波打ち際の考察

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波屋山人

身体で考える。

2012-02-12 17:36:42 | Weblog
内田樹さんと成瀬雅春さんの対談集を読んだ。
合気道6段の内田さんと、ヨーガ行者として知られる成瀬さんがどのようなことを語り合ったのか気になっていた。
『身体で考える。―不安な時代を乗り切る知恵』。2011年6月マキノ出版発行。

どうしても身体感覚から遠ざかりそうなこの頃だし。

20年くらい前に、成瀬雅春さんの『空中浮揚』という本を購入したことがある。
当時からヨーガに興味があったけど、成瀬さんが本物なのか偽者なのかぼくには判断ができなかった。
内田さんにしても、すごいのかどうなのかぼくには判断できなかった。

だけど、この対談集はたいへん興味深かった。共感するところが多々あった。

以前から合気道やヨーガには興味があり、たまには自己流の試行錯誤をしている。
歩きながら心を整え、歩くヨーガまがいのことをしたり、
寝る前に足を組んでたたずんだり。
ジョギングするときにルンゴム的な移動を意識したり。
そのせいか、肩こり知らず、不眠知らずだけど、それでも目の疲れはなかなかとれない。

この本を読んで、いよいよぼくも体の使い方を学ぶのが必然かなという気持ちになった。
やりたい、ではなくて、やるのが当然、というような。
行動に踏み出させてくれるような本。
下記のような記述になるほどと感じた。

P27
内田
―伸びる子どもというのは、自分で自分の限界を作らないんです。伸びる、伸びないの違いには、もともとの学力や才能はあまり関係ないんです。「自分はここまでの人間だ」と思っていればそこで止まるし、自分の可能性に関して、どこまでが可能性かよくわからないと思っている人は素質が爆発的に開花する可能性がある。自分の成長に制約をつけるかどうか、そのマインド・セットの違いによって、そのあとの進む道がぜんぜん違ってくる。

P32
成瀬
―ヨーガをするにしても、マイナス思考の人は「うまくできなかったらどうしようか」と不安から入ってしまう。やる前からそうなんです。(略)そんな人は今を生きてるとはとても言えません。先のことばかり心配しているけれど、そんなことには意味はないんです。

P33
内田
―取り越し苦労はこういう場合には絶対に禁物なんです。人間の予言遂行力というのは強力ですからね。「もしこんなことが起きたらどうしよう」というふうに「わるいこと」を想像すると想像した通りのことが起きてしまう。(略)精密な未来予測ができるというのは、その人の知的能力が高いということですから、自分が知的に卓越していることが証明できるなら、多少わが身に不幸なことが起きてもかまわない。人間はなぜかそういうふうに考えるんです。

P37
内田
―でも、この「臥薪嘗胆、捲土重来」というのは、ほんとうは敗戦国民としてはごくまっとなマインドなんだと思うんです。戦後の日本人にいちばん欠けていたのは「次は勝つぞ」といういささか無理筋ではあるけど、そういう思い込みだったと思うんです。「次は勝つぞ」と思っていたら、当然「前の戦争はどうして負けたのか?」ということを技術的かつクールに考察したはずだからです。「一億総懺悔」というのは、ぜんぜん論理的でも倫理的でもないんです。戦前の日本は隅から隅まで全部悪かったというのは、いっさいの自省も吟味も放棄するということですから。

P42
内田
―やる以上は名人・達人になりたいと思って稽古しなくちゃ意味がない。「自分みたいな運動神経のない人間はうまくなりようがない」とか、「忙しいサラリーマンで、週に一回しか稽古できないんだから、せいぜいこの程度」というようなことを自分で言っていると、自分で自分の限界を作ってしまう。

P45
成瀬
―つまり、常識は必要だけど、常識がすべてだと思うのは間違いだよね。常識を超えることはいくらでもできる。感性でも五感でも、僕はいくらでも広げることはできると思っています。

