-0.html
2007/10/08
http://isaonohibikore.blog24.fc2.com/blog-entry-406.html
2007/10/09
http://blogs.yahoo.co.jp/you_363376/26155959.html
2007/10/09
http://teddy.nowa.jp/entry/38c350457c
2007/10/11
http://community.edita.jp/c_topic_show/c-4683dc3b70345/t-470d9650588d3
2007/10/12
http://asibo.net/~setsuko/archives/2007/10/perspective.html
2007/10/13
http://psj.blog.shinobi.jp/Entry/183/
2007/10/14
http://d.hatena.ne.jp/miku0221/20071014
2007/10/14
http://spzspz.blog74.fc2.com/blog-entry-410.html
2007/10/17
http://kira222.jugem.jp/?eid=1022
2007/10/18
http://main-amnos-arashi.way-nifty.com/wonderful_destiny/2007/10/post_1d23.html
2007/10/20
http://heisuke-pachi.jugem.jp/?eid=1319


<参考2>1999年10月に確認された似たようなチェーンメール(ブログ貼り付けではない)
http://stopchain.s7.xrea.com/archives/007.html


<参考3>ある編集者のブログで確認されたエントリ
>■書籍編集者esのつれづれ書評+α
>http://plaza.rakuten.co.jp/essyohyo/diary/200710020000/
>October 2, 2007
>negaigoto [ カテゴリ未分類 ]
>某サイトで発見したゲームですが、わたしは恐ろしいくらい当たっていて「ぎゃああ~」ってくらいでしたので、ご興味ある方は是非やってみてくださいっ。
>
>
>このゲームを考えた本人は、メールを読んでからたったの10分で願い事が叶ったそうです。
>
>このゲームは、おもしろく、かつ、あっと驚く結果を貴方にもたらすでしょう。
>
>約束してください。絶対に先を読まず、1行ずつ進む事。たったの3分ですから、ためす価値ありです。
>
>まず、ペンと、紙をご用意下さい。先を読むと、願い事が叶わなくなります。
>
>
>
>
>1)まず、1番から、11番まで、縦に数字を書いてください。
>
>
>
>
>2)1番と2番の横に好きな3~7の数字をそれぞれお書き下さい。
>
>
>
>
>3)3番と7番の横に知っている人の名前をお書き下さい。(必ず、興味のある性別名前を書く事。男なら女の人、女なら男の人、ゲイなら同性の名前をかく)
>
>
>
>必ず、1行ずつ進んで下さい。先を読むと、なにもかもなくなります。
>
>
>
>
>4)4、5、6番の横それぞれに、自分の知っている人の名前をお書き下さい。これは、家族の人でも知り合いや、友人、誰でも結構です。
>
>
>
>まだ、先を見てはいけませんよ!!
>
>8、9、10、11番の横に、歌のタイトルをお書き下さい。
>
>
>
>
>5)最後にお願い事をして下さい。
>
>
>
>
>さて、ゲームの解説です。
>
>
>1)このゲームの事を、2番に書いた数字の人に伝えて下さい。
>
>
>2)3番に書いた人は、貴方の愛する人です。
>
>
>3)7番に書いた人は、好きだけど叶わぬ恋の相手です。
>
>
>4)4番に書いた人は、貴方がとても大切に思う人です。
>
>
>5)5番に書いた人は、貴方の事をとても良く理解してくれる相手です。
>
>
>6)6番に書いた人は、貴方に幸運をもたらしてくれる人です。
>
>
>7)8番に書いた歌は、3番に書いた人を表す歌。
>
>
>8)9番に書いた歌は、7番に書いた人を表す歌。
>
>
>9)10番に書いた歌は、貴方の心の中を表す歌。
>
>
>10)そして11番に書いた歌は、貴方の人生を表す歌です。
>
>
>これを読んでから、1時間以内にブログに貼り付けなさい。
>
>
>そうすれば、あなたの願い事は叶うでしょう。もし、送らなければ、願い事と逆のことが起こるでしょう。とても奇妙ですが、当たってませんか?

