波打ち際の考察

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波屋山人

被差別者、障害者としての自覚

2017-03-01 22:00:33 | Weblog
他人から見れば、私は被差別者でもなければ障害者でもないかもしれない。
むしろ、伝統ある家に育った、無駄に体力のある健康な人間だと思っている人がいるかもしれない。

だけど私にとっては、被差別者や障害者は無関係な人たちではない。
そのような意識を持ってから、世の中の仕組みがより理解できるようになったように感じる。


被差別者や障害者に対して、他人事のような視点を持つ人は多い。
日々の生活で特に疎外されることもなければ生活に不都合を感じることがないという人は、
見下されていることに不満を持つ人たちや、道の段差やトイレにも不便を感じる人たちのことを、自分たちとは違う人たちのことだと思ってしまうのも無理はない。

だが、自分もまた被差別者であり、障害者であるという自覚を持つことにより、被差別者や障害者のことを、自分たちのことのように認識することができるようになる。
被差別者や障害者のことを無意識に差別してしまうことも解消される。

実際、私たちの多くは、潜在的に障害者だ。
たまたま、社会生活に支障がないだけで、一歩間違えば苦労の多い生活となる。

例えば私は近視で、眼鏡を外すと世界がぼやけて見える。
手元の文字も読めないし、道を歩くのも危険だ。
だけど、眼鏡という道具を利用することによって、社会生活に支障がない日々を過ごしている。
外国に行くと、自分の股下の短さによって小便器の位置の高さに不便を感じることがある。
だけど、日本では自分の体形に合った便器で、苦労を感じなくて済む。

現在障害者としての生活を送る人たちだって、技術や社会基盤が発展すれば、ストレスを感じなくて済むようになるかもしれない。
そうなれば、もはや障害者とは言えない。

「自分も、障害者と同じような状態に置かれるかもしれない潜在的障害者だ」、と意識することによって、障害者は特別な存在ではなくなっていく。


私たちの多くは、潜在的に被差別者でもある。
(逆に、被差別者を自覚している者も、潜在的に差別者であると言える)

日本人であることが、被差別者になる社会もある。
韓国ではチョッパリ(蹄足?)とかウェノム(倭奴)などの蔑称がある。
欧米に行けば日本も中韓も同じようなアジア人差別に遭う場合だってある。
(しかし、容姿に恵まれた礼儀正しい人は差別に遭う可能性が低い。欧米で差別に遭ったと愚痴をこぼす人については、「アジア人であるから見下されたわけではないだろう、人として評価されていないだけだろう」と思わせる人も少なくない。。。)

被差別者だって、被害者面ばかりしていていられない。
多くの被差別者は、差別者と変わらず、さまざまな人の価値を認めず、見下している。

そういうわけで、「私たちは差別者であると同時に被差別者でもある。健常者であると同時に(潜在的)障害者である」と意識することによって、新たな思考をスタートすることができる。

被差別者も障害者も特別な存在ではない。
少し立場が変われば自分たちもその立場になる。


つい人を見下してしまいがちな優秀な人たちだって、安心してはいられない。
多い収入や高い社会地位を無意識に誇っていても、歴史的あるいは他文化圏においては、賤しいとされて見下されている職に就いている人も少なくない。
(そういえば、創造的な仕事をしている人の中には、金融や法曹、公務員などの仕事にまったく興味を示さない人も多い)
自分の文化圏の価値観で評価されていることに安住してもいいけれど、自分の視野を狭くしてしまう。それでは知的だとは言えないだろう。



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