P49
成瀬
―なぜ幽霊は出るのかと言えば、見て怖がる人がいるからなんです。怖がらなければ、幽霊は逃げていくからね。もし幽霊が出てきても、「キャー」と怖がるのではなく、「何をしに来たの?」と言ってみたらいい。幽霊は逃げるか、もしくは仲よくなるかのどちらかです。怖がらない人に、いくら怖がらせようとしてみても無駄ですから。

P69
成瀬
―貧乏をすると、いろいろな知恵がつく。それがないと、大人になってほんとうに挫折してしまう可能性があるね。大人になってからの挫折はほんとうにこたえます。若いころは挫折を味わって、いろいろな苦労をしたほうがいいんだよね。

P95
内田
―武道家はまず自分の結界を作る。結界を作って、そこに入って来たものについては活殺自在になる。「随処に主となる」というのはそのことだと思います。結界の中にいる限り、場の主宰者である。だから、結界の意識が重要になるんです。

内田
―「歩く」という動作は、人類全員がしていることなんですけど、これだけはなぜか定型がないんです。「これが万人にとっての正しい歩き方である」という定型がない。つまり、世界中のすべての社会集団ごとに歩き方がみな違う。ヨーロッパでもそうらしくて、隣の村の人たちの歩き方を見て、「あいつら、変な歩き方をしている」と笑う。

P102
内田
―化学的に言うと、「爆発」というのは不安定な状態が一気に安定状態に戻ることなんです。ですから、歩くとき人間は一歩進むごとに小爆発をくり返している。

P121
内田
―レベルの低い先生というのは潰しにかかる傾向があるんですよね。技量の低い先生は、弟子がすぐにできるようになるので、自分がすぐに追い越されてしまう。そうなるのは困るわけです。

P124
成瀬
―僕は、「難しいポーズをしろ」とは言いません。身体が硬くてポーズができなくてもいい。僕はむしろ、「それでいい」と言うほうですからね。身体が硬いほうが、それだけ気づきもたくさんあるわけです。

P129
成瀬
―お山の大将になったらダメ。山のてっぺんに登ってしまうと、そこより上に行けないわけです。まだまだ上があると思っているほうが絶対いい。そうすれば、もっと上に行けます。

P144
成瀬
―世界中、神聖な言葉は「ウ」「オ」「ア」「エ」「イ」、そしてハミングの「ム」と「ン」でできています。これらを発声すると倍音が出てきます。この倍音効果を利用した「倍音声明」という声を出しながらする目磯欧を体験する会を、ぼくは25年ほど前から全国で開催しています。

P178
内田
―ぼくら日本人は、自分の母国語を覚えたあとに、ゼロから英語を学び始めないといけない。余計な手間を何百何千時間もかけても、絶対にネイティブには追いつけない。でも、英語圏の話者は母語しか話せなくても、国際共通語を話せるから、国際会議でも、国際的なビジネスでも、着流しで出て行ける。非英語圏の人たちは、母語のほかに英語を学習しなければ国際的な場には出て行けない。学習負荷が桁外れに多い。こんなアンフェアはないですよ。
 これは英語圏の人たちが、自分たちに都合のいいように作ったローカル・ルールです。ローカル・ルールがグローバル・ルールになったのは、イギリスとアメリカが連続して200年間世界最強の覇権国家だったという政治的理由しかない。それによって、英語圏の人たちに圧倒的なアドバンテージを賦与した。英語圏の人間があらゆるゲームで勝ち続けられるようにルールを作ったんです。
 その理不尽さに対して、ほんとうは「まず怒る」というところから始めるべきだと僕は思うんです。
 そのアンフェアネスに対して、「まず怒る」というところを抜かし、いきなり「国際社会で生きていきたければ英語を勉強しろ」と言うから、日本の子どもたちは「英語を勉強しない」というかたちで、その怒りを表現しているんだと僕は思っています。