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ベトナムでもてまくり

2007-10-20 13:30:59 | Weblog
3年ぶりにベトナムを旅した。
前回はハノイ、ハロン湾などの北部からホーチミン、メコンデルタなどの南部までバスで旅したけど、今回は中南部のビーチめぐり丸10日。波打ち際を延々と歩いてきました。

10/4木、午後半休をとって成田からホーチミンへ。
夜遅くまで飲み食いして、早朝のバスで200キロ離れたムイネビーチへ。
ずいぶん大きなホテルが増えたけど、「某 BUNGALOW」のビーチサイドのバンガローは変わらない。
1泊10ドルで、間近に波音を聞きながら眠ることができる。
バンガローからほんの5歩で砂浜、そこから15歩で波打ち際、といったロケーションはなかなかない。

その後、ファンランという町のニンチュービーチ、ニャチャンのビーチ、ホイアンのクアダイビーチ、ダナンのミケビーチ、ランコー村のビーチなどを訪れた。
こじんまりしたリゾートからメジャーなリゾート、ひなびたビーチから雄大なビーチまでいろいろあって、まったくベトナム中南部はビーチの宝庫。

だけど、ベストシーズンは1~7月らしい。10月はまだ雨季の影響があり、ちょっと水がにごっている。波が高いときもある。
10/15月、早朝に成田空港に着き、一度自宅に戻ってシャワーを浴びてから昼すぎに出社した。



あ、ベトナムでもてまくったことについてまだ書いていませんでしたね。

ホーチミンから海岸沿いに北上し、ムイネやファンランといった町で食事をしていると、防虫スプレーをしているのにもかかわらず、蚊に寄ってこられて刺されまくり!デング熱とか感染症が心配なのに。もう蚊にもてまくりです。

でもさらに北上し、中部のニャチャンとかホイアンとかダナンに行くと、なぜか蚊がほとんどいないのです。
防虫スプレーをしてなくても刺されないのです。溝も池も川もあるのに。蚊やボウフラがいない?何かへんな殺虫剤とか消毒剤を使っていないか心配になります。

また、ベトナムの町を歩いていると、頻繁に犬に興味をもたれてしまいました。
なぜかぼくが犬の横を通ると、犬が何かに気付いたようにふと私に目を向け、近寄ってきたり吠えたりするのです。
通りがかりの人や飼い主がかわりに追い払ったりしてくれましたが、なぜ?なにか匂いでもするのか?
以前、タイのアユタヤ郊外で10匹近い野犬に囲まれてしまい恐怖を味わったこともありますが、犬にも興味をもたれやすい何かがあるのでしょうか。
犬にももてまくりでした。

それから、ダナンの町を歩いていると、目がパッチリしたかわいい1~2歳の幼児がニコーっと笑顔で近寄ってきて手を広げ、いきなりぼくの足に抱きついてきました。他の町の道端でもそんなことがあった。なぜ?幼児のあいさつ?親に似てる?それにしてもベトナムの子どもは目がぱっちりしてかわいい子が多いですね。けっこうベトナムの子どもにももてまくり

ホイアンの町外れの空き地ビアガーデンに足をはこぶと、地元の男3人組にさそわれ、いっしょに飲むことにしました。
生ビールも中瓶ビールも5千ドン、40円ほどです。
なまりの強いベトナム英語に苦労しながらも、話し込んでいましたが、どうしても聞き取れない言葉が。
紙に書いてもらうと、英語で「お前にキスしてもいいか」との文が。。。
なんと3人ともゲイの方々で、ちょっと好意をもたれてしまったみたいです。
社会主義国ベトナムにもゲイの人っているんですね。
別れ際に、3人のうちの2人に次々に股間をさわられてしまいました。無念。
不本意ながらベトナム男にももてまくりです。

さあ、あとは女性だけですね。
旅もあと1日となり、疲れがたまったので3泊もしたホイアンの町でみつけた美容院兼マッサージ屋さんに行ってみました。
店の外からでも、女性が髪を洗ってもらっている姿が見えます。地元民向けの、オープンな感じのお店のようです。

もちろん超まじめな、風俗に行ったことがないことを自慢にしている私はエロマッサージの存在を知っていても行ったりはしません。
ヘッドマッサージとフットマッサージを各30分ずつお願いしました。
いきなり店の奥から和歌山の騒音おばさんを笑顔にしたようなダイナミックな顔立ちの女性が出てきて、何か言ってます。

