波打ち際の考察

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波屋山人

けもの道

2021-01-17 14:24:55 | Weblog
山の中の細い未舗装道路を、「けもの道」と呼ぶ人も多い。
しかし、本来の「けもの道」は、なかなか道とは判別できるものではない。
野生動物の通り道は、一見すると木々や草の茂るカオス状態。人間が足を踏み入れられるようには見えない。
それでも見慣れた田舎の人は、枝の少ない空間や下草の少ない地面を見て、野生動物が何度も通った跡であることを感知する。

小学校の頃、日常的に鎌を手にして裏山を徘徊していた私は、未舗装の道を外れると、広葉樹や笹が茂る中に入って行った。
日本の山林は降水量が多いこともあり、欧米と違い草に歩みを阻まれることが多い。
微かなけもの道を見極めて、私は背をかがめたまま歩を進めた。

父親にはイノシシの通った跡やウサギのフンなどを教えてもらったが、私は裏山で野生動物に出会ったことはない。
それでも、自分自身が野生動物のように徘徊していた。
公園もショッピングセンターもない田舎では、裏山と小川が主な遊び場だった。

茂みと小道、土地の高低、曲がったあぜ道、護岸のない小川。木漏れ日と、竹林を抜けてくる風。自宅の周辺は混沌と調和に満たされていた。
山では鎌や鉈、川では竹で作った竿や魚を捕る網を通じて、自然の世界につながっていた。

日常的に手の小さな傷が絶えず爪先を黒くしていた私は、東京暮らしが長くなっても、舗装道路だけを歩むような思考に時々違和感を覚える。
土地の形を無視して造成された道や住宅地になじみづらい。
なぜ、自然の中の道なき道を手探りで歩いていた私が、整備されたアスファルトの上を歩いているのだろう。
まるで、コンクリートの水槽の中を泳ぐ養殖魚のようではないか。養殖人間?

平地の舗装道路は、交通や輸送に便利だ。ただ、効率のために切り捨ててしまったものが多い。
アスファルト道路は、呼吸を遮断してしまっている。
あぜ道は地中と地上をつなぎ、多くの生物が潜み、息づいていた。
子ども心に、川沿いにコンクリート壁を見つけると、呼吸のなさというか無機質さに失望というか虚無感、違和感を覚えた。

私が発酵食品に魅かれるのも、生味噌や納豆やどぶろくは、微生物が息づいて呼吸しているからだろう。
そこには複雑さが内包されている。
さまざまな方向性を秘めている混沌に、そそられるものを感じる。

だから、靴裏に土がつくこともない、爪先に土が黒く入り込むこともない東京のコンクリートに囲まれた生活の中で、海辺の山に住むことを思い描くのかもしれない。

昨年は、湯河原、逗子、稲村ガ崎、熱海、草津など、各地の山林や戸建物件を見に行った。
今年こそは、いい物件があれば入手したい。

山林を切り開いて、ハーブのタネをまく。ワイン用ブドウの苗木を植える。大きな木には展望デッキを設置したい。
発酵食品を作り、おいしいものを食べて、晴耕雨読。
今年は、そういった生活に少しは近づきたい


コメント (14)
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