P182
内田
―最近、英語を社内公用語にする企業がふえていますけど、僕は反対なんです。
 だって、その主な狙いが、英語を話せる東アジアの人たちを安い賃金で雇用するための環境づくりだから。それによって日本の若者の雇用環境はますます悪化する。

P193
内田
―自分が、あるとき、ある場所にいて、何かをしているときには、「私が今ここにいることは、宇宙が始まって以来宿命づけられていた必然の出来事である」と断定しなければいけない。断定できなくて、「俺はここでこんなことをしていていいのだろうか」というふうに気持ちが揺れると、集中力が途切れてします。

P195
成瀬
―煩悩をなくすのではなく、あらゆる煩悩に対する執着から離れること。「なくす」と「離れる」は、まったく意味が違う。(略)大事なのは、「あってもいいよ。なくてもいいよ」という状態になること。これが、執着から離れるということです。

P202
成瀬
―信仰というのは、ほんとうに脆いように思います。最終的に何に頼れるかといえば、自分自身しかいないんです。宗教はもちろん必要ですが、最後に頼れるのは自分です。自分の身体が今ここにあり、自分の心で今感じる。死ぬのは自分であり、それを誰も手助けしてくれない。
 だけれども、さまざまな宗教が、「うちに来れば大丈夫です。いい生涯を送れますよ」と言う。それは、ほんとうではありません。死ぬまで全部自分で選択して、自分の足で歩んでいかなければいけないわけです。

P219
内田
―健康法を実践する人って、ほんとうにうるさいんですよ。でもね、「何々をしてはいけない」というタイプの健康法は身体によくないみたいですよね。身体をいじる系の健康法の提唱者で長生きした人はいないそうですから。身体の健康よりも心の健康のほうが大切なんですよ。身体に悪いことをしながら上機嫌でいる人のほうがたいがい長生きしますから。

P249
成瀬
―日本人は、一つのもの、この場合は色ですが、それが流行るとパッとみんなで飛びつく。そんなのはバカらしいでしょう。自分の個性を主張できるファッションくらい、自分が好きな色を着ればいいんです。
 こうした定型化されたものから身体と心を解放していく、徐々に固い枠を外していくのがヨーガの役割でもあります。

P258
内田
―頭は固いけど、身体は柔らかいという人はいません。逆に、身体を柔らかくすると、頭も柔らかくなるということはある。頭は身体の一部ですから。

P 263
内田
―成瀬先生もおっしゃっている通り、歩くことはいい瞑想法なんですよね。歩きながら、無数の微細な情報を入力しつつ、危険を避けて、安全で快適な動線を選択して進む。


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構成要素による構造とバランスを把握すれば、芸術作品は評価できる

2012-02-02 23:32:24 | Weblog
神楽坂を歩いていると、たくさんの実がぶらさがっている柿の木が目に入った。
青い空に、熟しきった実。
まだ渋が抜けていないのか、鳥に食べられた様子はない。

実家の裏庭の富有柿は、正月の時点でもう数個しか残っていなかった。
ヒヨドリなどがついばみに来ていたけど、残った柿は青空を背に存在感を示していた。
そんなことを思い出しながら、何か句が作れないかなと考えていると、
下記のような句が浮かんだ。

 柿食われ色なき空の重さかな   

 柿買えば金が減るなり放浪児

どちらも説明っぽくて間が抜けてるけど、そういえば、正岡子規の

 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

という句の主語は何だろうと気になった。
文字だけ読むと、「自分が食べた」とは書いていない。

一般的には、柿を食べながら法隆寺の鐘が鳴る様子を見ている情景が目に浮かぶのかもしれない。
だけど、ヒヨドリなどを主語としても成り立つのではないだろうか。

ヒヨドリがついばむ柿。
お坊さんが打つ鐘。
そういったものが並列している構造。

鐘を打つかのようなヒヨドリ。柿をついばむかのようなお坊さん。
柿をつつくタイミングで鳴る鐘。鐘が鳴るタイミングで減っていく柿。
やわらかい柿と、硬い鐘。明るい色の柿と、暗い色の鐘。
小さな柿と、大きな鐘。小さなヒヨドリと、メジャーな寺のお坊さん。
お寺は、悠久とか無常とか仏教思想の象徴だろうか。