通訳してもらうと、「ヘッドマッサージやフットマッサージの後、彼女にチェンジしてバナナマッサージをしてもらうことも可能」とのこと。
こんな店でもエロマッサージを頼むやつおるんかい!と思いながら、丁重にお断り。ちょっと恥らいながら。

気を取り直してまずはメガネをはずしてヘッドマッサージ。これは気持ちいいですね。
横になって、頭と、後頭部から首にかけての筋、顔をすばやくマッサージしてくれます。もっとゆっくり手抜きしながらやるのかと思ったけど、けっこう密度が濃いマッサージです。いろいろシャンプーやトリートメントも使用しているようです。
店内には店員の女性が3人と、お客さんの女性が1人。チーフっぽい30前くらいの女性がちょっと英語を話すことができます。
ヘッドマッサージはすばらしかったです。

フットマッサージに取り掛かる前、チーフの女性が「この子(マッサージしてくれてる女の子)があんたのことベリーハンサムって言ってるよ。ほんとに。この子もかわいいし、ガールフレンドにどう?」。
おーっと、女の子にもちょっと好感もってもらえたのかも。でも、ちょっと日本の女優さんにもいそうな、切れ長面長の顔の女の子だけど、ぼくは興味ないのでパス。
丁重に断り、ついでに全然ハンサムでもないことを伝えると、あんたはシャイか?と言われた。もちろんシャイ。しかしベトナム人にシャイだねーって言われる日本人てどのくらいいるんだろう、と思う。

3年前のベトナムでも日本語を学んでいる女性からかっこいい、と言われたことがある。タイの格安マッサージ屋でも「以前来たの覚えてるよ。ハンサムだね」と言われたことがある。
まあ、商売人だからそういうこと言うんだろうけど、東南アジア以外ではそんなこと言われたことがないので、不思議。

ぼくがハンサムだったら日本人男性の半分はハンサムっていうことになってしまうんじゃないかと思うけど、東南アジアでは意外にうけるのかな。
ぼくから見たらベトナムはイケメンの宝庫で、彫りの深い、目鼻立ちのしっかりしたかっこいい男がわんさかといる。ちょっと色黒で小柄な人が多いけど。ベトナムでジャニーズ事務所みたいな事業をしてもおもしろいんじゃないかと思ったくらい。
女性も、目鼻立ちのしっかりした、魅力的な人が多い。

でもベトナムでも中国系の人がけっこう支配者層なのかな?ベトナムのテレビを見ていると、けっこう薄い顔の人をよく見かける。
お笑いの「チュートリアル」のハンサムなほうを小柄にしたような人は町にたくさんいるのに、テレビではチュートリアルのハンサムじゃないほうをかっこつけさせたような男が、アイドルぶって歌ってたりする。
韓国ドラマも多く放映されていて、どうも薄い顔に希少価値というか、あこがれがあるのかもしれない。
ぼくなんか、うっすい顔してますからねー。うすいとベトナム女性にももてまくり?不本意です。

そういえばダナン郊外のソンチャー半島のブッダベイのレストランに行ったとき、宵口のオープンエアのレストランで海を眺めながら1人ビールを飲んでハマグリ蒸しとか空芯菜炒めを食べてたときも、店員の女の子があれこれ世話をやいてくれた。

これをつけて食べなさい、とか、こうやって食べるのよ、とか。
近場にどっか泊まるところない?と聞くと連れて行ってくれそうだっけど、周りのスタッフに「お前なにそいつにばっかり近づいてるんだよ、みんな見てるよ」みたいなこと言われて恥ずかしがってどこかに行ってしまった。

まあ、ぼくは田舎者だし、かっこなんかつけないし、口説いたりしないし、あんまり人の領域を侵害したりしないタイプだから、素朴な人とは気持ちが通じやすいのかもしれない。
ぼくも素朴な店員さんと話していると心地がよく、笑顔になる。
やっぱり、純情な人はいいなあ。



ちなみに、お金の力でもてたわけではないと思います。
旅の数日前からヒゲをちょっとのばしはじめ、現地では小さなバックパック(というかデイバック)にシャツとパンツ。延々と歩き回ってかなり日焼け。
貧乏バックパッカースタイルだったので、ビーチ沿いを歩いてたら物売りの少女に「そっちのほうは高級リゾートしかないよ。あっちのほうが安いよ」などと言われてしまうほどでした。


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