波打ち際の考察

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波屋山人

戦争と戦略

2015-07-14 23:00:57 | Weblog
人々が戦争に反対するのは当然だ。
誰だって痛い思いをするのは嫌だし、大事なものが灰燼に帰すのも耐えられない。

だが、戦争に反対するには、せめて戦争とは何なのかということを把握することが必要だ。
洪水被害を避けるには、治水の知識を得る必要がある。
旱魃被害を避けるには、農業の知識が必要。
戦争被害を避けるにも、戦闘や戦略、外交などについての知識が必要だ。

戦闘が避けられない状況になってから戦争に反対するのは、
堤防が壊れそうになってから洪水対策を叫ぶようなものだ。
問題を解決するつもりがあるなら、上流を意識して早めに対応しなければ意味がない。

ところが、戦争に反対する人たちは戦争についてあまり研究していない人が多い。
「戦争イコール絶対悪」という信念や信仰に基づき、生理的・感覚的に反対しているように感じられる。
それで戦争が回避できればいいけど、あまりにも楽観的過ぎないだろうか。
そんなことでは、洪水に押し流されていくように、戦争に翻弄されてしまうのではないだろうか。
戦争を回避するにも、戦略が必要だ。

そもそも、戦争に反対しておきながら、戦争についての定義すらまともに自覚していないというのはどういうことだろう。
憲法9条を崇めるのもいいけど、それでは知的とは言えない。

国家規模の対立に武力の行使が加われば「戦争」になる、というわけではない。
現代においては、宣伝や広報を含めた情報戦や、ネットのセキュリティーを破るサイバー戦も、戦争の一端だ。

戦争は、意見の対立が起きた際に、自分の言い分を通すためのひとつの手段にすぎない。
腕力を使う場合もあれば、頭脳を使う場合もある。
結果的に、自分の言い分を通すことができれば、勝ちなのだ。

戦争に反対する人たちも、一種の戦争(≒闘争、抗争)を行い、自分たちの言い分を通そうとしている。
武力さえ使わなければ「戦争」ではないとでも思っているのだろうか。

ほんとうに戦争や暴力に全面的に反対するのであれば、自分の平和が脅かされても、抵抗することなく淡々と受け入れてもいいのではないだろうか。
国家レベルの衝突には反対するけど非政府組織レベルの衝突は肯定する、という姿勢はダブルスタンダード。
物事の構造を見ず、自分にとって都合のいいことしか認めないという人だと思われてしまう。


日本では長い間戦争を放棄すると同時に、戦略も放棄していた。
日本を黙らせておきたい人々にとっては、好都合だったと言えるだろう。

日本の義務教育では論理的思考のテクニックも磨かれず、威嚇する作法も、すました顔で相手を制圧する言論も発達しなかった。
世界を舞台にした政治やビジネスの世界で、通用しない人材を育てることによって、日本の躍進を望まない勢力にいいようにあしらわれていた。

だが、欧米や中国や韓国ではとっくの昔に取り入れられていた地政学や戦略が、近年ようやく日本政府にも認識されるようになった。

第二次安倍内閣の途中から、地政学や戦略の専門家が関わり始めた形跡が感じられる。
あきらかに外交戦略が変化した。そこを見ておかないと、安倍内閣に反対する勢力も、大きく見誤ることになる。
安倍内閣を対米従属と見下す人も多いだろうけど、実際は異なる。
目的のための戦略的行動のひとつに過ぎない。

安倍内閣や戦争に反対する人々も、地政学や論理的思考、戦略を学ぶことをおすすめする。
荒っぽい言葉遣いをしなくても、世の中は変えることができる。
逆に言えば、荒っぽい言葉遣いしかできない人が戦争に反対しても、説得力は感じられない。


右派も左派も、何十年か後の人が見たら恥ずかしくなるような言葉遣いをしていることが多い。見ていてなんだか残念な気分になる。仲間内でしか共感してもらえない文章が目立つ。
決めつけ、レッテル貼り、感情的な威嚇、根拠のない信念、見下し、そんな言説は後世のいい研究材料になってしまうかもしれない。



コメント (8)
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