佇んだ風景の中に存在する、そのようなバランスを子規は切り取って示した
とも読める。

「柿を食べたら鐘が鳴ったよ、有名な法隆寺って雰囲気あるー」、という解釈では
構造的にすぐれた句だとは思えない。
対比、類似、広がりなどの構造やバランスに欠しい。

もし、この句の主語が「自分」だったとしても、
自分が柿に食らいつく姿と、お坊さんが鐘をつく姿に、
類似点と、並行するようなバランスを見出すことができるのではないだろうか。

情緒や雰囲気による鑑賞は、共通の価値観や感覚を持つ人の間でしか理解し合えない。
だが、構造のバランスを認識する鑑賞方法は、文化や価値観の異なった人たちでも共有が可能だ。


俳句作品の生まれた背景や形式的な要素を取り上げ、
特定の環境に育った者にしか理解できない情緒などを読み取ることは、
俳句作品そのものの構造を理解しているとは言いがたい。

味があるとか趣があるとか、季語が効いているとか印象的だなどと言う俳句評者や結社主宰者は、
俳句を構成する要素のバランスを説明できていない。

すぐれた陶芸・ガラス作品も、いけばなも、音楽作品も、お酒も、ケーキも、
そのすばらしさを評価するためには、構成要素(色、素材、音、味、感触など)による
バランスを表現することが必要になる。

俳句が文学作品あるいは芸術作品として価値を持つのであれば、
どのような方向性や特性をもつ構成要素があるのか、
それらによるどのような構造がどのような効果をもたらしているのか、
そのバランスを指し示す必要がある。

いい例を思いつかないが、例えば、松尾芭蕉の有名な句がある。
すでに誰かが指摘していることかもしれないけど、
次の2句には、共通する構造が見出せる。

 静かさや岩に染み入る蝉の声

 古池や蛙飛び込む水の音

前者は、強烈な音のむこうに無音状態の空間を見出している。
後者は、微かな音のむこうに強烈な無音状態の空間を見出している。

どちらの句にも、「状態」「物」「方向性」「音」が並んでいる。
「ある性質を持った空間」には「あるもの」があり、
あるものに向かう、あるいはあるものが向かうといった「方向性」は
ある性質を持った空間に対して「対極的な性質」をつないでいる。
そこに生じるバランスは、「ある性質を持った空間」の広がりを強調する効果を生んでいる。

輪郭や周辺を強調することによって、別のところを劇的に浮き上がらせる手法は
俳句作品や水墨画、日本画などでよく見られる。

 荒海や佐渡によこたふ天河

上記の有名な句にも、似た構成が見出せる。
あるものに対照的なものを絡めることによって
あるものの情景(色・音・空間)を強調している。

「荒々しい海」には「佐渡島」が存在し、
その島に寄り添う「方向性」を示す天の川は、
荒々しい海に対して、「対極的な静かさ」を示している。
そのことによって、「荒々しさ」の広がる空間が強調されている。

そのように句の構造を把握しようとする姿勢が、
形式的な俳句を乗り越える力となるのではないだろうか。

地名の持つイメージとか先入観による共感とか
表面的な印象からの連想による鑑賞ではなく、
どこの国の人が見ても理解できるような、句の持つ構造を把握したい。

最小限の文字によって構造バランスを示す文学、として俳句を定義し、
575や季語などを活用しながらも、形式より構造を重視するという姿勢があれば、
「俳句は詩だ。詩は芸術だ」
「俳句は翻訳できる。世界に発信しよう」
「異なった価値観や先入観を持つ人にも判断できる作品を作ってみよう」
「写真家の藤原新也の記す句だってすごい俳句じゃないか」
そういった意識も高まるのではないだろうか。


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