波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

やる気

2019-03-09 09:51:34 | Weblog
自分は、きわめてやる気のない人間ではないかと思う。
今日もとにかくやる気がない。能動的にならない。
ばりばり働くわけでもなく、がんがん遊ぶわけでもない。
惰性で会社に行ったり部屋で飲んだりして日々を過ごすだけ。

もしかしたら、脳か内臓の機能に問題があって、それでやる気が起きないのかもしれない。
小学生の頃は今から思えばやや神経症的な症状があったし、中高生の頃は尿蛋白、大人になってからも腎機能などで引っかかったことがある。

やる気がないので、金曜夜にアパートの部屋に戻り、月曜の朝まで一歩も外に出ないということは珍しくない。
じーっとテレビを見てごろごろしていると、体を重く感じて、動くのも億劫になる。
会社に行くのは社会生活に適合するためのリハビリのようなものかもしれない。


3月下旬には、甥っ子が初めて東京に来るというので、観光案内をしようと思っている。
甥っ子からは、「中学生になるので広い世界を見たい。日本の中心である東京のどこどこを見てみたい。いろいろ話してほしい」などとしっかりとした内容の手紙が来た。
返事を書こうかとも迷ったけど、やる気がないのですぐにあきらめた。

とにかくやる気がない私に、何の話ができるだろう。

現代社会に生きる人たちの多くは、絶対的に肯定されるべきことを心に抱いている。
生まれ育った環境の中で、思考回路に固定されたその価値判断基準を疑わない。
「正義は大事」「清潔は大事」「常識や法律の遵守は重要」
「他人に優しく」「差別はダメ」「戦争をしてはならない」
「選挙に行くべき」「職について稼ぐべき」等々。

そういった価値判断基準を多くの人が無批判に共有することで、社会秩序はうまくまわって行く。
信じる道を突き進んで何事かを成し遂げる人も多い。
だけど、現代の社会秩序をうまく維持発展させるために成立した価値判断基準にからめとられることには弊害もある。
社会秩序の維持発展に支障があるかもしれない物事の価値は、否定されてしまいがちだ。
ほんとうはさまざまなことに価値が見出すことが可能だというのに。

アーティストというか芸術的な人たちは、そのことを知っているから、時には猥褻とか暴力的とか退廃的だとかいろいろ否定的なことも言われながら、さまざまな価値ある作品を作り出している。

かつて、世の中の常識や法律からちょっと外れた人たちは、汚れた仕事をする被差別民とか、変なことをする芸能民とか、危険な極道として距離を置かれ、差別されていた。
だけど、常識とか法律とか正義とか、社会秩序を維持するための決まりごとが絶対的に正しいというわけではない。
自分が正しいと信じて積み上げている行為が、砂上の楼閣を増築しているだけだったりもする。
汚い、変、怖い、非常識、異常、などと言って遠ざけられがちなものの中にも、ちがった社会に住む人にとっては価値あるものがある。

そういったことはとても興味深いから、私は芸術家やアウトサイダー的な人たちをサポートできる編集者になってみたいと思っていた。
スーツを着なくてすむのは気軽だし、すでに大学を卒業していても入社試験を受けさせてくれる出版社は、昔も多かった。
(同調圧力がどうのこうのと言う人は、まずは自分が同調圧力にとらわれないようにすればいいと思う。結果的に周囲の人と同じ行動をする人は、周囲の人にも同じ行動を求めてしまっているかもしれない)

広い世界に目を向けると、いろんなことに目をつむって現代社会の良き構成要素として貢献することにはあまり興味が持てなくなる。
だから、やる気が起きなくて当然なのかもしれない。
自分を騙してまで、能力の向上とか事業の規模拡大とか資産の構築に邁進しようと思わない。

もっとも、さまざまなものに価値を見出すことには興味があるので、現代社会を否定しているわけではない。

むしろ私は、表面的にはありきたりの良き社会人かもしれない。
まじめそうな学校を出て、安定した会社に長年勤務。
前科も借金もなく、それなりに資産を運用。
喫煙しないし、腹も出てない。暴力的な言葉やスラングは使わない。
風俗も不倫もギャンブルも縁がない。国内外の友人は私と違って優秀な人たちが多い。

だけど、私は社会人である前に、社会の枠組みにとらわれない世界に目を向けたいと思っている。
自分はどちらかというと、物事を構築する系ではなく、溶解する系。
秩序と無秩序、言語で表せるものと言語化できないもの、人間の五感で感知できるものと感知できないもの、そんなところに目を向ける人は、なかなか言葉にできないことも多く無言でたたずんでしまうことも多い。
でも、社会的に正しいとされていることがなぜ正しいこととされているのか深く考えない人たちや、世の中の潜在的な差別的構造には目を向けず、社会問題化している差別だけ俎上に載せて批判している人たちを見ると、表面的なものだけに反応するのは、あまり知的ではないように感じてしまう。

さまざまものに意味を見出せるようになると、世の中の仕組みもよくわかるようになる。
ありふれた風景でも美しく見えてくる。
嫌なことや苦しいことがあっても、なぜ自分が嫌だと感じるのか、その因果関係を認識すると、霧散してしまうことが多い。
目先のことを楽しむのもいいけど、ふりまわされる必要はない。
そんな感覚だと、やる気のない自分をなんとか変えなくては、という焦りは感じない。


小学6年生にそういうことを伝えるのは、むずかしいだろうか。
ただ、歴史の中で、子どもという存在は社会秩序の中に取り込まれてしまっていない不安定な存在として認識されることが多かった。
サン・テグジュペリの『星の王子さま』には、「おとなはみんな、初めは子供だったのです(しかし、そのことを覚えているおとなはほとんどいません)。」という一文がある。
私は13歳くらいの時に親戚宅でそれを目にして、「では、自分は覚えておこう」と心に感じたことを覚えている。

今も私は、社会秩序の構成要素として適応することにとらわれていない、子どもたちの意識を失っていないつもりだ。
きっと、まだ子どもたちと意思は通じるだろう。



ほんとうは仕事をしないといけないのに、やる気がないからだらだらとまた脈絡なく考えてしまった。

あまり論理的ではない、だらだらしている、というのは秩序的ではない人間の特徴だ。
だけど、私はむかしから、「穴の中に落ちたピンポン玉を取り出すには、穴の中に水を注げば自然に出てくる」「迷路ではずっと壁に手を当てて進んでいけばいつかは外に出られる」というような感覚の思考に興味がある。埋め尽くしてあふれだすような意識は、何かの発見につながるかもしれない。


さて、大音量でThe Birthdayの「涙がこぼれそう」でも聞いてテンション上げてみようかな。
https://www.youtube.com/watch?v=7ZkGxAgOhVw

やる気のない時、何もすることがないとどんどん引きこもってしまうので、あえて仕事を入れることがある。
先日もインターネットカフェに数時間こもって爆音を聞きながら集中して調べものをして、普段使わない頭を使って原稿を書いた。まさか東南アジアの静かなリゾート地について、ミッシェルエレファントとかブランキージェットシティを聞いて頭を振りながら書いているとは制作会社の人も知らないだろう。
さて、ほんとうにそろそろ仕事をやらなくては。。。




コメント (22)
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